茨城県常陸太田市は、人口48,000人の(茨城県内では)中堅都市です。
県北の山々の大部分を擁する、自然豊かな市です。
今回、たびたび国道から見えていた物件が気になったので行ってみましょう。
タイトルについては後述しますが、後半はほぼ兎の話です。
ピー〇ーラビッ〇とかの有名なキャラを真似たとか、そういうものではありません。
二階建ての住宅がある。
廃墟と言われてしまう住居の大半は、カーテンが付けたままになっている。
カーデンが取り外されただけで空き家感が一気に出るからアラ不思議。
家の向かいには、犬小屋と…
大型の獣を入れられそうな、小屋というよりは罠のようなものが。
何を入れていたのか。
奥には、厩舎のような雰囲気の建屋。
近寄ってみる。
お邪魔します。タイルがキレイ。
中は壁が無く、柱が剥き出し。
何故か柱が切られている場所もある。
窓でもあったのかな。
残されたものの中で、ちょっと興味を惹くものを見つけた。
三菱電機の高級オーディオ、ダイヤトーンブランドのスピーカー。
1999年に撤退した後、2006年にカーオーディオとして復活。現在はホームオーディオでも復活した。とても買えません。
このDS-25BMKIIは、1979年発売。当時で1台29,000円。
通常の家庭で使われていたものが、オークションにて2台で3,000円前後の相場。
内部にはアッテネーター基盤があり、相当の劣化が懸念される。このコンディションでは、音を出すのは難しいだろう。
幅320x高さ570x奥行294mm、重さ13.5kg(1台あたり)の重量級のスペックは、現在ではオーディオマニアしか購入しないだろう。
ここは何をしていた場所なのか。
車いす、テーブル、パソコン。
残されたものを見てもさっぱり分からない。
野球しようぜ!
一番奥に、この施設で何をしていたのかのヒントになる機械があった。
「高級木工機械フジモックFM-901」の銘板がある。
同じ機械に日高機械の名前もある。石川県の会社で夜間も対応しているらしく、専用の番号が載っている。
日高機械は現在も石川県で存続している会社で、フジモックは有限会社ティーズファクトリー(茨城県)という名前の会社が以前販売していた事がHPに掲載されている。
メーカーと販社の関係なのか、よく分からない。
分かるのは、ここで木工作業を行っていたという事。
内部には他にも多数の
工作機械があった。
これは自動旋盤らしい。自動旋盤ってもっと機械チックな感じのイメージだけど。
エアーコンプレッサー、ベビコンもあった。
なお、ベビコンは日立グループである株式会社日立産機システムの商標だと初めて知った。
夏は嫌だなぁ。
向かいの建屋に移動する。
ここも大分やれており、看板だったと思われるトタンがギシギシ揺れていた。
中は、かつて事務所だったようだ。
鉄線入りのガラスは、鉄線が腐食すると勝手にひび割れる事がある。
これは誰かに投げつけられた気もする。
社員の半田さんのトレー…
ではなく、半田付け関係のトレーのようだ。
他にはダイオード、セナーダイオード、トランジスタ、抵抗等が書いてあった。
なにわろてんねん。
この建屋は、まだ現役であるような、そんな気もする。
ごめん、嘘ついた。
恐らく、雨漏りからこうなってしまったのだろう。
人が住まなくなると、建物の劣化は早く感じる。
とりあえず、探索は終わり。
この敷地の手前、2つの碑と看板が建っている。
兎の供養塔と、菩薩碑。
なお、兎の供養碑は珍しいものではなく、駒ケ根市や郡山市等にも存在する。
立て看板の内容を書き起こしてみる。
兎魂の碑(うこんのひ)
昭和三十四年十一月 長野県から二百羽の種兎を買い入れしました。
昭和三十五年には養兎組合が作られ、導入した種兎を改良し、全国でも大変珍しい、兎の飼養が行われました。
これらの改良種は「里美兎」として生産され、北海道から九州まで広く普及し、里美兎の名声を全国に博しました。
又、この地には実験用の無菌兎としての施設があったことから、記念碑が建てられました。
徳田町会 お宝さがし実行委員会 平成二十七年三月設置
なお、徳田町会徳田マップでは、兎魂の碑を「とこんのひ」と書いてあるが、これは誤りである。
ここ常陸太田市徳田町は、元々は徳田村であったものが明治22年に小里(おさと)村に合併し、昭和30年に里美村に合併、平成16年に常陸太田市に合併された。
どうやらウサギ界では著名な兎のようだが、Googleで「里美兎」を検索しても1件もまともにヒットしない。
創作の美少女キャラに宇佐木里美(うさぎさとみ)ってのが出てきたが…無関係だよね?
本当に「里美兎」は北海道から沖縄まで広く普及して名声を博したのか。
私、気になります!
という事で、常陸太田市立図書館で里美村史(S59年発行)を調べてきました。
以下、同書より引用します。
昭和三十四年十一月、村では長野県畜産課の協力により二〇〇羽の種兎を導入し、次いで秋田県からも種兎を導入した。
三十五年には養兎組合がつくられ、導入した種兎をもとに、これに改良を加えるとともに、全国でもまれな兎の登録事業を進め、これにより改良種の「里美兎」が誕生したのである。
三十六年には、村主催で、第一回種兎共進会が開催された。
里美兎は、種兎としても、北は北海道から南は九州まで分譲を図り、「里美兎」の名声を博したのである。
ここまでは、立て看板とほぼ同じ内容です。
国内ばかりでなく、韓国や台湾等海外へも輸出され、テレビにも放映されたほどであった。
三十八年には大中里平に兎供養塔(注釈)が建てられた。
上記の注釈には「現在は徳田山口に移動している」とあり、以前は大中里平という所にこの供養塔はありました。
これは旧大中村の里平の事で、現在の国道349号と国道461号の交差点近くになり、現在の位置から9km程も離れています。恐らく、今回見た施設が無菌兎と関りがあった事で、石碑の移設候補となったのでしょう。
三十七年十二月には飼養戸数五四〇戸、三三二六羽に達し、販売高も四〇〇万円をこえた。
しかし、その後年々減少し、四十八年一月には、飼養戸数四三戸、一四三羽までになった。
ところが同年四月、埼玉県の株式会社「日本動物」から、不足している実験用兎の飼養を呼びかけられた。
このため、村からも有志が参加して、四十九年六月に、農事法人「日本実験動物生産販売組合」を設立した。
村民はこの組合との契約飼育によって、ニュージーランド・ホワイト種を導入し、飼養するようになった。
将来有望な試みとされたものの、無理な計画から長続きせず、五十三年には倒産に追い込まれてしまった。
この写真、移転後のものなので今回の撮影した箇所と同じはずだけど…あんな立派な家は無かったが…。
10年で全盛期の5%まで減った兎ビジネス。最後に埼玉県に逆転の望みをかけたが…残念な結果に。
しかし、里美兎自体が栄えたのは最初の10年くらいだけで、末期はニュージーランドホワイト種って、里美兎とは別物がメインになっていました。
ちなみにニュージーランドホワイト種って、こんなのね。日本の代表的なウサギとほぼ同じ。
そう、気になるのは「里美兎」がどんな姿をしていたのか。
これは里美村史には載っていませんでした。
丁度、この頃にアンゴラ兎(毛の長い兎)ブームがあり、昭和35年(1960年)は日本のアンゴラ兎の飼育数が72万羽になり、世界一アンゴラ兎を飼育している国となっています。
なお、日本アンゴラ種は兵庫県に30匹程度しか存在しない絶滅寸前の種ですが、品種改良で生み出された人工的な種が絶滅危惧種に指定される事はないようです。
里美兎の姿、私、気になります!(2回目)
常陸太田市役所に問い合わせ、再度常陸太田市立図書館で当時の広報誌を調べました。
ここからは当時の広報誌を参考にしましょう。
当時の広報誌、広報里美の7号を見てみます。
内容は大変面白く、例えば
「メートル法にはなれましたか?今年一月からは計量がメートル法を使う事となっています。尺貫の目盛りの桝を使っていませんか?子供が学校でメートル法を習って家で尺貫では迷ってしまうので、誰もがメートル法実行委員会の積もりで勉強いたしましょう」
なんて、見てるだけでニヤニヤしてしまいます。
さて、そんな広報誌の中に以下のような記述がありました。
【兎を飼いましよう】
昭和三十四年度より新村計画の一環として本村各農家に兎を導入増殖し、飼育管理の改良と販売体制を確立して、本村の地域を家兎生産地帯に推進する計画を樹立しておりますので(中略)兎の用途はハム、ソーセージ、毛皮の利用等に不可欠の存在であり、その需要は累増の傾向をたどっております。
(中略)耕地が狭少で収入の少ない小規模経営、特に牛豚等の飼育に自信の持てぬような農家には重要意義が生じてくるものと思考されます。
村当局においても家兎の導入、飼育方法、飼料対策等、販売体制等研究調査して、近い将来、本村が県北における家兎生産地帯として全国的に名声を発揮しうるよう計画しておりますから、農家の方にはなお一層のご協力をお願いする次第であります。
S34年11月15日発行広報里美7号より引用
導入の理由としては、小規模農家の収益改善が目的である旨が分かります。
今後、兎販売に注力するから皆さん兎を飼って下さい。という内容です。
次号の広報里美8号には写真が載っております。
【販売を目標に兎を殖やそう】
農家の急速なる現金収入増大を目標に長野県から種兎の導入をはかってから二か月となりますが、今まで牡六牝一一九が導入夫々配布されました。
何れも日本白色短毛種として純粋なもので、これから導入されるものと共にさかんな増殖を望んで止みません。
種牡は昭和三十三年長野県畜産共進会で優等賞と農林大臣賞をとったものの仔で七ヶ月で
四.八七五瓩、一貫三〇〇匁になったものです。今年の秋には増殖仔兎の共販を目標にどんどん殖やして下さい。
S35年2月15日発行広報里美8号より引用
順調に農家の方に兎が行き渡っていく様子が分かります。
面白いのは、4.856瓩(kg)と一貫三〇〇匁と、従来の計量法も並行して載せている点です。先ほどのメートル法がまだ馴染んでいないのでしょう。
そして、ここで(厳密にはまだ、里美兎として交配を行う前の)里美兎の姿が掲載されています。
また、別記事にて兎の飼い方について取り扱っています。
そして最下段の編集コメントにて発行が遅い旨を毎回謝っています(笑)
さらに広報里美9号では、1200羽まで繁殖した事が載っており、今後如何に有利に販売するかが急務であり、新販路開拓を研究中との記載があります。
S36年発行の広報里美11号では、大きな見出しで
【もっと兎を飼いましょう】
農家副業対策としての養兎は、導入以来一年半、飛躍的な発展をなし、本村の重要な畜産業となり農家の現金収入源として、クローズアップして参りました。
(中略)全国有数の種兎生産地としての名声を博し、国内各地に種兎分譲が推進されるものと確信いたします。
(中略)里美兎の名声が高まり、受注に応じきれない状態で一躍時代の脚光を浴びてきました。村内で飼育されている羽数は約一万羽、毎月共販されるもの肉兎四百羽、種兎二百羽、この金額は四十万~五十万となっております。
導入以来の総販売金額を見ますと四百万円(物価指数から置き換えて現代の2000万円相当)に及び、来年はこの約三倍になるものと予想されます。
そこで本村の養兎ブームをいかに永続的、かつ、堅実に伸ばしていくかは、組合員各位の双肩にかかっていると思われます。
(中略)今や兎肉の在在はインスタント料理として、あるいは、栄養価のあるハム、ソーセージの特殊肉として重要な価値を有しております。
兎は資金が格安であり、しかも手がるに飼育できるので、あくまで年寄りや婦人子供の副業として、推奨するわけです。
そして里美改良種が日本一の兎になるようみんなで頑張りましょう。兎を飼う場合は、優秀な登録兎を飼いましょう。
S36年10月30日発行広報里美11号より引用
よりはっきりとした里美兎の姿が掲載されています。アンゴラではなく、一般的な兎ですね。
ついに「もっと兎を飼いましょう」と来て、笑ってしまった。
当時はハムやソーセージは兎肉が当たり前だったようです。
「兎肉は粘着性が高く、ソーセージによく用いられる」ようですが、1960年(昭和35年)に2,000t生産された兎肉製品は、1972年(昭和47年)以降は統計上0となっているそうです。
そしてS38年発行の広報里美14号には、海外への輸出について触れています。
7号から三年が経過し、韓国へ輸出したところ好評で礼状が届いたとの事。
親兎の周りと仔兎が囲んでいると思われる写真が掲載されています。
そして、卯年に兎の供養祭を行うという計画を今こそ実行するのだという。
写真の供養塔は現地のものと同じである可能性が高いですが、場所は徳田町ではなく、移転前の大中薬師堂境内に建てられたものの写真です。
確かに寺のような施設の敷地にありますね。
しかし、広報里美14号に登場した後、里美兎の話題はしばらく広報誌に掲載されなくなります。
次に出てくるのは6年後のS44年の24号です。(21号は喪失して未掲載だったので中間で何か記載があった可能性有)
【うさぎをもっとふやしましょう】
養兎事業は、ここ二、三年、殆ど実験用兎として出荷してきましたが、価格の点が業者によりまちまちで、不安定でした。
(中略)その場ですぐ、現金払いの方法をとっており、飼育者の皆さんに、喜ばれております。
なお、全国的に、年々うさぎの需要が増えているにも拘らず、出荷頭数が少なくなってきたので、各地から、購入希望の問い合わせがあります。
過去の「里美うさぎ」の名声を再びあげるよう、今年はもっとうさぎをふやして、有利な、家庭副業としては如何でしょうか。
S44年1月1日発行広報里美24号より引用
この頃には既に過去の名声となってしまっていたようです。
この記載を最後に、里美兎は広報誌に載る事はありません。
結果は里美村史に載っていたように、なし崩しに消えてしまいました。
もう、里美兎は存在しないのでしょう(地元学校のカイウサギとして末裔がいる可能性も?)。
ちなみに同時期に和牛の畜産も導入していますが、こちらは継続しており、牧場が存在します。
飼い方も広報里美12号(S37年)見開き2ページびっしり埋める程でした。
廃墟が無菌兎を飼養していたとすると…
遺されたスピーカーが1979年(S54年)発売、日本動物が倒産したのが1978年(S53年)と考えると、平成前には廃墟になっていた可能性がありますが…。
2,000坪の売地となっており、看板に東京の電話番号が記載されていますが、この不動産屋も存在しないようでした。
今の常陸太田市で、里美兎という兎が居た事をどれだけの方が憶えているのでしょう。
「里美兎」を検索された時に、この記事が歴史を知る手がかりになれば幸いです。