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2014年01月30日 イイね!

【これはダメ!】 南三陸のカフェ、苦渋の閉店…「もっと利用してほしかった」

【これはダメ!】 南三陸のカフェ、苦渋の閉店…「もっと利用してほしかった」産経新聞 1月30日(木)7時55分配信

東日本大震災後、住民に安らぎの場を提供しようと、南三陸町で被災した住民らが運営してきた「さんさカフェ」が29日、開店から2年で幕を閉じた。道路整備で立ち退きを求められたためだ。さらに、震災から2年10カ月が経過し、支援金や訪れるボランティアの数も少なくなって、利用客の減少で運営が厳しくなっていた。店員らからは「もっと利用してほしかった」と、苦渋の閉店を惜しむ声があがった。(安藤歩美)

◆200人が別れ惜しむ

 プレハブ製の「さんさカフェ」が建つのは、津波で壊滅的な被害を受け、人が住めない災害危険区域に指定された同町の志津川地区。店の最終日となったこの日は、200人以上の客が押し寄せて別れを惜しんだ。

 開店からほぼ毎月訪れていたという仙台市青葉区の会社員、阿部恵巳さん(37)は「南三陸の復興状況も教えてもらえるし、店員とも家族のような関係だった。閉店は寂しい」と名残惜しそう。「この店のカツ丼が大好き」と話す南三陸町観光協会の西城正年さん(36)は「町内で仕事を忘れてくつろげる場所はここだけ。ぜひ再開してほしい」と訴えた。

 「さんさカフェ」が開店したのは平成24年1月29日。町の避難所だった志津川高校で、有志で炊き出しをしていたメンバーらが避難所の閉鎖後、支援団体の提案を受けて開店した。店員の8人はいずれも町内で被災し、家族や家を失ったが、つらさをぬぐい去るように「とにかく店の仕事に没頭してきた」と、代表の内海明美さん(42)は話す。

◆客足遠のき採算悪化

 閉店を決めたのは今月初旬。昨年末、町からカフェの建つ場所に道路を建設する計画を聞かされたことが直接の理由というが、閉店は時間の問題だった。

 震災発生直後は、町にも支援団体にも義援金が多く集まった。カフェの建設を提案した支援団体は当初従業員の人件費を負担する約束だったが、店を建設した段階で資金のめどがつかなくなり、支援から撤退。ボランティアに訪れる人の数も時間とともに減り、客足は日増しに遠のいた。

 店の看板メニュー「日替わり定食」は、「被災した地元の人たちが気軽に来られるように」と当初500円で提供していたが、客の激減で2年目からは700円に値上げ。内海さんは「(閉店を)今さら残念だと言われても、という気持ちもある。もっと店を利用してほしかった」とうつむく。オープン直後は1日に約50人の客が来店し、ピーク時には100人を超えたことも。しかし、最近は1日に2、3人程度だったという。

 「全国から来た人に町の情報を発信する場でもあった。閉店はもったいない」と話すのは、店員の鈴木淳さん(55)。店員らに店を再開したい気持ちはあるが、移転先も再建費用も全くめどがつかない状況だ。「やめたくてやめるのではない。やめざるを得なくてやめるんです」と、ため息交じりに語った。


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現在は青森在住の私だが、東日本大震災の時は仙台に住んでいて自身も被災した。

仙台市中心部に住んでいた私は、津波被害は受けなかった。だから、上の記事に出てくる南三陸町の方達に比べたら大した被災ではない。

彼等からすれば、「お前なんか被災者じゃない」と言われても仕方はない。


そんな私だが、微力ながら自分の出来ることはさせてもらった。

僅かばかりだったけど、個人的に南三陸町に救援物資を届けさせて貰った。


※その時の模様はこちら


だからこそ、上の記事を見て今回書かずには居られなかった。

率直に言って、こういう考え方は良くない。商売やってる人なら誰も同情しないと思う。

良い機会のなので、下の記事を紹介したい。



「湘南カレー」被災地へ
小町のゆうゆう庵が大槌町に

掲載号:2012年6月 1日号

市内小町のカレー専門店「湘南カレーゆうゆう庵」店主の植山竜太郎さん(48)が、東日本大震災復興支援のため岩手県大槌町に移転し、先月22日から現地でカレーを提供している。これは公益社団法人「東日本大震災雇用・教育・健康支援機構(横浜市中区、田中潤代表)」の呼びかけに、植山さんが応じたもの。

 昨年末、知人であった同機構の田中代表から植山さんに、岩手県大槌町の復興に向けて立ち上げたコミュニティーハウス「どんりゅう庵」内でカレーを出して欲しいとの連絡があった。それを受け植山さんは3月に10日間、4月に2週間ほど現地に滞在しカレーを提供した。「かつては商店街だった場所なのに見る影も無かった」と植山さん。飲食店がほとんど再開していない中で、自分のカレーを食べて喜ぶ現地の人を見て、根を下ろして店を続けることを決心したという。植山さんは「うまくいけば、店舗を増やして雇用を作りたい」と話している。

 植山さんに話を持ちかけた田中さんは、横浜で税理士事務所を開いており、昨年6月に震災支援のために公益社団法人を設立した。長く寒い冬に住民同士が交流できる場所をと、同法人は食事の廉価提供や、マッサージ器具、支援物資の受け渡しや住民のよろず相談窓口などを設置したどんりゅう庵を、今年3月に開設。ゆうゆう庵はその建物内で営業している。植山さんが先月22日に現地入りするまではカレーは鎌倉で作って送っていた。

「復興めど立つまで続ける」

 植山さんは横浜出身。当初はイタリア料理を専門としていた。「海の近くを」と静岡県の下田に出店。するとカレーが評判となり、以来専門に。2005年2月7日に、知人づてに鎌倉駅東口に移転した。トマトソースをベースにスパイスと合わせた特製の「ゆうゆう庵カレー」のほか、「ポークカレー」などを提供、「横濱カレーミュージアム(横浜市中区、2007年に閉館)」に出店していたこともあるという。これらのカレーは、現地でも提供している。

 今回の移転に伴い鎌倉の店舗・住居は引き払い、復興のめどが立つまでは現地での生活を続けるという。植山さんは「先のことはまだわからない」とし、「たいしたことはできないが、少しでも復興の役に立てれば」と話す。

 現地での活動拠点は岩手県上閉伊郡大槌町本町6の11、復興ふれあい広場どんりゅう庵内湘南カレーゆうゆう庵【電話】0193・55・5437




実は去年の6月、私は恒例の県外出張で岩手県大槌町を訪れた。


大槌の被災ビル

震災の生々しい傷跡。今はもう取り壊されているかもしれない。


大槌駅跡

JR山田線・大槌駅。本来あるはずの駅舎が丸ごと無い。


大槌駅(4)、宮古方面

ここにまた列車が走ることはあるのだろうか…


大槌駅(8)、駅前

駅前は本来こんな姿じゃないだろうに。



仙台を離れて以来、久々に訪れた被災地。改めて衝撃を受けて移動していたら、


(1)どんりゅう庵、外観

こんな看板が目に飛び込んできた!


何?湘南カレー?このワタスは正真正銘の、ホンモノの湘南人だぞ?

すぐに引き返し、お店に突入!


(2)どんりゅう庵のカレー

早速、ご自慢のカレーを頂いた。驚きの価格でありながら、しかし美味い!(^^)/


その時はお客がワタス1人だったこともあり、お店の方と色々お話した。

ワタスは仕事で青森から来たこと。でも本当は神奈川ケンミンであること。しかも、本籍はこちらのお店のあった鎌倉であること。

また、自身も震災当時は仙台在住で被災したことなどetc…


同じケンミン、同じ地元の人間か訪れたことを喜んで貰えたし、何よりこのワタス自身嬉しかった。


帰り際、このお店のことをブログに掲載して良いか伺ったところ、是非にと言って頂いた。それが忙しさに感け、つい半年以上も寝かしたままだった。(汗)

良い機会なので、改めて皆はん方にご紹介した次第。



話を南三陸町のカフェに戻そう。


「(閉店を)今さら残念だと言われても、という気持ちもある。もっと店を利用してほしかった」

「全国から来た人に町の情報を発信する場でもあった。閉店はもったいない」

「やめたくてやめるのではない。やめざるを得なくてやめるんです」



確かに被災して家や家族を失ったり、大変な思いをされたことと思う。

だからと言って、客が来ないことに対し、


「オマエ等がもっと利用すればこんなことにはならなかった。オメエ等が悪い…」


と言うのは、責任転嫁以外の何物でもない。そもそも人の善意を当てに商売してはいけないと思う。

震災特需に乗っかる形での、人の善意を当てにした商売自体、見通しが甘かったのでは?


現に同じ東北の青森でも、津波被害を受けた八戸とかは別として、内陸の青森・弘前なんかはまるで他人事。仙台から来た人間からすれば、そのあまりの温度差に愕然としたよ。


復興支援・被災地支援をいつでも考えてる人なんて、被災地以外ではまず居ないよ。

震災への意識は基本的にみんなどんどん薄れていく。いつまでも続かない。それが現実。


それとは別に商売の観点からだけど、お金払うからには誰だってそれに見合った対価を求めて当然。

美味しかったり、また来たくなる雰囲気作りをしていれば、復興支援に関係無くお客は来たと思う。立ち上げの理由は全く関係無いよ。


厳しいことを書いたけど、いつまでも他所からの支援に甘えず、自分たちの力で復興を掴み取って欲しい。

僅かながら南三陸町と関わらせてもらった人間として、心よりそう願っている。
Posted at 2014/01/30 12:44:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | 震災関連 | ニュース
2013年03月11日 イイね!

2年越しの御礼、ようやく‥

2年越しの御礼、ようやく‥「あの時の御礼をどうしても直接会って言いたい‥」

その思いから丸2年‥

先々週の京都・関西出張でようやく果たせた!(^o^)/


そう、あの震災直後の苦しい食糧事情、そして輸送事情も最悪な中、この私に救援物資を送ってくれた、

みん友のB.KAZUさんにね!^^;


思い起こせば今から約2年前‥

震災直後の仙台は食糧事情が非常に悪く、食糧を求め、皆リュックを背負って歩いたり、あるいは自転車で彷徨う光景があった‥


カワチ


どこのコンビニも新聞やブルーシートでガラス面を全て覆い、略奪等に備える‥

あるいはイオンを始めとするスーパーは、整理券を配布した上で、一人何点までという条件での買い物‥


それでもまだ買えれば良い方で、前の晩から徹夜で並んでも、あと数人で自分の番という目の前で、

「本日の入荷分は全て無くなりました‥」

と言われ、絶望に打ちひしがれる‥


食糧以外にも、ガソリンの入手が困難を極め、店員に「入れろ」と脅迫し殴る、あるいは順番待ちを割り込まれてトラブルになり、殴り合い‥

正にリアル『北斗の拳』状態の世界‥


そんな状況の時、突然大阪から大きな段ボールが届く‥


何と、みん友のB.KAZUさんから、食料や水、非常食、レトルトと言った救援物資が、段ボール目一杯に詰め込まれた状態で届けられたのだ!

1.救援物資


箱を開けた瞬間、思わず涙が溢れた‥


その時より遡ること一年半前、私は仕事で大阪に一週間出張することがあったのだが、その際に迎撃プチオフを開いてくれたB.KAZUさん‥

口先だけで「頑張って下さい‥」という輩が多い中、その時一回しか会ってないにも関わらず、“命を繋ぐ”救援物資を送ってくれたB.KAZUさんに、どれほど感謝したことか‥


だが、僅かながら食糧事情が好転し始めた仙台より、更に酷い、支援物資が全く廻らないという南三陸町の大森地区の記事を、この私はネットで見てしまった‥

48.どう頑張れと…


B.KAZUさんが送ってくれた物資を自分の為だけに使えば、ハッキリ言って食糧事情は当面なんの心配も要らない…

けど、自分さえ、テメエさえ良ければイイのかと‥


せっかくB.KAZUさんから頂いた救援物資ではあるが、悩みぬいた末、きっと私の行動を理解してくれるはずだと考え、私はB.KAZUからの物資を一部は自分が使わせて貰うが、大半はその大森地区に届けに行くことを決断した‥

B.KAZUさんに電話してその旨を伝えたところ、自分に渡したモノだから、後はどう使ってくれて構わないと言って貰った‥感謝(涙)


その後私は南三陸町は大森地区に行き、救援物資を受け取って頂くことが出来た‥

(その時の模様はココから‥)


そしてその時思った‥


「平時になったら、B.KAZUさんにお返しの品をただ送るのではなく、直接自分が大阪に出向き、自分の口から御礼を言おう‥」


そう心に決め、私はそのチャンスを伺っていた‥

しかし、東北(当時は仙台、現在は青森)から大阪は本当に遠い‥

ましてクルマを維持出来なくなり手放した程の極貧に陥った私は、そう簡単に大阪行きの資金を調達することは容易ではなかった‥


それから2年の歳月が流れたが、この度、現職場の出張で京都行きという絶好のチャンスが訪れたのだ!これを使わない手は無い!

※但し出張は自分単独ではなく、複数人による出張だった為、スケジュール調整が大変だった‥


京阪7000系


ということで、どうにか自由時間を確保し、京阪電車に乗って大阪は寝屋川市にやってきた‥


そして‥


4年ぶりにB.KAZUさんと再開!(^o^)/


B.KAZU号

4年前より一段と進化してカッコ良くなったB.KAZU号!(^v^)

このクルマはもはやミニバンを超越している‥スポーツカーのようなエスハイ!

何せ、レカロシートに車庫調だからね!(^.^)


その後、このB.KAZU号に載せてもらってお勧めというラーメン屋さんにて昼飯を食べつつ、改めてあの時の御礼を述べることが出来た!(^o^)/

あ、一応出発前に青森から段ボールでりんご爆弾(笑)投下と、直接の手土産でリンゴスティックパイを^^;


よくよく考えればB.KAZUさんと会うのは今回で2回目なんだけど、何か昔からの知り合いという感じがして、かなり突っ込んでお互いの身の上話もしてしまった‥

同じ歳ということもあってより親近感が湧くのも事実だけど、それだけではない人柄を持ち合わせるB.KAZUさん‥色々話を出来て本当に嬉しかった!


10日以上経っちゃったけど‥

B.KAZUさん、本当にありがとう!(^o^)/

そしてこれからもどうか宜しく!


またすぐにとはならへんけど、でも必ず自分はまた関西・大阪に行きまっせ!(^.^)
Posted at 2013/03/12 00:30:41 | コメント(3) | トラックバック(0) | 震災関連 | その他
2013年03月11日 イイね!

震災から2年…

震災から2年…首相、政府主催追悼式で「強靱な国づくり」誓う

読売新聞 3月11日(月)15時23分配信

 東日本大震災から2年を迎えた11日午後、政府主催の追悼式が、天皇、皇后両陛下をお迎えして、東京・隼町の国立劇場で開かれた。

 遺族の代表や安倍首相ら各界の代表者が参列。地震発生時刻の午後2時46分に1分間の黙とうをささげ、犠牲者の冥福を祈った。

 式典は、天皇、皇后両陛下をお迎えした後、国歌斉唱に続き、安倍首相が「今般の教訓を踏まえ、わが国全土にわたって災害に強い強靱(きょうじん)な国づくりを進めていくことを、ここに固くお誓いいたします」と述べた。


--------------------------


青森のウチの職場でも、“あの時”の時間に黙祷を捧げようという放送が流れ、皆黙祷したよ…


言いたいこと、書きたいことは色々あるけど、基本的には去年の同じ日にこう書いたことと同じなんでね、今年は敢えて何も言わねえことにする。


改めて去年のを読んでもらって、何かを感じて貰えれば幸いだ…
Posted at 2013/03/11 17:27:54 | コメント(1) | トラックバック(0) | 震災関連 | ニュース
2012年03月11日 イイね!

東日本大震災から1年‥

東日本大震災から1年‥今日はあの震災から一年‥


先程午後2時46分の数分前から追悼式の中継を見始め、台所の食卓の上のテレビの前に立った上で、時報に合わせてこの私も一分間の黙祷を捧げた‥


術後でまだ体調も思わしくない陛下がご出席され、黙祷の前から起立されていたことに、陛下の被災者・国民を思われるお気持ちに対し、もの凄い胸が締め付けられる思いがした‥



もうあれから一年‥


思い返せば丁度一年前、仕事中、事務所の隣の部屋で翌日のイベントの為の写真パネルを制作中にあの地震が‥


震度6強‥立つことも動くこともままならず、その場でしゃがみ込んで揺れが収まる待つ間の時間が長かったこと、長かったこと‥


揺れが収まったと思ったら、隣の事務所はメチャメチャ‥

そこに居たら間違いなく何百キロもあるスチール棚群とかに押し潰されてヤバかった‥


事務所が入ってる建物の外に避難して出たら、周辺の建物から非常ベル、警報音、そしてさらに緊急車両のサイレンがけたまましく鳴っててね‥

まるで戦争が始まったのかのように‥


これはタダごとじゃないないぞと‥


外出していた上司が何とか無事に戻ってきて、それぞれ今日はすぐに帰宅しようと決まり、私も自宅に戻り始めたら、途中の道路・交差点は信号が付いてなくて大渋滞‥


すぐ近くのケーズデンキはメチャメチャに壊れ、スプリンクラーが作動したらしく水びたし‥

さらに近くの焼肉屋は、壁代わりのショーガラスが全部割れて飛散‥


で、自宅アパートに帰ると部屋はメチャメチャ‥おまけに電気が付かない。(>_<)

仕方なく駐車場の愛車カローラのエンジンを掛け、ナビのテレビで情報を入手すると、どうやら沿岸で大津波警報が発令されて、津波が来るとか来たとか何とか‥


その間にも断続的に余震が来て、怖いけどアパートよりはクルマの中が安全だし、それに暖も採れるので寝る直前までクルマの中に居て、その後自室戻って布団に入ったが、これからどうなってしまうんだろうと、不安に駆られてオチオチ寝れなかったものだ‥


それからのことは‥もう私が今更ここで書く必要もないだろう‥


その後、一週間弱で電気が復旧したので、私は被災地の現状を伝えなければならないと、ある種の使命感に駆られ、当時やっていたブログ『みんカラ』で主に仙台市中心部における実際の生活状況を発信しし続けた‥


残念ながら昨年秋に愛車カローラを失い、みんカラユーザーである資格を喪失した為、『OCNブログ人』にブログを移転した際、当時みんカラで発信し続けた震災後の被災地レポートも全て失ってしまった‥

注※このブログは当時のOCNブログから転記

が、僅かだけど当時の仙台市内の様子をレポした時の写真が残っていたので、それを掲載しつつ、改めて当時を振り返ってみたい‥


カワチ


これは震災翌日位の、職場近くのヨークタウンにあるカワチ(大型ドラッグストア)で食糧調達の為に並んで待ってるトコだね‥


整理券が配られた上で、一度に10人ずつ位しか入れなく、更に1人が一度に買えるのが10品までだったかな‥

私は確か500番台の整理券でね‥約2時間後位待つと言われたけど、別に家帰ってまた出てきても面倒だから、そのまま待ってたんだよね‥



一番町の青空市場



これも震災から数日後の、仙台市中心部アーケード街(一番町)での青空市場というか、食糧販売待ちの長蛇の列だね‥

仕事は一週間の自宅待機だったので、その間、毎日食糧を求めてチャリンコで仙台市内を廻っていたの思い出す‥

ホントに“リアル北斗の拳”の時代を味わったものだ‥



銭湯待ち行列



これは撮影日が3月21日ってなってるから、震災から丁度10日後、近所の仙台市内商店街で銭湯の順番を待つ行列だね‥


私のアパートはプロパンだから大丈夫だったけど、都市ガスは向こう1ヶ月以上回復しなかったから、マンション・団地暮らしの人とかは本当に大変だったろうね‥

プロパンは高いけど、こういう非常時は逆に良かったというか‥

だから都市ガス勢のカセットコンロ&ボンベの買占めが続いて大変だったよね‥



曲がった架線その3



自宅アパート近くの、地震でメチャメチャに曲った新幹線の高架上の架線ね‥


長町新幹線放置


これも仙台市内、長町付近の新幹線高架だけど、Maxやまびこも一ヶ月以上放置だったね‥

っていうか、この時はガソリン入手困難だから市内を走るクルマの交通量もみるみる少なくなっていった時だよね‥


そのガソリンと言えば‥


仙台の現実


これも仙台市内、仙台西道路上での給油待ちの車両群‥

この写真の撮影日は3月29日となってるので、震災から約20日後だね‥


百万都市の‟東北の首都”である仙台は、その人口の多さ故に東北各県の中でもガソリン事情が最悪で、他県が普通に給油出来つつある中で、最期までガソリンが入手し辛かった‥


ちなみにこの時、ワタスは山形は天童に行って満タンにして帰ってきた時だったね!^^;


自衛隊


で、これはその山形は天童で給油した帰り、東根付近のコンビニで小休止した際に居た自衛隊のメガクルーザーだね!^^;

多分、神町の基地への帰投途中なんだろうけどさ、ホント、自衛隊にはお世話になったよね‥


自衛隊の皆さん、ホントにありがとう!m(__)m


と、まあ上に挙げてきたようにね、沿岸部の被災地、津波とか原発、あるいはガレキとかのことを伝えてる人達は多かったけど、でもこういう直接の津波被害とかは無いながらも、それなりに影響のあった被災地の生活感をレポしてた人は、当時あまり居なかったように思う‥

そういう点で、自画自賛ではないけど、当時みんカラでレポし続けた時の反響は、直接のコメントは多くないながらも、多くの人が私のブログを見て下さってたようだ‥


とはいえ、私自身もの凄い遣り甲斐を感じながら、少しでも津波・原発被害だけではない被災地の実際というものを発信しようと奮闘していたことを思い出す‥


もちろん、この私もただ仙台市内の様子を伝えるだけではなく、自分から動いたこともあった‥

ネットで南三陸町の大森地区の孤立無援状況を知って、居てもたっても居られなく、みんカラのお友達、大阪のB.KAZUさんから頂いた救援物資に自分でも出来る範囲で買い足し‥


1.救援物資


今は亡きカローラに積めるだけ積んで、アポ無し(とれる訳がない!)で南三陸に向かった‥


17.南三陸町入り

26.瓦礫3

25.自衛隊車輛軍3

32.仮設橋

48.どう頑張れと…

51.瓦礫の山7

40.ベイサイドアリーナ

41.正面玄関情報

36.瓦礫の山3

49.仙台へ…



64.レールアップ

60.エルグランドの地点


目の前に広がる光景に唖然としながら、仮設橋を渡って南三陸町の拠点であるベイサイドアリーナに辿り付いて、そこで大森地区の場所を聞き込みして向かった‥

大森地区に入って、そこに居られた住民の方に地区長さんのお宅をお聞きして、で、何とか直接地区長さんとお会いして物資を受け取って頂いた!^^;




また、かつては砂浜までクルマで入って行けたもんだから、そこで“パリダカごっこ”して沢山遊んだ、思い出深い奥松島は野蒜海岸‥

その思い出の場所も震災の津波被害でメチャメチャになってしまった‥


ある時、たまたま私の職場に救援物資としてTシャツが沢山届いたことがあった‥

けど、「それはウチでは特に必要は無いから、それだったらどこかの避難所に届けよう‥」となったので、その時、咄嗟に私は「野蒜の避難所に届けたい!」と言って、了承を得て野蒜海岸にも向かった!


13.案内板

12.クルマとお店

32.流された家

35.仮設道路

36.野蒜駅前

10.海岸方面

16.ホームアップ

20.開けてしまった海岸

24.道が無い

25.仮の道

30.到着


実際に野蒜に到着した際は、そのあまりの変わりように呆然としてしまった‥


私の愛した、散々パリダカごっこして遊んだ野蒜が‥


仙石線の野蒜駅は壊滅し、その周囲の川沿いの家は無くなるか、あっても二度と住めない位に破壊されていた‥


また野蒜の海岸自体、あの素晴らしい砂浜は壊滅し、全く別の場所のような風景になっていた‥


海岸より奥にある縄文村の施設群が避難所になっていて、突然の押し掛けにも職員?の方や、また学生さんらしき支援のボランティアさんに丁寧に対応して頂き、物資を受け取ってもらった‥



その後数カ月して、そこから「頑張ってます」っていうハガキを頂いた時は嬉しくてね!

一生の宝ものだよ!(^v^)




ということで、長くなっちゃったけど本当はまだまだ書きたいこと、伝えたいことは一杯ある‥


今日は私の居る仙台を始め、宮城・岩手・福島の被災三県では色々な追悼式典があった‥


ただ悲しいコトに、同じに日本であっても、西に行けば、南に行けば行くほど、その関心は薄いことだろう‥


勿論、阪神・淡路大震災を経験した大阪・兵庫辺りの皆はん方は他人事ではないだろうけど、その他の地域で、果たしてどれだけ関心を持ってもらえてるいるのか‥


残念だけど、自分に痛みを伴わなければ、あくまで他人事なのが人間だ‥

それを証拠に震災ガレキの受け入れ拒否‥悲しいよね‥(>_<)


所詮、テメエが一番ってね‥


震災から一年、けど、まだ‟たった”一年!


復興までの道のりは険しく長い‥


それでも被災地に住む人間は、今の自分に出来ることをコツコツやっていく‥


それしかない!

Posted at 2012/11/07 20:57:54 | コメント(1) | トラックバック(0) | 震災関連 | ニュース
2012年02月27日 イイね!

石ノ森萬画館

-


石ノ森萬画館


女川からの帰り道、この建物が見えたので思わず立ち寄った!


ココは開館以来、4~5回は訪れてるんじゃないかな…


だから、例え今現在は休館中と言えども、この建物自体が津波に負けずに残ったことが嬉しくてね!(^_^)


石ノ森萬画館2


館名プレートとライダーの一部が欠損しているけど、ヒーローは津波にだってそう簡単に負けないぞってね!(^o^)/


ワタス以外にも先客で何組か来てたけど、石ノ森先生の作品を観て育った人間達は、ココに来ること自体に意味や意義があることをちゃんと判ってるんだよね!(^.^)


石ノ森萬画館3


防犯上、建物の入口には木の板が建て付けられているが、そこには訪れたファン等による、思い思いの熱いメッセージが書きこまれている!


石ノ森萬画館4


おお、仮面ライダー1号・本郷猛こと、俳優の藤岡弘、さんの直筆サインが!


これはメッチャ嬉しい!(^o^)/


石ノ森萬画館5


正面入り口以外にも木のパネルが建て付けられていて、それ等にも多くのメッセージが書き込まれていた…


あ、ちなみにこのワタスは特に何も書いてないよ!^_^;




石ノ森萬画館6



どうか一日も早い再オープンの日が訪れることを!


勿論その際はこのワタスも必ず駆け付けるぜ!(^o^)/

Posted at 2012/11/13 18:44:08 | コメント(0) | トラックバック(0) | 震災関連 | 旅行/地域

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