
前々回から続く
昭和44(1969)年2月10日に袋井テストコースがコース開きとなり、翌々日の最初の本格的な走行中に福沢 幸雄の死亡事故が発生した。(画像参照、進行方向は奥から手前で左コーナーになっている。コーナー入口の土手に炎上中の車体が見える。)
当日、福沢は5リッタートヨタ7用に試作したロングテールのクローズドボディを旧型の3リッタートヨタ7(注)に装着して先行開発テストを行っていた。
直線区間から1コーナーに向かう途中、福沢のマシンは突然コースアウトしてコース脇の芝生に建てられた標識の鉄柱に激突、さらに土手に激突して炎上した。
消火作業はされず、自然鎮火後に救助が行われたがすでに死亡していた。(消火作業したという意見もあるが少数。)
死因は頭蓋骨骨折による脳挫傷で、標識に激突した時点で即死だったとみられる。
事故発生直後にトヨタ側がとった対応は、非常に不穏当なものであった。
当時は、特にライバルの日産自動車との間でレーシングカーの開発競争にしのぎを削っていた時期でもあり、警察の現場検証に対してさえも「企業秘密保持」との理由から、事故車両を早々と撤収した(証拠隠蔽を図ったのではないかと見る意見がある)。
さらに証拠資料として事故車両とは全く違うタイプのレーシングカーの写真を提供したり、また事故原因については、「車両側ではなくドライバー側に非がある」と主張するなど、一方的で大変杜撰な対応であった。
この事は、当時のマスコミも事件扱いし、多くの新聞や雑誌、果ては国会でも取り上げられ、社会問題にもなった。このようなトヨタの不誠実な対応に怒りを覚えた父の進太郎は、その後息子の幸雄の名誉回復のため、トヨタを相手取り訴訟を起こした(「福沢裁判」と呼ばれる)。
10年以上法廷で争った末、昭和56年(1981年)にトヨタが遺族側に6,100万円を支払う形で和解が成立したが、事故原因の真相については未だに謎に包まれたままである。
目撃証言では直線部分で突然クルマの挙動が不安定になり、コース右側の標識に吸い込まれるように激突したという。
横風の影響を受けたという見方もあるが、遺族は車両側の原因(空力、強度、マシントラブルなど)による事故の可能性を強く疑った。
さらに父・進太郎の証言では前日非常にナーバスになっていたという事、「出来るなら明日は走りたくない。中止になってくれれば嬉しいんだが」という言葉を漏らしていたというメンタル的な不安定説などがある。
(注)この時に使用されたシャシーは、以前に事故で火災を起こしたものを修理しており、事故時の車体の挙動と共に車体の強度不足、部品破損が原因とする意見の根拠にもなっている。
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2012/09/07 18:54:55