
今日のテキストはいつもの3倍のボリュームの長編ですが、切らずに全編載せます。ちなみにクルマの話ではありません。
昨夜、とあるパーティーに出席したのですが、その会場で、自分にとって奇跡とも呼べる感動的な出来事がありました。
パーティーも賑やかになってきたころ、僕の席に別のテーブルの青年がお酌をしにやってきました。「イトケン君ですよね。僕は、ずっと、イトケン君に謝りたいと思っていたのです」と彼は言いました。「ぼくの事を覚えていませんか」と問われましたが、恥ずかしながら、とっさに僕は彼が誰なのかが分かりませんでした。
「小学校でブラスバンドをされていましたよね。僕は一緒に、トランペットを吹いていたのですよ。」
彼の言葉を聞いても、僕の記憶から目の前の彼の事を引っ張り出すことができませんでした。人違いをしているのではないか、そんな疑念を抱きながら彼の話に耳を傾けるうちに、30年もの間、全く思い返すことすらなかった記憶が、少しずつ蘇ってきたのです。
小学校のブラスバンド。
当時、小学校4年生からクラブ活動に参加することが認められ、僕は一年生の頃からのあこがれのブラスバンド部に入ろうとしました。しかし、一度も楽器に触れたこともなく、楽譜も読めない僕は、入部するのに一年半躊躇し、勇気を出して入部したのは5年生の途中のことでした。
同じ学年の子どもたちは、4年生から活動をしていて、すっかり立派な奏者になっていました。練習の時間になると、同級生の子どもたちは、ピカピカのトランペットを抱えてグランドに飛び出して行き、マーチングバンドを組んで演奏を始めます。1年半遅れて入部した僕は、部での練習のルールや楽器の持ち方からまるで分かりません。しかし途中から入部してきた僕を一から指導する余裕は、同級生にも、また、顧問の先生にもありませんでした。
僕はポツンと音楽室に取り残されることになります。ですが、僕は一人ではありませんでした。数か月先に入部していた一つ年下の4年生男の子がいたのです。男の子は、まだマーチングバンドに加わるまでは上達しておらず、僕が入部するまでは、一人で音楽室で練習していたのです。
当然のごとく、その男の子が、途中から入ってきた僕の教育係という貧乏くじを押し付けられることになります。「年上の後輩」の僕に、男の子はトランペットの扱い方、吹き方、バルブの押さえ方、楽譜の読み方、音符の数え方を一つ一つ教えてくれました。とは言え、二人とも初心者の小学生です。誰からも指導されないまま、二人で試行錯誤しながら、トランペットの演奏の仕方を身に付けて行きました。
グランドでの華やかなマーチングバンドを横目で見ながらの二人の練習は、何か月も続いたように記憶しています。
やがて中学生になり、僕は迷わず吹奏楽部に入部しました。小学校で僕より先にブラスバンドで活動をしていた同級生は、一人残らず別の部活を選び、吹奏楽を選択した男子は、僕一人でした。先輩には男子部員がいたものの、同学年では黒一点、唯一の男子部員になってしまったのです。ですから、後輩に男子の部員が入ってきてくれるかどうかということは、僕にとって極めて重大な問題でした。
一年後、中学校で彼との再会を果たします。入学してすぐの体験入部の時に、彼は友達を連れてやってきてくれました。気心の知れた後輩が入部してくれることは、本当にうれしく胸が躍りました。
ちょうどその頃、僕は滲出性中耳炎を患い、治療のために部活に行けなくなってしまいました。治療を終えて部活に復帰した時に、彼と彼の友だちは吹奏楽部にはいませんでした。体験入部の後の、本入部の段階で別の部活を選んでいたのです。
その後、一人も男子の後輩の入部はなく、部の先輩が卒業した後、僕は吹奏楽部でただ一人の男子となってしまいました。女子だけの集団と言うものは、独特の世界を形成します。気の強い女子たちに囲まれて、居心地悪く部活生活を過ごすことになりました。しかしそれでも、彼に対して何かを思うということはなかったように思います。なぜなら僕の部活動はとても充実していたのです。孤独になっても音楽への情熱は消えることはなく、開けても暮れても音楽に没頭し、コンクールでは悲願の金賞を取れるまでになりました。
そして、30年。今日この日まで、僕はその年下の男の子の事を、思い出すことは一度もありませんでした。そう、パーティー会場で声をかけてきてくれたのが、その男の子だったのです。
「あの日以来、僕はずっとイトケン君に謝りたいと思っていたのです」
僕が部活を休んでいる間に、彼と一緒に体験入部した友人が、「楽器は難しいから吹奏楽はイヤだ」と言って、吹奏楽部を辞めたのだそうです。そうなると、もし彼が入部したとすると、彼もまた黒一点、唯一の男子部員になります。そのまま3年生になれば、唯一の男子部員として、自動的に部長をすることにもなってしまう。気の強い女子たちの中で一人で部活をすることも、部長と言う責務を負わされることも無理だと思い、心残りと後ろめたさを感じながらも、友だちと一緒に別の部活を選択したのだそうです。
その後、校舎の階段の踊り場で、偶然僕と出会った時に、僕は彼に「うらぎりもの」という言葉を投げつけたそうです。何も言わずに部活を辞めたという後ろめたさもあり、僕の言葉は、彼の胸に突き刺さりました。そして、いつか、きちんと謝りたい、そう思い続けていたのだそうです。
「卒業式の時にも、ずっと迷っていたのですけれど、声をかけられませんでした」
~小学校のころから、イトケン君はいつも前向きで、何にでもどんどんつき進んでいく子でしたよね。僕はその姿ずっと忘れることができませんでした。そして、あの時の事があったから、今まで、人生でくじけそうになった時、投げ出したいことがあった時、イトケン君の言葉や姿を思い出して頑張ることができました~
僕は、胸が詰まって言葉が出ず、涙を抑えることができませんでした。
僕はとても気の小さい子どもでした。優秀な子どもでもありませんでした。目立つことも、優れた功績も何一つ残すことができない子どもだったと思います。そんな僕が、誰かの人生に力を与えることができていたとすれば、こんなにうれしいことはありません。ましてや、僕は彼に「うらぎりもの」という、残酷な言葉を投げつけてしまっているのに。
僕の音楽人生のスタートラインを切ることが出来たのは、間違いなく彼が居てくれたから。今の僕のミュージシャンとしての原点は、二人きりの音楽室なのです。彼こそが、僕の恩人なのです。それなのに、僕は彼の事を今日この日まで思い出すことすらなかった。謝らねばならないのは、僕の方なのです。
長い間止まっていた時計が動き出しました。この運命的な再会に、心の震えがまだ止まりません。覚えていてくれて、そして声をかけてきてくれて、何とありがたいことか。決して忘れてはいけない記憶を、取り戻すことができました。
家に向かうタクシーの中で、「さっき、もっときちんと、自分の気持ちを伝えるべきだった」と後悔の思いが胸によぎりました。けれども、もう大丈夫なのです。これからは、そのチャンスはいくらでもあるのです。
Posted at 2013/12/14 22:06:24 | |
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