
私なりに懺悔の意を、慚愧の念を込めて、ここに綴ります。
これ、真面目に心が泣いてます。
冗談ではなく、真心です。
・・・一体私は、何をしているのか?
後悔と不安と少しの喜びで、気が狂いそうです。
せめて綴ることで、ちびっとだけ残った“こころ”に安寧を与えさせてください。
1.ひとりの“市民”として
【台湾】『台湾総統、立法院占拠の学生らに歩み寄り示す』
3月30日付 読売オンラインより
『台湾の馬英九(マーインジウ)総統は29日、記者会見し、
中台間で結ぶ協定に対し立法院(国会に相当)などに監視する権限を定めた法令
を制定する考えを表明した。
(中略)
馬氏は、「できるだけ(立法院の)今会期終了前に、(中台)協定に対する監視メカニズムの法制化を完成させたい」と述べた。
(中略)
その一方で、同協定の撤回そのものには応じない姿勢を改めて強調した。』
以上、引用終わり
…自国を守るために立法院で頑張り、行政府で弾圧されても挫けぬ、台湾の若者達よ、そして知識人文化人達よ。
あなたたちは偉大だ。
確かに、今回の“見せかけの歩み寄り”は、有名無実のものかもしれない。以前のブログにも書いたが・・・
『何より民進党と野党すべてが“合作”されても、与党国民党+親民党の勢力には及ばない。総議席113名のうち、68が与党勢力なのだ。再審議をかけても協定を完全廃止することは難しいのではないか?
馬英九政権が倒れ、民進党が議会を掌握し、真の“台湾人の、台湾人の為の政治を手にする”まで、我々は決して安穏とできるわけではない。(拙著:
【誤報との情報・・・それでも!!】君たちにこの気概はあるか?』https://minkara.carview.co.jp/userid/712411/blog/32671881/より)
だから、シナーの傀儡となりはてつつある現在の国民党政権が倒れるまで、“台湾の安全”はないのかもしれない。
しかし、それでも、あなたたちは“政府を動かした”。
“国益を守ろうとする市民が、時の政府を動かした”
物理的暴力装置である軍や警察が動いて政府の行動を改めるのではなく、
“市民”が動かしたのだ。
これを偉大と言わずして、何と言えばいい?
国民国家における民主政治とは、“市民”にすべての責を負わせている。
従って民主主義国民国家が他国からの侵略ではなく、“自らの選択によって”亡国なる事態を迎えるとき、その国民は須くその責任をとらされる。
換言すれば、
民主主義国家における“国民”は“市民”であり、国家に対して“無限責任”を負っている
のだ。
市民とは、何か。
多くのお花畑共は言う。「言論思想信教の自由を持ち、人種性別家柄にとらわれず等しく人権を持ち、職業や教育の機会を受ける平等を持つのが市民」だと。
しかしそれは、“市民”の表層を語っているだけの形而上的な概念でしかない。
政治思想史的に言えば、古代ギリシアより連綿とその思想を受け継ぎ、教会の権威を退け、絶対王政や封建制を廃して“私有財産制”と“自由主義経済”を勝ち取った後、“国民国家”を手にした人たち、それが“市民”だ。
“自由・平等・人権”というものは、“市民”がこれら経済システムを保持するに不可欠な“要素”だ。
そして“市民”がつくりあげた国民国家につき、彼等は自由主義経済の要素である“自由・平等・人権”を保障するために“法治主義”や“議会制民主体制”という制度を持つに至った。
勿論、議会を構成するに必要な要素たる“代議制選挙”というものも、その“制度手段の一つ”だ。これらを有機的に結合することで、“市民”は彼等の目的…“私有財産制”と“自由主義経済”を守ろうとした。
ひとえに目的は、“食っていくために”。
今一度綴る・・・ドライで冷酷な言い草だが、“自由・平等・人権”というものは、“自由主義経済活動”を保障するための“要素”に過ぎない。
しかし、たかが要素、されど“要素”。
“市民”はこれを守るために、“暴力装置”たる国家を築いた。
彼等はこれを保持することで、“自由・平等・人権”たる要素を保障し、自由主義経済体制を存続させようとした。
結果、彼等は自らをして
「所属する国家や社会に忠誠を誓い、心からそれを愛し、それを護るために自らもまた政治にも治安国防にも参画せしめる」
こととなった。
しかし・・・
私は思っていた。
国家を社会を守っていくには、“代議制議会民主主義には、効率面からの限界がある”と。
代議制議会民主主義の制度を悪用し、数の謀略で国益を損ねる輩がそこにいたとしたら、それを糾し、正すのは選挙なりしか手は無い。
だがそれには、時間がかかりすぎる。
その時間の間、国益を正そうとする力は、実効性を持たない。
-時間という“弱点”。
この間隙を如何にすればいい?
“市民”を“衆愚”に塗り替え、代議制民主主義の制度を悪用して“国益”を損ねようとすれば、この制度に縛られる限り、その国民国家は滅び行くしかないではないか?
-台湾の若者達よ。君達の年齢をとうに上回った私だが、今回の君達の行動は、是非無く私に気づかせてくれた。何より新しいことを教えてくれた。
そう、私は気づいた。
私は誤解していた。
私の不安は“代議制民主主義という制度”に対するものであり、自由主義経済や民主主義に対するものではない、ということに-
私は原理主義に陥っていた。
自由主義経済や民主主義を守るには、いざという時は“国民”が“市民”になれば良いのではないか!
そう、“制度に頼っていては間に合わないと判明したとき、“物理的暴力に頼ることなく”、“法治主義”のもと”にあれば…
“市民は自らの手で新たな手法を採択する”
こともできるのではないか!?
“市民の誤りを正す権利は、市民にしかない!”
台湾の若者よ、今回君達は、私にそれを教えてくれた。
台湾加油!
2.親日国、インド
東京裁判でパール判事が日本の立場を理解し、裁判そのものを否定したこと-
インド独立ひいてはアジアの解放のために、チャンドラ・ボースが日本と共に欧米列強と戦ったこと。
植民地時代から独立を経て、今日までの友人、インド。
台湾と共に“自由と繁栄の弧”や“龍のトンボ”を守ることを考えていたときのこと。
こんな心温まる話をふと、思い出した。
知らなかった人も、いるかな?
2013年12月3日付 東京新聞より
『インドを公式訪問中の天皇、皇后両陛下を歓迎する晩さん会が二日夜(日本時間三日未明)、ニューデリーの大統領官邸で開かれた。
天皇陛下は
インド議会が毎年八月、日本の原爆犠牲者を追悼する黙とうなどをしている
ことに「国を代表し、とりわけ犠牲者の遺族の心を酌み、心から感謝の意を表します」とあいさつされた。
外務省によると、インド議会は一九八五年から毎年、広島、長崎の原爆の日のどちらかで、議長が審議冒頭に犠牲者を追悼する発言をし、続いて議員が起立して黙とうしているという。』
・・・因みに、保守速報なんかでソースで取り上げられたこの東京新聞の記事は、(思った通り)現在はごっそり削除されてますwww
かわりに、MSN産経へのリンクを書いときます。
天皇陛下のムカジー大統領へのお言葉
『貴国議会が年ごとの八月、我が国の原爆犠牲者に対し追悼の意を表してくださることに対し、国を代表し、とりわけ犠牲者の遺族の心を酌み、心からの感謝の意を表します。』
http://sankei.jp.msn.com/life/news/131203/imp13120316250003-n1.htm
日本がアメリカに原爆を落としたw、なんてお茶目を教科書に書いてくれたりするけれど、そんなインド、私は好きです。
こんな国と“自由と繁栄の弧”を描けたら、素敵だ。
3.私のこと
私の心は今、不安と悲しみに染め上げられている。
ひとつは、悲しみ。
失われつつある命…家族を超えた“命の恩人”のこと。
このことも従前のブログ『
【去りゆく君へ】幸せにしてあげられましたか? 』
https://minkara.carview.co.jp/userid/712411/blog/32561187/
に綴らせていただいた。
あれから2週間以上が過ぎ、彼女の命は日ごとに磨り減っていく。
病に蝕まれて背骨が浮き上がり、階段の一段を乗り越えることさえ儘ならぬ身体。
和犬故の我慢強さか、痛みも苦しみも表そうとせず、床につく日々。
「せめてなるたけ傍にいてあげてください」
という医師の言葉に、震え上がるほどの悲しみが奔流となって、全身を駆け上がる。
緩和ケアに臨む今、私はこの先彼女に、どんな“幸せ”を運んであげられるのだろう?
近づけば重怠いであろう頭をゆっくりと起こし、弱々しく尾を振り微笑む姿に触れる度、涙が滲む。
そして、不安。
私は数年のうちに、職を辞する。
その後は、“自由と繁栄の弧”のために働きたい、と思っている。
元財務官僚である私の師からは、
「自分の身を切って事を成せ」と窘められた。
自分に何ができるか?
自分の何処に価値があるのか?
今以て解らぬままだ。
確かなことは、今の私は柵に雁字搦めになっている、ということ。
今までの人生、過去のためだけに生きてきた。
“義”のために自分を殺し続けてきた。
これからは、
“自分の信じるもののために”生きてみたい。
同時にそれは、今まで築いてきたものを失うことを指す。
もう若くはない。可能性に賭ける齢ではない。
現実と未来に、心が揺さぶられる。
夜になっても眠れない。
4.赤紫の渦の先
世界は変りつつある
パクス・アメリカーナの時代が終わる
民族主義が噴出し、秩序を保ってきた蓋然性が失われてゆく
新たな列強が頭角を現し、世界が割れていく
その狭間で、北朝鮮はノドンを打ち込む
南トンスル、報復のプラフ
祇園精舎之鐘声 有諸行無常響婆
羅双樹花色 顕盛者必衰理
奢人不久 如春夜之夢
武者終滅 同風前塵
昨日までの当たり前が、明日も訪れるとは限らない。
台湾が生き残れば、日本も生き残る
崩れつつあるバランス、新たな秩序を騙る輩がほくそ笑む
国民が“市民”に目覚めれば、日本も生き残る
もう、時間がない。
間に合わないかもしれない。
しかし、間に合うかもしれない。
繰り返す、無限のループ
自由と繁栄の弧-今はそれしか、道はない
わかっている、それでも…
自分に何ができる?
自分がしなくても、誰かが…
“当事者”になれるのか?
過去を捨てて、生きる自信はあるのか?
信用も、権威も捨てる覚悟はあるか?
傍らで寝息をたてる“恩人”の前、渦巻く不安…
“公”と“私”で、心が赤紫色に澱んでいく
奈落がぽっかりと、口を開けて-
5.逢魔ヶ時
何でこのような真似をした?
何故?
何故?
・・・ワタシハばかダ。
一寸先に喜び
その先では、不安が大手を拡げて哄笑している
世界が変りつつあって
それでも世界は変らなくて
過去を失う怖さがあって
大切なものを失う悲しみがあって
未来への不安があって
未来への焦燥があって
未来への希望があって
ぐるぐる、ぐるぐると何年も何年も、悩み続けてきたというのに-
自分という人間が、信じられない
とてつもない自己嫌悪
真面目に、ね。
なんか心が壊れそうになると、人は誘惑に負けてしまうらしい。
気がついたら、ハンコ押してた。
軽い言葉、「今なら5%のままでいいよ!」の言葉に、頷いてしまった。
これ、ジョークみたいなオチだと思うかもしれないけど、マジに後悔してる。
いや、私の心が平穏なら、素直に嬉しいこと。
“試乗”とやらで“いろんなこと”して、“こりゃ面白い!”って思って発注したのだから。
普段の私ならこのSNSで、嫁に黙って買ったことも面白おかしく綴っているかもしれない。
たとえば…自分は、80年代のバイク乗りであることとか。
だから、合金と鋼の機体を力でねじ伏せ、雨に打たれて怯え、風に吹かれて震える、バイク乗り・・・の筈であることとか。
ことバイクに関しては、にわか仕込みの見せかけだけはしたくない、って思ってる、とか。
バイクに対してだけは、正直でいたいと思ってる、とか。
“日本の神様”を感じられるから、バイクが好きだ、とか。
…それ故、こんなことも綴ってるかもしれない。
“泥と砂とゲロ”に背を向け、スカした出で立ちでオープンカフェにしけ込む自身を、“軟弱者!”と嘲ってるとか。
鏡に向かって“単車ってのはなあ、ファッションじゃねーんだ!”って罵倒してるとか。
ショーウィンドーに映る小綺麗なツナギ纏った自分に、“戦わないバイク乗りなんて、バイク乗りじゃない!”って唾吐いてるとか。
「このバイクはね、高額なモデルから売れてくんだよ」ってスカした言葉にムカついた、とか。
…ホント、それでも“心が元気なら”、たとえ自虐的ではあっても、“これからどうやって、この機械と向き合っていくか”なんて綴ってるかもしれない。
…でも、ダメだ。
とてもそんな気分にならない。
心が澱んで、粘土みたいになって、何も昂ぶるところがない。
それが、“ヒャクスウジュウマンエン”もする、こんなん買っちゃって…
私には“覚悟”がない。
何より、オートバイに失礼だ。
設計者に、生産に携わったひとたちに、役員の皆様に、販売店に…失礼だ。
今の私は、厚顔無恥で、弱くて、駄目な人間そのものだ。
情けない。
6.読み終えて
いま、改めて自分の文章を読んでみた。
あかん…こりゃあもう、分裂してるわ。
昨今で言う“メンヘラ”?
…いや、男の場合はなんて言うんだ?
・・・病院、行こうかなぁ?