戦前や戦後直後の日本では、クルマは国民の「高値の花」
所有することはブルジョアのシンボルであり、庶民からすると「夢のまた夢」でもありました
この当時のクルマとは「乗り合い(バス)」や「円タク(タクシー)」などのモータリゼーションが時流で、国民がクルマを持つなど妄想に過ぎませんでした
そして日本の敗戦
質素倹約などの抑圧時代から解放
しかし占領軍GHQの統制経済が到来
1947年には日本の自動車メーカーが集まり良質と経済的、合理的なクルマを研究
1955年、通商産業省(現・経済産業省)の担当者であった川原晃重工業局自動車課技官らがまとめた国民車育成要綱(案)がスクープとして新聞報道され、結果的に国としての既定路線となりました
[国民車構想の基本的定義]
その国の一般的な所得層でも十分に購入できる価格帯であること
その国の一般的な道路状況をみて日常利用が十分可能な走破能力があること
その国の一般的な所得層からみて、燃料、維持費などの所有コストに無理がないこと
家族(夫婦と子供2人といった4名程度)が乗車できること
(この時の考えが日本の軽自動車の基礎になっています
)
日本の「国民車構想」年表
太平洋戦争終結から、日本の自動車工業を取り巻く環境の変化は次のようになりました
1947(昭和22)年
8月 自動車輸出の再開
1948(昭和23)年
2月 GHQが貿易業者入国制限を解除
4月 トヨタ、日産自動車、ヂーゼル自動車、新・三菱重工業、高速機関工業の5社を会員とする「自動車工業会」が発足
1949(昭和24)年
7月 軽自動車の規格が制定される
10月 GHQが日本の乗用車生産制限を解除
中華人民共和国成立
1950(昭和25)年
6月 朝鮮戦争勃発(朝鮮特需)
「自動車工業不要論」をめぐる論議開始
1951(昭和26)年
6月 「道路運送車両法」を公布
9月 サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約調印
1952(昭和27)年
3月 「企業合理化促進法」の成立
4月 サンフランシスコ講和条約発効
10月 「乗用自動車関係提携および組立契約関する取扱方針」発表
1954(昭和29)年
4月 日比谷公園で第一回「全日本自動車ショー」を開催
9月 「道路交通取締法」改正
1955(昭和30年) 5月「国民車育成要綱案(国民車構想)」をめぐる論議開始
1958(昭和33)年 3月 スバル360発売
[年表解釈]
1945年9月、GHQは日本のトラック生産許可に引き続き、1947年6月に台数限定つきで小型乗用車の生産を許可
とはいえ、戦後の急激なインフレーションを抑制するためにGHQが実施した金融引き締め政策(通称:ドッジ・ライン)による、不況に翻弄されていた当時の日本人には、乗用車の所有など考えることすらできませんでした
ところが、1949年の中華人民共和国の成立と1950年6月の「朝鮮戦争」の勃発で状況は一変します
GHQは早急な占領政策の終結に向け、平和条約の締結と、日本の経済的自立のため、国内産業育成の必要性に迫られました
また朝鮮戦争の軍需物資調達のための、いわゆる朝鮮特需により1956年の経済白書で「もはや戦後ではない」という言葉に象徴される空前の好景気に日本は沸き、1960年の池田勇人内閣の「所得倍増計画」の発表など、日本の戦後復興は着実な歩みを進めていたのです
そうした中、1954年9月「道路交通取締法」が改正され、全長×全幅×全高(mm)=3,000×1,300×2,000、2ストロークエンジン、4ストロークエンジンともに排気量360cc以下と統一され、この新規格に沿って開発された日本初の本格的軽自動車として、1955年10月、鈴木自動車工業がドイツのロイトを手本に、スズライトSFを発売しました
そして1955年5月18日、通商産業省(現・経済産業省)の「国民車育成要綱案(国民車構想)」が当時の新聞等で伝えられました
同構想では一定の要件を満たす自動車の開発に成功すれば、国がその製造と販売を支援するというもので、要件は以下のとおりである
[定義]
4名が搭乗した状態で時速100kmが出せること(ただし、定員のうち2名は、子供でもよい)
時速60kmで走行した場合、1リットルのガソリンで30kmは走れること
月産3,000台(構造が複雑ではなく、生産しやすいこと)
工場原価15万円/販売価格25万円以下に出来るもの
排気量350-500cc
走行距離が10万km以上となっても、大きな修理を必要としないこと
1958年秋には生産開始できること
この計画に国内各自動車メーカーは「実現不可能」と消極的な反応が多かったが、1956年9月にはトヨタが、空冷4ストローク2気筒700cc、FF方式の「A1型」計画を発表したり、小松製作所が国民車政策を発表するなどの動きはありました
また当時、自動車市場への新規参入を狙ったスバル・1500(P-1)の発売断念から、1955年から新規軽自動車規格に沿った新型軽自動車の開発に取り組んでいました
富士重工業(スバル)は、航空機製造で培った経験を取り入れ、1957年2月に試作第一号車を完成
1958年3月に「スバル・360」として発表、5月から発売しました
このスバル360は、それまで各メーカーが「実現不可能」と冷遇していた通産省の「国民車構想」をほぼ満足させる内容で、たちまち軽乗用車市場を確立しました
ただし、富士重工の首脳陣および百瀬晋六麾下の開発スタッフの念頭にあったものとしては、シトロエンの2CVのスペック等を参考とした以下の要求の実現を図ったものであり「国民車構想」にそのまま沿って開発されたものではないと語っています
[スバル・360の開発定義]
定員は大人4名
車両本体価格35万円以下(実際の発売時は42.5万円)
当時未舗装が多かった日本の主要道路で、60km/hで巡航できる事
生産台数を確保するため、三鷹工場(合併前の富士産業)で生産していたラビットスクーター用のエンジンの生産ラインを転用できること
簡易的な自動車ではなく、海外メーカーのノックダウン生産車やトヨタ・クラウン(初代)と比較して遜色のない「乗用車」であること
これに続き、1959年9月 鈴木自動車工業もスズライトをモデルチェンジした「スズライトTL」を発売
1960年には東洋工業がマツダ・R360クーペを発売
1962年10月には、新・三菱重工業が三菱・ミニカを発売
1966年にはダイハツが「フェロー」を発売
軽自動車市場は一気に活況を呈することとなりました
また、小型車では1960年4月に発売された新・三菱重工業の「三菱500」
1961年4月のトヨタの「パブリカ」の発売に結実したのです
三菱500はパブリシティにおいても「国民車」を銘打っており、車体には「三菱500国民車」と書かれた発表時の写真が残されていますねぇ
結果的には「国民車構想」は、通産省が自ら企画したそれに沿って開発・発売された「大衆車」に対して補助を行うことはなかった
しかし、それまで自動車とは縁がなかった一般大衆に自動車を身近なものとして定着させ、欧米の自動車先進国に対し、著しく立ち遅れていた日本の自動車産業に画期的な技術革新を促したという意味では、同構想は非常に大きな貢献があったとされたと思いますねぇ~