石川啄木一族の墓(函館市)
函館に縁の深かった石川啄木一族の墓
2015年08月04日
明治の歌壇を飾った石川啄木と函館の縁は深く、啄木が函館に住んだのは明治40(1907)年5月から9月までの短い期間でしたが、この間の生活は苜蓿社(
ぼくしゅくしゃ・文芸結社)同人らの温かい友情に支えられながら、離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいものでした。
「死ぬときは函館で・・・・・」と言わせたほど函館の人と風物をこよなく愛した啄木でしたが、明治45(1912)年4月、病魔におかされて27歳の生涯を東京で閉じました。
大正2(1913)年3月啄木の遺骨は節子未亡人の希望で函館に移されましたが、彼女もまた同年5月彼の後を追うかのようにこの世を去りました。
大正15(1926)年8月、義弟にあたる歌人宮崎郁雨や当時の函館図書館長岡田健蔵の手で現在地に墓碑が建てられ、啄木と妻をはじめ3人の愛児や両親などが、津軽海峡の潮騒を聞きながら永遠の眠りについています。
近くには、「宮崎郁雨と砂山影二の歌碑」があります。
宮崎郁雨(本名、大四郎)は明治18(1885)年に新潟県で生まれた。その後一家は来函し、父親は味噌製造業を営みました。明治39(1906)年に文芸結社苜蓿社ができると、その同人となり、翌明治40(1907)年に啄木が来函してから、郁雨は物心両面にわたって暖かい援助を続け、明治42(1909)年、郁雨は啄木の妻節子の妹ふき子と結婚しました。
郁雨は家業を継ぐかたわら、短歌づくりを続け、昭和37(1962)年に亡くなりました。この歌は没後刊行された「郁雨歌集」の中の「自問自答」に収録されているもので、歌碑は昭和43(1968)年に函館図書裡会が建立しました。
砂山影二(本名中野寅雄)は、大正7(1918)年に函館で創刊された文芸誌「銀の壺」の同人として活躍しました。
石川啄木を深く崇拝し、その短歌に傾倒していたので、彼の作品には啄木の影響がみられます。人生に懐疑的であった影二は、大正10(1921)年、青函連絡船から身を投じ、弱冠20歳の命を絶ちました。
この歌は「坊ちゃんの歌集」の前文にあるもので、歌碑は昭和43(1968)年、海峡評論社と函館図書裡会が建立しました。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H27.7.16
住所: 北海道函館市住吉町
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