昨日は父の命日であった。父が亡くなったのは自宅がある東京ではなく某潟県の某有名神社の宿舎で脳梗塞を発症してものの、宗教団体の施設は救急車を呼ぶのを忌み嫌い搬送が遅れたものである。もっとも、昭和54年当時は早く搬送しても現在のように効果的な点滴薬があるわけでもなく、いずれにせよ寿命だったのだろう。
いつも父は一人で特急トキに乗りお詣りに行っていたのだが、この時は目の悪い父に代わりワタクシの腹違いの兄がクラウンを運転しR17を某潟県に向かった。
ワタクシが地図を見ていたのだが群馬の五閑の分かれ道を間違って指示してしまったために谷川岳方面に向かってしまった。周囲は真っ暗でクラウンのOKモニターに何やらワーニングも点灯・・・間違えに気づかず暫く走ると進行方向右手から左へバレーボール大の電球色のものが飛んで行った。
兄は見えなかったと言っていたが、助手席のワタクシと後席に居た目の悪いはずの父には謎の物体が見えた。間違えに気づき正規のルートに戻ったが神社に着いたのは深夜で直ぐ就寝。
翌朝、父が小水が出来ず顔が急にむくんだ。本来ならばそこで救急車なのだが本人は大丈夫だとのことでワタクシだけ電車で帰宅(中間登校日があったため)しかし容体は良くなることはなく10日後に他界。
数日間入院した日赤病院に数日前にCTが導入されてということだが、当時は不調の原因が判っても打つ手がなかった。病室に当然のことながらエアコンの類はなく窓から外を見ると屋根に散水して室内の気温上昇を防いでいた。
某潟県で亡くなったので東京まで搬送したのだが、寝台車や霊柩車ではなく結婚式場のシビリアンの最後部席に棺を積みこんでくるという荒業であった。マイクロバスの最後席に収まる幅の棺に体を納めるので足を曲げて押し込んだのはかわいそうに思えたが、それも運命だったのであろう。
現在は新幹線や高速が開通し利便性が高まったが、昔体調不良を押して遠方まで信仰した思いはなんだったのだろうと父親の享年に近づき考える今日この頃であります。
Posted at 2016/08/21 09:43:32 | |
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