この記事は、ともぬこ様の
命を教えてくれたヌコ様について書いています。
先ほど、まだみん友さんにさえなっていただいていない方のブログなのですが・・・あまりに切ないお話だったので、ちょっと思うところがあってトラックバックさせていただきました。
ご存じの方もおられるかと思いますが・・・ウチにはしばわんこが一匹、みゃーうーが一匹います。
しばわんこは、今は亡き父が生前娘のように可愛がっていましたが、父の逝去後は、子無し、共働き(昔はDINCSなんて言いましたね)の我が家を日中ずっとひとりで守ってくれています。
それが寂しいのか、ちょっとお勝手口の引き戸鍵をかけ忘れていると、自分で扉を開いて、必ず仏壇の前で寛いでます。まるで父がそこにいるかのように、安心して。
みゃーうーは、11年前、まだ仔猫の頃に私がクルマで轢いてしまって、それで引き取って連れてきました。親とはぐれた野良だったので、餌を捕る術さえ知らず、雨水をすすり、田んぼのタニシなんかを食べながら、独りで生きてたみたいです。
本当に私に心を開いてくれるまでに半年かかりましたが、今では私を親とでも思ってるんでしょうか?
もう年がら年中べったりで、時にハマーン様が嫉妬してしまうほど。
で、先の父の話に続きますが、私は父を失う直前に母も亡くしており、兄弟も親類縁者もいない身の上で、嫁をもらうまで文字通り本当に天涯孤独でした。生きるよすがなぞ仕事だけ、その上いろいろな裏切りにあったり、その他信じられないような悪いことばかり立て続けに続いて、正直何度生きることに絶望したことでしょう。
生きて生活している限り、右を向いても左を向いても、自分とはかけ離れた幸せが嫌でもあちこちに見受けられるわけで、特に年末年始とか、お盆とか、周りに人の温もりを目にすることが多くなればなるほど、自分の身の上を思い知らされるわけで・・・もう、正直自分の一生について、ただただ、冷めた目で見るしかありませんでした。
例えるなら、真っ暗な夜道を土砂降りの中歩きつつ、そこにゴミ袋を幾つも投げつけられるような・・・そんな思いで暮らす日々が幾年も続いていました。
“人はひとりでは生きていけない”って、昔ある人に言われたことがありましたが、男として恥ずかしい話ですが、本当にもう、独りで生きていくことに疲れて、何度死んでしまおうと思ったことか。
それを思い留めさせてくれたのが、今の しばわんこ と みゃーうー なのです。
まだハマーン様がウチに来られる前の話ですが、オートバイ運転中に事故に遭い、数メートル吹っ飛ばされて、もう、その時はやっぱり走馬燈のように色々な思いが頭の中で浮かんでは消え、浮かんでは消え・・・。
で、正直、“もういいかな、これで・・・”って、薄れかけた意識の中で、死んでしまうことがそれほど哀しくも辛くも怖くもなくて、むしろ“やっと解放される”っていう安堵感のほうが強くて・・・。
ヘルメットにかけたゴーグル(モトクロス用)越しに見えたおっ月様が、すごく優しく見えたことを覚えてます。
ここからが不思議なんですけど・・・これ、ハマーン様にも話したことないんですけど・・・話しても信じられないようなことなので、ずっと黙ってたんですけど・・・。
何ででしょうね?単車から投げ出されて、仰向けに空を飛んで、地面にはどう考えても頭から落ちる体勢だったのに、落ちたのは最初に足、次に両手をついて、ちょうど四つん這いみたいな格好になって、着地したんです。
で、次に極めてゆっくりと、まるで何かに支えられてるみたいに身体を捻って、尻餅をついて・・・。
最後に、横たわるようにしてゆっくり、ヘルメットを被った頭をアスファルトにのせたような格好になったのですが・・・。その時、後頭部から鼻の奥の方にかけて、微風みたいに温かい、ふうわりとした匂いがしたんです。
その時、“あ、この匂い”って思ったんです。
その匂い、みゃーうーの匂いだったんです。猫を飼ってる方ならご存じだと思いますけど、猫って、あんまりシャンプーしてなくても(というか、ウチのヤツは飼いだしてこのかた一度も洗ったことがない)、柔らかい、良い匂いがするんです。
で、思い出したのが、ウチのみゃーうーでなくて、以前自分がおくりびとになって旅立たせた猫のこと。
その猫は、当時から5年ほど遡ったある冬の日のこと、仕事を終えて家路を辿る途中、路上に捨てられたみたいに横たわってて・・・一目で車に轢かれたのがわかりました。
で、その道路は割と頻繁に車が行き来するものだから、放っておいたらその猫、更に後続の車に轢かれてしまうので、急いで自分の車を路肩に寄せて外に出て、アスファルトの上から抱き上げて、助手席に横たえたんです。
そのまま近くの24時間体制の動物病院に連れて行ったけれど、医者からはもう、「助けようがない」状態だと告げられて・・・まだ意識があるのに、抱き上げた私の腕に血が滲むほど爪を立てるほどだったのに・・・ごめんな、辛いよな、助けてあげられなくてごめんな・・・って心の中で話しかけつつ、医者に安楽死をお願いしました。
注射を打たれて、徐々に弱々しくなるその目を最後まで見つめながら、涙が溢れて溢れて、般若心経を唱えつつ、私はその灰色のとらじまを抱きしめてました。
最期には残っていた温もりも徐々に失せて、ゆっくりと旅立っていった灰色のとらじま。
その時の匂い、忘れようもありませんでした。
あのとらじま、もうずいぶん前のことなのに、もしかしたら私のこと、助けてくれたのかも。
で、その匂いを思い出したと同時に、頭の中ではじけるみたいに浮かんだのが、ウチのしばわんことみゃーうーの顔。
私がもしもいなくなったら、コイツら生きていけない。
しばわんこは私以外には絶対に懐かないし、みゃーうーはもうおばあちゃん、引き取り手もいないでしょう。
その前に、帰らない私の代わりに、誰がご飯をあげるんだ?誰が散歩に連れてってやるんだ?誰が抱きしめてやるんだ?誰が温もりを与えてやるんだ?って思えて。
その時、コイツらのために、“絶対に生きて帰らなきゃ”って思ったんです。
たとえ天涯孤独でも、家族もいなくても、コイツらだけは絶対に不幸にしちゃダメだって・・・
もう、理屈とか冷静さなんてなくなっちゃってるんですね。
とにかく、たかが犬猫のことで、なんかふざけてるみたいですけど、心の底からそう思ったんです。
で、救急病院からの帰り道、バイク友達の運転する車に揺られながら、今でもよく言うんですけど・・・心の底から思いました。
“しばわんことみゃーうーは、私に生きる責任を与えてくれている”
ほんと、ちっぽけで、笑われてしまうようなことなんですけど・・・その時、本当に私は助けられたのです。
動物は言葉を喋らないし、何か具体的に私達にしてくれるわけじゃないけれど・・・彼らは、彼女たちは、間違いなく私達を助けてくれてます。
それは、真っ直ぐな信頼であったり、盲目な愛情だったり、切ないほどの優しさだったり・・・私達が生活してゆくために必ずしも必要なものではないけれど、笑ったり、泣いたり、怒ったり、嘆いたりなんて、人間として生きていくための根っこのようなものを、心の中の深い土深泥から洗い出してくれているって、私はそう思うのです。
ともぬこ様、秋の虫が鳴く夜更けに、心に染みるブログ、有り難うございました。
「貴様・・・私に対して責任は感じないのか!? 俗物!!」 by ハマーン様