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まとめ記事
三菱 黎明期から戦後コルトまで
徳小寺 無恒さん
2020/11/29
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三菱自動車の歴史は意外に知られていない。しかし、DATSUN に負けないくらい古くからクルマ造りを始め、戦後は三菱ならではの大型プレスを持っていたことによって日産やトヨタのボディのプレスを引き受け、密かにクルマ造りのノウハウを蓄えていた。しかし、技術だけではクルマは売れない訳で。そんな不器用な三菱の黎明期から戦後の本格的な乗用車であるコルトまでの歴史をまとめてみた。
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2016年4月20日。 その日は、何の前触れもなくやって来た。 三菱自動車が軽自動車で、燃費試験の不正を行っていたことが大きなニュースとして流された。 三菱にとって、3G83エンジン、車軸破損のクレーム隠しという大きな問題から、毎回の様に再生を誓っていた筈なのに、また歴史は繰り返された。 しかし僕たちは三菱と言うメーカーをどれくらい知っているのだろうか。 そこから、今回に続く問題を紐解くカギは無いのか、僕なりに三菱の歴史を顧みてみることにした。 三菱自動車の歴史は意外に古く、遡る事、1917年というから大正6年に三菱造船神戸造船所で一台の国産車が産声を上げた。 その名は「三菱A型」。 どうだ!日本人にもクルマが作れたんだという自信に満ち溢れた表情が。この初心はどこへ。 フィアットA3-3を参考にして造られたという、三菱A型は1919年には、恐らくわが国最初の量産車として製造が始まったが、当時の環境下では国産車は売れず、1921年までに20数台を製作したところで三菱の産業転換によって製造が中止された。 三菱は航空機の製造を主力に移したのだ。 日産 ...出典:徳小寺 無恒さん
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1945年日本に進駐した連合軍の総司令部GHQによって、日本が戦争を遂行する上で、経済的な重要な基盤となった財閥を解体すると発表した。 これによって、戦前から日本経済の主流であった「三井」、「三菱」、「住友」、「安田」の四大財閥は解体された。 三菱重工業は1950年に、「東日本重工業」・「中日本重工業」・「 西日本重工業」の三社に分割されてしまった。 分割されたものの、「中日本重工業」・「 西日本重工業」はクルマへの情熱は冷めず、終戦の翌年である1946年に三菱重工で、平和産業の象徴としてスクータが開発され、財閥解体によって生産は「中日本重工業」が引き継ぎ、富士産業の「ラビット」と共に人気を二分し、1964年に生産を終えるまで高い人気を誇った。 画像は最終型ともいえる「シルバーヴィジョンC-240」。あのデボネアのデザイナーでも知られる H・ブレッツナー 氏によってデザインされた幻の名車だ。 一方、乗用車の開発は戦後の混乱もあり、まずは需要の多かった貨物車、当時人気だったオート三輪が開発され、生産されている工場の地名から「みずしま」というネーミングで発売され ...出典:徳小寺 無恒さん
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国民車構想に即発された コルト500 から 、所有することの喜び、クルマを持つという趣味性の面から進化した コルト600 。 一方、スクーターからオート三輪という、本当に国民の足としてのクルマとして 三菱360 から ミニカ へと三菱のクルマは、数こそは多くないが確実に進化していった。 昭和35年代後半から 「所得倍増」 と呼ばれる 池田勇人 による長期経済計画によって、国民の所得は増え続け、それに伴って 3C と呼ばれる ColorTV、Cooler そして Car の所有が国民の憧れとなった。 そんな要請にこたえる形で三菱は、1963年昭和38年に コルト600 のモデルチェンジを敢行して、名古屋自動車製作所と京都製作所が主体となって コルト1000 を発売した。 水平基調のデザインで、当時流行したフラットデッキスタイルを採用したコルト1000。 三菱初となる「水冷インラインフォー・エンヂン」を搭載して、新しい時代のセダン像として華々しく登場した。デザインも、あの初代「デボネア」をデザインした、ハンス・S・ブレッツナーの意見を取り入れ、それまでの丸っこ ...出典:徳小寺 無恒さん
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