
岩本徹三中尉の記録を調べていますが、昭和20年3月末からの沖縄戦の海軍戦闘機隊の記録には、岩本氏が属した零戦隊とは別に343空の紫電改隊の記録も残されています。零戦は海上自衛隊鹿屋基地資料館で実物を見ましたが、343空の記録に接するうちに紫電改の実物が見たくなって、愛媛県南宇和郡愛南町の馬瀬山頂公園内に展示されている紫電改を見に行きました。
展示室の表札は「紫電改」でした。
1万機以上生産された零戦は国内に複数残されていますが、400機余りしか生産されなかった紫電改は残っているのは国内にはこの機体だけです。
この紫電改は昭和20年7月24日米海軍機動部隊艦載機による呉軍港空襲の際、迎撃にあたった343空の21機の紫電改のうち、未帰還となった6機のうちの1機と言われています。この日戦死されたのは343空の鴛淵孝大尉、武藤金義少尉、初島二郎上飛曹、米田伸也上飛曹、今井進一飛曹、溝口憲心一飛曹の6名です。終戦僅か3週間前の出来事でした。
戦後34年間愛媛県南宇和郡城辺町久良湾の海底40mに眠っていましたが、昭和54年引き上げられました。以後馬瀬山頂公園内の展示館に展示されています。
34年間海中にあった割には、良く原型を留めています。
スマートな零戦に対し、紫電改は重戦闘機と言った感じです。
未帰還となったうちの一人武藤金義少尉は、昭和20年2月17日に関東地区に襲来した米海軍機と厚木基地上空において、たった1機の紫電改で12機のグラマンF6Fと対戦、2機を撃墜しました。この模様は地上からも観測され、多数の敵戦闘機と単独で戦う姿が吉岡一門と一乗寺下り松の決闘で戦う宮本武蔵のようであったとされています。そのため海軍報道班から「空の宮本武蔵」と渾名されました。昭和20年4月15日に鹿屋で戦死した杉田庄一上飛曹の後任として343空に坂井三郎少尉と交換という形で赴任しました。坂井三郎氏は武藤氏が自分の身代わりで死んだのではないかと終生気に病んでいたそうです。坂井氏の著書「大空のサムライ」には硫黄島上空の要撃戦で活躍する武藤氏の様子が生き生きと記されています。
この機体が引き上げられた時、遺品や遺骨は見つからず、6人の内どなたが搭乗していたのか判明していません。6人の搭乗員の生涯は碇義郎氏の名著「紫電改の6機」に詳しく描かれています。
真後ろから見ると、空力的にはスマートであった事が分かります。
連装の20mm2号銃が勇ましい。
20mm機銃の下面には薬莢排出口が空いています。
プロペラは着水の衝撃で大きく曲がっていますが、4枚とも曲がっていたと言う事は着水時まではエンジンが回っており、少なくともその時までは搭乗員は生存していた事になります。
燃料タンクやその他の部品も展示されています。
いくら本やネットを見ていても、やはり実機の持つ迫力はちがいますな。
ちなみに、米海軍の記録によれば、昭和20年7月24日の呉軍港空襲の際の米海軍機の損害はF6F6機、SB2C15機、TBM2機、F4U2機、FG-1D8機の計33機でした。この損害には対空砲火や事故で失われた分も含まれていますので、この内何機が343空の戦果であったのか、今となっては確認するすべがありません。
Posted at 2012/03/31 19:08:31 | |
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