Mar.19 豊臣秀吉の天下統一 <石垣山一夜城歴史公園>
投稿日 : 2011年03月19日
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石垣山は、本来「笠懸山」と呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大軍を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。
史跡石垣山は、JR早川駅の西方約2.5km、国道1号線から東へ約1kmのところにあります。
小田原城まで僅か3kmのところにあり、標高257mの本丸からは小田原城や城下の様子が一望できます。
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入口から数m登ると、この二の丸(馬屋曲輪)跡にでます。
この二の丸(馬屋曲輪)跡は、伝承によれば馬屋が置かれ、本丸寄りには「馬洗い場」と呼ばれた湧水もあったようです。
対面の山が本丸跡です。
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本丸跡の石垣です。
この城は関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆(あのうしゅう)による野面積(のづらづみ)といい、長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影が大変よく残されています。
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本丸跡です。
ここへ来るまでの石垣山一夜城のイメージは、もっと簡素な、小田原方に対するパフォーマンス的な城という想像をしていたのですが、本丸や二の丸が存在した本格的な城であったということに驚きました。
時の関白豊臣秀吉は、この城に淀殿ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしていました。
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本丸跡から見た小田原城方面です。
この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き、志気を失ったためと言われています。しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされました。
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もう少し近づくと、こんな感じです。
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「小田原合戦攻防図」という説明板です。
小田原城址公園にもあったものです。
小田原城を山王口、渋取口方面から徳川家康軍、大外郭方面から織田信雄、久野口、荻窪口から蒲生氏郷、羽柴秀勝、水之尾口から宇喜多秀家、細川忠興ら豊臣主力部隊、さらに海上からは九鬼嘉隆ら水軍部隊が、袋小路にぐるりと囲んでいます。
天正18年(1590)春に始まった小田原攻めは、6月26日に石垣山一夜城が完成したことで、北条側に決定的な打撃をもたらしました。このとき、北条氏の一族・重臣が豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで長く紛糾したため、本来は月2回ほど行われていた北条家における定例重役会議であった「小田原評定」という言葉が、「一向に結論がでない会議や評議」という意味合いの故事として使われるようになりました。
7月に入り小田原城は開城し、11日主戦派であった前当主北条氏政と弟氏照は切腹、当主氏直は高野山に追放され、北条氏は滅亡、豊臣秀吉の天下統一となりました。
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小田原の合戦後、ここ石垣山一夜城は廃城となりましたが、その歴史的意義とあわせて城歴が限定されていることは、築城史を研究する際の規準となる遺跡であり、学術上の価値が高いことから、昭和34年(1959)5月13日、国の史跡に指定されました。
現在は「石垣山一夜城歴史公園」として史跡の保存と整備が進められています。
写真は南曲輪の石垣です。
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