鹿鳴館跡(大和生命ビル)
不平等条約改正、治外法権の撤廃を目的に建設された鹿鳴館
2010年11月29日

鹿鳴館建設計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨でした。当時の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権の撤廃でしたが、日本に住む外国人の多くは数年前まで行われていた磔刑や打ち首を実際に目撃しており、外国政府は自国民が残酷な刑罰に処せられることを危惧して治外法権撤廃に強硬に反対していました。そのため、井上は日本が文明国であることを外国人に示す必要があると考えたのです。
それまでは外国賓客の迎賓館として準備された建物はなく、1870年(明治3年)、急遽改修した浜離宮の延遼館かあるいは三田の蜂須賀邸などを借用していました。鹿鳴館の建設地は内山下町の旧薩摩藩装束屋敷跡(現在の千代田区内幸町、現帝国ホテル隣の大和生命ビルの地)に決まり、1880年(明治13年)に着手。途中規模変更(拡大)があり3年がかりで1883年(明治16年)7月、落成しました。
同館落成の明治16年より明治23年までの7年余がいわゆる鹿鳴館時代です。明治16年(1883年)11月28日、1200名を招待して落成の祝宴が行われました。
鹿鳴館では外国からの賓客接待ばかりでなく、天長節(11月3日、明治天皇誕生日)の祝賀会行事をはじめ数々の国内行事も行われるようになりました。これらの夜会、舞踏会、高官婦人による慈善事業などが世間の注目を集めました。
一方、欧化政策を批判する国粋主義者は「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」として非難の声を挙げていました。また当時にあっては、日本の政府高官やその夫人でもその大部分は西欧式舞踏会におけるマナーやエチケットなどを知るすべもなく、その物の食べ方、服の着方、舞踏の仕方などは、西欧人の目からは様にならないものでした。本人たちは真剣勝負でしたが、試行するも錯誤ばかりが目立ちました。西欧諸国の外交官もうわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、その書面や日記などにはこうした日本人を「滑稽」などと記して嘲笑していました。また、ダンスを踊れる日本人女性が少なかったため、ダンスの訓練を受けた芸妓が舞踏会の「員数」として動員されていたことがジョルジュ・ビゴーの風刺画に描かれ、さらに高等女学校の生徒も動員されていました。
井上の鹿鳴館外交への風当たりは次第に厳しいものとなり、さらに条約改正案(外国人判事の任用など)が世間に知られると、大反対が起こりました。面目を失した井上は明治20年 (1887) 4月9月に外務大臣を辞任。鹿鳴館時代はこうして井上とともにその短いが燦然とした歴史に一応の幕を下ろすことになりました。
1890年(明治23年)、宮内省に払い下げられ、華族会館が一部を使用。1894年(明治27年)6月20日の明治東京地震で被災し、修復後、土地・建物が華族会館に払い下げられました。
旧鹿鳴館の建物は1927年(昭和2年)、徴兵生命保険(現・大和生命保険)に売却された後も保存されていましたが、1940年(昭和15年)に取壊されました。
住所: 千代田区内幸町1-1-7
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