
私の3.11・・・いちばん大事なものが、いちばん遠くへ行くよ・・・
XPの立ち上がり、ネットワークへのログインの遅さが、いつもの倍に感じられる。
キーを掠めるようにしか触れることのできない、指先。
その感触はまるで出勤の折、遠ざかっていく私の姿を見つめていた君の瞳にも似て、弱く、重い。
早春の薄い青空…今の私にはこの現身(うつせみ)さえ不確かなものに感じられる。
漣(さざなみ)のように途切れなく生まれてくる、君への想い…それが身体中の細胞のひとつひとつにまで染み混んで、まるで心と身体が入れ替わってしまったようだ。
目に映るものすべて-街角の半旗-
聞こえてくるすべて-パーテション越しに聞こえてくる、同僚達の会話-
肌に触れるすべて-ざらついたエアコンの風-
嗅ぎ分けるすべて-窓辺から漂う、芽吹きの仄かな香り-
温もりの凶器、うららかな刃物、華やかな銃弾(バレエ)…すべてのものが、私の心を刻んで、砕いて、塵に変えてゆく。
高熱に浸されたかのように、すべての感覚が朧気で、儚くて、弱々しくて、輪郭を失ってゆく…今の私に、冬の終わりは残忍すぎて、春の訪れは残酷すぎる。
それでもこの想い、心の檻に閉じ込めたままでいると、涙が溢れて止まらなくなってしまうから…綴らせて欲しい。
私から君への、独白(monologue)…・。
静里(しずり)…夕べ、君が逝ってしまうことを知りました。
診察室で聞かされた言葉-いつかこんな日が来ることを知っていたとしても-
神様が君に与えた命の蝋燭が、私達よりずっと短いことを知っていたとしても-
それを受け入れるのは、いつも辛いことです。
君の身体を蝕んでゆく、病の景(かげ)。
超音波エコーの映像と、デジタルプリントされた検査結果。
君の命が、どんどん小さくなっていく。
もう何度目のことだろう?
その瞬間(とき)から別れを告げる日までの、奈落へ向かうような切なさ。
心の慟哭をひた隠して過ごす日々を、私は何度味わえばいいのだろう?
時の流れの冷たさ酷さを、私は幾度思い知らされれば許されるのだろう?
そして…そして私は、この“受け入れるねばならぬ”拷問に、いったいいつまで耐えなければならないのだろう?
静里。私の静里。

君が初めてやってきたのは、もう随分前のこと。
庭先には梅の香が漂い、セキレイの囀りも透明な、早春の日。
今は亡きご主人に連れられて、君はウチへやってきた。
まだ短い尻尾を不器用に降りながら、ワックスの効いた縁側を駆け抜けて、陽溜まりで心地よくうたた寝していた可憐(かれん=猫)に思いっきり体当たりする、赤毛の小さな塊。
天真爛漫、東窺西望、君はちっともじっとしていなくて、‘お手’も‘お座り’も、‘待て’さえもできなかった。
私が大好きな日本の国の、春霞の山郷のように・・・華やかでなくてもいい、朴訥で優しく、そこにいるだけで周りを温かな気持ちにさせてくれる、そんな娘になって欲しい―そんな思いを込めて、私は君の名を決めた。
けれどそんな思いとは裏腹に、君はウチに来てからというもの、来る日も来る日も悪戯をしでかし、家族以外の人が手を差し伸べれば牙を剥き、他所の犬とは相容れず、本当に困ったお転婆娘だった。
でも、そんな君にも“変わる”時が訪れた。
それは“あの日”がきっかけだったのだろうか?
あの日をきっかけに君は、私と君と可憐との―“独りと二匹”となった家族のなかで、“自分が何を背負うべきか”悟ったのだろうか?
君が大好きだった主人の死―
そして私の家族が皆この世から去ってしまった“あの日”。
そう、あの日からだったね?
家族をすべて亡くし、私が天涯孤独になったときから、君のお転婆ぶりはだんだんと為りを潜め、いつの間にか我が儘を言わなくなって・・・黙って、つかず離れず、私のあとを付いてくるようになった。
便(よすが)のない身の寂しさと、公人として弱みを見せられない立場に、この身が溶けて消えてしまいそうになっても…君はいつも私の傍にいて、温かな眼差しで私を見つめ、もの言わぬ微笑で包み込んでくれた。
そう、まるで、“私が新しいご主人を支えるんだ”とでも言わんばかりに。
いつの間にか君は、“静かなる郷”・・・その名に相応しい成犬(おとな)になっていた。
そして君の瞳に“甘え”以外の、新しい“想い”が見え隠れしはじめたあの頃から…同時に私にも、新しい想いが生まれた。
私が、君たちを守る。
君と可憐を守ること、それが私の生甲斐。
君は、私に“生きる理由”をくれた。
君は私の、“命の恩人”。
そんな君は、いつしかお姉ちゃん・・・可憐の“静かなる郷”にもなっていた。
何度目かの夏が来て、私に新しい家族ができて数ヶ月が過ぎた頃だったかな?
お姉ちゃん・・・あの唐突な初対面の後、可憐は君を怖がって、暫くの間近寄ろうともしなかったけど…そんな君たちが本当の姉妹になれたのは、あんなことがあってからだったね。
彼女が野良猫に虐められ、裏の山へ逃げ込んで迷子になりかけたとき・・・君はひとりで獣道を登っていき、無事お姉ちゃん・・・小さな命、‘白黒のぶちにゃんこ’を連れ帰ってきた。
夕闇の蒼い空の下、出迎えた私と嫁の前、君達はもう啀みあうこともなく、ちょこんとふたり、庭先で笑ってた。
静里。
辛いです。
君との思い出が、錆ついてしまうのが怖いです。
ベランダに佇み、眼下の街並みを無言で見つめる君の後姿―
色あせた毛並み、白くなった髭、扱けてしまった頬―
君の時間はもう、あまりにも短い。
君はもう、気がついているんだね。
・・・郵便配達が、書留を届けに来た。
君はいつもと変わらず、突然の来客に向け吠え掛かる。
裏庭を、猫の親子が通り過ぎる。
君はいつもと変わらず、好奇心のままに追いかけようとする。
病のことなど、まるで嘘のように。でも・・・
枯葉踏みしめ登る、通い慣れた獣道。
茜色の朝焼け、見上げる里山の頂。
ちっぽけなせせらぎ、可愛らしい水面(みなも)さえ・・・
たった数日を経ただけだというのに。君は・・・
君はもう、駆け上がる力もなくなって、
君はもう、その場に立ち尽くすだけで、
君はもう、飛び越える力もなく・・・
思わず抱きしめる。
「何で私を置いていく?」
「そんなこと、命じた覚えはない!」
世界が、ぼやけて見えなくなる。
君はいつもと変わらず、鼻先を私の懐に埋め、ゆっくりと尻尾を振る。
厚い冬毛越しに、君の温もりが伝わってくる。
この冬と春の狭間、君は確実に私から去りゆこうとしている。
あと何日、一緒にいられるのだろう?
あと幾度、こうして温もりを交わすことができるのだろう?
せめて残る僅かな季節(とき)、精一杯の温もりをあげよう。
嘗て去っていった家族に、そうしたように・・・
心のなか、聞こえてくる旋律。
『When a Child is Born』・・・何故だろう?
愛するものとの永訣を知ると、私はいつも、この歌を思い出す。
生誕の祝歌が、私の手向け・・・。
静里、私の静里。
君は
虹の橋へ行くんだね?
そうか、そうだね。
虹の橋のたもとには、君が大好きだった父ちゃんが待ってるよ?
だから、ちっとも怖くなんかないからな!
でも、もしも私たちが恋しくなったら・・・幽霊でも何でもかまわない!
いつでも帰っておいで!
帰ってきたらいつものように、お勝手のドアをドンドン叩きなさい。
もう、叱りはしないから。
扉を開ければ、君は泥だらけの足で座敷へ転がり込む。
お気に入りの座布団の上に横たわって、可憐と肩を並べて、スヤスヤと寝息をたてる・・・。
永訣なんて、信じない。
夢でもいいから、ずっと傍にいて欲しい。
静里、私の静里。
愛しているよ、静里。
大好きだよ、私の“静かなる郷”。