1560年5月18日
信長の元に今川が桶狭間に本陣を設けたと知らせが届いた。
夜の軍議で雑談に終始していた信長は今川軍を迎え打ちに翌朝午前5時ごろ5騎を従え清洲城から出陣した。
今川軍は25,000。
信長は午前8時ごろ熱田神宮に着くと戦勝祈願をした。熱田神宮は三種の神器である剣が祀られていて戦勝祈願には適している。
総大将が一人戦に行っちゃった事を知った家臣、家来たちは急いで熱田神宮に駆けつけた。
その数2,000。
同じ時刻に今川は4,000の軍を従え沓掛城を出た。
高貴な者だけが乗る事を許された塗輿に乗っての出陣だ。塗輿で移動するには4m程の道幅が必要で街道を使う事になり、大軍ゆえに先々の水場のある広い場所に本陣を設ける必要だった。馬や兵を休ませる場所は限られている。また、兵の為の兵糧はその先に用意しておく必要がある。
大軍の多くは先の準備の必要であった。
長距離の進軍にはロジスティックが重要であった。大高城へ食料を運ぶために後の徳川家康が向かわされた。
午前10時頃には信長軍は3,000となっていた。
信長は善照寺に到着すると大将旗や幟を数多く掲げ「信長、これにあり。」と知らしめた。
今川軍は11時頃に桶狭間に到着した。
先方隊1,500を少し先の高根山に配した。
高根山からは信長の大将旗や幟が掲げられている善照寺はよく見える。
信長は300の兵を高根山に向かわせる。
300対1,500。
相手にならず今川の圧勝。
高根山での大勝利は桶狭間の今川に届く。
信長、恐れるに足らぬ。
今川ぐんが昼食の支度を始めると雨が降ってきた。
雨は豪雨となり雷鳴が轟いた。
今で言うゲリラ豪雨だな。
豪雨のため鉄砲をしまい、雷のため槍も片付けた今川軍。
信長は300の兵を高根山に向かわせると同時に山道を使い本隊を桶狭間の少し手前まで進め、雨が止むのを待った。
信長も鉄砲は使えない。
しかし、豪雨や雷鳴で進軍は気付かれなかった。
昼頃に雷が止んだ。
「かかれ。」
信長軍の狙いは今川の首ひとつ。
午後2時頃。
今川を討ち取った。
今に伝わる桶狭間の戦いだ。
桶狭間の戦いの一席、これにておしまい。
これより、25,000の今川軍の本陣には3,000程度しかいなかった事がわかる。多くは兵士ではなくロジスティック担当で長旅で疲れていただろう。
また、輿のため移動速度は遅い。
一方、信長軍は短距離で兵は戦いに慣れていた。
また、桶狭間は信長が鷹狩りで遊び、地を知っていた。ホーム側が有利。
前日の軍議での雑談は動きが今川に知られないようにしたのだろう。
大軍への奇襲攻撃は意外と兵力は拮抗していたのだろうが、武具を解き、高根山での圧勝もあり、気が緩んだ兵を立て直す間も無く結した。
今では住宅が立ち並ぶ桶狭間の地に立ち、戦国を思った。
信長は情報の大切さを知っていた。
桶狭間の戦いで最も武勲を上げたのは今川の首を取ったものではなく、桶狭間に本陣を用意していると知らせた者だと褒めた。
情報が漏れないよう軍議をカモフラージュした。
その情報の大切さを知っていた信長は光秀の謀反の情報を知らず、光秀は情報が漏れないようにして、光秀に撃たれた。
桶狭間がリフレインしていると感じた。
Posted at 2020/09/27 17:03:12 | |
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