上官殿!
今週も引き続き、中国地方における偵察活動報告をさせていただきます!! (`Д´)ゞ ビシッ!
■報告まとめと予定
移動日+京都編(宇治市内 聖地巡礼)
岡山編(鷲羽山~倉敷美観地区~岡山市内~美咲町)
鳥取編(鳥取砂丘~魚見台~境港市内)
島根編(中海堤防道路~宍道湖~ベタ踏み坂)
広島編(前編)←今回
広島編(後編)
4日目 8月13日(日)
《松江自動車道》
いよいよこの旅、じゃないこの偵察活動最後の目的地となる、広島県へ向けて進行開始。
中国地方を縦断するこの松江道は、島根~広島というかなり長い区間が、何と無料という太っ腹!
そしてついに、
広島県に侵入成功!
その後、
尾道自動車道を経由し、
山陽道 本郷ICで下道へ。
目指したのはこちら。
《忠海港》
広島県竹原市にある、地方港湾です。
ここからフェリーに乗って、とある島へと移動します。
その島とは「
大久野島」、別名「
うさぎの島」
面積は0.7㎢・周囲4.3kmという小さな島ですが、そこに生息するうさぎの数は、500羽とも600羽とも言われています。
もふもふ好きにとっては、夢のような場所ですね。
現在は島自体が”休暇村”となっており、宿泊施設やキャンプ場、海水浴場・プール、更には温泉まであるレジャー・レクリエーション島です。
しかしこの島、「
うさぎの島」とはもう一つ別名があります。
それは・・・
「地図から消された島」
この島はある時期、本当に日本地図上から姿を消していました。
では一体なぜ、この島は地図上から消されてしまったのか?
それは大日本帝国陸軍が、この島で秘密裏に毒ガスを製造していたからなのです。
1927年(昭和2年)、毒ガスの開発に成功した陸軍は、これを大量生産できる場所を探していました。
そこで万が一事故が起こっても被害が少なく、かつ秘密も守れるという理由からこの島が選ばれました。
当時この島には、民家が7件・10人の島民がいたのですが、何の説明もなく強制退去させられ、この島について口外を禁止したそうです。
そして軍事機密保持のため、大久野島は地図から消される事になります。
《大久野島》
忠海港からフェリーに乗船。
大きな鉄塔が立っているのが、目指す大久野島です。
お盆時期ということもあり、フェリーは乗船率100%以上。
島に着いてからも、多くの観光客が行き交っています。
どうやって偵察を行おうか木陰で考えていると、早速うさぎが近寄って来た! (○´д`○) カワイイ
木陰にも一羽。
↑の黒い子を撮影中も、近づいて来た子がワタクシ二等兵の足を ”はむはむ” している。
ああ~!かわいいんじゃぁーーー!!!
おっと、イカンイカン。
本来の目的を忘れ、うさぎを愛で続けてしまうところだった!
まず最初は、フェリー乗降地からほど近い所にあるこちらを偵察。
《発電場跡》
毒ガス製造工場を中心に、島に点在した各施設に電力を共有していました。
建物へは立入禁止です。
保存のための改修工事は一切行われていないので、いつ崩落してもおかしくありません。ただただ朽ち果てるのを待つ運命・・・
原爆ドームのような戦争遺跡にならないのは残念ですが、いろいろな諸事情があるのでしょう。
《重油タンク跡》
発電場のディーゼル発電機を動かすためのものですが、今は木の中に隠されるように佇んでいます。
撮影していると、うさぎ登場。
\ エサくれ /
《火薬庫跡》
かつては公開されていましたが、2018年の西日本豪雨により損壊。
現在は立ち入り禁止となっています。
撮影していると、またうさぎ登場。
\ エサくれ /
ワタクシ二等兵がしゃがむと、うさぎも近寄って来る。(○´д`○) カワイイ
\ エサくれ /
しばらく進むと、右側に道があるのに気づいた。
案内板も無く、観光のための道ではなさそう。
立ち入り禁止の表示も無いが、結構急な下り坂だ。どうする?
当然、何の迷いもなく突入開始。
しばらく下り続けると、海岸が見えて来た。
キレイな砂浜に到着。
3~4人の足跡があり、ワタクシ二等兵のようなモノ好きが、ここ数日で何人か居たようだ。
砂浜の奥は、つい漂着したゴミに目が行ってしまうが、よく見ると石垣があったり、
井戸があったりと、今は姿も形も無いが、かつては何らかの施設があったと見られる。
案内されている遺跡だけでなく、偵察するべき場所という勘が働けば迷いなく行動する。
これが我ら「陸上自走隊 横浜方面隊」の神髄なのであります!(๑• ̀д•́ )✧ ドヤッ!
意気猛々に下って来た坂を今度は上り、観光路に復帰すると、そこには ”でろーん” とリラックスしまくりの、うさぎ達が・・・
何か一気に疲れた・・・しかし大久野島偵察は、まだ始まったばかり。
歩を進めると、前方に何やら建造物が見えて来た。
《北部砲台跡》
ここには ”12cm速射加農砲” が4門、設置されていました。
軍事施設ということもあり、とにかく綺麗に隙間なく作られています。
今ほど重機や加工機が発達してない当時、製造や運搬の手間を考えると「すごい・・・」と思ってしまう。
こちらは先ほどの施設から少し進んだ所にある、もう一つの
北部砲台。
”24cm速射加農砲”という、先の施設より大きな砲台が4門設置されていた場所です。
24cm加農砲 ※参考
先ほどの施設(12cm速射加農砲設置)は比較的目立つ場所にあったのに対し、こちら(24cm速射加農砲設置)は山の中に隠れるように建設されている。
また北部砲台には、毒ガスタンクも設置されており、重要拠点だった事が伺えます。(今も残るタンクの台座)
当時の画像もある案内板。
その先にあるトンネルをくぐると・・・
《発電機関舎・地下兵舎跡》
兵舎跡とはなっていますが、一番西にあるこちらは毒ガス工場稼働時代は倉庫として利用され、エチレンガスを作るための、純度の高いエチルアルコールを保管していたとの事。
大久野島を訪れるほとんどが、リゾート・レクリエーション目的でやって来るため、それら施設が集中する島南部と真逆に位置する北部周辺に足を運ぶ人は少ない。
加えてこれから向かおうとしている「
中部砲台跡」は、この島で最も高い場所にあり、またアクセスにも時間がかかるため、この日目指す人は皆無。
私と同じタイミングで「
発電機関舎・地下兵舎跡」を偵察していたカップルも、中部砲台へと向かう道の入口を見て、引き返していった。
だがしかし!
登山訓練も行っているワタクシ二等兵には、ハイキングコースだ!!
という根拠が有るような無いような自信を胸に、中部砲台跡へと繋がる道を上り始める。
・・・・・・・・・・
・・・・・・・(;´Д`)ハァハァ
・・・・・・・・・・
・・・・・・・ (·:゚д゚:·) ハァハァ
けっこうキツイ・・・
前に見える大久野島のランドマーク、巨大鉄塔付近が頂上です。
途中でひと休み、振り返ってみる。
海に突き出た半島のような所は、かつて「
北部監視所」があったところ。
砂浜で海水浴をしているキャッキャウフフ声がここまで聞こえ、ワタクシ二等兵との落差が余計に疲労を感じさせるが、上官殿のお姿と「これは偵察活動、そして訓練である!」と自身に言い聞かせる。
やっと到着。
フェリーから見てもデカイ鉄塔だと思ったが、下から見上げると、とてつもなく高い。
実はこれ、日本で一番高い送電鉄塔らしく、高さは何と226m!
新宿三井ビル(55階)の高さが223.6mなので、数字からもその高さが分かると思います。
《中部砲台跡》
この砲台には、28cm瑠弾砲が6門設置されていました。
現在も、4門の台座跡が残っています。
かつては中部砲台入口にゲートがあり、その横にたて屋があって、監視員や毒ガス工場担当者がいたそうです。
検査工室で働いていた人の証言によると、中部砲台のどこかに1㎡位に毒ガスをまき、土壌がどうなるか実験していた場所があったと言うことですが、その場所は確認できていません。
大久野島で一番の高地だけあって、ここからの眺望はなかなかのモノです。
ちょっと朽ち気味ではあるが、木のベンチがあったため休憩していると、ここでもうさぎ登場。
\ エサくれ /
しばし眺めていると、ぴょこんとワタクシ二等兵の隣にやって来た。
ああ~!かわいいんじゃぁーーー!!!
カワイイうさぎに元気をもらい、行動再開!
島南部のリゾート・レクリエーション施設が集まる区域へと下って行きます。
眼下に見える、リゾート施設。
はしゃぐ声がここまで聞こえてきますが、かつてはこの区域こそが ”毒ガス製造工場” (当時は工室)があった場所です。
《退避壕跡》
偵察する予定は無かったが、偶然発見。
ガイド・地図には載っていませんが、調べたところ従業員のための退避壕らしいです。
《野ざらしタンク跡》
こちらも山の中に、突然姿を見せます。
台座は全部で32個あります。
8個のタンク、全部で400t の毒ガスが貯蔵されていました。
そしてやっと下界に到着。
ちなみにここの広場も、かつて「
A2工室」と呼ばれたドイツ式イペリットガス製造工場や、製品倉庫があった場所です。
《休暇島 大久野島》
現在は多数の観光客が出入りするこの場所。
当時は「
A3工室」と呼ばれた工場が建ち、そこでは ”死の露” と呼ばれ、強力な毒性を持つルイサイトを製造していました。
作業はかなりの危険を伴うため、ここで働く工員の給与を、6割加給したとの記録があるほど。
《検査工室跡》
毒ガスの濃度含有試験などをしていた場所。
《研究室跡》
毒ガス工場時代に使用されていた建物では、発電場に次ぎ大きなもので、重要な遺跡です。
ここは毒ガス製品の管理や機密書類の保管、さらにはイペリットの試験薬をつくるなど毒ガスの検査などをしており、陸軍造兵廠の研究室も置かれていました。
先ほどの休暇村施設の辺りから急に人が増え始め、それと同調するようにしばらく見かけなかった、うさぎ達も増え始めた。
それば同時に、大久野島での偵察活動の終わりを迎える事を意味する。
木陰でチルっているうさぎを見て、偵察の疲れを癒しつつ、島を離れることにした。
後で知ったのですが、この大久野島で毒ガスが製造されていた事、化学染があった実態はひた隠しにされ、何と1984年に報道がされるまで、ほとんど世間に知られていませんでした。
周囲4kmの小さな土地に、光と影を抱いた大久野島。
学校の教科書では決して語られる事のない事実が、この大久野島にはあるのをこの目で確認した上で、大久野島 偵察活動を終えたいと思います。
(広島編 後編につづく)