
さて、すたさんのガイドもひと段落し、笹尾山からロードスター2台で最激戦地、大谷吉継陣跡を目指します。
付近で東軍・井伊直政、福島正則と西軍・宇喜多秀家が正面衝突し、戦闘が開始されました。
大谷吉継隊は当初、藤堂、京極隊と交戦します。
思ったよりも狭い関ヶ原とはいえ、クルマじゃないとちょっと厳しいです。
実際クルマで回ってみると、笹尾山から展望したときとはまた違って距離感が把握できました。
またもや受け売りですので、以下の記述には僕の勘違いがあるかもしれません。
ここが大谷吉継の部隊の最前線、麓の道路のあたりで盟友・平塚為広が戦闘しています。
その奥の山に小早川秀秋の大部隊が陣取っていたんですが、急遽寝返って山を下り、平塚、大谷隊に突撃を開始します。
それと同時に大谷吉継の部下に近い立場の脇坂、赤座、朽木、小川が寝返って大谷隊の攻撃を開始、大変な状態になります。
大谷吉継は小早川秀秋が向かいの山頂に陣取った時点で、怪しいとにらみ土塁を築いたりしてるんですが(この土塁は現在も残っています)、四隊の寝返りは想定していませんでした。これは家康も内応工作をしてなかったんですが、戦況判断で有利なほうに寝返ったということでしょう。
大谷隊はこの場所から三度、小早川隊を撃退します。これは大谷隊が精鋭ということもありますが、向かいの山から大谷隊の陣には神社参拝の一本道が通っており、いかな大軍といえどもその一本道を通ってくるため、撃退できたのです。
とはいえ、時間が経てば大軍の前に包囲され、絶望的状況に追い込まれます。
大谷吉継は平塚為広と「来世で会おう」という趣旨の辞世の句を取り交わし、自害します。
当時の仏教観について、すたさんにも訊ねたんですが、当時は来世について「当然ある、という認識だったでしょうね」ということです。来世があると思うからこそ、ここまで勇敢に戦い、義にもとらない最期をとれたんじゃないでしょうか。これは一度きりの人生として現代に生きる自分でも考えさせられる部分です。
ここが大谷吉継が自害したあたり。
あたり、というのはお墓がありますが、だいたいこの辺だろう、ということしかわからなかったためです。
大谷吉継はらい病を患い、関ケ原合戦時にはもうほとんど目が見えなくなってたんですが、優秀な側近たちが大谷の指示を部隊に伝えていました。
その側近の一人、湯浅五助が大谷の「私の姿は醜いから、絶対敵に見つからないように埋めてくれ」という遺言を受け、大谷の遺体を埋めますが、その最中に藤堂高虎(?、違うかもしれない。違ってた場合、あとで訂正します)に発見されてしまいます。
湯浅は藤堂に「自分の首をやるから、絶対に主君の首を家康に持っていかないでくれ」と頼みます。
藤堂は約束を守り、湯浅の首級だけを家康のもとに持っていきます。家康が不自然なので問いただしたところ、藤堂は正直に家康に「湯浅との約束なので教えることができない」と答えます。家康はそれ以上追及しませんでした。
だから、大谷吉継の墓はだいたいの場所に建てられてます。そして、湯浅五助の墓も後に隣に建てられました。
さあこれで午前中が終わり昼食へ。
このあたりは経済的に名古屋圏に属するんでしょうか、以前名古屋に来たときと同じようなメニューです。
ところで今回の関ヶ原訪問に当たり、実は直前までゴルフとロードスター、どちらで行くか迷ってました。
自宅の神奈川から関ヶ原までは350km程度あります。長距離高速巡航、また渋滞時を考えれば圧倒的にゴルフがラク。
しかし現地ではやはりロードスターをオープンで走らせたいと思い、ロードスターを選択。
こういう田舎道にロードスターはほんとうによく似合いますし、運転してて気持ちいい。
ただ、今回渋滞を避けるために深夜の高速をハイスピードで巡航したんですが、このくらいの距離になってくるとやはり移動だけを考えれば、圧倒的にゴルフが優れていて、正直道中は後悔していました。
このへんは思うところがあるのですが、趣旨が逸れるのでまたの機会に別のブログで。
③に続きます。
Posted at 2015/09/22 10:39:51 | |
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