
どういうわけか、特に戦後、日本政府は聖徳太子が大好きである。
一時期頻繁に紙幣に登場したり、あまり普通の人が知らない部分では最高裁の控室に、憲法十七条の制定と関係するんだと思うが、かなり立派な聖徳太子図絵が掲げてあったりする。
学校の歴史の教科書にも遣隋使の派遣、冠位十二階の制定、憲法十七条の制定を聖徳太子(と蘇我氏、と信頼性を損なわない担保として一応書いてある)がおこなって日本という国家の礎を築いた非常に重要な人物として紹介される。
なぜ日本政府の偉い人がこんなに聖徳太子を好きなのかは謎であるが、実際の聖徳太子の実像に迫るという内容。
まず聖徳太子が存命していた時代(7世紀前半)、まだ天皇という呼称は成立していない。
天皇という呼称が定着するのは聖徳太子没後、100年後位からである。
なので聖徳太子が政務を行っていた際の女帝・推古天皇は当時は推古王(すいこのおおきみ)と呼ばれている。
そして聖徳太子という呼称もまだ存在していない。
同じく約100年後、日本書紀はじめ朝廷とその近辺が国史を整理していく過程で、日本仏教の開祖として聖徳太子という呼称が定着し、聖人・慈愛に富んだ人物像が形成され信仰の対象となった。
存命中はもっぱら厩戸王子(うまやとのおうじ)と呼称されている。
例の切れ長の目にしもぶくれの顔をした肖像も最初に制作されたのは同じくこの没後100年位の時期で、実際の聖徳太子とは別人がモデルにされた可能性が高い。
そしてもうひとつ、日本仏教の開祖として本来妥当なのは蘇我馬子である。
仏教導入派の蘇我馬子が排仏派の物部守屋を倒して、以来仏教が守護され国教となったので、蘇我派の聖徳太子は本来従属的な立場である。
蘇我馬子を避けて聖徳太子を持ち上げた理由は、のちの政変で子孫の蘇我入鹿が倒されたのも関係してくるのだとは思うが、このとき蘇我氏は滅亡したわけではなく勢力が弱体化しただけなので、判然としない。
さて物部氏排斥後の大和朝廷で聖徳太子は重要なポジションを占めるが、とはいえ名目上の最高権力者は推古天皇、実質的な最高権力者は推古天皇の後ろ盾となる蘇我馬子である。
このときに大和朝廷は当時、中国大陸の超大国・隋に「日出処天子」で始まる有名な手紙を送る。
これは隋との冊封関係(親分・子分関係)を解消し、対等な立場で交渉するという意思表示である。
隋の煬帝は当初激怒したが考え直し、翌年に隋から日本に裴世清を派遣し対等な国家間交渉を認めている。
これは当時の力関係がとんでもなくかけ離れていたことを考えると、かなりのスーパープレイであり、後世にも大きく影響してくる。
こうして大和朝廷に隋の様式を参考にした冠位十二階、憲法十七条といった先進の秩序がもたらされる。
この過程で垣間見えてくる聖徳太子像は聖人・慈愛に富んだ人物というよりは辣腕を振るう強権の政治家としての姿であり、現代の人物像とは大きく異なる。
このとき現代の基準だとスーパー外交官であろう小野妹子は、冠位十二階の中位から最上位付近まで駆け上がった。
現在こういった功績は大部分、聖徳太子によるものとされる偏愛ぶりで人格面も神聖化されているが、聖徳太子が当時かなりの実力者であったことは間違いないものの、ことはそんなに単純なものでもなく、大和朝廷の多くの人間たちが力を合わせて成し遂げた賜物である。
ちなみに憲法十七条でも「和を以て貴しとなす」という有名な条文がある。
もっともこれは、実際のところは蘇我・物部闘争の後で「もう争うのはやめろ」という戒めのニュアンスが強い。
まぁ聖徳太子・推古天皇・蘇我馬子没後にすぐ争いが起きて聖徳太子の子・山背大兄王は滅びるわけだが。
Posted at 2023/10/19 18:03:51 | |
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