小学生の頃から毎月、
何かしらの鉄道系雑誌を
読みふけってきたのですが、
マレーシアに来てからも、某世界的通販会社の国際便で日本から直送したり、本社事業本部止めにした個人用雑誌を、総務の妙齢のお姉さまのご厚意で車内便に紛れさせて、現地法人に送ってもらったりしています。
(私権乱用ギリギリの範囲か…。)
これは、鉄道ジャーナル社発行の月刊誌
『鉄道ジャーナル』
グラフィックの綺麗さと、鉄道総合情報誌を標榜するだけあっての、車両から路線、観光、各鉄道会社の経営状況から都市再生と地方創成に至るまで、豊富な話題と情報量が魅力。
小学校4年生の時から48年間毎月、1号も欠かさず買い続けています。
『鉄道ジャーナル』2022年2月号の目次。
特集は「アフターコロナの新しい鉄道とは」
これを眺めるだけでも、今の鉄道が抱える複雑かつ深刻な問題が伝わってきますね...。
元国鉄九州総局長、初代JR九州社長石井幸孝氏の、フリーゲージトレインを再考する記事、「長崎新幹線とフリーゲージ車両」も気になります。
こちらも鉄道雑誌の老舗、株式会社電気車研究会発行の月刊誌
『鉄道ピクトリアル』
カラー写真は少ないものの、学会誌のような体裁で、ち密な取材と調査に裏付けられた、技術的かつ歴史的な話題に関する細かい情報が魅力。
毎号は買わず、興味ある特集記事のときに購入しています。
2022年1月号の特集は、
「思い出のキハ20系」
『鉄道ピクトリアル』2022年1月号の目次です。
国鉄・私鉄のキハ20系気動車にまつわる裏表の話題が徹底的に網羅されています。
こちらにも「キハ20系開発の頃」と題して石井幸孝氏が投稿されています。
日本の鉄道雑誌では最も早く創刊され、今も発行され続ける歴史を持つ月刊誌、
『鉄道模型趣味』
創刊は戦後間もない1946年。
1号と2号はガリ版刷りの同人誌のようだったそうです。
HOゲージの車両づくりに没頭していた中学、高校の頃購入していましたが、今回惹かれるものがあり、ほぼ40年ぶりに思い立って購入。
『鉄道模型趣味』通称TMSの目次です。
心惹かれたその記事とは、
「島原鉄道の気動車4選」
以前は九州島原半島の東側4分の3周、諫早から加津佐までの75kmを営業していた島原鉄道。1970年代まで、キハ55系やキハ20系の自車発注車が諫早から国鉄に乗り入れ、長崎から来る急行「いなさ」などに連結されて博多まで直通していたのですが、この直通車両に関する資料が少ないと思っていたところ、それをNゲージ車両で模型化したという記事に吸い寄せられてしまいました。
しかし、表紙イメージから記事構成のスタイルまで、40年前とほとんど変わらないのが凄い!?
そして、雑誌と呼ぶのは少し違いますが、情報誌の最たるもの「時刻表」。
復刻版が出ていて、まだ在庫があるということで購入したのが、JRの前身「日本国有鉄道」略して「国鉄」の、伝説のダイヤ改正、いわゆる「ヨンサントオ」と呼ばれた昭和43年10月ダイヤ改正に合わせて発行された、
『日本交通公社の時刻表1968年10月号』の復刻版。
日本交通公社は英語で「Japan Treble Bureau」、今のJTBです。
外装には緑系のカバーが掛けられているのですが、
それを外すと当時の表紙が現れます。
昭和43年10月のダイヤ改正「ヨンサントオ」は、全国に特急列車を増発し、未だ東京、新大阪間だけだった新幹線と接続させて、日本列島を高速列車ネットワークで結ぶという画期的なダイヤ改正で、485系や583系電車、181系気動車など、国鉄時代の代表的な新性能車両が一気に登場しました。
写真は「ヨンサントオ」の前年にデビューした、世界初の昼夜兼行寝台電車581系の改良型583系。581系が直流1500Vと交流20000V/60Hz用で西日本向けだったのに対して、583系は整流器が交流50Hz/60Hz共用となり、「ヨンサントオ」で上野-青森間「はつかり」「はくつる」として東北地方にも進出しました。
背表紙には「日本交通公社」の文字。
ちなみに、JRの大型時刻表にはJTB発行のほか、国鉄時代は弘済出版社が発行し、今はJR標準の交通新聞社発行のものがあります。
国鉄時代は日本交通公社の時刻表が標準で、みどりの窓口など業務用時刻表の背表紙には「日本交通公社」ではなく「日本国有鉄道」と書かれていました。
裏表紙は広告。
このときはキリンラガーの瓶ビールだったのですね。
新大阪で新幹線に接続する、東海道・山陽本線の夜のページを開くと、
「月光」や「明星」など581系寝台特急電車が、順に新大阪から九州に向けて出発。
それを追うように、山陽、山陰、瀬戸方面の10系客車寝台急行が次々と発車していきます。
その合間に北陸線からの特急「雷鳥」が、米原から終着大阪を目指して東海道本線を走る。湖西線の開業は1972年ですから、この頃の北陸線列車は、まだ全て米原経由でした。
これは京都鉄道博物館のクハ581「月光」とクハ489「雷鳥」の展示です。
「ヨンサントオ」以降、こうした出会いが日常的に新大阪や大阪で繰り広げられていたのですね。
次に東京始発、東海道本線下りの、夕方から夜にかけてのページを開くと、
当時は20系、九州方面の寝台特急ブルートレイン「富士」「さくら」「あさかぜ」等が次々と発車していったあとは、10系寝台急行の世界へ。
当時まだ急行だった列車群は、山陰方面「出雲」、今は廃止された「紀伊」、四国連絡「瀬戸」、山陽方面「安芸」、そして大阪方面「銀河」と続きます。
「出雲」と「瀬戸」は、今や最後の定期寝台列車となった特急「サンライズ瀬戸・出雲」の前身ですね。
「紀伊」と「銀河」を除き、これらの急行は食堂車を連結しているのですが、東京19:55発35列車 急行「瀬戸1号」と、東京20:45発39列車 急行「瀬戸2号」を見比べてみると、「瀬戸2号」や他の寝台急行は食堂車マークの『ナイフとフォーク』なのに対し、「瀬戸1号」だけは、軽食堂ビュッフェを示す『コーヒーカップ』マーク、これは?
巻末の「列車編成表」を見てみると?
当時の列車号数は『下り奇数、上り偶数』ではなく、下りも上りも連番でした。
下り「瀬戸1号」上り「2号」も、下り「瀬戸2号」上り「2号」も、どちらも6号車が食堂車を示す「食」となっていて、下り「瀬戸2号」上り「1号」にビュッフェの表記はありません。
下り「瀬戸1号上り「2号」の食堂車は、10系客車として設計されるも、旧車客車の台枠を流用し車体を載せ替えた改造名目で登場したオシ17形。台車は専用に新造されたシュリーレン式TR53を履きます。
当時の一般客車の食堂車には、オシ17形のほかスハ43系のマシ35形や、オハ35系のマシ29形がありました。
定員40名、スイス国鉄の車両をモデルに設計されたヨーロッパスタイル。
20系が登場する前の特急にも使われましたが、1972年(昭和47年)大阪-青森間の急行「きたぐに」北陸トンネル火災事故の出火元(電気系統のショートと言われます)となり、連結中止、全車廃車に。
対して、下り「瀬戸2号」上り「1号」のビュッフェ車は、同じく10系のオシ16形。こちらも旧型客車の車体載せ替え改造で登場しましたが、台車は改造種車から流用のTR47やTR23でした。
急行電車153系、165系、471系などや、0系新幹線のビュッフェが、半室普通車の合造車なのに対し、オシ16形はビュッフェながら全室食堂車。
中央に厨房とカウンター席。車端部にテーブル席とカウンター席があり、文字どおり軽食と酒類やジュースなどが提供されていました。
カウンター席に座り、流れる街の光を眺めながら呑むウィスキーのロックは格別だったでしょうねー。
サラリーマン憩いの場オシ16、タイムスリップして乗ってみたい…。
別の雑誌で寝台急行「瀬戸」の編成をチェックします。
グラフィックな鉄道誌『 j train 』。
これはちょっと古い2015年通巻59号。特集は「客車編成今昔」
「ヨンサントウ」から2,3年経過した頃の「瀬戸1,2号」と「瀬戸2,1号」が載っています。
予想どおり、下り「瀬戸1号」上り「2号」の6号車がビュッフェオシ16形に対して、下り「瀬戸2号」上り「1号」の7号車が食堂車オシ17形となっていました。
ここで、下り「瀬戸2号」上り「1号」の3号車から6号車にちょっと気になる車両が連結されています。
1971年10月から急行「瀬戸」が寝台特急に格上げされる1972年3月まで、分散電源方式の新系列寝台特急客車14系の量産先行車4両が、現場訓練を兼ねて試験的に急行「瀬戸」に組み込まれていたのでした。10系客車やスハ43系特別二等車(特ロ)スロ54に挟まれた14系。同じブルーでも色合いが異なり、白のラインもあって目立っていたと思います。
これは九州鐵道記念館に保存されている14系寝台車スハネフ14形。
(ハレーション画像ですみません)
同じB寝台でも10系や20系のベッド幅が52cmで寝返り打つのも大変だったのに対し、14系のベッド幅は70cmに拡大。試験運用とはいえ急行列車に新型車両が組み込まれたのは破格のサービスだったのですね。
いやぁ、鉄道の歴史の紐解きは面白く、興味が尽きません…。
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