中浜万次郎像〔ジョン万次郎の銅像〕(土佐清水市)
足摺岬にある中浜万次郎像〔ジョン万次郎の銅像〕
2006年04月04日
中浜万次郎は、鎖国から開国にゆらぐ激動期の日本歴史のかげで大きな役割を果たし、ついで興った明治文化の開花に著しい貢献をした一人でした。
万次郎は、この足摺岬にほど近い中ノ浜の貧しい漁夫の次男に生まれました。14歳の時出漁中、嵐に遭い遙か南方の無人島、鳥島に吹き流されましたが、半年ののち運良く通りかかったアメリカの捕鯨船John Howland号に救助されました。船長William H.Whitfieldは、万次郎少年の人柄を深く愛して本国につれかえり、3年間正規の学校教育をさずけました。万次郎は期せずしてアメリカにおける日本人留学生第1号となりました。彼は10年におよぶ国外生活中John Mungと呼ばれ英語、航海術、測量術、捕鯨術等を習得し、二度にわたって七つの海を周航しました。
しかし万次郎は既に24歳の青年となっており、祖国とそこに残してきた母親を忘れがたく、意を決して鎖国令下の日本に帰ってきました。
嘉永4(1851)年2月、かの黒船の来航に先立つこと2年でした。このような時機も幸いして、彼は罪の問われなかったばかりか、苗字帯刀を赦され幕府の直参にとりたてられました。
これより中浜万次郎は外国事情の講話やアメリカ航海術書とか公文書の翻訳、英語教授等で多忙な日を送ることになりました。洋式船の操縦や捕鯨にも長じていたので、実地の指導にもあたりました。日本人による初の太平洋横断、咸臨丸の成功のかげには彼のすぐれた航海術が大きな力となっていました。帰国に際して書籍、写真機、ミシン等を持ち帰りましたが、江戸で初めて写真の撮影を行ったのは万次郎だといわれています。
明治2(1869)年には東京大学の前身である開成学校の教授に任ぜられた。44歳の時、すこしく健康をそこねて公的な活動からしりぞき、数奇な運命の生涯を71歳で閉じています。
昭和43(1968)年7月11日、足摺岬に銅像が建立されました。
(現地説明板などより)
H8.9.26
Photo Canon EOS M3
H28.8.27(写真差し替え)
住所: 高知県土佐清水市足摺岬字奥足摺山1349
関連リンク
タグ
地図
関連情報