(「東栄町御園と豊根村古真立を結ぶ古道を探索する」からのつづきになります。)
2021年1月16日土曜日、北設楽郡豊根村の別所街道の峠「望月峠」へと至る峠道を登り、引き続き、東栄町御園と豊根村古真立を結ぶ古道を探索してきました。
豊根村古真立への古道を引き返し、尾根を通る林道へと戻ってきました。
ここからは、この林道を西へと進んで望月峠へと出て、そこから峠道を下って駐車場所へと戻ることにします。
※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
舗装林道を左へと曲がると御園トンネルの前へと下っていってしまうので、右側の砂利道の林道へと入ります。
砂利道の林道を歩き始めた頃から、雨がパラパラと降りだしてきました。
林道らしい強引な急坂を何か所か登り、望月峠へと出てきました。
雨が段々と本降りになってきていますが、せっかくなので峠の名前の由来となった望月右近太夫の祠へと向かうことにします。
歩いてきた方角からすると右側の斜面、笹原の中のきれいに刈り込まれた真っ直ぐな道を進むと祠に突き当たります。
ちょっと長いですが伝承の話を。
望月右近太夫は武田方の一員として織田・徳川連合軍との間で戦われた「長篠の戦い」に参戦しましたが、ご承知のとおり武田軍は敗北。望月氏も領地である信州望月の地へと逃れるため、命からがら東栄町御園の地まで落ち延びてきました。
そして、傷を負い疲れ切った体と空腹を癒すため、見つけた一軒の家を訪ねました。家から老婆が現れ、「炒った大豆ならある。」と差し出され、望月氏はその大豆を丁寧に皮をむいて食べました。
そのような所作を見て老婆は、「身分ある武将に違いない。首を取って恩賞に預かろう。」と思い立ち、望月氏には袋小路となる道を教え、その隙に村人たちへ自分の策略を伝えました。
騙されて袋小路に追い詰められ、村人たちに囲まれた望月氏は観念し、「せめて信州の風を感じられる峠で自分を弔ってほしい。」と言い残して自刃しました。
ところが村人たちは、望月氏から鎧や刀、金目の物を奪った後、願いを聞き届けて弔うどころか、彼の遺骸をそのまま放置して立ち去りました。
その後、御園の地に病がはやり、「望月右近太夫の祟りだ。」ということで、あらためて遺骸を弔い、峠へ祠を建てたとのことです。やがて、この祠は「望月様」と呼ばれ、峠の名も望月峠となりました。
この話がどこまで史実に基づいているものかはわかりませんが、戦国時代の情け容赦のない、食うか食われるかという時代性を垣間見せてくれます。
話によっては、自刃した後、ねんごろに弔われたというものもありますし、夫を追って逃れてきた望月氏の妻が設楽町神田の地で殺されたという話もあります。
今も祠の周りはきれいに刈り込まれ、花立てや酒瓶もあり、それなりに手入れがされて、お参りもされているように感じました。
さて、依然雨は降り続いています。正直、傘もカッパも持参していないので(天気予報は晴れで、降水確率は20~30%だった。ちょっと微妙でしたが。)、だんだん濡れてきています。
本来なら一旦峠へと戻って、林道を下っていく方が楽なのですが、林道沿いには雨を避けられるような木々が無くて吹きさらし。もっとずぶ濡れになる確率大です。
ここで思ったのが、「祠の後ろにも道は続いているし、そっち行った方が木々が生い茂っているから、あまり濡れずに済むんじゃないの。」ということ。
あんまりもたもたしていると日が陰って暗くなってしまうので、「山の上でも何でも行ってやるわ!」と山の頂上へ向かって急坂を登っていきます。
途中、2~3回立ち止まりましたが(笑)、頂上へ到着です。ここからは尾根の上を歩いていくようです。
道のように歩きやすい尾根が続きます。
尾根が終わり、急坂を下っていきます。
坂を下りた所に中部電力が設置した電波反射板への案内標識が立っています。自分が行きたい方角にも合っているので、同じ方向へと進みます。
小さなピークへと登り、落ち葉に覆われた小さな岩場を進んでいきます。
左右で林相が全く違っています。左側はなぜ植林しなかったのでしょうか。
尾根の左半分、これは道ですね。もしかしたら容易に山の下へと降りていけるかもしれません。
また電波反射板の案内標識があります。ここまで来たら、電波反射板まで行ってみましょう。
電波反射板に着きました。この道中で最初に見たものよりも大きいですね。
寄り道はこれくらいにして、林道へと下りることにします。幸い、雨も止んできました。
途中からは杉林の中を進みます。作業道が尾根まで伸びてきた道だったようです。林の中はすでに薄暗くなっています(本当は写真よりも暗くなっています。)
林道望月峠線へと出てきました。ここは左へと曲がっていきます。
そして50mほど進んだら、右へと曲がります。これで望月峠の峠道に合流です。
道の分岐点に来ました。左斜めへと行く道が、峠へと登ってきた時に通った道です。あと、わかりづらいですが、真っ直ぐ行く道もあります。帰りは真っ直ぐ行く道へと進んでみます。
今のところは作業道ですが、多分このまま進めば、登ってきた時に分岐していたもう一つの峠道になるはずです。
道が下り始めたところで作業道は終わりましたが、その先にある倒木で見通しが効きません。とりあえず倒木の先へと進みます。
最初の倒木を越えた後も点々と倒木がありますが、地面を削って造った道跡と思しきものも出てきました。
尾根の左側が逆L字に削り取られています。これは峠道で間違いないでしょう。
細尾根の土手道へと出てきました。登りの時に通った峠道が左側から合流してきます。
おそらく、最初に尾根上を通る道があり、後になって、尾根上へと登る坂を通らずに峠へと向かえるように尾根の中腹を登る道ができたのでしょう。
ここから先は分岐はないので、登りに通ったとおりに峠道を下っていくだけです。
麓側から一つ目の細尾根の土手道。
堀割り道が連続で折り返す、つづら折りの道。
ここで尾根から離れて、一気に麓へと下っていきます。
下の方が明るくなってきました。峠道の出入口まであと少しです。
この時点で、両足の親指の爪に荷重がかかると激痛が走り、悲鳴を上げながらの下山になっています…。急な下り坂なので、どうしてもつま先で踏ん張るかたちになり、その時に親指の爪が押されてしまうのです(泣)。
やっと豊根小・中学校前にある峠道の出入口に出ました。
車に到着です。これでやっと腰が下ろせる、体を温められる…。
車をスタートしたのが9時20分、帰ってきたのが15時ということで5時間40分。何度も小休止をはさんでいるので、歩いていた時間はおよそ5時間でしょうか。
今回歩いた全行程のルートです。赤線から青線と進み、青線の終点から引き返して、途中からは緑線へ。緑線から赤線へ合流したら図中上方向へ進んで車へ帰着の順です。歩行距離はおおよそ13km~14kmでした。
※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
望月峠の峠道については、事前にはこれほど良好に道跡が残っているとは思っていませんでした。明治30年(1897年)まで県道別所街道として使われていながら車道改修を受けていないため、徒歩通行主体の江戸時代の街道の雰囲気をよく残している峠道だと思います。
峠道の距離自体は手頃なものなので、地元自治体などで整備して(適度にね。)ハイキングコースとしてPRすればいいのにと感じましたね。