2007 年 10 月 7 日、自動二輪ロードレーサーの "Norick" こと
阿部典史選手が交通事故で亡くなりました。
レース中の事故ならいざ知らず、そんな不運が彼の身に降りかかった事が未だに信じられません。
僕がバイクに乗り始めた頃と Norick が頭角を表してきた頃が同時期で、彼の GP デビューから後はリアルタイムで見ていました。彼の死はとても哀しい事ですし、深く哀悼の意を捧げたいと思います。
おそらく僕と同じくらいにバイクに乗り始めたヒトにとってみれば、Norick は人気のあるライダーだったと思います。前年度全日本ロードレース選手権チャンピオンとしてワイルドカードでの GP 1 へのスポット参戦、GP ライダー三人を相手にしてのもの凄い走りで三位争いのさなか転倒リタイアという衝撃的な世界デビュー(当時わずか 18 歳)と、それを見ていた元 GP 1 チャンプのウェイン・レイニーが彼を高く評価して GP 1 へ連れていった事、など、見ているこちら側もわくわくさせられました。(蛇足ですが、現在 MOTO GP 選手のバレンティーノ・ロッシはこのときの Norick の走りに感銘を受け、自ら「ろっしふみ」と名乗っていた時期があります)
ですがその後を振り返ってみれば、この事は幸運ではありましたけど幸福ではなかったのかもしれません。この時点でレイニーとケニー・ロバーツ・シニア、そしてヤマハ陣営の彼への見方は「数年後の GP 1 チャンプを目指せる男」でした。つまり彼の伸びしろ込みで評価していた事になります。
実際はどうであったかというと
1995年 - WGP500ccランキング9位/マルボロ・ヤマハ・ロバーツ
1996年 - WGP500ccランキング7位(日本GP優勝)/マルボロ・ヤマハ・ロバーツ
1997年 - WGP500ccランキング7位/マルボロ・ヤマハ・レイニー
1998年 - WGP500ccランキング6位/マルボロ・ヤマハ・レイニー
1999年 - WGP500ccランキング6位(リオGP優勝)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
2000年 - WGP500ccランキング8位(日本GP優勝)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
2001年 - WGP500ccランキング7位/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
2002年 - MotoGPランキング6位/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
2003年 - MotoGPランキング16位(スポット参戦)
2004年 - MotoGPランキング13位/フォルチュナー・ゴロワーズ・ヤマハ・テック3
と、デビューイヤーと最後の二年以外はほとんど変わらない成績でした。つまり伸びしろはなかったというふうにも見えます。
僕は伸びしろはなかったというより、(残念な事に)彼の才能を伸ばしてくれる人に会えなかったのが彼の不幸であったと思っています。レイニー、ロバーツの二人は彼を高く評価していましたが、この二人には彼の才能を伸ばす事はできなかったのでしょう。
レイニー、ロバーツが指導者としてダメだった訳ではありません。ただ、この二人が指導するには、彼のライディングが独特すぎました。
彼を紹介する際に例外なくいわれるのが、"前輪に荷重させたライディングスタイル" という一言ですが、特徴的なのはそれだけではありません。
コーナリングを見ると一目瞭然なのですけど、今のライダーはバイクをなるべく寝かせないように、自分の身体をバイクよりもコーナーの内側へ寄せます。しかし彼は、膝をバンクセンサーにするためお尻こそバイクの内側へずらしますが上体は立ち気味で、リーンアウトといわれるバイクをより寝かせた状態でコーナーを回っていきます。当然バイクはスライドしていきます。現在後輪を積極的にスライドさせるライダーはおりますし、後輪のスライドをコントロールできないライダーは GP にはおりませんけど、彼は前輪のスライドをもコントロール下に置いたライディングをしていました。ですからレースで彼一人だけ、他人とは違ったラインでコーナーを回っているのがビデオなどで確認できる事と思います。ただしこの走り方はとっても不安定で、元チャンプのミック・ドゥーハンに "最も才能に恵まれているが最もリスキー" と言わしめたほどです。このスタイルはおそらく彼の父でオートレース選手でもある阿部光雄氏の影響と、彼が 15 歳で渡米し修行の場に選んだダートトラック、モトクロスに取り組む中でつくり出したスタイルと思われます。このスタイルを伸ばしてあげられる指導者はロードレース界にはいなかったのでしょうし、それどころかセッティングさえ自分一人で見つけ出すしかなかったのだと思います(彼のセッティングの参考になる人なんてロードレース界には存在しませんから)。
そしてレイニーが監督を退任すると同時に、彼はヤマハのサテライトチームへ飛ばされます。おそらく、これ以上成績は上がらないと値踏みされたのだと思います。与えられたマシンは最新型ではなく一年落ちのマシン。エースの座を奪ったマッシミリアーノ・ビアッジ選手には「アベは時々速い選手だ」とまで言われる始末でした。
しかし次の年も彼のランキングは前年と同じ 6 位。このことから、彼はマシンの性能でレースをしていたのではなく、自分のウデで GP を闘っていたのだと思われます。この業界、一年前のマシンが最新型と同レベルの能力があるなどという事はありませんから。
いっても無駄な仮定の話ですが、彼がいきなり GP 1 の世界に飛び込むのではなく、GP 3 からステップアップしていっていたなら、その過程でセッティングとマシンの能力を引き出す事を学んでいたなら、彼の成績は変わっていたかもしれません。もしかしたらヤマハに久々の栄冠をもたらしたのはホンダから移籍してきたイタリア人ではなく、若く才能にあふれた日本人であったかもしれません。今更何をいっても意味はありませんけど。
2005 年から彼は GP 1 に別れを告げ、スーパーバイク選手権へ戦いの場を移します。しかしそこでも良い成績を残す事はできず(市販車ベースの大排気量 4 ストロークマシンと彼のライディングが合わなかったというヒトもいます)、今年は全日本ロードレース選手権へ戻ってきました。17 歳でチャンプになった場へ(クラスは変わりましたが)、15 年経って戻ってきたのです。彼には屈辱だったのではないでしょうか。
しかし彼は泣き言は一切言わず、レースに挑み続け、第 6 戦を終えて 3 位、最終戦での逆転優勝への目も十分にあるところへ付けていました。10 月 20 日に鈴鹿サーキットでおこなわれる最終戦への意気込みも十分であったところで、この不運な事故が起きてしまいました。
彼は最も人気のあるライダーの一人ではありましたが、最も実力のあるライダーではなかったかもしれません。それでも、バイクにまたがった事のあるヒトならば彼の才能は疑いようもなかったと思いますし、二度と現れない希有なライダーでした。
僕ら自動二輪を愛する全ての者は、彼の死を惜しみます。
Norick、今までありがとう、そしてさようなら。
Posted at 2007/10/09 17:26:37 | |
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