
夜の内に万座峠に向かい、万座高原ホテル様に泊まりました。
既に22時を過ぎていたと思いますが、日曜日にも関わらず大勢の方の車があり、停められないかと思いました。
駐車場がこんな感じの景色なので、既に別世界に来ている感がします。
この万座高原ホテルは、朝食もおいしく、リーズナブルで良いホテルです。
他と変わったところとして、温泉は露天風呂が混浴であるという点が挙げられます。
夜は疲れすぎて意識を失っていたので、朝に入りましたが結構人がいます。
とはいっても、男性はタオルを腰に、女性の方はタオルで隠すか湯浴み着を着る事になっています。私はメガネを取ると何も見えませんが😖
温泉は7種類程ありますが、温度がマチマチで1~2種類のところに集中しているような具合でした😅
ホテルレビューはこのくらいにして、万座道路から毛無峠に向かいます。
あの時のR34GT-Rの青年は元気だろうか。
1.5車線の群馬・長野県道112号線(大前須坂線)を南下します。
今回は6月前という事で、雪がありませんでした。
道中の写真が無く、いきなり到着した写真です。
車よりも、自転車やバイク愛好家の方が来られる事が多いかな。
今はこの辺りです。
ここから群馬・長野県道112号線は通行止め区間に入ります。
なお、毛無峠は長野側と呼ばれる北側です。群馬側(南側)からはすぐに通行止めとなり、森の中で行き止まりです。
※国土地理院地図
毛無峠の駐車場(とは一切書いていないが)からは、かつての索道の跡が見える。
小串鉱山跡の著名な遺構の一つ。
ここで簡単に小串鉱山について解説します。
・1929年(昭和4年)に北海道硫黄株式会社が本格的に硫黄採掘に着手。学校や居住区等を構える。
・1937円(昭和12年)に鉱山付近で大規模な土砂崩れが起き、居住区を直撃し240名が死亡。うち18歳以下が3割以上で、小学校の児童が半分になる痛ましい災害が起こる。
・以降、日本を代表する硫黄鉱山の一つとして、国内硫黄需要の1割を生産。1965年(昭和40年)には1,300人が住まい、最盛期は2,000人を超える人々が暮らしていた。
なお、東洋一と呼ばれた松尾鉱山は、国内需要の3割を生産していた。 ・1971年(昭和46年)、石油精製の過程で硫黄が作られる技術の確立により価値が激減。他の硫黄鉱山と同じく、閉山。
これも有名な、ここから群馬県の看板。
まるで群馬県が砂と緑に囲まれた県であるかのように見える為、グンマー等と揶揄される場合に使われます。
このチェーン、簡単に外れるようでこの先で写真を撮っている方も見かけた事があります。この前に愛車を停めて撮影するのが鉄板ですが、轍が激しく断念。英断だったと思う(笑)もうさ、リアバンパー廃盤だし、これ以上壊したくないんだよ((+_+))
この先、一時期は観光にも使われていたらしいと聞いた事がある。
さて、出発です。
写真にはありませんが、最初のカーブでオフロード車も通れなさそうな溝が出来ています。
鉄板でも敷けば通れそうです。
ひたすら歩きます。
体力の無い私には辛いですが、普通のハイキング程度のコースではあります。
私はハイキングすらついていけないようです。絶望しました。こういうのが好きなのに、最近の悩みです。
帰ってから知りましたが、別ルートもあるらしい。
雪があり、冷たい水が流れています。
九十九折がたくさん見えます。ジロー坂と呼ばれる場所です。
一応、ここも県道112号線です。
硫黄煙害により、背の高い草木に乏しく、晴れてると辛いです。
※元から1,600mの高さに加え、厳しい寒さで育たないという説もあり。
洗い越し対策だったと思しき箇所。
小串鉱山の事務所跡。
安全運転・最徐行とあります。
ビニールの下には「安全運転でお帰りを。再来をお待ちしてます。」と書いてあるように見える。
サイトを拝見すると、特別な事をせずにここまで来られたようだった。これも観光案内だし。
ここまで退避所が1つも無かったが、そこは
万世大路(に行くまでのスキー場整備道)と同じく「出会ってから考える」んだろうな…。
今ここら辺だと思う。
この先、明らかに地形が変わる事が分かる。
この辺りから、坂がきつくなってくる。
特にこの先は、半端ない角度。
地面にも、硫黄っぽいのが。
歩いて1時間。
いきなり一面がこんな感じになります。
白根火山研究会は、ネット上では活動を確認出来なかった。
糞尿や生ごみを置いていけという、一風変わったお願いが書いてある。
そのくらいここの環境が厳しい。
糞尿もゴミも役立つと表現したい言い回しが、時代を感じさせる。
どこまでが植生の結果なのかは分かりませんが、あまり上手く行っていない残骸が目立つ。他の木が植生の結果なら、成功なのかも。
植生試験場を抜けると、本格的に小串鉱山跡が見えます。
右側には鉱山坑跡が見えます。
恐らくここに来た方の多くが、この坑口は入れるのか?という事が気になるはず。
本当に坑口までたどり着くには、ちょっと頑張らないといけないと思います。
当たり前か。塞がっています。
この先、似たような坑口が多数ありますが、当然封鎖してあります。
先を急ぎます。
見ての通り、一面オレンジ色。全体的に激しい高低差があります。
おあつらえ向きにショートカット出来るトンネルがあるので、くぐります。
何の生き物も居ません。涼しいので快適です。
出た瞬間、目の前に壁があるのでちょっとアスレチックです。
デカい壁のある裏に、このトンネルが隠れています。
まるで砂丘のような、足が埋まる砂山が延々と続きます。
手前に橋かな?
いたいた。
ほら、一応みんなのカーライフだからさ、車。
トヨタ・クレスタ。2代目と思われます。
生産期間1984年~1988年です。
閉山後なのは間違いありません。
ナンバー無し。
この付近、昔は道だったので、道端に棄てられたのかも知れません。
へこみは豪雪によるものと思いますが、上から転がってきた説もあるようです。確かにあり得るかも。
潰れたクレスタと言えばGTOです。こちらは5代目ですね。
割と潰れ方が似ている。鬼塚が降ってきたのかも知れない。
木陰で休んでいます。
ODOメーター見てなかった。
他サイト様で見ると99,000キロだそうです。もうすぐ100,000キロだったのに残念。
今回の目的は、とりあえず達成です。
ばいばい。
上空写真にも写っています。
※国土地理院地図
1976年頃の上空写真と比較すると、だいたいこの辺りになります。
昔、労働組合事務所があった付近です。
南にある寄り添った大きめの建物は小中学校です。今はありません。
※国土地理院地図
少しだけ離れた場所に
インパクトブルーの仲間がいた。
一応みんカラだから…。
恐らく、いすゞエルフ2代目エルフ250と思われます。
1968年~1975年製造です。
こいつはいつからいるんだろう。
閉山当時には生産されていたので、当時からいるのかな。
ここら辺まで来ると、遺構が多くなってくる。
これだけ果てしなく砂を見てると、ちょっと嫌になってくる。
書きたい事はたくさんあるのですが…。
文字数制限にも引っかかるので。
ここは東北硫黄湿式精錬所№3跡。
選鉱所跡。
当然閉塞してます。
選鉱所跡。何をどう使ってたかは、正直よく分かりません😖
よく建ってるなぁ。
やたらきれい。
少し小高いので、眺めが良い。
広角レンズって難しい。
水平が分からなくなりそうだけど、ここからの景色好き。
これも閉塞しています。
まだ見て回りたいけど、水も無くなったし暑いし帰り坂道だし、帰ろうっと。
赤〇が現在地、青〇が植生試験の場所です。
今回は中央から東がメインで、西は未探索です。また次回ですね。
こういうの登って帰るのは、体力があるうちじゃないと死んじゃうんだ(*^◯^*)
遠回りするよりも、登るのが近道なんだ(*^◯^*)
植生試験付近まで戻ってきましたハァハァ。
落ちていたレンガに刻印。
植生試験場を通って帰る時に気付いた。
これ、橋じゃん。すげー。渡らないけど…。
あれ、帰り道のつもりが、知らない場所に出た。
ここで、文字数制限に引っかかったので後半に続きます。
もうすぐ終わるけど(笑)
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