晩年は大阪-新潟間の夜行急行として、
583系寝台電車で運転されていた、
急行「きたぐに」
定期運行は2012年3月に終了し、
臨時列車化を経て、列車廃止。
1.急行「きたぐに」の歴史.
ルーツは戦後間もない1947年に運行を開始した、大阪-青森間を結ぶ「急行507, 508列車」に遡ります。
当時はまだ愛称がありません。
1950年には急行「日本海」の愛称が冠せられましたが、1968年から運行を開始した大阪-青森間の寝台特急,20系ブルートレインにその名前を譲り「きたぐに」と名を変えました。列車番号は「501, 502列車」となります。
「よん・さん・とお」で知られる1968年(昭和43年)10月白紙ダイヤ改正の頃の、大阪から北陸・羽越方面列車の編成表です。
(交通公社の時刻表1968年10月号復刻版から)
当時、大阪-青森間の特急「白鳥」は80系気動車ですが、直江津で分割併合していた上野「白鳥」は、既に金沢-上野間「はくたか」に分離されたあと。
寝台特急「日本海」は20系客車9両編成の身軽な姿だったのですね。それでも食堂車ナシ20が営業中。
特急「雷鳥」は481系、急行「立山」には471系交直流電車が就役していました。
「立山」のビュッフェは4号を除き営業中。上り下り4号は夜行なので営業休止です。
湖西線の開業は1974年、優等列車の湖西線経由は1975年からですから、それまでは北陸線方面の全列車が米原経由でした。
湖西線開業後は、電車急行「ゆのくに」と客車急行「きたぐに」が米原経由のまま存置されました。
その急行「きたぐに」編成の変遷 !?
今回も参考書は『j train vol59 客車編成今昔 』
1970年(昭和45年)10月の急行「きたぐに」です。
郵便車+グリーン車スロ62+43系座席車+10系座席車+10系寝台車で組成。
グリーン車には、特別二等車の生き残りスロ54も使用されていました。
牽引機は、
大阪-米原間がEF58
米原-田村間がDD50またはDE10
田村-富山間がEF70
富山-新潟間はEF81
新潟-秋田間はDF50
秋田-青森間はED75
北陸本線は交流電化されていましたが、電化当時、敦賀機関区には交直流機ではなく、交流機ED70やEF70が配置されていたため東海道本線 米原に直通できません。
米原-田村間はディーゼル機関車牽引で接続。直流機から交流機へ、2回の機関車交換が行われていました。
羽越本線が1972年に電化されると、羽越本線内もEF81がけん引します。
「きたぐに」は新潟で寝台車が切り離され進行方向が変わるため、機関車も交換されました。
碓氷峠ふもと「横川鉄道文化村」にはEF58と10系客車が保存されています。
☞【群馬 出張(後編)】 横川機関区で、峠のシェルパEF63と再会
この保存機EF58 172は、大阪鉄道管理局 宮原機関区配置のあと大宮へ転出。お召列車牽引も務めました。宮原時代には「きたぐに」もけん引していたと思います。
それに続くは10系寝台車オハネ12 29。
この並びは、往年の寝台急行を彷彿とさせますねー。
夜行客車急行のしんがり車両といえば、43系の緩急車スハフ42やオハフ45が思い浮かびますが、10系座席車の緩急車ナハフ11も、夜行列車編成では重宝されました。
これは横川鉄道文化村に保存されているナハフ11 1。
2.急行「きたぐに」と食堂車
さて、旧型客車編成の急行「きたぐに」と言えば、忘れてならないのが10系食堂車のオシ17。
これは、横川鉄道文化村に保存されている、現存する唯一のオシ17 2055。
保存仕様は教習車オヤ17 1に改造された姿のままで、車番以外復元はされていません。
10系食堂車オシ17は、遊休・休車状態の戦前製優等客車の台枠を流用し、車体のみ新造して改造名目で製作された車両。東海道特急「つばめ」「はと」や東北特急「はつかり」にも使用されました。
近代的な外観ですが、厨房のオール電化は見送られ、石炭レンジを装備。
けれども「石炭レンジで焼き上げるステーキは美味しい」という隠れファンもいたそうです。
そのオシ17が火元となり、列車火災事故が起きます。
1972年11月6日急行「きたぐに」北陸トンネル列車火災事故。死者30名、負傷者714名の大惨事となりました。
連結されていたのはオシ17 2018.
火災原因はよく言われる石炭レンジではなく、洗面台付近にあった電気暖房の配電盤のショート、が有力説とされています。
内装は近代的でしたが、樹脂など可燃性のいわゆる新建材が多く使われていたため火炎が広がりました。死因の多くは一酸化炭素中毒だったそうです。
当時の国鉄の規定では、列車火災が起きたら直ちに列車を停止させることとなっており、運転士は規定に従いトンネル内で停車。これが被害を拡大させることになります。
その後の、北海道狩勝実験線などで実車を使った列車火災実験の結果から、トンネル内での火災は出口まで走り抜けるよう規定が改められます。
(詳細は、以下を参照)
☞ 【引用】 北陸トンネルでの列車火災 【1972年11月6日、北陸トンネル内】
中尾正幸 東京大学大学院 工学系研究科 総合研究機構
☞ 【引用】失敗百選 ~北陸トンネルでの列車火災~
「失敗百選 41の原因から未来の失敗を予測する」中尾 政之(著)森北出版株式会社
1972年11月6日未明発災
急行「きたぐに」大阪発青森行き501列車の編成と、トンネル内位置関係
北陸トンネル内で全焼したオシ17 2018と救助作業
☞【引用】死の淵見たから, がむしゃらに 逆境も乗り越えた井村屋副会長の半生
(写真;朝日新聞 北陸トンネルから引き出された火元のオシ17 2018 )
全国を走っていたオシ17は使用停止とされ、事故の翌日には、各線の夜行急行に連結されていたオシ17型は全て編成から切り離されました。
急行客車列車から食堂車が消えた瞬間!? です。
3.急行「きたぐに」乗車の思い出
1973年、編成の冷房化促進のため、座席車は旧型客車から12系客車になります。
ここで、スロ62または54+12系座席車+10系寝台車という「きたぐに」の特徴的な混成編成が生まれることになります。
終着大阪駅に進入する急行「きたぐに」、
12系座席車と10系寝台車が見えます。
2017年の出張移動中、高崎で、JR東日本高崎車両センターにイベント輸送用として現存する12系客車を捉えました。12系客車はイベント列車用としてJRといくつかの私鉄に現存します。
12系は1970年の大阪万博の国民大移動に備え、臨時列車増発と普通座席車の冷房化を目的に増備された新系列客車。種類は中間車オハ12、緩急車オハフ13、緩急電源車スハフ12の3形式。
緩急車スハフ12には編成で賄う電源用ディーゼル発電機を備えています。
3-1.「きたぐに」の12系座席車で大阪-青森間を乗り通し
1979年、高校1年の夏、北海道を乗り鉄したことがあります。
伊丹の祖母の家に寄った後、大阪から青森まで「きたぐに」の12系座席車に揺られること19時間。
青函連絡船で渡道し、函館から夜行普通41列車倶知安回りで札幌へ。
札幌から根室本線夜行急行「狩勝3号」の特別2等(特ロ)スロ54に乗り釧路へ。
根室、厚床から標津線で根室標津、バスで根北線跡をたどり、斜里から釧網本線で網走。
網走から夜行急行「大雪6号」で札幌に戻る強行軍!?
そして80系特急「北斗」で函館へ、青函連絡船で青森から485系特急「白鳥」に乗り継ぎ帰宅。
若かった…。
交通公社の時刻表1968年10月号(復刻版)から、
まさに北海道を網羅する、
国鉄時代の『北海道鉄道路線図』。
『現在のJR北海道の路線図』です。
支線という支線がほぼ壊滅状態なのが衝撃的です。
北海道新幹線が札幌まで延伸される2030年には、平行在来線の函館本線長万部-小樽間の廃止、バス転換が決定しています。
それ以外の「本線」と名の付く路線も実態はローカル線であり、存亡の危機に曝されています。
さて、国鉄時代の大阪駅では、夜行列車の自由席確保の混乱を避けるため、改札外の北コンコースに専用待合所が設けられていました。

列車ごとに看板が掲げられ並ぶ位置が決められています。夜行列車なのに早い人はお昼前後から通路にシートや新聞紙を敷いて並び始めます。
22:10分発ですが、私も13時過ぎから看板の前の列について座り込みました。
21時過ぎ、列車入線前に係員の誘導で11番線ホームに移動してようやく乗車。
座席を確保するも、背もたれ直角のボックスシートに4人掛け。青森まで19時間の旅…。
座れただけマシ、と思いました。
今の大阪駅の長距離列車ホームと言えば、山陰、山陽方面の3,4番線と、東海道、北陸方面の9,10,11番線です。
ホーム移設後の今でも、11番線は対向式の片ホームとなっていて北陸線方面やサンライズが発車し、長距離列車発着ホーム独特の雰囲気が残っています。
国鉄時代は、西に向かう山陽、山陰方面の列車が数多くあり、西行き長距離ホームには1番乗り場から4番乗り場まで4線あったのですが、列車数が減ったため、玉突きのようにホームが整理されました。
環状線ホームが新1番乗り場と2番乗り場に。
東海道、北陸方面は以前と同じ9番乗り場から11番乗り場ですが、ホームが1本ずつずらされて、旧11番線の場所には北口の商業施設「LUCUA」が生まれます。
旧11番線の片ホームの一部は、今でもLUCUAの西側に残されています。
国鉄大阪駅 11番線ホーム
☞鉄道トリビア 大阪駅に「列車の来ないホーム」がある から
さて12系,10系混成急行「きたぐに」は、1978年にグリーン車スロ62またはスロ54の連結が無くなります。
そして1982年に「きたぐに」編成は14系化され、運転区間も大阪-新潟間に短縮されます。スハフ14のバックサインは、残念ながら「急行」のままでしたが。
信越本線回りとなった急行「能登」のような、14系座席車と14系寝台車の混成になりますが、オロネ14を組み込んだ10両編成であるところが風格を感じました。
「能登」は横軽通過の制約もあり、B寝台車3両+普通座席車5両の8両編成です。
14系急行「きたぐに」はそう長くは続かず、3年後の1985年寝台電車583系化されます。
583系の昼夜兼行という特性が最大限生かされ、敢えて普通車は全車寝台ではなく、普通座席車も設定。B寝台車、グリーン車のほか、さらに3段式B寝台車サハネ581を2段式に改造した電車寝台初のA寝台車サロネ581も連結されました。
まさに旧型客車時代のフルセット急行が583系寝台電車で再現されていたのです。
元々583系の車内は、開放式A寝台に類似したレール並行方向のベッドで3段化されていて、下段の寝台幅はA寝台並みの100㎝以上ありました。中段、上段は70㎝です。
グリーン車サロ581は寝台車断面の座席車ですから天井が高く、大陸的な鷹揚とした雰囲気がありました。
3-2.(番外編) 583系急行「きたぐに」の思い出
583系急行「きたぐに」には、不本意ながら結構お世話になりました。
東京や名古屋出張の帰り、同僚と吞んで北陸線連絡の米原停車新幹線「ひかり」に乗り込むのですが、酔いが回って大抵寝込んでしまう…。
(LED案内板、まもなく米原です)
それでも気をつけて起きようとしますが、岐阜羽島あたりで記憶が薄れ、トンネルと上り坂で速度が落ちる関ケ原付近では、列車の揺れと音が気持ちよい子守唄になり…。
(夜の米原駅に停車中)
「やけに車窓が明るいなぁ・・・」
と思って気が付くと、「ひかり」は米原を通り過ぎ山科付近を走行中。
まもなく京都、時刻は23時過ぎ...。
あわてて京都で降りるも、北陸線特急最終の「サンダーバード」は、とっくの数時間前に出たあと。
上り新幹線で米原に戻ろうとするも、数分の差で最終「こだま」名古屋行きには乗れず…。
1時間ほど途方に暮れたところで、京都駅1番線に救世主のように現れるのが、大阪を23時27分に発車した急行「きたぐに」新潟行!?
京都の発車は、日付が変わった0時03分です。
急行「きたぐに」は往年の夜行急行のように、真夜中の地方駅にこまめに停車しながら終点を目指します。
自由席の普通座席車が連結されているので、夜中でもわずかながら乗客の出入りがあります。
因縁の米原 01時08分、敦賀 01時41分、武生02時00分、福井02時19分・・・。
武生には夜中の2時に到着。もちろん連絡する普通列車もありませんが、タクシー代を叩いて、夜明け前になんとか自宅に帰りつくことができました。
1度ならず、年に2,3回やらかしました。
2012年3月17日のダイヤ改正で、「きたぐに」は前夜発を最後に廃止されてしまい、米原で乗り過ごしたときはホテルかサウナに泊まるしか方策がなくなってしまいました。
(閑話休題)
という訳で、長々とした前置きのあと、ようやくNゲージのお話。
4.Nゲージで「きたぐに」を妄想する。
KATO(関水金属)の客車編成セット『寝台急行「きたぐに」(8両)』を購入してしまいました。

荷物車マニ37+郵便車オユ10+グリーン車スロ54+B寝台車オハネフ12が4両+A寝台車オロネ10で構成される、旧型客車急行「きたぐに」の基本編成。
再び、当時けん引する機関車は、
大阪-米原間がEF58
米原-田村間がDD50またはDE10
田村-富山間がEF70
富山-新潟間はEF81
新潟-秋田間はDF50
秋田-青森間はED75
と、時代と線区でバラェティに富んでいるのですが、今回の購入はEF70を選択。
EF70は北陸本線電化と北陸トンネル開業にあたり新造された交流電気機関車。
元々交流機は直流機のようなノッチ切り替え制御でなく、連続した電圧制御や位相制御が可能なため空転しにくく、直流機が動輪6軸のF級が多いのに比べ、交流機は動輪4軸のD級でも同等性能となり主力となっています。
EF70,が動輪6軸なのは、北陸トンネル内で連続する勾配対応のため。交流機ながら最初に動輪6軸を採用したF級の電気機関車です。
のちに奥羽本線板谷峠越えのためにも、6軸の交流機EF71が作られました。
横川鉄道文化むらに保存・展示されているEF70 1001。
☞【群馬 出張(後編)】 横川機関区で、峠のシェルパEF63と再会
KATOのEF70も1000番台が市販化。
1000番台は、ブレーキ用空気ダメなど20系客車連結対策が施された高速列車対応の機関車区分。
日立製作所製なので『日立』のメーカーズプレートは既に取り付けられています。
運転台片側の連結器を、アーノルドカプラーから、
自動連結器に取り換えました。
ナンバープレートは『EF70 1002』を選択。
ランナーから切り離し、前面と側面の4面に、飛ばさないよう慎重に取り付けます。
EF70の顔らしくなりました。
ピンクロコ交直流機のEF81とは、またちょっと異なる国鉄型電気機関車の顔。
そして、
KATO(関水金属)の客車編成セット『寝台急行「きたぐに」(8両)』

上から、
荷物車 マニ37 2013
郵便車 オユ10 2051(冷房改造前,高屋根)
グリーン車 スロ54 2036
B寝台車 オハネフ12 2010
B寝台車 オハネフ12 2079
A寝台車 オロネ10 2067
B寝台車 オハネフ12 2018
B寝台車 オハネフ12 2080
スロ54とEF70を自動連結器で連結してみます。
連結面間もなかなかいい感じ。
A寝台車オロネ10とB寝台車オハネフ12とグリーン車スロ54の並び。
出入口の等級行灯を張り付けました。
B寝台車オハネフ12には、まだ張っていません。
高校1年生のときの北海道乗り鉄。札幌から釧路まで急行「狩勝」で乗車して感動した、特急「つばめ」「はと」の生き残り、特別2等車スロ54です。
内地向けの電暖搭載車は2000番台ですが、北海道は酷寒地向け改造が施され500番台でした。
急行「能登」編成のグリーン車スロ62と比べてみます。
上がスロ54、下がスロ62。 スロ62のほうが窓間隔が広い!?

窓間隔の差は、車両の由来とシートピッチの違いを表します。
スロ54はスハ43系の特別2等車として新造され、シートピッチ1160mm。その後の国鉄グリーン車のシート間隔標準となりました。
これに対しスロ62は、戦前木造車両を鋼体化改造した60系客車のオハ61を、さらにグリーン車に改造した車両。
元々4人掛けボックスシートのため、窓間隔1335mmのところ、リクライニングシートを1270mmで配置。このため、シートと窓の位置が客室の前後では少しずつズレています。
また、どちらの車両も元々は旧型客車断面の丸屋根でしたが、冷房化改造のため低屋根化され、AU13A型クーラーが5基ずつ取り付けられています。
さて、購入したのは寝台車等の基本編成だけで、普通座席車はまだ購入していないのですが…。
急行「きたぐに」の編成は時代を追って変化しており、寝台車と座席車の組み合わせを変えることで、設定する時代が変わります。
なので、座席車を12系とするか43系+10系とするかはお好み次第。
さらに食堂車オシ17の有無も、時代の特徴を表す大事な要素となります。
12系座席車はKATOからセット販売されています。
10系客車は単独でも市販されています。 これは緩急車ナハフ11。
さらに、スハ43、オハ47、オハフ45などの旧型客車を組み合わせれば、座席車を再現できます。
セットの郵便車オユ10も、旧客夜行や当時の荷物列車では常連級の車両ですね。
さて食堂車はどうするか?
例えばこれは、グリーンマックス製品のNゲージ、オシ17。 車体キットも販売されているので、パーツを手に入れ自分で組み立てるのも良いかも…。
急行『きたぐに』フル編成化の妄想が膨らみますねー。
さらに、昭和40年代のレイアウトも整備して、急行『能登』や、現実に無かった『トワイライトエクスプレス』とのすれ違い、など。
これは、リタイア後の楽しみに取っておこう(^^)b
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