以前にもX-JAPANの記事を書いたことがありますが今日は掘り下げて書きます。
で!今日はヒマなので
X-JAPAN特集でも組もうと思います。多分明日も・・・
今でも私のドライブにはX-JAPANの曲が流れます。
(聞いてない?ぇ?ぇ?)
私にとって唯一心から惹かれた(今でも)バンドでもあります。
X-JAPANは私の
音楽に対する全ての原点といっても過言ではありません。
現に当時はTVから流れる音楽やレコードなんて興味がありませんでした。
3歳頃からクラシックピアノをずっとやっていましたが聴くのはほぼクラシック位でしたが、X-JAPANの
YOSHIKIのピアノ旋律を聴いたとき一瞬で魅了されました。
X-JAPANといえば言わずと知らない人はいない日本人では知らない人はいないほど。数々の伝説を打ち立てたバンドでもある。
1982年、千葉県館山市で当時高校生だったYOSHIKIとTOSHIを中心に結成。
アメリカのバンド「KISS」に影響を受けた派手なルックスで日本では後に「
ヴィジュアル系」といわれるロックの先駆者的存在とされ、Janne Da Arc、Dir en grey、ナイトメアなどに影響を与えている。また、
小泉純一郎元総理、レポーターの東海林のり子がファンの一人として知られている。
インディーズ時代は、過激すぎるライブパフォーマンス(ライブで火を噴く、ドラムを壊す等多数)や打ち上げでの暴れっぷり(特に居酒屋破壊)から
横須賀SAVER TIGER、Dementiaと共に関東三大粗大ゴミバンドと称されていた。後に横須賀
SAVER TIGERからHIDE、
DementiaからはTAIJIが加入している。
ライブで
「X」が演奏されると地震が起きる。(サビでファン達が行う「Xジャンプ」は1997年の「THE LAST LIVE」の際には震度3を観測した)
曲調はロックに縛られることもなくロック、メタル、バラード、オーケストラアレンジ、クラシックアレンジ等多岐に渡る楽曲を発表してきた。
2014年再結成時横浜アリーナでX-JAPANのライブチケットは1秒で即完売しプラチナチケット化した。
そしてついに2014年10月11日、念願のアメリカ・マディソンスクエアーガーデン公演を開催した。公演は、マディソンスクエアーガーデンのアジア単独アーティストとして最高記録の1万5千人の動員を達成。
世界で活躍する数々のビックアーテストがパフォーマンスしてきたこの会場で、X-JAPANがまた新たな記録を打ち立てた。また圧倒されるオリジナルな世界観と、劇的なパフォーマンスも新たな伝説を刻む奇跡のライブとなり、今後の音楽シーンで永遠に語り継がれるだろう。
☆いまさら知らない人はいないと思うけどメンバー紹介☆
YOSHIKI:Drums&Piano(X-JAPANのリーダー
悪の元凶でもある)
TOSHI:Vocal(洗脳されたとか言ってはいけない)
HIDE:Guitar(
享年33歳日本は惜しい人亡くした・・・)
PATA:Guitar(速弾の鬼、ライブ中に野球観戦しながら速弾きをこなす変態)
TAIJI:Bass(
享年45歳YOSHIKIと仲が悪かったらしい)
HEATH:Bass(TAIJIが抜けた後に参加)
SUGIZO:Guitar&Violin(主に今は亡きHIDEの代わりのパートを務める)
特に激しいハイスピードレンジの曲から美しい旋律を奏でるバラードまで作成できるYOSHIKIは何百年に1人現れるか現れないかの類稀な才能のミュージシャンである。
またX-JAPANは1人1人に個性のあるバンドとしても有名です。
バンドと言えばそれまではほぼリーダーしか注目を集めるような出方しかしませんがX-JAPANは1人1人が個性を放ち、ソロでもユニットを持っていました。
メンバー紹介
TOSHI:ボーカルのToshiは今までのロックバンドのスタイルの
デスボイスではなく超に超が付く透き通ったハイトーンボイスの持ち主。当時のバンド少年がXの楽曲をコピーする際に最も苦労したのが、ツーバスドコドコを可能とするドラマーでもなければ圧倒的技量を持つギタリストでもなく、
Toshiと同じ声域を持つボーカル探しであったのは言うまでも無い。ちなみに、ヴォーカリストとしての技量が一番有名ではあるが、実はYOSHIKIばりのマルチプレイヤーでもあり、
ピアノ、ギターのほか、ドラムを叩くこともできる。ピアノやギターは時折ソロライブでも見られるが、ドラムはパートチェンジバンドの時やX-JAPANのライブでYOSHIKIが煽りを代わった時にプレイする様子を見ることができる。
また解散ライブの時は3時間にもわたるライブの中1度も声を枯らす事無く歌い続けたまさに超人。
間違っても本人には洗脳された人とか言ってはいけない。洗脳期間中も毎日ドサ周りで歌い続けていたため、X-JAPAN再結成後も変わらぬハイトーンボイスを維持できたという意見もある。
良くも悪くも洗脳によってTOSHIは声を失うことは無かったのである。そしてこれからもずっと歌い続けて欲しい。我らのX-JAPANのボーカリストとして。日本が世界に誇れるバンドのボーカルとして・・・
HIDE:通称
赤髪のエイリアン。恐ろしいまでの酒豪でもある。YOSHIKIに次いで特にHIDEは当時異常とも思える人気だった。ライブにはHIDEのコスプレをした人が多数いたくらい。
HIDEはギタリストだけではなくメンバーのファッションや髪型も提案していたという。元美容師と言う事もあり、X-JAPANが打ち出した
【ビジュアルショック】というイメージ、ビジュアルはHIDEが作り上げたと言っても過言ではない。ファッションやPVに至るまでこだわりは強く、センスを感じる。
また、普段の姿もプロモーションと言う意識の高さがインディーズ時代からもっていたとか。
HIDEには徹底的に人に魅せるという信念があったようです。X-JAPAN解散後も音楽シーンを率先していました。また孤児や戦争被害国への募金活動等も積極的に行っていた。HIDEはバンドマンたちとの交流がとても多く、後輩の面倒見も良かったことで有名です。
とてもロックミュージシャンとは思えない心の優しい性格の人物でもあることが伺えます。
X-JAPANとして活動するときは『
HIDE』ソロとして活動するときは『
hide』と名前を使い分けている。
hideとも親交があった音楽評論家の市川哲史氏は、
「ヴィジュアル系の時代はhideで始まりhideで終わった」とも語っている。
単なるギタリストではなく彼もまた作詞作曲まで手がけていたマルチプレイヤーである。自分のファンであるという病気の女の子のために曲(MISERY)を書いたこともある。
一切の妥協を許さず自分の音楽性を追求したある意味YOSHIKIと同等の音楽性の持ち主。享年33歳。私もHIDEさんの大ファンでしたが今は私の方が年上になってしまいました。
自殺という説が強いが、前日のラジオで今後の予定を発表等してたことから自分で進んで自殺したのでは無いと思われる。多分原因は極度のアルコール摂取で自分が分からなくなり自殺になってしまったともいう。当時の話では泥酔状態で睡眠中に嘔吐し酸欠で亡くなったという説もある。
まだインターネットも一般普及していなかったので真相は不明。
また、HIDEが亡くなったニュースを見て
熱狂的なHIDEのファン達も同じ方法で多数自殺を図ったという説がある。死してなおファンを増やし続けている伝説的な人物。HIDEの音楽性に惹き付けられファンになる若者も少なくない。日本の音楽界においてそれだけの偉人なのである。
その音楽性は死後15年以上経過しても色あせることは無い。むしろ常に時代の最先端にHIDEは今も居続けるのかもしれない。今聴いてもとても15年前の作品とは思えないメロディアスでPOPな曲ばかりである。
HIDEは日本のロック界・・・音楽界から忘れられることは永遠の存在になるだろう。
もしも・・・という言葉を使うのは嫌いだが、もしもHIDEがまだ生きていたら
日本の音楽シーンは確実に今とは異なっていただろう。その位の音楽性とカリスマ性を持ち合わせていた。
時代は過ぎYOUTUBE等の動画サイトがある今はいつでも生きているHIDEを見ることができる。
HIDEはずっとずっと私達の側に居てくれているのだ。
私達が忘れない限りHIDEはずっと存在し、笑顔を見続ける事ができるだろう。
PATA:X-JAPANのもう1人のギタリストはPATA(
通称石塚先生)。ライブ中でも常に野球中継を見てるという変態である。特に
ジャイアンツが負けた後は演奏が荒くなり最悪勝手に帰ってしまうというとんでもないお方である。それもある意味ロックなのか?しかしジャイアンツが勝つともの凄くハイテンションになり
火を噴くと言った芸当をすることがある。X-JAPAN解散後はX時代から仲が良かったhideのサポートメンバーとしても活動する。
初期のXでは髪型が異常なほど奇抜でインパクト絶大であった。髪を下ろしてからはおとなしそうな優しいお兄さん。
ここでは少々PATA(石塚先生)伝説を紹介しよう。
・個人事務所の名前が『
OFFICE GIANTS』
・巨人の試合結果次第でその日の機嫌が180度変わってしまうので、負けた日には「今日はそっとしておこう」という暗黙のルールがあった。
・PATAのプレイが輝いているときは大抵巨人が大勝した時。逆にプレイが荒いときはボロ負けした後。
・東京ドーム公演前は一塁側ベンチに赴き、TAIJI曰く「この上ない幸福に満ち溢れた顔」で「ここが桑田の座った席かな?」と尻を擦り付けていた。また、ドームではToshiと共にキャッチボールしていた。しかも、ライブアンコールではなぜかジャイアンツのユニフォームを着て戻ってきた。
・93年の年末公演では大量の巨人グッズ共にベンチに降臨しているPATAが映像で確認できる。
・ちなみに、初東京ドームのゲネプロの日に巨人戦があり、「もし勝てば機材の搬入が遅れる」とスタッフが心配する中、巨人が負けて時間通りになったことで「(間に合って)よかったですね」とつぶやいたスタッフに対し
「バカ野郎! 巨人が負けて何がいいんだ!!」と普段では考えられないほど激怒して当り散らしていた。この日(後述する)は
カレーが辛くてYOSHIKIが帰った日でもあり、
その場のXスタッフを恐怖のどん底に叩き落したのは言うまでもない。
・レコーディングでX JAPANメンバー全員が渡米した際、国際電話や当時まだ珍しかったFAXで巨人の勝敗を試合のたびに友人に送ってもらっていた。
・hideのソロライブでスクリーンにジャイアンツが負けたときの試合が流され、怒ってステージ奥に引っ込んでいじけてビールを飲み始めた。
一応、戻ってきたものの、カメラに蹴りをお見舞いしたりと、いつもの様子とはまったく異なる暴れん坊ぶりが見られた。
・一方で、巨人が優勝した時にはステージ上で
ダンスまで披露する超ごきげんさんぶりを発揮した。
・1996年のhideのソロツアーで
ステージ袖にテレビを置いて試合結果を随時確認しながら演奏を行っていた。仕事中だというのに、そんなに巨人戦が大事か!?
・音楽雑誌にて、ソロでもXでも
リリース予定がまるで無いという時期だったにも関わらず、ジャイアンツの話をするためだけに登場。
プロミュージシャンとして本当にそれでいいのか!?
・1998年のテレビ出演で「ジャイアンツファンは保守的で、ロッカーでは無いのでしょうか?」という質問に対し
「違います! ジャイアンツファンこそ真のロッカーだ!!」という
謎の名言を産み出した石塚先生。
・X復活で開催されたトークライブに真っ先に飛んだ質問がなっちゃんなる女の子からの「今も巨人ファン?」で、待ってましたとばかりに
「間違いない!」と即答し、それまで微動だにしなかった様子から一転生き生きとした表情で
自分たちのライブが原因で前年優勝のジャイアンツが敵地(神宮球場)での開幕になったことを真剣かつ深刻に語っていた。ドームより神宮に行きたいとも。
YOSHIKIは「余計な質問すんなっ」とやや不機嫌だった。
・ ご覧のように巨人絡み以外では至って温厚なPATAだが、1回だけマジギレした事があるという。
現場に居合わせたHEATH曰く「ロスである夜HIDEとPATAとHEATH&スタッフ数名でオークッドに出かけた帰り車でHIDEが「森に突っ込み、崖を登る危険な運転」をした時は、
「松本ぉ(HIDEの本名)、オマエいい加減にしろ!!てめぇ、本当に止まれ(激怒)」
と一度だけ
マジギレして怒鳴り散らし、HIDEも流石に大人しくなっていたとのこと。
・1994年4月14日(市川哲史の酒飲み日記参照)酔っぱらったHIDEがライターの市川哲史と20分にも渡る殴り合いの喧嘩を起こした時でも、
電柱の影から乱闘をそっと二人を見守り(?)2人が仲直りして「飲み直そう」と言った瞬間
「遅かったな、待ってたぞ~」と言ってPATAが現れた。
市川氏曰く、
「止めろよ、喧嘩を。」と思ったとか。
そんな事もあってか市川氏がPATAに「ロック界の三年寝太郎」、「究極の傍観者」というあだ名を付けた。
・上記の様に全てがHIDE絡みという事からも公私共々仲が良く、その
HIDEの死は堪えたらしく、一時期はギタリストとして続けていくのを悩んだほどだという。
2006年の市川氏のインタビューでも
「あいつの(未発表)曲を誰かに弾かれるのは癪に障る(だから参加している)」
「あいつの曲(hideのソロ曲)弾けない曲ないっすよ」
「俺のギターの相方はHIDEだけ」
と明言している。
PATAもまた数々の謎の伝説を打ち立てたメンバーの1人である。
X-JAPANって恐い。
TAIJI:ベーシストとしての腕は評価が高い。初期のXの活動においてYOSHIKIの提供するメロディーラインを美しく引き出した。しかし
YOSHIKIと決裂してXを引退。後にHEATHがベースを担当することになる。しかし
TAIJIの死後、HIDEと同様正式メンバーと数えられているような形式がX-JAPANオフィシャルサイト等でとられている。
HEATH:1990年Xのツアー打ち上げに参加し、メンバーと初対面する。その時に
HIDEに冗談交じりに「東京に来ないか」と言われ即上京。家族とは「ちょっと東京に行ってくる」と軽いノリで別れたという。しかし
HIDEは本気で上京するとは思っていなかったようである。
その後media youth等に所属しエクスタシーレコード(YOSHIKIの興したインディーズレーベル)の一員となる。
1992年に前任者TAIJIの脱退によりXに加入 (
同年バンド名がX JAPANに改名された)。
X-JAPANとしての初ライブからソロコーナーを行う等TAIJIとは違った形でX-JAPANを支えた。
何気に名探偵コナンのエンディングテーマ(迷宮のラヴァーズ)を歌ってたりするのはマイナー情報である。
SUGIZO:ヴァイオリンが弾ける。ついでにギターも弾ける。(所詮HIDEの代役)
YOSHIKI:X-JAPANを結成し数々の楽曲を手がけてきた天才である。
また数々の伝説を残し後世に伝えられている。
もの凄くキレやすく若いときは手の付けらない不良でもあった。しかしどんなに道が曲がろうがずっと音楽(特にピアノ)には不良時代もずっと関わってきた。また恐ろしい程のドラムのテクニックを持っている。
非常に優秀なピアニストでもあり同時に狂気のドラマーでもある。
YOSHIKIはドラムの配置に異常なまでのこだわりを持ち、そのセッティングは1mm単位で調整してるという。大きく首を振りヘッドハンティングし荒ぶりながらドラムを叩く姿は観る者全てを惹き付ける。またドラムのスティックもYOSHIKIオリジナルである。
現在はロサンゼルスに住み、主にハリウッド映画の音楽作成等勢力的に活動している。世界各国から依頼がまい込むため現在でも死ぬほど忙しいようだ。
また
ピアニストは手に傷をつけてはいけないという理由から料理は一切しない。
そして
デビュー当時から現在(50歳近い)まで顔が全く変わらないという超人でもある。人は歳とともにシワやたるみが出てくるものだがYOSHIKIだけは変わらない・・・
なぜだ!
バラエティ番組が突撃訪問すると必ず機嫌が悪くなる。
またすぐにキレるのは現在でも変わっていないようだ。
ここからは数々の
YOSHIKI伝説の
ほんの一部を紹介する。
・1999年11月22日皇居前広場において、国民主催による「天皇陛下御即位10年をお祝いする国民祭典」が雨の中挙行された。各界の著名人が多数参加し、国民とともに天皇皇后両陛下を祝った。
式典では、天皇陛下御即位10年奉祝曲「anniversary」が御前演奏された。
作曲はYOSHIKIが担当し、式典では川本統の指揮のもとオーケストラとともにピアノ伴奏をおこなった。美しい音色と時にYOSHIKIならではの激しい音色が流れるように調和し、激動の平成10年間を表現。
YOSHIKIのもとに正式な作曲の依頼が舞い込んできたのは、式典の1ヶ月前。短い期間で作曲・編曲・練習をこなした。
当初は20分余りの曲を想定していたが、天皇皇后両陛下が立った状態のまま奉祝曲をお聞きになると聞いて、7分にまで編曲し直し式典を迎えた。
後に平沼赳夫氏に
「失敗したら切腹しなければならないと思っていた」と語るなど、この演奏への決意は並々ならぬものであったとされる。
・またX-JAPANのファンはロックバンドの中でも特に礼儀正しいと言われる。
どんなにざわついていてもYOSHIKIが1言
『ちょっと黙って』っと言い放つと会場は静寂に包まれる。これはYOSHIKIに逆らったら
機嫌を損ねて帰ってしまう危険性があるからである。
・明石家さんまに抱ける。と言われた事がある。
・シャワーが熱かった事件。名カメラマンである篠山紀信による写真撮影にで、撮影前はシャワーに入る主義であるYOSHIKIが予定通りシャワーを浴びる事になったまでは良かったが、そのシャワーから熱湯しか出ず、
どれだけ頑張って調整しても熱湯しか出なかった為キレて帰った。
・バラエティ番組に出演すると
なぜか王様が座るような玉座が用意される。
・来日するたびに
『YOSHIKI緊急来日』と報道されるのは当たり前。
・1994年に奈良の東大寺で行われたイベント「AONIYOSHI」にてX-JAPANをはじめ、布袋寅泰(withマイケル・ケイメン)、ロジャー・テイラー(QUEEN)、BON JOVI等が出演。このイベントでYOSHIKIは遅刻したのにも関らず、悪びれた様子も無く謝罪すらしなかった為に布袋が激怒。布袋はその場で「Xってなんなんだよ!」と発言した事でYOSHIKIが激怒し、一触即発な雰囲気になったものの、YOSHIKIは布袋のボディガードに押さえ込まれ、YOSHIKIの代わりに布袋を尊敬していたhideが謝罪することになった。しかし、YOSHIKIの怒りは収まらず、
布袋の宿泊先であるホテルに酔っ払った状態で乗り込み、「布袋はどこだ!なにが布袋だよ!」と怒鳴りだし暴れた。結局hideが再び謝罪する事で事態は収拾した。
余談であるが
YOSHIKIは氷室京介とは仲が良く、再結成後のXの海外公演で氷室がYOSHIKIの楽屋に遊びに来たと言うエピソードがある。
・周囲のバンドが真面目だった事や、一部の評論家に
「髪を黒くしてちゃんとした格好をしろ!」と言われた事でYOSHIKIは
「更にムチャクチャにしてやる!」と決意したは良いが、これにより
Toshi以外のメンバーが次々と脱退。
YOSHIKIによればインディーズ時代、まるで評論家に褒められるのが目的のように、一生懸命真面目に音楽をやる事が正しいと言う学校のような雰囲気が反発精神を高める原因になったとの事。
特に「BURRN!」誌には物凄く叩かれていた事は当時を知るヘヴィメタルファンの間でも有名なエピソードである。
・2002年には、愛知万博の公式イメージソング「I'll Be your love」の作曲を、日本国際博覧会協会からの依頼で行った。2005年の愛知万博開会式においては、参加各国、
国際機関の紹介がなされる中、ステージでオーケストラ演奏の指揮を務めた。
当時は小泉政権であり、X-JAPANのファンを自称する
小泉首相も会場でYOSHIKIの指揮を見ていた。
・居酒屋でヤクザに向かって
「気合入れて生きろ!」などとさんざん説教した後本人は眠ってしまい、気が付いたらみんな帰っていた。
・和田アキ子の家で酒を飲んでいたときに、YOSHIKIがドンペリしか飲まないのを知った和田アキ子はどうしてもYOSHIKIにいいちこを飲ませたいらしく、なんとか飲ませようとした。
そしたら、
YOSHIKIがキレて大理石のテーブルをひっくり返そうとしたがひっくり返らず肩を脱臼した。
・オルガスムで前に出たとき、
HIDEのエフェクター関係を無茶苦茶にした。その後ドラム叩いている途中に仕返しをされた。
・ツアー中にホテルで
「部屋が狭いっ!」と怒りだし、
TAIJIと一緒にテレビ等の部屋の備品を部屋の窓から片っ端から投げ捨てた。おかげでXは
日本ホテル協会のブラックリストに載ってしまった。
・
アメリカのハイウェイで飲酒運転の挙げ句、愛車フェラーリで蛇行運転・速度超過・クラクションの鳴らし過ぎで警察との激しいカーチェイスをくり広げたが結局捕まってしまった。
・仕事で金沢にいたとき、絶不調だったYOSHIKIは耐え切れずに演奏をやらずにタクシーで
12時間かけて東京まで帰ってきてしまった。しかも、マネージャーもタクシーで追いかけきた。そのときのタクシー代はしめて
60万円にもなる。
・小学生の頃、トラとライオンどっちが強いかを研究したところ、1対1ならトラの方が強いと判明した為、トラを好きになった。
トラを飼うのが夢。
・中3か高校のときに“将来の目標”というアンケートがあり、
『ロック・スターになりたい』と真面目に書いたら、
職員室に呼び出されて怒られた。
・高校時代にヤマハ主催のコンテストにて、
ドラムで千葉県の最優秀賞(ベスト・ドラマー賞)を受賞した。
・初めて買ったレコードは小3のときに買ったベートーヴェンとシューベルトのカップリングのLP。
・ライヴでまったりしてたメンバーとスタッフを驚かせる為に
1曲目が終わったらドラムを破壊して帰ってしまった。
・チョコが大好きだったYOSHIKIはおばあちゃんが親戚のために買ってきた
マカデミアナッツ入りのチョコを片っ端から食べて気を失い、救急車で運ばれた。そのため、小学生の間はチョコを食べさせてもらえなかった。ちなみに今でも食べないように努力中なので、
バレンタインにYOSHIKIへプレゼントを渡すときは別のモノを用意するように。チョコを渡すと多分キレる。
・初めて行ったライヴは小5のときに母親と一緒に行ったKISSの武道館公演。
・TOSHIのオールナイトニッポンに
酔っ払ってHIDEと一緒に乱入。YOSHIKIは火吹きをしたが、その様子もしっかり放送された。
・初の東京ドーム公演の前日に好きなカレー屋の
カレーがものすごく辛かったので頭にきてテーブルをひっくり返し、リハーサルもしないで帰ってしまった(いつもの味じゃなかったらしい)。YOSHIKIの好きなカレーは、六本木にあるモティという店のナブラタンカレー。
その場にいたToshiもそのカレーを食したそうで、一口食べた瞬間汗が止まらなかったとか。
・『Es Durのピアノ線』を30時間以上寝ないで録っていてやっと満足のいくものが録れたと思ったら外国人のエンジニアに言葉が伝わらず、そのテイクを消されてしまった。
そのとき、絶対に英語を話せるようになってやると心に決めた。今では英語はマスターしており、フランス語の勉強を始めている。
・
ラーメンが大好きで、中でもしょうゆ味が好き。あっさりしたのでもこってりしたのでもOKなのだが、具はシンプルなのがいいらしい。インスタントではチャルメラが好き。(TOSHIは札幌一番塩ラーメン)
・
左手でも箸を使うことが出来る。宴会の場では両手で箸を使ったりする。
・中学時代に母に勉強さえ出来ればなにをしてもいいと言われたYOSHIKIは髪を赤く染めて登校、バリカンを持った先生に街中追い掛け回されたあげく捕まり丸坊主にされた。
のちにYOSHIKIは勉強さえ出来ればいいなんて嘘だと言い放っている。
・
卒業式の日にお礼参りと称して木刀を持って職員室に殴りこんだ。
・高校では
開校以来2番目のワルといわれた。それでも毎週末、音楽の勉強に東京まで一人で行っていた。
・インディーズ時代から酒癖の悪さは有名でグラスを百何個割ったとか、店一軒ぶっ壊したとか、インディーズ時代は居酒屋で暴れる事で有名であり、一部の居酒屋では
「YOSHIKI立ち入り禁止」の店も出てきており関係ないメタルバンドがライブ後の打ち上げで居酒屋に行くたびに
「その中にYOSHIKIという方はいませんよね?」とチェックされた事もあった。
上記の居酒屋で暴れたりするのが原因で、
インディーズ時代の収入は殆どが破壊した居酒屋の弁償金で消えている。
これが慢性的に続き過ぎたが為にToshiの不満が爆発し、
「もうこういうのはやめようよ!」と怒られてしまったとの事である。
・YOSHIKIは
禁煙したことがあるが、禁煙したためにストレスが溜まってしまい、
回りのスタッフに当たり散らしていたのでスタッフから禁煙をやめて欲しいという意見が出た。そういう訳で現在も喫煙中。
・YOSHIKIとTOSHIの母校「安房(あわ)高校」が、2008年春のセンバツ甲子園に初出場した際、全校生徒の約800人が応援に行けるよう、
約1000万円の寄付を母校に贈った。YOSHIKI自身も甲子園に乗り込み、試合観戦する予定だったが、当日が開幕日ということもあり、
警備上の理由から訪問を自粛するよう高野連に説得された。
等、上記に上げたのはごく一部である。
YOSHIKIがどれだけの狂気の人かこれだけでもご理解いただけたかと思う。X-JAPANって恐い。
この先X-JAPANの曲を貼り付けていこうかと思ったけどX時代からX-JAPANの曲はオリジナル、アレンジを含めると
数百曲を悠に越えるのでやめておく。
いや・・・やれって言うならやるけど・・・。
X-JAPANデビュー当時

う~ん・・・どうみても恐いです。
↓そして時は流れ現在↓

落ち着きましたけどカッコイイですね。
YOSHIKIの歴史写真
X結成時のYOSHIKI

恐いですね。街中歩いてたら道を譲ります
時代は流れ↓
そして中期X-JAPAN

美しいですね。女性と見間違えるような美しさです。
そして現在↓

かなり落ち着いてますがオシャレでカッコイイですね。
どうみても50歳前とは思えない美貌です。
HIDEのギターでピンクスパイダーを弾くYOSHIKI(レア画像)
X-JAPANラストライブ(暇な方はどうぞ)
《SetList》
00:57 - Amethyst
07:09 - Rusty Nail
14:51 - WEEK END
20:59 - SCARS
30:29 - DAHLIA
38:29 - Drum Break
40:57 - DRAIN
47:18 - Piano Solo
53:25 - CRUCIFY MY LOVE
1:00:11 - Longing ~togireta melody~ / Longing ~跡切れたmelody~
1:07:52 - Kurenai / 紅
1:15:47 - Orgasm
1:58:43 - Drum Solo
2:12:53 - Forever Love
2:23:27 - PROLOGUE(~WORLD ANTHEM)
2:26:13 - X
2:42:58 - ENDLESS RAIN
3:00:15 - Say Anything (SE)
3:11:21 - THE LAST SONG
3:24:54 - Tears (SE)
3:35:22 - UNFINISHED (SE)
Xファンのお友達も大募集中!
っというような今日はX-JAPAN特集でした。( ´Д`)ノ~バイバイ