前回に引き続き建物探訪、今回は滋賀県を訪れました。
山中に現れる石垣。
ここは滋賀県蒲生郡にある繖山です。
山中に現れる観音寺城
伝本丸 の門。
※ すみません、伝平井丸の誤りでした。
ここには現在観音正寺というお寺が建っているのですが、境内から山中に入ると、至るところにこのような石垣が見受けられます。
組まれている石垣だけでなく、崩れて転がり落ちている石などもあちこちに。
寺の裏手には、このような土塁が長々と続いております。最初は尾根と思って歩いていたんですけどねぇ。
長年の時を過ごし、静かに朽ちるのを待っている石垣。
城跡からの眺め。
現在は麓を新幹線が走っております。
この観音寺城、当時としては珍しい(というか、他に類を見ない)石垣を多用した城郭です。琵琶湖の東側にある独立した丘陵、繖山の南半分を使って造られている、規模も傑出したものです。
しかし何故か、防御を考えて作られたというよりもいくつもの屋敷を並べたような造りで、そういう意味でも特殊な城郭です。
この城を攻撃した織田信長がこの石垣群を見て、これを作った技能集団である穴太衆を頼んで造らせたのが、
安土城です。安土城は観音寺城の隣の山に造られています。
大手門跡を抜けてすぐの辺りにある石垣群。この辺りは羽柴秀吉邸跡と伝えられています。
急な石段を登ると見えてくる、黒金門跡。
黒金門をくぐり、二の丸から本丸へ至る部分。今でいう詰所みたいなところだったんでしょうか?
後ろに写っているのは、信長公本廟。
本丸の裏手から石段を登ります。
ここを登ると、
天主閣の礎石。この部分は当時は地下部分に当たります。
天主跡からの眺め。見られる田圃は当時はなく、この辺り一面まで琵琶湖が広がっていました。
大手門へ戻る途中で道を反対に曲がると、摠見寺の跡に出ます。摠見寺は天主が焼失した際に火災を免れたのですが、後に火災を起こして本堂などほとんどを焼失してしまいました。現在は大手門を抜けたあたり、徳川家康邸跡と伝えられる場所に仮本堂が置かれています。
摠見寺二王門。
安土城は長らく放置されていて、手が入ったのが昭和に入ってからと言われています。現在でもすべてが発掘された訳ではなく、予算の関係などもあって 50 年から 100 年後くらいまでかかるとも言われているようです。
さて前回カミングアウトしてしまったので、少々石垣などについて述べたいと思います。
上でも書きましたが、石垣を多用した城郭はこれ以前の時代にはあまり例がなく、石垣を組んだ上に天守を置いたのはこの安土城が始めと言われています(安土城では天主閣と書くようです)。
これを可能にしたのが、先ほども書いた技能集団穴太衆の技。これ以前の石垣は高くすると長く持たなかったようで、
こちらのブログに上げた七尾城のような、低めの石垣をなだらかな角度で何段にも並べたようなものだったと思っています。
琵琶湖を挟んだ向かい側という近距離に穴太衆がいたという偶然が、これ以降の日本の城の形を生み出したと思うのは、僕の勝手な想像でしょうか?
Posted at 2016/07/23 17:11:44 | |
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