妾の子として生まれ,15のときに父親と大喧嘩をして家出をし,フーテン暮らしを続けてきた寅。縛られることも縛ることもできない業のようなものを背負ってしまった寅。それでいて普通の暮らしと落ち着ける場所を求めてもいる寅。そんな寅を最も鋭く洞察し,最も強く糾弾し,最も長く想い続けたのは,同じような境遇で生きてきたリリーでした。
連作「男はつらいよ」のストーリー展開は松竹の興行を維持するためのご都合主義とは片付けられない,と思えるようになったのは最近のことです。寅次郎が自分の業を受けとめるのにリリーと出会ってから20年以上の年月が必要だったということに,じわじわとリアリティを感じています。
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男はつらいよ・寅次郎忘れな草(第11作,1973年作品)
リリー「さっぱり売れないじゃないか」

寅「不景気だからな…お互い様じゃねえか?」


寅「故郷はどこなんだい?」
リリー「故郷?そうねえ… ないね、私…。生まれたのは東京らしいけどね、中学生の頃からホラ、家飛び出しちゃって、フーテンみたいになってたから…」
寅「へへーッ、ちょっとしたオレだね。流れ流れの渡り鳥か」
リリー「私達みたいみたいな生活ってさ、普通の人とは違うのよね。それもいいほうに違うんじゃなくて、なんてのかな…、あってもなくてもどうでもいいみたいな…つまりさ…アブクみたいなもんだね…」

寅「うん、アブクだよ…。それも上等なアブクじゃねえやな。風呂の中でこいた屁じゃないけども背中の方へ回ってパチン!だい」
リリー「兄さん。…兄さん何て名前?」

寅「え?…オレか?オレは葛飾柴又の車寅次郎って言うんだよ!」
リリーの母親「あんたんとこ 三べんも電話したんだよー。いつも留守ばっかりでさー。で、持って来てくれたのかい?」

母親「どうもありがとう。助かるよ。物入りでねー近頃は…。酒は上がるし、便所は壊れるし、歯医者は高いしさぁ。そうだ。お前この間そこのサクラメントで歌ってただろう。どうして寄ってくれないのさ。池田さんって不動産会社の社長さんだけどね。リリー松岡って私の娘だって言ったら、わざわざ見に行ってくれてさとっても褒めてたよ。帰りにたぶん寄ってくれるだろうって随分待っててくれたんだけどね。どうして寄ってくれなかったの?」
リリー「お店で私の名前なんか出さないでって言っただろう」
母親「だって親子なんだからいいだろう?」
リリー「親のつもりなの、それでも。はっきり言って、私あんたなんか大嫌いよ!いなくなればいいと思ってんの」
母親「…なんてこと、そんな…。私だってね!あんたに言えないようなつらい事情だってあるんだよ!なんだい!バカ!」
リリー「何もかも嫌になっちゃった~」
寅「ん、ま、まあ一杯飲みなよ」
リリー「今日もさ、キャバレーで歌うたってたのよ。誰も聞いてない歌をさ。いいけどね、聴いてくれなくたって。どうせ私の歌なんか下手くそだから。…でもね、邪魔すること無いじゃないか!あの酔っ払いめ。やな奴」
寅「そうか歌ってる時に酔っ払いに絡まれたか」
リリー「だから私パーンとひっぱたいてやったのよ」
寅「おーおー」
リリー「そしたらマネージャーのヤツが…」
寅「リリーよ、やなことは忘れてさ、俺と飲もう。な」
リリー「寅さん」
寅「んー?」
リリー「旅に出よう」
寅「んん、出よう出よう」
リリー「本当に?」
寅「ほんとほんと」
リリー「じゃ今すぐ行こう今!」
寅「えっ」
リリー「今行こう」
寅「いや、今すぐたってさ、今何時だと思ってんだよ」
リリー「いいじゃない行こうよ行こ」
寅「いや、それにさ夜汽車もありゃしないからって、ね?」
リリー「行きたあーーーーたい!」
寅「座って、リリーよ、な!今日はほら、静かに二人で飲もうな、ほら早く、ね」
リリー「何だ…嘘…」
寅「え?」
リリー「そうか…寅さんにはこんないいうちがあるんだもんね。あたしと違うもんね。幸せでしょ?」
寅「何言ってるんだよお前?」
リリー「あたしゃーみなし子ー街道暮らしー流れ―流れのー♪」(越後獅子の歌)
寅「おいリリー静かにしろよ。昼間みんな働いてな、疲れて寝てるんだから。ここは堅気の家なんだぜ。さ、」

リリー「あたし帰る。どうせあたしのような女が来るようなとこじゃないんだろここは!」
寅「馬鹿野郎!…だれもそんなこと言ってねぇじゃねぇか」
リリー「寅さんなんにも聞いてくれないじゃないか…。嫌いだよ!」
さくら「どっかでリリーさんに会えるといいね…」

寅「さくら、もし.。もしもだよ。俺のいないときにリリーがとらやへ訪ねて来るようなことがあったら、俺のいた部屋に下宿させてやってくれよ。家賃なんか取るなよ。まぁあいつは遠慮するかもしれねえけどよ、俺がそんなことに気い使うなって言ったっていってくれよ。リリーは可哀想な女なんだ。わかったか?
リリー「ねえ、さくらさん、あたしほんとはね、この人より寅さんのほうが好きだったの」

亭主「またそれ言う…」
リリー「だってほんとだもん」
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男はつらいよ・寅次郎相合い傘(第15作,1975年作品)
謙次郎「僕って男は…、僕って男は、たった一人の女性すら幸せにしてやることもできないダメな男なんだ…」

リリー「キザったらしいね、言うことが。幸せにしてやる?大きなお世話だ。女が幸せになるには男の力を借りなきゃいけないとでも思ってるのかい?笑わせないでよ」
寅「でもよぉ、女の幸せは男次第だっていうんじゃないのか?」
リリー「へえ~、初耳だね、あたし今までに一度だってそんな風に考えたこと無いね。もし、あんたがたがそんなふうに思ってるんだとしたら、それは男の思い上がりってもんだよ」

寅「へえ~、おまえもなんだか可愛みのない女だな、おい」
リリー「女がどうして可愛くなくちゃ、いけないんだい。寅さん、あんたそんなふうだから、年がら年中、女に振られてばっかりいるんだよ」
寅「じゃあ、オレも言ってやるよ。なんだおめえ、亭主と別れてやったなんて体裁のいいこと言って。ほんとは、テメェ、捨てられたんだろう」

リリー「寅さん…あんたまでそんなことを…。あんただけは、そんなふうに考えないと思っていたんだけどね…」
さくら「お兄ちゃん大変よ」
寅「なんだ大変って?」
さくら「リリーさんがね」
寅「リリーがどうかしたのか?(リリーに)何だ?」
さくら「違うのよ、リリーさんがね、結婚してもいいって」
寅「結婚?…誰と?」
さくら「お兄ちゃんとよ!」
寅「オレとお…?」
寅「何言ってんだお前、真面目な顔して、ええ?あんちゃんのことからかおうってのかあ」
さくら「からかってるんじゃないわよ!お兄ちゃん」
寅「おい、リリーお前も悪い冗談やめろよ、え?まわりはほら素人だから、え?みんな真に受けちゃってるじゃねえかよ」
さくら「お兄ちゃん…」
博「兄さんあの…」

寅「いいから、ちょっと博、お前は黙ってろ。おい、リリー」
リリー「なに?」
寅「いいから、ちょっとこっち来いよ」

寅「お前本当に、じょ…冗談なんだろ?…え…?」
リリー「…そう、冗談に決まってるじゃない」

さくら「どうしたの?どうして追いかけていかないの?お兄ちゃんは、お兄ちゃんはリリーさんのことが好きなんでしょう?」

寅「もうよせよ、さくら。あいつは、頭のいい、気性の強いしっかりした女なんだい。俺みてえなバカとくっついて幸せになれるわけがねえだろ。あいつも俺とおなじ渡り鳥よ。腹すかせてさ、羽怪我してさ、しばらくこの家に休んだまでの事だ。いずれまた、パッと羽ばたいてあの青い空へ…。な、さくら、そういうことだろう?」

さくら「…そうかしら」
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男はつらいよ・寅次郎ハイビスカスの花(第25作,1980年作品)
リリー「もうお金ないの、どうやって食べてくの?」



寅「オレがなんとかしてやるよ」
リリー「嫌だね」

寅「どうして」
リリー「男に食わしてもらうなんて、私、まっびら」
寅「水くさいこと言うなよ、お前とオレとの仲じゃねえか」

リリー「でも…夫婦じゃないだろ。…あんたと私が夫婦だったら別よ」
寅「馬鹿だなあ、お前、お互いに、所帯なんか持つ柄かよ~。真面目な面して変なこと言うなよお前~…」

リリー「あんた女の気持なんか分かんないのね…」
寅「リリー、オレと所帯持つか…?」

寅「オレ、今、何か言ったかな…?」
リリー「ア、ハハハハハ・・・」

リリー「やあねえ寅さん変な冗談言って、みんな真に受けるわよぉ」
寅「フハハハ、そう、そうだよそうだよ、この家は堅気の家だからなあ」

リリー「そうよ」
寅「うん、こりゃまずかったよ、アハハハッ、ハーッ」

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男はつらいよ・寅次郎紅の花(第48作,1995年作品。最終作)
寅「おまえ泉ちゃんのこと追っかけて、岡山県の津山まで行ったんだろ?」




寅「リリー、まるでガキだよこいつのしてる事は。ったく、えらい事をしてくれたな~」
満男「分かってるよ伯父さん、オレだって後悔してるんだよ」

寅「後悔するぐらいだったらどうしてじっと我慢できなかったんだ。男にはな、耐えなきゃいけない事がいっぱいあるんだぞ」

寅「『泉ちゃん、おめでとう。どうぞお幸せに』電報一本ポーンと打っといて、お前は柴又からはるか津山の空に向かって両手を合わせ、どうぞ、今日一日いいお天気でありますよう、無事結婚式が行われますようにと、それが男ってもんじゃないのか!?」

リリー「バカバカしくって聞いちゃいられないよ。それがかっこいいと思ってるんだろ?あんたは。だけどね、女から見たら滑稽なだけなんだよ。かっこなんて悪くたっていいから、男の気持ちをちゃんと伝えて欲しいんだよ女は!だいたい男と女の間って言うのはどこかみっともないもんなんだ。後で考えてみると、顔から火が出るような恥ずかしい事だって山ほどあるさ。だけど愛するっていうのはそういう事なんだろ!?奇麗事なんかじゃないんだろう?満男君のやった事は間違ってやなんかいないよ」」
寅「ちょっと待てよ、俺が言ってることはな、男は引き際が肝心だって事を言ってるの。それが悪いのか?」

リリー「悪いよ、バカにしか見えなよそんなのは。自分じゃかっこいいつもりだろうけど要するに卑怯なの。意気地が無いの、気が小さいの。体裁ばっかり考えてるエゴイストで口ほどにもない臆病もんで、つっ転ばして、グニャチンでトンチキチンのオタンコナスって言うんだよ!」
リリーの母親「あんた今どこにいるの?母親ほったらかしにして遠いところいっちゃって」
リリー「よく言うよほったらかされたのは娘の私のほうだよ。好きな男と遊び歩いてロクに家にも帰ってこないで、私はねえ、中学の時からお母ちゃんの世話になんかなってないの」
リリーの母親「一年に一度ここへ来てあたしをイジメんだお前は~(嗚咽)」

リリー「おかあちゃん?一緒に暮らしてもいいんだよ?」
リリーの母親「嫌だよ。あたしゃ遠いところ嫌いだよ」
さくら「お兄ちゃん、リリーさんは帰るのよ。こんな所で何してるの、お兄ちゃんも一緒に行くんじゃないの?」

寅「なんでオレがリリーと一緒に行かなきゃならねえんだよ。オレがリリーとどうなろうと大きなお世話じゃねえかさ。お前は満男の心配でもしてろよ」
リリー「それじゃ、さよなら寅さん…。元気でね」

リリー「あらあ?寅さんも乗るの?」

寅「か弱い女を一人淋しく、旅立たせるわけにもいかないだろ」
リリー「ねえ、寅さん、どこまで送っていただけるんですか?」

寅「男が女を送るって場合にはな、その女の玄関まで送るってことよ」
・リリーからの手紙
寅さんのことですが、一週間前、例によってお酒の上でちょっとした口げんかをした翌朝、置手紙をしていなくなってしまいました。

あの厄介なひとがいなくなって、ほっとしたりもしましたが、こうして独りで手紙を書いていると、ちょっぴり淋しくもあります。でもいつか、またひょっこり帰ってきてくれるかもしれません。
渥美清の逝去によって,この「寅次郎紅の花」がシリーズ最終話となりました。「紅の花」が残す余韻は,「寅は各地で待ってくれている人のいるところに旅を続け,その合間に『帰る』のは柴又ではなくリリーが暮らす土地になっていく。そしていつしかそこに隠居し,リリーと幸せに余生を過ごす」というものではないかと思います。しかし,「紅の花」の後に用意されていたとされる実際の最終話は「衰えた寅は旅先で幼稚園の用務員となり,子供たちとかくれんぼをして隠れている間にひっそりと息を引き取る」というものでした。
この作品の登場人物の多くが,家族と離別した過去や,自分は認められない存在であるというコンプレックスを抱えていたりします。平凡で「普通」な人生のどこかに,退屈さを感じていたりします。その根底にあるのは,よく言われる「人間のあたたかさ」「失われつつある日本人」「理屈抜きの泣き笑い」ではなく,「やさしさにの影に潜む心の傷やエゴ」「それらを押しつけ合うような人間関係」「それを回避するための自由と孤独」「自由への羨望や嫉妬」「それらを紛らわすための我が儘」「それが生み出す悲喜劇」だと思います。
この作品を肯定的にとらえるファンに対し残酷とも言える最終話の設定には,寅やその周囲の人々に対する山田洋次監督の強い批判と,彼らの人生に対する強い悲観を感じます。その一方で,もし寅が本当に自由と孤独しか愛せなかったというのなら,そんな最後こそが寅次郎にとって幸せな結末だったのかもしれません。
画像と台詞の出典: 男はつらいよ全作品覚え書きノート