これらのカテゴリは「情勢」でまとめてあります。
きっかけがあったら書くっていうスタイルなので、不定期ですが・・・
日本軍のこの行軍については、僕らの世代だと教科書で習ったと思います。
学校で習う以前から戦争には興味があったのでこの頃から疑問を感じてはいましたが・・・
で、この死の行軍とは何か。
死の行軍って言うのは、基本的に生命の危険を顧みない行軍のことなんです。
その前に本文から一部抜粋
米軍部隊は、日本兵に使われるのは業腹だからと、多くのトラックを破壊した。壊さなかった部隊は、死の行進を歩むことなく、それで収容所まで行った。
(当時欧米は捕虜移動に際しては徒歩行軍を強制していたため、自分たちの移動に使ってもらえるとは考えていなかったのだろう)
全長120kmの距離を移動したわけですが、約半分は鉄道で輸送しました。
当時の世界中としてはありえないくらいの配慮だったわけです。
で、残りの60kmを3日間かけて移動、一日20kmを移動するわけです。
8時間移動したとして時速2.5km/h。
人が歩く速度が4km/hなのでそうきつい距離でもないのですが、
食料事情は厳しかったというのが実情としてありました。
日本軍すら満足に食料が得られていないという・・・補給の問題
行軍の時間は、
捕虜の衛生状態を考慮し日中は危険ということで
午前2時から午前10時までの8時間でした。
また、
徒歩での移動区間となったバランガとサンフェルナンドには野戦病院を設置し、その他数キロごとに、救護所や休憩所を設置して傷病兵を手当てする計画であった。
この対象者は、
アメリカ兵とアメリカに批准していた現地兵士になったわけですが、
その時の死亡者の大半はマラリヤでした。
アメリカ兵で2300名のうち大半がマラリヤにより死亡とのこと。
※この死者の遺体は遺棄せずに埋葬しています。(全てではないと思いますが)
この写真は当初死の行軍の証拠として挙げられていましたが、実はマラリヤにより死亡したアメリカ兵を埋葬している写真だったことがわかっています。
また、日本軍による監視が相当に甘かったので、脱走が相次ぎました。
それに、このことから見えるとおり、日本軍は欧米のいう様な強制行為はしていない。
基本的に一日AM2:00~AM10:00までの移動計画だったが遅延したのは行軍対象者の休憩要求が多かったこと、それを容認していた為。
また、引率任務にあたっていた兵士の大半が小銃をバッグに収納していたり、肩にかけてあるだけだったとか。
※肩にかけてある状態、ましてやバッグに収納してある状態では、即座に射撃が出来ない。このことから、武力による威嚇での強制を意識していないことは明白です。
このことからも、(人員不足で監視ができないこと)先の記事での日本軍による虐殺行為が物理的に不可能だったことも伺えますね。
ただ、
辻参謀(蒋介石の密使)がその後、独断で虐殺を企てた。
(白人植民地主義者であるから、フィリピン人は同胞であるアジア人を裏切ったのだから処刑しろと扇動した)
辻は大本営からの命令と偽装して実行しようとしたが、
日本人将校の今井武夫大佐はじめ多くの将校がこの命令に納得せず、大本営に電話で抗議したことから、辻の企てが発覚した。
結果的にこの企ては未遂に終わったが、一部では(虚偽の)大本営命令ということで実行してしまった部隊があり、捕虜の虐殺は500名ほど行われてしまった。
また、ここで取り上げた今井大佐は、もしこれが事実であった場合に備え、
捕虜をすべて逃がした。(←凄いね!侍ってやつですか。)
本文
今井は命令を拒否することを決意し、書面による命令を要求した後、万一書面による命令が交付された場合に備え、直ちに千人以上の捕虜を全て釈放してしまった。
これが、日本のやり方なんですよね・・・
悪いって教育題材にあがってきたことをちゃんと調べていくと・・・
180度見方が変わってくるんです。
日本軍の戦闘ってほかに類似がないんですよ。
そこが興味深く魅力なんですよね。
敵であっても必要以上に殺傷するなっていう方針だったし。
当時欧米の行っていた「死の行軍」って、ほんと悲惨ですよ。
だから、これが「死の行軍」に該当するとは僕は思えないです。
1日8時間の行軍、うち休憩は4時間程度とか・・・
どうりで、研修生らに聞いても、この手の話題が出てこないわけです。
彼らにとってはこの行軍と関連するバターン陥落日は「勇者の日」になっているんですよね。
あ、そうだった!
イラワン君に「私もハイパーラプスやりたいです!教えてください~」っていわれてたから、
教えてあげるんだった!
でも今一眼ないから、修理終わってから。
紅葉シーズンに名所に連れて行ってあげよう!
今井大佐の発言より
バターン半島の戦闘に終始したわが夏兵団は、新たに中部ルソン島の戡定作戦のため、再び北方に反転することとなったが、四ヵ月に及ぶ密林の露営生活は、食糧の補給難と相俟って、将兵の体力を全く消耗し尽くしていた。
その上不幸な事には、敵陣地を占領した途端に、皮肉にも敗走した米比軍が今まで悩んでいた悪性のマラリヤやデング熱の病菌に汚染した地域を通過するため、日本軍に伝染し、まるで敗退軍の復讐かのように重症患者が続出し、大半の将兵が罹病したが、新任務は一日の猶予も許さず、休養の暇もなかった。
われわれは再び四十度の炎天を冒し、南部サンフェルナンドまで、舗装道路を徒歩で六十数粁(キロメートル)行軍せねばならなかった。
窮余の一策として毎日午前二時に宿営地を出発し、二十粁の行程を遅くも午前十時頃までに、目的地に到着するよう、行軍計画を立てたが、落伍兵を激励しながら行軍するのは、全く容易でなかった。
然るにわれわれと前後しながら、同じ道路を北方へ、バターンで降伏した数万の米軍捕虜が、単に着のみ着のままの軽装で、飯盒と水筒の炊事必需品だけをブラ下げて、数名の日本軍兵士に引率され、えんえんと行軍していた。
士気が崩れ、節制を失っていた捕虜群は、疲れれば直ちに路傍に横たわり、争って樹陰と水を求めて飯盒炊事を始める等、その自堕落振りは目に余るものがあった。
しかし背嚢を背に、小銃を肩にして、二十瓩(キログラム)の完全武装に近いわれわれから見れば、彼等の軽装と自儘な行動を、心中密かに羨む気持ちすらないとは言えなかった。
戦後、米軍から、「バターン死の行進」と聞かされ、私も横浜軍事裁判所に連日召喚されて、この時の行軍の実状を調査されたが、初めはテッキリ他方面の行軍と間違えているものと考え、まさかこの行軍を指すものとは、夢想だにしなかった。
米軍は戦時中国民の敵愾心を昂揚するため、政略的に「死の行進」を宣伝し、戦闘で疲労した将兵に自動車を提供せず、徒歩行軍を強制したのは、全く日本軍の残酷性に基づく非人道行為の如く罵声を放ったものである。
明かに日本軍の当時の実情に目を掩って、曲解したものと言わねばならない。
しかも彼等が撒いた宣伝の結果は、無理にも刈り取ることが、政策的に必要とされた。
その上比島の捕虜は、ルソン島中部のオードネル捕虜収容所に収容されてから、バターンの戦闘間流行した熱帯病或いは食糧不足のため生じた栄養失調で、病死者が多発した事も米軍が誤解する原因となったかもしれない。
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歴史って面白いね。
真実を知ろうとする人にはちゃんと真実を教えてくれる。
僕は右でも左でもないです。
ただ、本当のことを知りたいだけです。
美化したいわけでもなく、調べていくと必然的にそうなってしまうマジックがあります。
因みに辻は戦後も潜伏し続け、その後帰国して
政治家に転身し衆議院議員になった。
その後ラオスで行方不明になって死亡認定が下っていますが、
こんな人間が政治家になれる今の仕組みは即刻廃止すべきだと思う。
自分は日本軍の中では辻と東条が嫌いだ。
少しでも多くの方が、本当の大東亜戦争の姿に目を向けていただければ幸いです。
ただしそれは、多くの偽装に隠されていることなので、調べようとしなければ見えません。
抜粋はwikiより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%A1%8C%E9%80%B2
最後に、この記事を読まれた方は、それまで教えられてきたことと実際に行ってきたこととの間で、
よい意味でのギャップに驚かれたことでしょう。
僕もそのうちの一人です。
だから、ついつい知りたくなる衝動に駆られます。
一人でも多くの方々に本当の姿が伝われば幸いです。
ただし、戦争は戦争、そこには正義も綺麗ごともないので、
回避すべきことで、容認できることではないです。
正義を着飾った暴力こそが最も悲惨な行為を引き起こし、
正義と正義の衝突が戦争です。
両者が両者とも正義という大義名分を着飾った上で暴力を振るう、
正義を着飾った暴力は相手を「悪」と決め付けての行為なので、
残虐性が高まります。
そこに正義など存在しません。
だから、戦争なんてものは極力避けなければならないです。
避けるための抑止力には価値があると思います。
でも安部の言う「集団的自衛権」についてはアメリカと行動を共にする要綱が含まれているので、
僕は反対です。
またなんかきっかけがあったらこういう系で更新します~!
さてHDD買ってこないと!