12月2日17:00 発 聯合艦隊司令長官 宛 機動部隊指揮官
本文
「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」
開戦は 十二月八日 と決定された。
71年前の今日、1941年(昭和16年) 12月8日 未明。
ハワイ時間 12月7日 大日本帝國海軍は初戦に総力を掛けるべく空母機動部隊の艦載機と潜水艇の奇襲攻撃により米太平洋艦隊の真珠湾基地と在泊艦艇を徹底的に叩き、太平洋での機動力を奪う事で米国の戦力・戦意を削ぎ早期和平講和に持込もうとした。
真珠湾攻撃 「ハワイ作戦」
海軍大将 山本五十六 司令長官率いる帝國海軍聯合艦隊が真珠湾奇襲攻撃を成功させる為には、必ず解決しなければならない課題があった。
第一は、航空雷撃の可否。
当時の航空魚雷は攻撃機から投下着水後、平均数値10m以上沈下、航走しながら調停深度まで浮上するものであり、平均水深12mの真珠湾では、投下した魚雷は海底に突き刺さり使えないが、日本海軍は九一式航空魚雷を改良し浅海面での航空雷撃を可能にした。
第二に、戦艦の厚装甲に対する貫通力。
攻撃機の高度に拠り運動量を賄う水平爆撃の実験を行い、模擬標的の装甲には戦艦採用の鋼板を用いて貫通させる為に運動量を計測して訓練を実施する。
第三は、艦隊の航続距離の問題。
戦艦や巡洋艦に比べ同伴護衛する駆逐艦や旧型空母は足が短く、当時、日本から真珠湾まで片道3500海里を往復可能な艦艇は皆無であった。
この為、7隻の油漕船を同航させ荒天が続く冬の北太平洋で洋上補給を実施、給油の失敗に備え空母の格納庫に重油入ドラム缶を大量に積載した。
また大規模な艦隊を察知されず隠密理に出撃させる為に集結港は択捉島 単冠湾に決定する。
11月26日 南雲忠一中将揮下 第一航空艦隊 旗艦「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」 空母6隻 3航空戦隊 艦載機399機(九九艦爆135機、九七艦攻144機、零式艦戦120機)
戦艦「比叡」「霧島」2隻 巡洋艦「利根」「筑摩」「阿武隈」3隻 駆逐艦9隻 油槽船7隻からなる空母機動部隊は単冠湾を出港。
艦隊は商船、漁船に遭遇し発見通報を避けて荒れる北方航路を進み航海中は船舶の監視を徹底、完全無線封止、夜間は灯火管制し衝突の危険を回避しながらハワイへ向かった。
冬の北太平洋での洋上補給。
自分は昔、アリューシャンで本船舷側と相手船との間に大型フェンダーを入れて洋上荷役を経験したことがあり、真冬ではなかったが非常に危険だったことを今でも忘れられない。
また低気圧により発生する三角波は例え装甲が厚い艦艇でも破壊する力がある。
12月8日 現地時間 7日(日曜日)早朝 04:50
第一波攻撃隊の零戦43機、九九艦爆51機、九七艦攻89機が各空母より発艦を開始。
02:45 第二波攻撃隊の零戦36機、九九艦爆81機、九七艦攻54機が機動部隊を発進。
真珠湾上空に、敵戦闘機の姿無し、対空砲火の抵抗無し。
飛行隊長は攻撃隊に発信、「トトトトトトト」連打 全軍突撃セヨ
「トラ・トラ・トラ」 ワレ奇襲ニ成功セリ
攻撃隊総指揮官兼、空母「赤城」飛行隊長 淵田美津雄中佐 率いる攻撃隊の奇襲は成功し、攻撃目標を艦船に集中した第一次一波、二波の攻撃は米太平洋艦隊に多大な損害を与える。
しかし湾内の修理施設や備蓄施設は手付かずであり、作戦立案時より燃料タンクや修理施設への攻撃を主張していた第二航空戦隊司令官 山口多聞少将は港湾施設の壊滅と米空母を探索し撃破すべく第2次攻撃を催促するように第二航空戦隊旗艦空母「蒼龍」から「第二撃準備完了」の信号を旗艦「赤城」に送り続け、また航空参謀 源田 実中佐も敵空母撃滅を進言したが南雲中将の回答は「第二波攻撃隊ヲ収容シ 針路反転帰途ニツケ」であった。
これにより真珠湾攻撃を終了、空母機動部隊全艦は北北西に変針し日本への帰路についた。
12月16日 艦隊司令部の命により、山口多聞少将揮下の第二航空戦隊 空母「飛龍」「蒼龍」 重巡「利根」「筑摩」及び駆逐艦「谷風」「浦風」が苦戦するウェーク島攻略支援に向かい抵抗する米海兵基地守備隊を航空攻撃した。
真珠湾攻撃の戦果
米海軍の損害は「ネバダ」をはじめ、戦艦5隻沈没 3隻中破 巡洋艦3隻中破 駆逐艦2隻沈没 標的艦1隻沈没 航空機188破壊 155損傷の他、陸上航空基地、および一部港湾設備を破壊。
これに対し日本海軍の損害は艦載機 未帰還29機 別働隊の伊号潜水艦5隻に搭載し真珠湾に潜入した特殊潜航艇 甲標的 5隻未帰還 虎の子の空母機動部隊は全艦無傷で帰投した。
日本海軍機動部隊の真珠湾奇襲攻撃は成功し戦果を上げたが、米太平洋艦隊の主力部隊であるハルゼ―中将揮下の空母「エンタープライズ」は開戦に備えてウェーク島基地への戦闘機輸送任務からの帰投が遅れ、もう一隻の空母「レキシントン」も、ミッドウェイ島基地への輸送任務に当っており偶然にも真珠湾に在泊していなかった為、日本海軍は最も重要な目標であった太平洋に配備されている2隻の空母を討ち漏らしてしまった。
(開戦時「サラトガ」はサンディエゴ海軍基地で整備中、他の空母は大西洋に配備。)
そして、この2隻の米空母、燃料タンクと修理施設が後の海戦にも響く事になる。
大戦初期の短期戦術的に大成功した真珠湾攻撃は長期戦略的には失敗であった。
馬来作戦
12月8日 真珠湾攻撃に先立つこと1時間20分、山下奉文中将揮下 帝國陸軍 第25軍 第18師団 歩兵第56連隊が海岸線で英印軍第8旅団の激しい抵抗を受けながらマレー半島北部 コタバルに強襲上陸、同半島を縦断して南端に位置する英印豪軍支配下のシンガポール要塞攻略を目指してマレー作戦を開始する。
同日、英領香港攻略に酒井隆中将揮下の陸軍 第23軍が九龍北方本土側より攻撃を開始した。
マレー沖海戦
帝國海軍航空戦隊は連合軍との初戦に於いて、マレー沖で英国海軍 東洋艦隊と交戦する。
新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」 巡洋戦艦「レパルス」
12月8日20:00 英国東洋艦隊は日本軍輸送船団に向かいシンガポールを出港していた。
10日 11:45 サイゴンの基地から索敵に出ていた 96式陸攻が英艦隊を発見する。
12:45 「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」に対し、美幌航空隊と元山航空隊の96式陸攻が水平爆撃と雷撃、続いて到着した鹿屋航空隊の一式陸攻隊が攻撃を開始。
14:20 巡洋戦艦「レパルス」爆弾1発、魚雷5本が命中沈没。
14:40 戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」爆弾1発、魚雷6本が命中沈没。
日英攻守共に援護戦闘機が無い状況下の航空雷撃戦だったが海戦は攻撃開始より僅か2時間で決着した。
開戦当時「プリンス・オブ・ウェールズ」は大英帝国が誇る最新鋭戦艦であり、チャーチル首相は不沈戦艦と豪語していたが、戦後著書の中で「マレー沖海戦でこの2隻を失った事が第二次世界大戦で最も衝撃を受けた出来事だった。」と述べている。
戦闘後日、第二次攻撃隊長 壱岐春記大尉はアナンバス諸島電信所爆撃へ向かう途中、両艦の沈没海域を通過、機上から現場海面に花束を投下して日英両軍の戦死者に敬意を表した。
日本海海戦より旧態依然、戦艦中心艦隊決戦、大艦巨砲主義が主流であった日本海軍が日米英の初戦であるハワイとマレーの二作戦に於いて空母と艦載機に拠る攻撃の有効性と戦果により、如何なる艦船でも航空機により撃沈されうる事、そして海戦に於ける制空権の重要性を世界に実証する事になった。
こうして世界各国の海軍は大艦巨砲主義の時代から航空主兵時代へと移って行き帝國海軍も2隻の戦艦「伊勢」「日向」を航空戦艦へ改装、大和型戦艦3番艦を超大型空母「信濃」に設計変更、また貨客船を改造した「隼鷹」や油槽船から空母に改変された「瑞鳳」など商船改造空母が第一線でも活躍し帝國海軍の貴重な航空戦力を支えた。
隼鷹型航空母艦1番艦「隼鷹」 同型姉妹艦「飛鷹」
空母「飛鷹」は日本郵船の北米航路用に新造した貨客船「出雲丸」だったが建造途中で改装され、速力は30kt以上の正規空母より遅く、鋼板が薄い為に防御能力も見劣りしたが航空機搭載能力は主力空母「蒼龍」に匹敵した。
先の大戦中、空母機動部隊をまともに実戦運用したのは日本海軍と米海軍だけであった。
しかし日本海軍は南雲空母機動部隊をインド洋のセイロン沖まで遠征させた為に真珠湾で沈めた戦艦8隻の内6隻は湾の浅い水深も助け、引揚げ修理されて艦隊に復帰し、大西洋からの増援など大打撃を加えた米太平洋艦隊に立ち直る時間を与えてしまう事になる。
山口多聞少将が主張した港湾修理施設を壊滅する第2次攻撃を行っていれば復帰は遅れた。
また最後通牒「宣戦布告」の遅れは、米国の反日世論に火を付けてしまう事にもなった。
この結果、数的優位性を失った帝國海軍は太平洋全域で米海軍と激しい戦闘を繰り返す事になる。
シンガポール・香港攻略
第25軍 第5師団はタイ領内に上陸して進撃、英領マレー国境の英印軍第6・第15旅団の90輌の装甲車部隊と強固な防御要塞を戦車12輌と580名の特別挺進隊が短時間で突破した。
マレーの虎 山下奉文中将 率いる第25軍はコタバル強襲上陸から自転車歩兵部隊と九七式中戦車を主力とする機械化部隊を用いた電撃戦で英軍との95回の戦闘に勝利して55日間で1,100kmを走破快進撃してマレー半島南端に到達する。
クアラルンプールを攻略した第25軍は一週間でシンガポール要塞を陥落させて占領、英国領マレー軍司令官パーシヴァル中将が降伏して揮下の英印・豪軍13万名を捕虜にした。。
一方、酒井隆中将揮下の第23軍は参謀長 栗林忠道少将が香港攻略を作戦立案、英軍要塞防衛線を突破して12月25日クリスマスに11,000名の英軍が降伏して僅か18日間で攻略を完了させて英領香港を占領した。
蘭印作戦
翌年1月11日 海軍横須賀第1特別陸戦隊の空挺部隊がセレベス島のランゴアン飛行場に降下、陸戦隊が上陸してメナドを制圧、陸軍もボルネオ島バリクパパン、マルク諸島アンボンへ上陸 して蘭・豪連合軍を捕虜にする。
2月14日 陸軍 第1挺進団 挺進第2連隊がスマトラ島に空挺作戦を行い、蘭印軍守備隊、連合軍装甲車部隊と交戦、飛行場とパレンバン市を制圧占領、東南アジア屈指の大油田地帯と製油所を確保した。
この後、陸軍も大陸奥深く踏入れ、南方からインドシナまで戦線を拡大し、帝國陸海軍は制海空権を争い補給路と拠点の攻防、太平洋戦争は 4年近くに及ぶ長い消耗戦に突入する事になる。
スラバヤ・バタビア沖海戦
1942年2月27日 帝國陸軍のジャワ島攻略部隊 輸送船団40隻と重巡「那智」を旗艦とし、重巡「妙高」「羽黒」「足柄」と駆逐艦を中心とした護衛の第五戦隊をインドネシアのスラバヤ沖で米海軍重巡洋艦「ヒューストン」をはじめとする 英・蘭・豪の連合国艦隊が迎撃した海戦である。
輸送船団はジャワ海をスラバヤ西方クラガン海岸を上陸目標としてマカッサル海峡を南下。
14:05 双方が索敵により敵艦置を確認。
連合国艦隊は攻略部隊が乗る輸送船団を撃滅する為、高木武雄少揮下の第五戦隊は船団攻撃を阻止する為、直ちに敵方に向かって互いに増速。
17:45 第二水雷戦隊 旗艦 軽巡洋艦「神通」が距離17,000mで砲撃を開始、連合軍艦隊も反撃を開始、これを合図に斉射砲撃戦と魚雷によるアウトレンジ戦、接近水雷戦が始まり、太平洋戦争中でも稀に見る、昼夜46時間続く長時間に及ぶ艦隊戦になる。
海戦の結果
連合国側の損害、重巡「エクセター」「ヒューストン」撃沈 軽巡 3隻撃沈 駆逐艦3隻 撃沈に対して、日本海軍 護衛艦隊の損害は駆逐艦「朝雲」が機関に直撃を受け大破のみと言う完勝であった。
この海戦終了後、駆逐艦「雷」は艦長 工藤俊作 少佐の指示により敵潜水艦が狙う戦闘海域にも関わらず長く留まり、撃破沈没した英駆逐艦「エンカウンター」と米駆逐艦「ポープ」の海上を漂流する敵将兵 生存者422名を救助した。
また駆逐艦「電」艦長 竹内一 少佐は艦内放送で「沈み行く敵艦に対し敬礼」と号令を掛け甲板上の兵全員が右舷に傾きはじめた敵艦「エクセター」に向かい一斉に挙手敬礼する。
この時「エクセター」の乗組員は次々海中に飛び込み敵である日本艦に向かい泳ぎ始める。
竹内艦長は「海上に浮遊する敵兵を救助すべし」と命令、直ちに縄梯子、ロープ、救命浮標等で救助に当り、生存者376名を「電」艦上に救い揚げ負傷者を丁重に手当てさせ充分な食事を与えるなど捕虜を紳士的に扱った。
「エクセター」では「万一の時は日本艦の近くに泳いで行け、日本海軍は必ず救助してくれる」と士官が水兵達に対し普段から話していた様であった。
工藤艦長は救助した敵将兵に対し「諸君は果敢に戦われた。今、諸君は大日本帝國海軍の大切な賓客である。私は英国海軍を尊敬するが日本に戦いを挑む貴国政府は実に愚かである」と挨拶し、バンジャルマシンに停泊中のオランダ病院船「オプテンノート」に引き渡した。
翌日のバタビア沖海戦でも重巡「三隈」「最上」の西方支援隊と軽巡「名取」の第3護衛隊の駆逐艦隊にスラバヤ沖海戦で敗れた残存艦隊のうち、米重巡洋艦「ヒューストン」と 豪軽巡洋艦「パース」も約2時間の戦闘で撃沈され、両艦697名の米豪の生存将兵を日本海軍は救助した。
重巡洋艦「最上」
海戦は,連合軍側 8隻撃沈、日本側 損害軽微と言う日本海軍の一方的な勝利に終わったが、交戦中に重巡「最上」が米重巡「ヒューストン」へ向けて発射した魚雷6本が命中せずに、射線延長線上の日本の攻略部隊輸送船団に到達し、第二号掃海艇が直撃を受け轟沈、輸送船「佐倉丸」が沈没、第16軍司令官 今村均中将が座乗する陸軍偽装強襲揚陸艦「神州丸」に命中、衝撃で今村中将は海上へ投げ出され3時間の漂流後に救助されたが、その他に2隻の輸送船が大破着底という僚軍へ大きな損害を出す。
この件を護衛隊司令部一同が謝罪に行き、今村中将は謝罪を快く受け入れ、この件に関しては敵の魚雷に拠る損害とする事を提案、海軍の顔を立てたのであった。
今村均中将揮下の陸軍 第16軍主力はバリ、ティモール、ジャワの各島に上陸、700名の挺身隊がジャワ島バンドン要塞を攻撃、蘭英豪軍8,000名が降伏、蘭領インドネシアの石油資源獲得を目指した蘭印作戦を成功させている。
世界初のドック型揚陸指揮艦
日本は高い上陸戦遂行能力を持つ「神州丸」を1934年に建造運用している。
全長144m 全幅22m 吃水4.2m 基準排水量7,100t 航続距離7,000浬
最高速力20.4kt 機関ボイラー2基 蒸気タービン1基 最大出力7,500馬力
対空指揮施設 兵装 7.5cm単高射砲11門 20mm機関砲6門 7.5cm野砲1門
対潜水中聴音機 爆雷 12cm対潜用迫撃砲1門
最大収容兵員約2,000名 冷房・医務設備 船尾泛水装置
搭載上陸用舟艇 八九式中戦車搭載可大発29隻・小発26隻・装甲砲艇4隻・高速偵察艇4隻
搭載航空機 九一式戦闘機・九二式偵察爆撃機 最大12機 搭載機射出カタパルト2基
1937年 帝國陸軍「神州丸」は日華事変勃発直後、天津河口の太沽上陸作戦を初陣に実戦運用を開始、第二次上海事変、マレー作戦と参加、荒天下の揚陸に活躍した。
1942年には航空機運用能力を向上した全通飛行甲板の強襲揚陸艦「あきつ丸」を建造する。
全長152.1m 全幅22m 基準排水量9,190t 九七式戦闘機13機 大発27隻搭載
対空指揮施設 兵装 7.5cm単高射砲8門 25mm機関砲12門 7.5cm野砲10門
対潜水中聴音機 爆雷60個 12cm対潜用迫撃砲1門
「あきつ丸」は「神州丸」と共に蘭印作戦にも動員されジャワ島上陸制圧に貢献、爆雷60個を搭載して対馬海峡で対潜哨戒輸送任務も就いた。
この2隻の先進的な揚陸艦は後の おおすみ型LST輸送艦、ひゅうが型DDH護衛艦や強襲揚陸艦の運用に影響を与えた。
九三式酸素魚雷
当時の米海軍主兵装Mk.15魚雷は雷速45kt 射程 5,500m 炸薬量375kg の性能に対し日本海軍の酸素魚雷の性能は高く、九三式は最大射程 22,000m 以上と長く、雷速も最大52kt と高速で窒素を排出しない為に、雷跡が見えず隠密性に優れ敵に発見され難い、また炸薬搭載量は九七式爆薬490kg(TNT588kgに相当)と多く、強力な破壊力は命中すれば軍艦でも一発で轟沈を可能としたが、本海戦やソロモン海戦までは不発や自爆が多発した。
潜水艦用・九五式酸素魚雷
1942年9月15日 第二次ソロモン海戦後、伊19潜水艦がソロモン諸島サンクリストバル島の南東約150浬で潜航中に大型艦多数の推進器音を感知、ガダルカナルへの増援部隊輸送の護衛に就いていた空母、巡洋艦、駆逐艦数隻からなる米軍機動部隊を潜望鏡で確認する。
伊19潜艦長 木梨鷹一 中佐は対潜警戒ジグザグ航行を行う米艦隊に距離900mで九五式酸素魚雷6本を全門一斉発射、この内3本が空母「ワスプ」に命中して艦載機の爆弾誘爆と航空燃料引火に因り大爆発を起こし傾斜炎上、航行不能となり総員退艦、僚艦が雷撃処分した。
この時、空母「ワスプ」を外れた残り3本の九五式酸素魚雷は更に航走を続け 10,000m 先を航行中の別任務部隊の戦艦「ノースカロライナ」左舷1番主砲塔真横に1本が命中、4層の防水区画が破壊され1番主砲塔基部の火薬庫まで浸水し戦列を離れて真珠湾で修理に6ヶ月を要する損害を与え、もう1本も駆逐艦「オブライエン」艦首に命中大破、修理回航中に船体が折れサモア沖で沈没した。
世界で唯一日本海軍のみが実用化に成功した長い射程で雷跡が見えず破壊力も高い酸素魚雷を米海軍将兵は恐れ、戦後「ロング・ランス(長槍)」と呼ばれた。
優しく勇敢な海の男達に最新技術を使う殺し合いをさせた太平洋戦争。
日本が戦争を始めたのは、天皇制と軍国主義のせいだ!?
バカを言うな。
四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世になど波風の 立ちさわぐらん。
平和を願う陛下の大御心であった。
帝國陸海軍の駐米英武官を経験した将官は、三国同盟と対米英参戦に強く反対した。
日本を戦争へ進ませたのは一部の軍人だけではなく政治家、マスコミ、財閥をはじめとする経済界と貧しかった国民だ。
無知故、マスコミに翻弄される者、貧困の苦痛と金儲けに走る輩の世論が戦争に加担する。
日本の若者が家族と国の為に戦っている時にソ連に祖国を売っていた左翼も偉そうに言うな
日米開戦の日、12月8日だけでも、何人の方々が亡くなったのか。
戦争を他人のせいにしてはいけない。
また平和と非武装と言う甘い言葉に騙されてはいけない。
先の大戦後、統一や解放と言う尤もらしい口実で国境を超え侵攻して来たのは共産主義者で平等な社会主義を隠れ蓑に一党独裁の甘い血を吸う赤い連中だと言う事を忘れない。
日本は絶対に戦争はしないと誓った国だ。
しかし、理不尽な侵略に対しては断固として戦う、戦うからには絶対に負けてはいけない。
戦うも亡国、戦わざるも亡国、戦わずしての亡国は魂までも喪失する永久の亡国である。
人の命の尊さ、戦争の悲惨さを知る者達が己を犠牲にして国の為に全力で戦った。
「太陽の帝国」は
インド洋作戦・珊瑚海海戦 に続く。
現代日本の若者は陸の漂流者なのか。
昨日、チャリー二等兵と明石方面no哨戒帰路、海岸線でヒッチハイクしてる青年を乗せた。
震災直後は「困った時はお互い様」で、よく乗せたものだが、ここ最近はヒッチハイクをしている人も見なかった。
青年は旅行者ではなく、自宅から神戸市内のルミナリエに行くとのこと。
「おいおい、君は家から近くに遊びに行くのに他人の車をタクシーや足代わりにするか?
「内需拡大の為にも電車やバスに乗れよ」と、自分が突っ込むと
「全然、お金が無いんです。」と言う。
更に話しを聞くと、地元のIE高校の三年生で名前はⅠ君。
彼は「去年、ヒッチハイクで日本中を旅して、外国にも行きたい」と話した。
「将来は、猿岩石になりたいのか?」と、再び自分が突っ込んだ。
船に乗りたいと自宅の窓から見える(明石海峡航路)船舶を毎日、見て思ったそうだ。
彼は船員になる為に来年の春から愛媛の国立波方海上技術短期大学に進学するという。
自分は学生時代のカッターや実習、訓練、遠泳に遠洋航海、船員時代の実務の話しをした。
今日も遊びに行くのではなくAEDの救命講習を受けた彼はルミナリエの会場で、もしもの為に待機する係と終了後の清掃のボランティアに行くと言う、なかなか見上げた青年だ。
しかし「タダ乗りは許さん!」w と時間の余裕もあったので途中で兵庫の基地に立ち寄る。
チャーリーと二人で5分間、清掃をさせたw
労働に対する対価は資本主義の原則である。
清掃後、遠慮している彼に労働の対価として晩飯と帰りの電車代を渡した。
めっちゃエエ時給だが、 これも資本主義の原則だ。
今の日本、針路も決めずフラフラと漂う若者が多い中、自分で目標を決めて志すのは良い。
自分は海を職場として目指し他人の為に汗を流せる青年がまだ日本にいる事が嬉しかった。
今でも日本の青年、海員は捨てたものでもないぞ。
彼は「卒業後に乗る船があるでしょうか?」と、気にしていた。
商船がなくても海自、海保に進めばよい、船種、職種に悩まず、男は海に出ろ。
頑張れよ Ⅰ君。
the sea will grant each man new hope . . .
— Christopher Columbus
海は人々に希望を与えてくれる。
クリストファー・コロンブス
海は広い 海は人を育て磨いてくれる所だ。
中国海軍は知らんけどな。
きっと彼ならバカな政治家に騙されない賢い大人になるだろう。
日本の近代史・戦史を書いたブログ
Empire of the Sun 1 「太陽の帝国」その1 真珠湾攻撃・マレー・蘭印作戦
Empire of the Sun 2 「太陽の帝国」その2 インド洋作戦・珊瑚海海戦
Empire of the Sun 3 「太陽の帝国」その3 遣日独潜水艦・海軍技術士官
Empire of the Sun 4 「太陽の帝国」その4 ミッドウェ-海戦
Empire of the Sun 5 「太陽の帝国」その5 聯合艦隊旗艦
Empire of the Sun 6 「太陽の帝国」その6 大和出撃
Empire of the Sun 7 「太陽の帝国」その7 マリアナ諸島 テニアンの戦い
Empire of the Sun 8 「太陽の帝国」その8 大日本帝國
Empire of the Sun 9 「太陽の帝国」その9 運命の瞬間
Empire of the Sun 10 「太陽の帝国」その10 満州事変
Empire of the Sun 11 「太陽の帝国」その11 上海事変
Empire of the Sun 12 「太陽の帝国」その12 兵に告ぐ 二・二六事件