この記事は、
インテリジェント佐野、東京五輪エンブレムを諦める。について書いています。
ちょこばさんのエントリにコメ書いてたら長文になりそうだったから、このようなかたちで綴らせていただくことにしました。
随想だからかなり読みにくいかもしれませんが、ご容赦。
まずはちょこばさんの本文およびコメント欄までご一読くださいな。
【ちょこばさんへのコメント】
で・・・Mikkola様のご意見に私も賛成、そのうえでちょこばさん仰るように、ボランティア服のほうが更に徹底しているというか・・・なんか、エンブレム炎上で忘れさせられている国民も多いかと。アレも李氏朝鮮のパクリですよね。恥も外聞もない、というか、さすがマスゾエ。
個人的には、今までのデザインのなかでは、水引のやつが一番好きですね。
“結ぶ”という含蓄を含み、“繊細さ”“おもてなし”を示す、実に日本らしいデザインだと思います。
【問題提起】
さて、このエンブレム問題について―私、実はちと違和感を覚えています。
どういうことかというと、「コレって個人の問題?それとも国家の問題?」ってこと。
そもそもこの問題について、マスコミは勿論“日本国民”自身は、どう受け止めているのでしょう?
端的に言うと、
①佐野某とかいうパクリデザイナーへの批判、という、“個人による個人攻撃”、つまりどちらかというと内向きな視点に立った受け止め方
もうひとつは、
②パクリデザインによって、世界に恥をさらしてしまった、という“ナショナリズム的羞恥心”、という、どちらかというと対外的な視点に立った受け止め方
ま、両方があると思うのですが、なんか最近はこう・・・①の方にばかり話が偏ってしまってる気が・・・(最近疎いのですが)論壇なんかではどう言われてるんでしょうかねえ。
本来なら、②世界に恥をさらしてしまった!恥ずかしい!!→①誰だよ!?こんなエンブレム採用したのは!…って流れがスムースだと思うんですが…。
なんかマスコミに煽られてか、「パクった」ことばかりが取り上げられてる気が。
私にはこれ、「経済ガタガタなのはイルポンのせいニダ!」とか「上海指数ボロボロなのはアメ公のせいアル!」なんてのと、同じ次元の世論展開に見えるのです。
寧ろ(ボランティアの服もそうですが)こういうのを平気で提案採用させてしまう、日本の組織文化というやつについて、もっと突っ込むべきだと思うのですよ、私は。
【私見】
矢継ぎ早に明らかになるパクリパクリの連鎖。
対外的に塗り重ねられる、恥。
それは同時に“日本人である自分も恥ずかしい”という思い=ナショナリズムを喚起させていく。
そのうえで“なんでこうなった?”って原因追求。
そして“もう一度、早急に”原因を明らかにして、体制を立て直す。
これが本来の、健全な流れに思えるのは、私だけなんでしょうか?
なのに現実は、パクリ佐野ネタからなかなか昇華されない。
エンブレム中止から、更に深いところへ踏み込めない。
身内の話ばかりで、国家的な視点からの、根本的見直しに話が進まない。
国立競技場の問題然り、これは別に、TOCOGだけの話じゃなくて、東芝の粉飾決算や、更に言えば
V37スカイラインについて私が体験した問題(https://minkara.carview.co.jp/userid/712411/blog/36042091/)も、根底にあるのは同じなのかもしれない。
個人ではなく、“国民的視点”に立脚した世論、育たないものですかねえ。
でないと、こういったミクロの問題、これからも枝葉末節として次々と出てくると思うよ。
【一国民としての視点】
…と思ってたら、面白い記事があった。
ひとつは
『国立競技場問題の本質 不透明で無責任、時代錯誤の大艦巨砲主義(nippon.com 加藤 秀樹 著)』http://www.nippon.com/ja/currents/d00188/
このお話は、国立競技場問題を取り上げたものであるが、筆者は、上記私の危惧していることと同様のご指摘をなさっておられる。この文中の言葉をそのまま引用させていただく。
『(国立競技場の新築について)2年の時間を経て、ようやく計画見直しの声が出てきた。しかし費用の圧縮は問題の一部にすぎない。目的を取り違えた人たちが、身内の「空気」で物事を決め、社会全体を深い淵へとズルズル引きずっていく。この問題を契機にこんなサイクルを断ち切らないといけない。そうでなければ「おもてなし」どころではないだろう。』
『(現国立競技場解体予算の成果目標を「過去最大数の金メダル獲得」とする文科省官僚の言葉は)外国人を含め噴飯ものと話題になった。2年間発言を続けてきた建築家の槇文彦氏は「この問題は日本国民にとっては悲劇だが、外国から見ると喜劇」と語る。私たち自身が「自分事」として声を出すことが、本物の悲劇を招かない唯一の道だと思う。』
『私たち自身が「自分事」として声を出すことが、本物の悲劇を招かない唯一の道だと思う。』←コレ!!
【国防も同じこと】
事は国内の問題に留めてはいけないのだ。
オリンピックは国家行事であり、我々日本国民は、此処で起きた問題を、国内の一スキャンダルとして履き違えてはならない。
繰り返すが、この問題…即ち、日本という国から対外的に開かれた事象につき、そこで何か問題が生じたとき、ともすれば内向きな議論ばかりがまかり通ってしまう傾向…これは、戦後日本の根幹的な病巣のひとつではないのか?
それは安保法制にしても然り、だ。
やれ集団的自衛権といえば、キュウジョウガー!、グンコクシュギガー!!、とヒステリックに叫ぶ、マスコミはじめシミン達(オイ、何がデモ12万人だw)。
でも、考えろよ、と(←デモとでもをかけあわせて、ちょっと旨い、と思った)。
安保法制、国際平和支援法恒久化、更に言えばその根幹テーマのひとつである集団的自衛権って、先述“対外的に開かれた事象”がなくては展開できないネタだろうが!?
平たく言えば、現在東アジアの安全保障は危機にさらされていて、その先に日本の国益、いいや興廃が重大なレベルで問われている、という現実。
これを論じないで、何が『対話による外交に基づく信頼関係』か!!
【日本人、って何?】
よく綴らせていただく文言だが、日本は国民国家である。
国民国家の暴力装置(=軍隊)は、国民の生命と財産を保全するために存在する。
国民国家の萌芽たるギリシアのポリスにおいては、国政に参加するには、同時に国防の義務があった。
ノーブレス オブリュージュとは言わんが、国防と言うテーマが世界に開かれ、つながっている以上、政治と国防は表裏一体なのだ。
国防を、内向きな議論で解決することは決して出来ない。
なのに、マスコミはじめシミンな方々は、あくまでも内向きな問題としてしか、これを捉えてない。
8月30日の産経新聞朝刊より、加知伸行立命館大(!)教授のコラム
『【古典個展】スタンドプレーの愚』
http://www.sankei.com/column/print/150830/clm1508300008-c.htmlより引用。
『近代以前、国家は王侯貴族国家であった。近代国家は国民国家である。すなわち、国家は国民のものであり、国民が国家を運営する。その運営方式はさまざまあるが、わが国は議会制民主主義の方針を採っている。
こうした国民国家である以上、自国は国民自らが守らなければならない。それが嫌ならば、亡国か外国の植民地になるほかはない。
つまり、国民国家である以上、徴兵制が基本である。自分たちの国家を守るためであり、徴兵と言っても、王侯貴族国家時代の〈税としての徴兵〉とは決定的に異なるのである。
もちろん、基本は徴兵制としても、志願兵制や一部は外国人傭兵(ようへい)制もありうる。
ところが、近ごろの議論の大半は徴兵制を悪とする論調である。それは国民国家とは何かということがまったく分かっていない感情論である。こうした片手捕りスタンドプレーが国家を誤らせる。』
こういうことを書くと、やれ全体主義者だの、戦争賛成論者だの言う輩が出てくるようだが、そもそも安保法制は日本国内の問題にのみ収斂されるものではないということ、繰り返し述べさせていただく。
【結論】
エンブレムデザイン問題も、国立競技場問題も、そして安保法制についても、私たちはまず、現在の視点について自省する必要があるのではないか?
“外に開かれた事象”については、“日本国民としての視点”から問題を見直し、そして“日本国民の視点から”問題を解決しないと、これから先、日本はどんどん世界の動きについていけなくなっていくだろう。
以上!