野中兼山の一族が幽閉された地である宿毛小学校にある野中兼山遺族幽閉地碑
2016年11月07日
野中兼山は江戸時代、土佐藩(今の高知県全域)の奉行で、藩内の政治のリーダーでした。兼山は新田を開発したり、港を築いたり、お米の値段を調整したり、次々と新しい仕事を実行しました。
宿毛でも、河戸堰や宿毛総曲輪(堤防)を築いたり、沖ノ島や篠山でおきた国境争いを解決しました。しかし、兼山のやり方はとても強力だったので、各地で反発を生み、結局、奉行を辞めて隠居します。そしてその直後、49歳で死去してしまいました。
ところが、それでも反発の声はやみません。兼山の政治が土佐藩の人々を苦しめたといって、兼山の子供たちに、その罪を負わせることになったのです。親の罪が子にも及ぶ時代でした。
兼山の子供八人は宿毛に送られ、今の宿毛小学校のプールの場所に幽閉されました。一番幼い貞四郎は、まだ二歳でした。
竹で囲まれた家での外には出られない生活の間に、子供たちは成長し、そして次々に亡くなりました。四女の婉は、兄、姉を失う悲しみを和歌を詠みます。
つらなりし 梅の立枝 枯れゆけば のこる梢の 涙なりけり
「つらなる梅の立枝が枯れていくと、のこる小枝は涙を流すばかりだ。(梅の立枝…先立つ兄、姉 梢…残された弟や妹)」
約40年という長い長い年月が過ぎ、男子の全員が亡くなると、寛、婉、将の三人の女子だけが、ようやく釈放されました。釈放された三人の内、婉は今の高知市朝倉に移って医者になったということです。この婉の生涯は、高知県出身の大原富枝の小説「婉という女」で紹介され、大きな反響を呼びました。
現在宿毛には、婉と長女米以外の、幽閉された子供たちと母親の墓が残されています。
幽閉地は現在の宿毛小学校のプール付近で、学校敷地内に碑が建立されています
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS M3
H28.8.27
住所: 高知県宿毛市桜町8−5