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Pootaroのブログ一覧

2018年03月11日 イイね!

あれから5年(Part-4)

あれから5年(Part-4)前編に続き、帰宅後編です。

退院して帰宅後、日常生活が始まったのですが、当初はかなりつらい生活になりました。

病院では医師・療法士・そして介護をしてくれる職員の方々がいて、さらに建物は一切の段差がないバリアフリーですが、自宅は専門家がいるわけもなく、「バリアフリー? 何ソレ?」という状態です。

まずは、病院生活と自宅での生活の落差を吸収することが、一番最初の課題になりました。

リハビリは、週に一度病院に通うことになりました。
病院には電車で通いましたが、最初の頃はホームと車両の段差を超えるのもたいへんで、乗り降りは必ず最後尾車両の一番後ろのドア、車掌の前で乗り降りするようにしていました。

これとは別に、入院中にもやったように私の自主ルールを作りました。それは毎日一度、必ずコンビニまで買い物に行くことです。
健常者の足なら片道3分ほどですが、杖をついていて道路の傾斜だけで怖い状態ではこれだけでも結構な冒険でした、日刊ゲンダイと缶チューハイを買いに行くのが目的ですが、こういう、どーしようもないような理由が長続きする秘訣で、今も続いています(笑)

寝るときも結構たいへんでした。
病院では介護用ベッドなので、頭や足を上げることができたのですが、家では普通のベッドなのでそんなことはできません。
体の前側(腹筋側)の筋肉が縮んでいて体を真っ直ぐ伸ばして寝られないので、普通のベッドで寝るのに慣れるまで結構時間がかかりました。

寝るときだけでなく、座るのも結構たいへんで、抗重力筋がほとんど機能してなかったせいか、肘掛けや背もたれのない椅子だと、上半身がグラグラしてしまい、安定して真っ直ぐ座ることができませんでした。
体重が分散せずに1カ所にかかってしまったせいか、トイレの便座を割ってしまったことがありました。

そして、3月に自宅に帰ってから薄々とは自覚していたのですが、5月に入ってからそれが本当のことだと気づきました、汗が出ないんですよ。
元から自律神経はかなり失調ですが、脊椎損傷者は自律神経にも影響があるらしくて、グダグダになってしまったようです。
夏の間は、リハビリ通院から帰ってきた後は、2時間くらいエアコンの前で体を冷やしていました。
エアコンの風を直接体に当てるのは良くないということはわかっていますが、体がオーバーヒートしている状態ってのはかなり辛くて、こんなことをしてしのいでいました。
同時に、体のほんの一部分(20cm四方ぐらい)だけは汗が止まらない部分があったりもしました。
この夏は、少し動くと体温が上がってしまいとても辛かったので、リハビリ通院以外の外出はコンビニの買い物以外ほとんどできず、エアコンの中で引きこもりとなりました。

また、ある日突然「ガス欠」という感じになって、全く動けずリハビリの外出以外はほとんど寝たきりという日々もありました。

自宅リハビリは、自分のペースで自由にできますがやらないのもまた自由、すべて自分の意思でやらなければいけないところがたいへんです。(これは通信教育みたいな自宅学習にも共通しますね)

こんな状態で、帰宅後の生活はたいへん期間もありましたが、リハビリは夏の終わりには、担当の療法士もびっくり、というくらいの成果が出てきました、ロフストランド杖を卒業して、一本杖に移行することができました。
一本杖で歩けるというのは、ほぼ二本足で歩けるけど、文字通りの「転ばぬ先の杖」として軽く地面を突いて歩く、というレベルになったということです。

こんな回復曲線を辿り、リハビリ通院は年内で終了となりました。
私としては、もう少しやりたかったのですが、病院側の事情(手術から××ヶ月を過ぎると保険が・・・)ということでした。
療法士さんからは、これからのリハビリのやり方のアドバイスをいただきました。

年が変わって 2014年になり、まったく独りでリハビリに取り組むようになり不安はありましたが、手応えもそこそこあってなんとか過ごしていました。

2月下旬に、座っていて左足のかかとを地面につけた瞬間に、その反射でふくらはぎが縮んで足首が伸びる感覚がありました。
前から、療法士さんには「足首は一番最後に動くようになる」と教わっていましたので、これは良いサインが出たぞと感じました。

そして、しばらく様子を見た後(この間にも自己免疫疾患で角膜潰瘍になったりいろいろとありましたがそれは割愛)「これは行けそうだ」という感触を確かめて、5月に入って免許再取得へと舵を切りました。
免許再取得のプロセスに興味がございましたら教習所日記をご覧ください。

その後も自主リハビリを続けて 2015年中旬には、杖なしで外出できるようになりました。
これは機能が戻ってきたこともありますが、体の状態に慣れてきて体の使い方がわかってきたのも大きいと思います。

リハビリは今も続けていますが、機能回復はもう限界で、(加齢もあるので)今のレベルを落とさないようにやっている感じのこの頃です。




免許証を再取得できて、わりと普通の生活を送れるようになりましたが、よくここまで来たな、というのが正直な感想です。

女王様も、2年間全く乗れなかったので、ご機嫌を損ねてしまったこともありましたが、今は絶好調です。

復活までには、たくさんの方にご支援をいただき大変感謝しています。
皆様のお心遣いを無駄にしないよう、できる限り峠をカッ飛び続ける所存でございます \^◇^/

入院からの経緯を綴った一連のブログはこれで完結です。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
Posted at 2018/03/11 02:21:01 | コメント(2) | トラックバック(0) | 健康 | 日記
2018年03月09日 イイね!

あれから5年(Part-3)

あれから5年(Part-3)

3月9日は退院記念日です。

2013年のこの日、約7ヶ月の入院生活から解放されて家に帰ることができました、人生再出発の日といっても良いかもしれません。
このブログは、昨夏に上げたブログ(Part-1 ,Part-2 )の続編です。
回復の経過なので、前2編と比べると少し内容は軽いですが、車の話でもないし、長文で文字だけなので、読んで楽しい話でもないのは同様かなと思います、そんな感じがしたらスルーしてくださいm(__)m

緊急入院から約2ヶ月後の10月中旬、急性期病院を退院して車椅子のままタクシーに乗ってリハビリ病院に転院しました。
転院した病院は、この年の4月に開院した新しい病院です。
「家に帰った後の日常生活には休みはない」という考え方のもと、土日はもちろん元日も休まず、平日と同じようにリハビリがありました。

私の担当になった理学療法士作業療法士は、2人とも平成生まれ、この年に学校を卒業した新人でしたがとても熱心で、先輩方の協力もあり安心してリハビリ生活を送ることができました。
(「平成の前の年号を知りません」という台詞には苦笑しましたが・・・)

転院してまず行われたのは、体の状態のチェックです、アライメントチェックなんて呼ばれていて、車みたいだなと思ったのを覚えています。
私の場合、体の右脇から開いて手術した影響でしょうか、大げさに言うと後ろから見るとCの字のように曲がっていて、まずはこれを真っ直ぐにしていかないと立つことは不可能ということで、立つ練習と座る練習から始めることになりました。
私は私で、病室では就寝時以外はベッドに横にならないという自主ルールを作り実践することにしました。

とはいえ、まだ背骨の骨折がきちんと着いていなくてコルセットをしたままのリハビリなので、遅々として進まずという感じでした。
この間、時々、私の担当になった療法士の先輩が手伝ってくれて、いろいろな名人芸を見せてくれました。
例えば、「今日は、肋骨を一本ずつ元の位置に戻しましょう」と言って、私の肋骨を本当に一本ずつ動かすんですよ、これにはびっくりしました。

別の先輩の方には「あまり大きな声では言えませんが、年配の患者さんはともかく、Pootaro さんはまだ若いのでこれからの人生を考えてかなり攻めたリハビリをしようと思っています」と言っていただきました。
返事はもちろん「望むところです」です、実際かなり密度の濃いメニューを作っていただきました、療法士さん作成のメニューがあったら今の生活あるのだろうなと感謝しています。

12月にはいろんなことがありました。
やっとベッドに腰掛けた状態から立ち上がって座るという一連の動作に合格サインが出ました。
ほぼ時を同じくして、背骨のレントゲンとMRI検査の結果コルセットを外すことが許されました。

コルセットを外したら上半身がグニャグニャで、合格サインが出たはずの動作が、また怪しくなってしまいました。
上半身はコルセットに寄っかかって支えていたのが原因です、上半身を自力で支えて合格となるまでには、もう半月必要でした。

当初入院期間は3ヶ月の予定でしたので、12月中旬には退院予定日が1ヶ月後に迫っていました。

退院後の生活について担当医師から説明があり、
「レントゲンやMRI検査と今までのリハビリの進捗から考えると、これ以上の回復は考えにくいので、家の中は壁の伝い歩きでなんとかなるとは思うが、車椅子なしでの外出は無理と判断する。
 これからは車椅子の人生だと考えてください。」
と宣告されました。
(「バカタレ、写真だけ見て何がわかる、手術してくれた医師は『かなりのところまで治る』っていってるんだぞ、絶対2本足で歩いて退院してやる」って思ったのはここだけのひみちゅです。)

それから、当時つきあっていた彼女にメールを送っても返事が来なくなったのものこの頃でした(コレハ・・・まぁどうでも良いんですが・・・苦笑)

閑話休題

コルセットなしの生活に慣れてきた頃から、リハビリの成果が出てきました。

歩行器を使っての歩行訓練ができるようになりました。




その後、歩行器は割と早く卒業して、ロフストランド杖を使っての歩行訓練に移行しました。



進捗が目に見えてきたので、退院を1ヶ月延ばしてリハビリを続行することになりました。

1月2日には、担当の理学療法士に「外に行ってみましょうか」と提案していただき、病院の隣にある小さな公園まで、杖で出かけてみました。
健常者なら30秒ほどの距離を、杖を使って5分くらいかけて行きましたが、外の土を踏むのは緊急入院の日以来の4ヶ月半ぶりで、寒かったけどとても嬉しかったですね。

同じ頃、自主練習の許可下りました。
自主練習OKとは、病院の廊下で勝手に歩行練習しても良いということです。
病院の廊下は、完全に凹凸なしで手すりも完備されているため、退院するまでは時間があれば廊下を行ったり来たりしていました。
いつも廊下にいるので、他の入院している方にも結構顔を覚えられて、他の入院患者さんが「いつも練習していて偉いわね、私も頑張る」なんて話しかけてくれるようにもなりました。
こういうのもやる気の源になりました。

1月中旬、免許が失効しました(泣)
運転とかそんな状態ではないので、覚悟はできていましたが、やはり悲しかったな〜。

1月下旬には、リハビリの進捗が良いので退院をもうひと月延ばすことが決まりました。
そして、退院後の生活のために家を工事して、自宅の玄関と風呂に手すりを設置しました。
この手すりは現在、私も重宝していますが、玄関の手すりは、私以上に母とそのお友達が「良い場所に手すりがあって楽」なんて言って喜んでいます(笑)

2月からは病院の外の道を歩く練習を始めることになりました、もちろんロフストランド杖での歩行です。
最初は近くだけでしたが、最後には病院が設定した一番長い、約2kmのコースを歩けるようになりました。
歩けるとは言っても、このコースを歩くのに1時間以上かかりましたから健常者の半分以下の速度です。
さらに、両端が下がっている道路の傾斜だけで恐怖でしたし、段差や坂はそれこそ障害物でした。

2月の下旬に、病院の廊下を手すりを持ちながら歩く間、1~2歩くらいなら手すりから手を離すことに成功しました。
嬉しかったので、アポロ11号のアームストロング船長の名言「One small step for man, one giant leap for mankind」をちょっとひねって「Small step for mankind, Giant leap for a man」なんて Facebook に書き込みました。

退院の1週間前くらいに、病院の最寄り駅の駅ビルに出かけてみました。
目的は、人混みの中を歩いてみるとか、自動ドアとかエスカレーターとか、街中を歩いてみることです。
本屋で立ち読みをしてみるなんてこともやりました。
歩くのはだいたいなんとかなりましたが、立っていることだけで精一杯の状態でしたので、立ち読みはできませんでした。
さらに、エスカレーターは惨敗でした。
乗るのは、ゆっくり待って自分のタイミングで乗ればなんとかなるのですが、降りるのは自分のタイミングというわけにはいかず、さらに思った瞬間に足を出せないのでかなり怖い思いをしました。

こうして、いろいろな準備をしたものの、「2本足で歩いて退院してやる」という宣言もむなしく、杖をついて見切り発車という感じで退院となりました。

家へは、弟に車で送ってもらったのですが、右折の時、信号が変わったタイミングで右折車線から曲がったのですが、目がついて行きませんでした。

これも結構ショックな出来事でした。
今考えると、入院中は見る範囲も5m圏内くらいで、さらに動く速度は車椅子か杖をついての歩行なので早くて 3km/h 程度です。
そんな生活を半年以上していたわけでなので、それも当たり前のことと思いますが、「やっぱり免許はダメなのかも」って思いました。

前途多難ではありましたが、とりあえず家に帰れたのは嬉しかった、そして7ヶ月ぶりの麦酒が美味かった(笑)

長くなりましたので、帰宅後の話は続編にします。

Posted at 2018/03/09 14:43:44 | コメント(5) | トラックバック(0) | 健康 | 日記
2017年08月18日 イイね!

あれから5年(Part-2)

あれから5年(Part-2)前編に続き、入院生活編です。

絶対安静でベッドから降りることが禁止、抗生剤の点滴が1日4回という生活になりました。
寝ることができないくらいの激痛を生まれて初めて経験しました。

あまりに痛いので鎮痛剤のおかわりをお願いしたら、看護師さんに「この薬は1日に処方できる量が決まっていて、今飲んじゃうと明日の朝の分は無しになっちゃいますよ」と言われました。
ものすごく強い薬だったのだと思います。
それでも背に腹は代えられず、お願いしちゃいましたが、あまり効きませんでした。

たぶん、入院した時点で抗生剤での治療には手遅れだったのだと思います、土曜日・日曜日・月曜日と日が経つにつれて、症状は悪化の一途をたどり、月曜日の夕方には自分で自分の足がどこにあるのかわからない感覚になりました。
「足の指を動かしてみてください」といわれて、やってみても足の親指がほんの少しだけ動く程度で、体を起こすこともできず・・・体幹および下半身不随という状態になってしまいました。

この急展開には、自分の体の状態は実感なので理解できていましたが、頭の認識がついていけませんでした。

その晩に緊急手術となりました。
この時は背中から切開して、背骨を開けて脊髄の圧迫を取り除く手術です。
全身麻酔でしたが、手術後に集中治療室には行かず、ストレッチャーに乗って病室に帰ってきたのを覚えています。

この手術で症状は少し改善して、足も前より動くようになったのですが、それも3日程度しか持ちませんでした、感染症はなおも進行中だったのでしょう。
再び前と同じように足の指さえも動かせない状態になってしまったので、再手術となりました。

こんどは、脇から切開して背骨を前(腹側)から開けて脊髄の圧迫を取り除く手術です。
言ってみれば、人間を三枚おろし(二枚おろしかな)にして背骨と脊髄をクリーニングします。

この手術の後は集中治療室に収容されました、3日くらい居たはずなのですが、あまりよく覚えていません。
(集中治療室は、その瞬間を生きることに特化した場所で、日にちや時間という概念の無いところだと思いました。)

手術は無事成功したのですが、この手術の後の 10日間は入院生活の間で、私にとっていちばん苦しい日々でした。
手術で椎間板を除去して背骨をクリップ止めなどといろいろとやったため、下手に動いて背骨がずれたら脊髄が切れる可能性もあって、そうなったら The End!! 治療不可になっちゃいます。

コルセットができあがるまではベッドの上で動くことさえ禁止、枕も無しで頭を少しでも起こすことすら禁止です。

おまけに、内臓に問題があるわけでは無いので食事は普通どおりのメニューです。
ご飯だけはおにぎりにしてもらいましたが、こんな状態では満足に食べらるわけも無く、食事は半分食べられるのが良いところでした。

そんなことをしているうちに、栄養失調になったり、肺に水がたまって排出するための管を挿入したり、血中酸素濃度不足のため酸素吸入になったりと、負のスパイラルというのでしょうか、いちどバランスが崩れるとあちこち崩れだすんですな。

医者から「これから後は、本人の生命力の問題です」なんて言われたのもこの頃でした、様態急変の可能性ありの結構アブナイ状態だったのかもしれませんね~。

でも、本人は呼吸が苦しいわけでもなく、胸部から下の部分は感覚が全くなくなっていたこともあって痛みもなく、「何言っているんだろうなぁ~」って思っていました。
それよりも、寝返りさえ自力ではできない、当然トイレも自力では無理な状態に「これからどうなっちゃうんだろうな~」なんて漠然と考えていました。

10日後にコルセットが届いて、ベッドの上で起き上がることを許されるようになりました。
といっても、そのときの私は自力で寝返りすることもできないくらいの麻痺状態です。
リハビリ科の先生と看護師さん達に助けてもらって起き上がりましたが、長い間寝た姿勢しかとっていなかったので貧血になりました(苦笑)

それからは感染症の治療と並行して、廃用症候群を避けるためにリハビリです。

リハビリ科の先生の指導の下、寝返りの練習、ベッドの上で起き上がる練習、ベッドから車椅子に移る(移乗といいます)練習をしました。

リハビリ室に行けるようになって最初の日には、衝撃的なことがありました。
入院以来初めて自分の足で立ってみた(自力で立てる状態にはほど遠いので、正確に言うと "自分の足に体重をかけてみた" です)のですが、足の裏の感覚が無いため自分の体重がかかっているのが全くわからないんです。

平行棒を使って歩くことを試みたのですが、足を上げるためにはその足から体重を抜かなければならないことも体が忘れている状態でした。
5m 移動(足でというよりほとんど腕力です)するのに1分以上かかりました。

これはショックでしたね~。
病室に戻って「これでは、歩くようになることはできないかも、車の運転なんて夢のまた夢、絶望かな~」って本気で思いました。

リハビリの一環で、毎日2時間ぐらいは車椅子に座っていたのですが、1時間を過ぎると背中が耐えきれないくらい痛くなりました、この時は「これからずっとこの痛みが続くのかな」って不安でした。

感染症の方は、抗生剤を点滴して感染症となった菌の活動が収まるのを待つのみ、点滴をしながらほとんど1日おきに採血して CRP という値をモニターしていましたが、なかなか基準値(0.3以下)まで落ちませんでした。
(入院時は 20 を超えるくらいあったそうです)。

10月に入って、転院の話になりました。
この病院は急性期病院なので、症状が安定したら退院(もしくは転院)というのが原則というのと、整形外科としての治療はやれることは全部やって成功と言えるレベルなので、これから必要なのはリハビリということです。

ソーシャルワーカーの方が毎日のように病室に来てくれて、私の意見を聞いて各方面の病院と連絡を取ってくれました。(このソーシャルワーカーは聡明な感じがする美人で、毎日会えるのが楽しみでした。)

転院先は、歴史のある病院とその年にオープンした病院の2択になりました。
パンフレットを見たり Web でチェックしたりといろいろ考えましたが、歴史のある病院は労災に強い病院だったので、私の症状とはちょっと違うなと思い、その年にオープンした病院に決めました。

転院の日は入院からほぼ2ヶ月後の 10月15日でした。
血液検査の CRP 値はまだ基準値まで下がってはいなかったものの、これからも病院ということだし、このくらいだったら良いでしょうということで、見切り発車でした。

前日の夕方に主治医が(ふらっと立ち寄った雰囲気で)病室に来て「この感じだと、時間はかなりかかるけどかなりの所まで回復するはず」とコソッと(非公式に)言ってくれました。
この言葉がリハビリの大きな原動力になりました。

そして、車椅子のままタクシーに乗ってリハビリ病院に転院したのでありました。

続く




ここまで読んでいただきありがとうございます。
人生、いつ何があるかわからないですね。

化膿性脊椎炎は、誰でもなる可能性があるそうです。
抵抗力(免疫力)が普通にあれば、発症することはまずないそうですが、発症者は中高年が多いということです。
もし、背中に痛みを感じたら楽観せず診察を受けてください。
(私のようになるまで放っておくバカタレは居ないと思いますが(笑))

そして・・・5年って短いようで長いですね。
その後、いちばん最初にお見舞いに岐阜からかけつてくれた親友、そして(知り合ったのは退院してからなのに)私の健康状態をいつも自分のことのように心配してくれた大切な人がこの世から去ってしまいました。

「なんで、私じゃなくて、彼・彼女が?」って感じるときがありますが、この世に残されているということを大切にしないと・・・って感じています。
Posted at 2017/08/18 01:21:09 | コメント(7) | トラックバック(0) | 健康 | 日記
2017年08月17日 イイね!

あれから5年(Part-1)

あれから5年(Part-1)8月17日は入院記念日です。

2012年のこの日、前月から続く背中の異常な痛みに加えて足の感覚や動きまでおかしくなってきたことに危険を感じて近所の総合病院に診察に行きました。
診察の結果「ここでは手に負えないので、紹介状を書きます」と言われて、さらに大きな病院へ行くことになりました。

そのまま入院となり、家に帰れたのは翌年の3月でした。
この入院中に運転免許証も失効となりました。

このブログはこの時の回想録です。
入院から5年が経過し、体調も安定してきて、日常生活もほとんど全てを自力で過ごせるようになっているので、夏休みの作文という感じで書いてみました。

車の話でもないし、長文で文字だけだし、読んで楽しい話でもないと思います、そんな感じがしたらスルーしてくださいm(__)m

今にして考えると発症と言えるのは、前月(7月)の中旬に行われたツーリングの帰り道です。
高速の渋滞を避けるため下道を走ったのですが、どうも体調が悪いので、とりあず水分補給と思ってコンビニに寄りました。

車から降りて歩くと、左の肩甲骨のあたりに重さを感じました。
子供の頃から、疲れたときに背中が痛くなることがよくあったので、それかなと思って、家に帰ってゆっくり休めば治るかなと思い帰路を急ぎました。

1週間しても治るどころか症状は悪化の一途をたどりました。
痛みは範囲も広がり強さも増して、肋骨が締め付けられるような痛み(特に背中側は異常な痛みでした)となり、さらに腹筋は本人の意思に関係なく、自分で動かしてもここまで強い力は入れることができないくらいの強い収縮をするようになりました。
痛みに耐えながらロンドンオリンピックを見ていたのを覚えています。

これはいくら何でも異常事態と感じて、近所の整形外科に診察に行きました。
レントゲンの結果では、背骨や肋骨はとても綺麗な状態でどこにも異常は見られないとのこと。

痛みは筋肉から来るものだろうという診断で、強い鎮痛剤を処方していただき、筋肉のこわばりを緩和する治療のためにしばらく通院となりました。
結果的には、この鎮痛剤がものすごくよく効いたことが入院を遅らせて、病状を悪化させることにつながってしまいました。

8月に入ってからも状態は変わらず、通院と鎮痛剤で過ごしていましたが、お盆週間に入った頃に新たな症状が出てきました。
最初の自覚症状は足裏の感覚です、正座をした後のような痺れを感じで感覚が薄くなってきました。

その2~3日後には、足の動きがおかしくなりました、左足を前に出そうと思ったら、右足のさらに右に出たんです。
こうなると、いかに健康に無頓着な私とはいえ、何かたいへんなことが起きていて放置が許される状態ではないと感じ、診察のため近所の総合病院に行きました。
「簡単には帰ってこられそうもないな~」って予感があったので部屋の片付けをしてから行きました。

病院に着いて、いろいろと検査をして所見を聞いたところ、考えてもいなかった言葉を聞きました。
医:「××(Pootaroの名前です)さん、背骨、骨折してますよ、圧迫骨折です。」
私:「え?・・・」(心中で「背骨骨折して足の感覚や動きがおかしいって・・・マズイんぢゃない?」)
医:「これはこの病院では手に負えません、紹介状を書きますから○○病院に行って診察を受けてください」

脊椎疾患の専門的治療が必要という、先生のこの判断が無かったら今の生活はありえなかっただろうなと思います。

紹介された病院までタクシーで移動しましたが、私の気力体力はここで限界に達しました(モウアルケマセン)、病院に着くなり守衛さんに車椅子の手配をお願いしました。
昼過ぎ頃、病院に着いたのですが、MRIをはじめ血液検査など、各種の検査をして、所見が出たのは夕方になりました。

診断の結果は "化膿性脊椎炎" でした。
背骨に細菌が感染して背骨を脆くしたことによる圧迫骨折と、感染による膿が脊髄を圧迫しているために、胴から下の感覚と運動機能に障害が出ているということです。
金曜日なので、土曜・日曜は追加の検査や治療はできないけど、医師としては帰宅はとても承認できない状態ということなので緊急入院となりました。

長くなってしまったので、入院生活は続編にします。
Posted at 2017/08/17 18:52:43 | コメント(4) | トラックバック(0) | 健康 | 日記
2013年03月09日 イイね!

退院しました

退院しました少しご報告が遅れました、3月9日に退院しました。
8月中旬の入院以来、約7ヶ月の入院生活となりました。


入院中は、お見舞い・電話・メール・メッセージ・コメントなど、様々な心強い励ましをありがとうございました。
「みんカラ」で出会った皆様のすばらしさを、改めて認識しました。

まだ、満足に歩ける状態ではないので、運転できるまでには、しばらく時間がかかるとは思いますが、女王様と共に皆様の前に参上できるよう、リハビリに専念しますので、今後ともよろしくお願いいたします。

Posted at 2013/03/11 20:29:53 | コメント(32) | トラックバック(0) | 健康 | 日記

プロフィール

「女王様車検完了のお出迎えで、Audi目黒なう」
何シテル?   01/18 15:16
「事故らず、壊さず、捕まらず」3ナイ宣言遵守を肝に銘じて運転しています。
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