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2014年02月28日 イイね!

Empire of the Sun 12 「太陽の帝国」 兵に告ぐ 二・二六事件

Empire of the Sun 12 「太陽の帝国」 兵に告ぐ 二・二六事件その日、東京は今年と同じような、30年ぶりに大雪が降り、帝都の街並は白く、静けさに包まれていた。

昭和11年 1936年2月26日未明
陸軍皇道派の影響を受けて「昭和維新」と称し尊皇討奸を掲げて決起した、野中四郎大尉、安藤輝三大尉、栗原安秀中尉、磯部浅一主計らの青年将校が、近衛歩兵第三連隊、歩兵第一連隊、歩兵第三連隊、野戦重砲兵第七連隊から1,483名の兵を率いて計画していた各目標に向かう。

深夜、深々と降り続く雪の中を黙々と行軍する姿は何も知らない都民には演習か討ち入る四十七士のようにも見えただろうか。

先頭に立つ青年将校の胸中は、追従する下士官兵達は何を思い暗路を進んだのか。

重機関銃で武装した決起部隊は分散し未明に首相官邸他 重臣私邸など7箇所を襲撃した。

岡田啓介 首相、牧野伸顕 前内大臣、後藤文夫 内務大臣は難を免れたが、鈴木貫太郎 侍従長は重傷を負い、高橋是清 大蔵大臣、齋藤實 内大臣、渡邊錠太郎 教育総監、松尾伝蔵 総理秘書官(予備役陸軍大佐)が殺害され、また官邸や私邸警備の警察官5名が殉職した。

その後、決起部隊は警視庁を制圧、朝日新聞社を襲撃し、陸軍省、陸軍大臣官邸、参謀本部など、政治の中枢である永田町・三宅坂一帯を占拠する。

早朝、青年将校らは陸相官邸で川島義之 陸軍大臣に会見「決起趣意書」と「要望事項」を読み上げ決起部隊の配備状況を図上説明した。

「決起趣意書」を要約すれば、私利私欲に走る不逞の輩が民衆を搾取して苦境に追い遣り、元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党などが加担して国体破壊を招いており、五・一五事件の反省もなく、天皇陛下を軽んじ統帥権を干犯している奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に臣民として、天皇陛下に心身を尽くす。 と言う事が書かれている。

「要望事項」は対外的に勇断を要し、皇軍相撃つを回避、全憲兵の統制、警備・近衛・第一師団への厳命、天皇陛下に奏上し御裁断を速やかに仰ぐ、陸軍の任命・罷免人事、同志将校を東京に招致、同志部隊の現姿勢維持、侍従武官長 本庄繁大将、軍事参議官 荒木貞夫大将、真崎甚三郎大将、軍事調査部長 山下奉文少将 他、皇道派 要職高級将官を陸相官邸に招致するなどであった。


参謀本部作戦課長 石原莞爾が陸軍省に到着、青年将校達に「何が維新だ、何も知らぬ兵達を巻き込むな、やりたければ自分達だけでやれ」「こんなことは直ちに止めろ、軍旗をもって討伐するぞ」の一喝と剣幕に青年将校達はたじろいだという。

決起将校らに面会した真崎甚三郎大将ら軍事参議官によって宮中で非公式会議が開かれ、陸軍は穏便に事態を収拾させることを目論み、26日午後に川島陸相名で下記の回答が告示された。

一、決起の趣旨に就ては天聴に達せられあり

二、諸子の真意は国体顕現の至情に基くものと認む

三、国体の真姿顕現の現況(弊風をも含む)に就ては恐懼に堪えず

四、各軍事参議官も一致して右の趣旨により邁進することを申合せたり

五、之以外は一つに大御心に俟つ


また以下の戦時警備に基づく第一師団命令が下る。

一、敵と見ず友軍となし、ともに警戒に任じ軍相互の衝突を絶対に避くること

二、軍事参議官は積極的に部隊を説得し一丸となりて活発なる経綸を為す。

閣議も其趣旨に従い善処せらる。

上記の告示と命令は一時的に決起を認めたものととられ、決起部隊には次々と人が激励に集まり、民衆の差入れや原隊から糧食などが運び込まれた。



戒厳令

20時40分 後藤文夫内務大臣が臨時首相代理に指名され戒厳令施行が閣議決定される。

海軍省は襲撃された岡田首相、鈴木侍従長、斎藤内大臣が何れも海軍大将であり海軍軍政の重鎮であった為、事件発生直後より海軍省の警備体制を臨戦態勢に移行させ、午後には横須賀鎮守府(米内光政司令長官、井上成美参謀長)が在泊艦艇から海軍陸戦隊を芝浦に上陸させ決起部隊に対して徹底抗戦を発令し東京に急派する。

また第一艦隊を東京湾に急行させ、27日午後には戦艦「長門」以下各艦艇の砲を陸上の反乱軍に向けさせた。


翌27日 午前3時、九段の軍人会館に戒厳司令部が設立され、東京警備司令官の香椎浩平中将が戒厳司令官、石原莞爾大佐が戒厳参謀に任命され、戒厳部隊は帝国ホテル裏の空地に陣を張る。

首相官邸をはじめ警視庁、陸軍省、参謀本部、東京朝日新聞などを占拠した反乱軍は、山王ホテルと料亭「幸楽」を決起部隊本部宿舎とした。


陸軍内には、決起部隊に同調、同情する者達が多くおり、真崎大将らは新内閣を組織し昭和維新の大詔渙発などの上申に奔走、本庄繁侍従武官長は決起将校の精神だけでも何とか認めていただこうと天皇陛下に奏上する。

この夜、石原莞爾は青年将校を呼び「真崎の言うことを聞くな、もう幕引きにしろ、我々が昭和維新をしてやる」と言い放った。



奉勅命令

28日の早朝 午前05時「戒厳司令官は三宅坂付近を占拠しある将校以下を以て速に現姿勢を徹し各所属部隊の隷下に復帰せしむべし」の奉勅命令が戒厳司令官に下達される。

皇道派の香椎戒厳司令官も決起に同情的であり、奉勅命令の実施を延ばし説得による解決を目指して決起部隊との折衝を続けていた。

午後23時、遂に決起部隊を「反乱部隊」と定義し「断乎、武力を以て当面の治安を回復せんとす」の武力行使による鎮圧命令が下った。


29日未明、説得に当った第三連隊付 天野武輔少佐が説得失敗の責任をとり拳銃自殺する。


午前5時10分に討伐命令、午前8時30分には攻撃開始命令が下され、戒厳司令部は近隣住民を避難させ、反乱部隊の襲撃に備え、NHK東京中央放送局を憲兵隊で固めた。


午前8時55分より戒厳司令部は決起部隊に対し以下の勧告をラジオで呼び掛け、戒厳司令部付の根本博大佐(終戦時にソ連軍満州侵攻から居留民4万人を護り抜いた駐蒙軍司令官)は反乱軍の占拠地帯に向かって拡声器で流させた。



兵に告ぐ

敕命が發せられたのである。

既に天皇陛下の御命令が發せられたのである。

お前達は上官の命令を正しいものと信じて絶對服従をして誠心誠意活動して来たのであろうが既に天皇陛下の御命令に拠って、お前達は皆、原隊に復帰せよと仰せられたのである。

此上、お前達が飽くまでも抵抗したならば、それは敕命に反抗する事となり逆賊とならなければならない。

正しい事をしていると信じていたのに、それが間違って居ったと知ったならば徒らに今迄の行き懸りや義理上から何時までも反抗的態度をとって天皇陛下に叛き奉り逆賊としての汚名を永久に受ける樣な事があってはならない。

今からでも決して遲くはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰する樣にせよ。

そうしたら今迄の罪も許されるのである。

お前達の父兄は勿論のこと、国民全体もそれを心から祈っているのである。

速かに現在の位置を棄てゝ帰って来い。


戒厳司令官 帝國陸軍中将 香椎浩平



投降を呼掛けると同時に以下のビラも航空機により反乱部隊の占拠地域上空から散布した。


下士官兵ニ告グ

一、今カラデモ遲クナイカラ原隊ニ帰レ

二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル

三、オ前達ノ父母兄弟ハ國賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
    
   
二月二十九日   戒嚴司令部




堀丈夫 第一師団長を始めとする連隊の上官達が涙を流して説得に当たり、反乱部隊の下士官兵は午後14時までに原隊に復帰する。



決起した野中大尉は拳銃自決、安藤大尉は自決に失敗し、残る将校は午後17時に自決。

雪中4日間、青年将校達の「昭和維新」は終焉を迎え、帝都は平穏な静けさを取り戻した。


牧野伸顕伯爵の襲撃に失敗し負傷して病院に収容されていた河野寿 航空兵大尉は自殺。

逮捕された反乱部隊将校は特設軍法会議により安藤大尉、栗原中尉を含む16名が反乱罪で死刑となる。



昭和7年 1932年に満州国が建国され、決起した青年将校らが所属する歩兵第一、第三連隊の第一師団は満州への派遣が内定していたが、内地では依然、世界的な大恐慌から長く続く深刻な不況とインフレ、失業、自殺増加、農村部は凶作に喘いぎ疲弊していた。

貧困の為に仕方なく身売りする姉妹、餓える兄弟を持つ下士官兵達も多く、国状を憂う若手将校達に国家社会主義を唱える北一輝や皇道派の将官達が接近している。

事件発生直後、真崎大将を始めとする陸軍の皇道派は組閣を提言し、新内閣成立を画策しており、皇道派の将官らも北一輝らと間接的に決起に関与していた可能性は高い。

事件の結果、陸海軍大臣の現役武官制が復活、皇道派を締め出した統制派軍部が統帥権を楯に大善を騙り軍政を敷くようになり、外地統治政策と戦時の大本営設置はこの流れを助長させた。


結局、二・二六事件は統制派を助ける、カウンタークーデターになってしまったのではなかろうか。


当時、東京陸軍幼年学校の校長であった阿南惟幾大将(終戦時陸軍大臣)は事件直後に全校生徒を集め、「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は先ず軍服を脱ぎ、然る後に行え。」と極めて厳しい口調で語っているが、自分も同感である。


「君臨すれども、統治せず。」

事件発生と反乱部隊討伐発言に責を感じられた陛下は国政に一層口を閉ざす様になられた。

戦中の御前会議は大本営案を追認されるだけの形式的なものになり、陛下が以降、統治統帥権を直接行使されたのは1945年8月10日の終戦決定の御聖断だけである。

終戦決定の御前会議に於いて陛下の大御心を聞くまでポツダム宣言の受諾と降伏に反対したのは国体護持、つまり陛下の地位保証を求めた阿南惟幾陸相と本土決戦を主張する陸軍であった。

その終戦前日の8月14日、ポツダム宣言受諾と終戦決定を受入れず徹底抗戦を主張する陸軍の若手参謀らが、近衛第一師団司令部に於いて師団長の森赳中将と第二総軍参謀 白石通教中佐を殺害し、偽の師団長命令書を作成、警備の近衛歩兵第二連隊に宮城を占拠させ、玉音放送を阻止する為にNHK放送会館に近衛歩兵第一連隊を派遣した宮城事件を起こす。

しかし阿南惟幾陸相と東部軍管区司令官 田中静壱大将は決起に同意せず、クーデターは失敗に終わる。

この宮城事件の朝にも陛下は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べられておられる。

唯々国体護持、皇室存続を切に願い部下達に軽挙妄動を戒めていた阿南陸相はクーデターと敗戦の責任をとり終戦の日に陸相官邸で自刃した。


二・二六事件では五・一五事件も教訓となされず、陸軍部内は分裂して政府の事態収拾と内外への対応も遅れ、奉勅命令が出されるまで意思決定ができず鎮静行動は消極的であった。

この様な纏りのない体制下で米英中に対し戦略もなく戦端を開くのは大きな間違いである。

近衛内閣と世論に押され大陸で戦線を拡大し、泥沼に嵌った陸軍は蒋介石との和平交渉も潰され、ドイツのフランス占領を期に悩みの種であった援蒋ルートを断つ為に仏印へ進駐する。




大戦後もウクライナやシリア、南米やアジア、世界各地で武力による政変は起こっている。

何処の国でも民衆は餓えれば蜂起し、共産主義者や反体制思想に利用され、宗教・民族の対立、権力の為に国を変えようとする。

残念ながら民主主義は完全ではなく、アラブには日本のような桜咲く春は来ない。

強い陽射しが照り付ける灼熱の砂漠には春秋はなく故にイスラムは月星を崇拝する。

「アラブの春」がより中東を不安定にする要素となる。


今回のウクライナをはじめ外国の政変には殆どの場合、第三国が関与または支援している。

過去、ロシア革命から東西冷戦中のベトナムやニカラグアから現在に至るまで大少の差はあるが、第三国の諜報機関が動き、新政権樹立に経済や軍事援助の約束をする。

革命や動乱を単に民主化や正義だけの外側だけを見て判断してはいけない。

既に民主主義国家であるウクライナの政変デモにも欧米の思惑や外国資本が関与している。

文民政治が乱れる度に回教国でありながら政教分離と世俗自由主義を守護したトルコ共和国軍や仏教国タイに於いて十数回も繰返されて来た国王に忠誠を誓う国軍に拠るクーデターはこの限りではないが、高齢になられた国王の影響力も弱まりつつある。

またフィリピンのコラソン・アキノ政権下、政治家と軍上層部への不満から決起した国軍クーデターは鎮圧部隊と民間人に死傷者を出しながらも、首謀者であるグレゴリオ・ホナサン大佐は降格され後に上院議員になり、また反乱軍の下士官と兵士達は腕立伏せ30回の軽罰で許された。

これはホナサン大佐が率いた国軍の青年将校達がマルコス政権打倒の立役者でもあり、フィリピン各地で誘拐やテロを繰返す反政府共産主義武装勢力への掃討作戦が継続され国民からの人気と信頼を得ていたからである。




嘗て平和な日本でも明治維新や二・二六事件などの武力に拠る軍事クーデターが起こった。

明治維新は西洋列強の日本に開国を迫る干渉関与と支援があった。

しかし明治以降、他国の様な民族が分裂する武装蜂起や武力革命は日本では起きない。

時の政権政府を打倒転覆し天皇陛下を退位させて国体を破壊するような革命にはならない。

それは「大日本帝國は萬世一系の天皇之を統治す。」と帝國憲法条文に書かれていたからではなく日本国民自身が天皇陛下と祖国の歴史文化に敬意と誇りを持ち、国体とは天皇を中心とした秩序、纏りを意味すると考えていたからである。

古来より日本では皇位を継承し歴史伝統を守りながら文化を発展させてきた。

隣国のように権力争いで朝廷が何度も入替わり、新王朝が正統化の為に旧王朝の全てを破壊して歴史伝統を焼き尽くし時を逆行するような愚かな事はしない。



「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言う悪い例えによく使われる諺がある。

日本に於いては天皇陛下及び朝廷に属する正規軍を官軍、皇軍と呼び「天皇陛下の軍隊である」という意識は全軍士気にも大きく影響した。

官軍に敵対し、刃向うは賊軍と呼ばれ、官軍の象徴が錦の御旗であり、帝國陸海軍では大元帥たる天皇陛下から直接親授される軍旗、艦隊・連隊旗は極めて神聖なものであった。

この為、二・二六の決起部隊も賊軍と呼ばれる事を恐れ、戒厳司令部も反乱軍や賊軍扱いする事に戸惑い、沈静や復帰の語句を使い討伐や投降と言う言葉を避けていた。

また戦時警備令に基づき反乱部隊を第一師団 歩兵第三連隊連隊長の指揮下に置き、皇軍相撃つを回避し、軍旗の下に復帰せよと説得している。

二・二六事件は日本だけに見られる特異な軍事クーデターであった。




国と農民の苦境を憂い、政治の腐敗を憎む青年将校の純粋な気持ちと志は良く解かる。

しかし将校士官個人が起した五・一五事件とは違い、許可なく皇軍部隊兵士を動かし武器を使用し多勢で夜中に押入り9名も殺害した事は赦されるものではない。

彼らは全ての元凶が政治の腐敗にあり、政治家を殺害すれば昭和維新が成功すると思い込んでいたのであろうか。

世界恐慌と経済、陛下の御心、宮中の意見、統制派、海軍の動きを考えなかったのか。


陛下を御立腹させた侍従からの第一報の時点で賊軍となりクーデターは失敗している。

五・一五の犬養毅首相に続き、軍人に拠る2度目の重臣暗殺、治安の乱れ、陸軍の動きに陛下は「陸軍が躊躇するなら、私自身が直接近衛師団を率いて反乱部隊の鎮圧に当たる」と仰せられた。




たとえ逆賊、反乱と見なされなくとも重臣を殺した後の政治は誰にどう任せるつもりだったのか。

俺達が引き金を引き、邪魔者は斬ってやったから後は御願いします。

これでは維新と呼ぶには程遠い、人斬り集団に依る押入り強盗、暗殺テロだ。

仮に内閣閣僚が刷新され政治腐敗を一掃、産業や農制の改革が断行されても日本だけが世界的な大恐慌から脱出できるとは思えない。


戦後、GHQは強制的に財閥を解体、農地改革をやるが、天皇陛下を中心とした秩序である国体が護持される。

これは専制君主ではない天皇と国民の間に民族伝統的な信頼関係があり、日本国民の反感動揺を抑え、混乱なく安定した占領統治を進める為には皇室存続が必要である。と、降伏せず最後の一兵まで戦う皇軍との戦闘で苦戦した米軍上層部・GHQが理解していたからであった。


また決起部隊は治安を守る任務に就く警備の警官達を殉職させたが、僚軍である鎮圧部隊と何処まで戦う意思があったのであろうか。

殺害した人達と遺族への責任、鎮圧部隊の死傷者、何も知らず命令に従い逆賊にされ処分される下士官や兵達への責任をどう考えていたのか。

二・二六の小説や映画は青年将校の純粋な志の部分だけを取り軽挙妄動を美化し過ぎる。



自分は特攻や肉弾突撃を正しい戦法戦術とは思わず、玉砕や自決も美化したくない。

だが国家の体制を揺るがした青年将校達の責任の取り方は帝國軍人、武人として如何なものか。

復讐の仇討とは言え全員が腹を切った赤穂浪士とは違い、皇軍兵士を私的思想から動かしながら責任をとり、自決した将校は僅か3名のみであった。


彼らは自分達が逆賊になる事を考え恐れたが、失敗した後の影響は考えなかったのか。

陸軍内の過保護なクーデター、無計画、無責任な反乱であったと言わざるを得ない。

真面目な彼らは皇道派の将官や思想家に乗せられ駒として利用され梯子を外されたのか。 

誰の支援も無しに彼らが独断でやったとは思えない、誰に頼り、誰に操られていたのか。

天皇機関説を排除し天皇制を批判する国家社会主義に感化され軍紀に背く皇道派とは何だ。



この後、満州事変 上海事変 が起こり、太陽の帝國 は二度目の世界大戦に向かうことになる。


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Posted at 2014/02/28 21:28:19 | コメント(4) | トラックバック(0) | 太陽の帝国 | 日記
2013年11月12日 イイね!

Empire of the Sun 11 「太陽の帝国」 上海事変

Empire of the Sun 11 「太陽の帝国」 上海事変前回の「満州事変」にも書いた日中戦争の続き。

「太陽の帝国」には、嘗て帝國海軍に奉職していた父方の祖父や伯父達の体験談と自分自身が船員時代に訪ねた南洋の戦跡の記憶から海軍艦艇や海戦史を書いて来たが、太平洋戦争は真珠湾攻撃ではなく、満州、上海、日華事変から始まる。

母方の祖父は大戦前から帝國陸軍に籍を置き、香川県 善通寺 第11師団に所属、兵員輸送船勤務、上海、台湾、日本を往復、後再び上海、満州と転任、北支(華北)で終戦を迎え北京を経由して約1年後に北九州小倉に復員した。 



上海国際租界 Shanghai International Settlement

1842年の南京条約に拠り開港した上海には外国政府が行政自治権と治外法権を持つ外国人が居留する租界地が在り、自国居留民保護の為に北京議定書に基づき外国の軍隊や警察保安隊が駐留して市内を流れる黄浦江には列国海軍の警備艦艇が停泊していた。

1937年 上海 黄浦江 帝國海軍 軽巡洋艦「長良」 米海軍砲艦 USS ”Asheville”

日本の租界は天津 漢口 杭州 蘇州 重慶にもあるが特に上海は国際色豊かで華だった。 

上海にはイギリス、アメリカ、日本などが自治管理する共同租界とフランス租界があった。


揚子江の下流に位置する上海は中国とアジアの貿易と金融の中心となり、黄浦江西側にある租界の外灘(バンド)地区には外国資本の銀行や大手商社ビル、高級ホテル、百貨店、飲食店、映画館、劇場、ショッピングモールなどモダンな西洋高層建築物が建ち並ぶ。

まだ幼かった母は休暇で帰って来た祖父から、上海の珍しい靴やゴムボール、祖母はバッグや洋服と香水、台湾の砂糖キビなど土産を貰った事を嬉しそうに話していた。

装甲巡洋艦「出雲」から見た上海バンド(海岸通)  敷設艦「八重山」


租界には多国の様々な文化が溢れ、また中国政府や支那軍閥が行っていた思想の取締りはなく、自由に活動発言できた為に中国の思想家、学術者、音楽家、芸術家など多くの知識人達が集まり、図書館や美術館も建って、キャバレーにダンスホールなどの社交場や舞台や映画の製作も盛んに行われて活気に溢れ華やいだ国際都市上海は「東洋のパリ」と呼ばれた。

この自由な風潮に世界各地から迫害を逃れてきた多くのユダヤ人達も移住して来る。

その繁栄の反面、上海の街には麻薬や売春や賭博が横行、裏社会の中国人ギャング達が暗躍し貧困に餓死した中国人の死体が毎日の様に黄浦江に浮いては流れ「魔都」とも呼ばれる。



第一次上海事変

1932年 蒋介石の命令に服さない軍閥客軍が中国各地の租界や租借地で挑発や衝突を繰返し、上海事変は1月18日に上海共同租界で起きた日本人僧侶襲撃事件に対する暴動に端を発する。

江西省で共産党軍との戦闘を終えた中国国民党 第十九路軍 3個師 約3万の兵力が南京、鎮江、蘇州、常州など上海付近に進出駐留、排日暴動から租界の居留民を警護する為に日本海軍陸戦隊は黄浦江に停泊する警備艦艇から上陸させ2700名に増強した。

警備を増強する列強軍との衝突を回避したい蒋介石の国民党中央は十九路軍に撤退を勧めるが、蒋介石に疑心を抱く第十九路軍 軍長 蔡廷は給与未払いを理由に首都南京以上に繁栄していた上海周辺の支配を狙い、撤退を拒否する。

1月28日 日本海軍陸戦隊に第十九路軍が銃撃し陸戦隊に90数名の死傷者が出た。

帝國海軍は空母「鳳翔」「加賀」 重巡「那智」 軽巡「阿武隈」「那珂」「由良」 駆逐艦「沖風」「峰風」「沢風」「矢風」を派遣し航空支援を行う史上初の正規空母の実戦参加であった。  

帝國海軍 第一艦隊 第一航空戦隊 空母「鳳翔」

日本政府は陸軍部隊派遣を決定、金沢 第9師団、久留米 第12師団の2個師団を動員。

これに対抗し中国国民党軍は約3個師からなる第五軍を増強した。

2月18日 上海に到着展開した第9師団 師団長 植田謙吉中将は更なる軍事正面衝突を避ける為に中国側へ国際租界から20Km後退を要求したが、第十九路軍 軍長 蔡廷は要求を拒否。

2月20日 日本軍は中国軍に対し総攻撃を開始、上海の戦闘は拡大する。

3月1日 帝國陸軍は増援の善通寺 第11師団と宇都宮 第14師団の2個師団を加え上海派遣軍を第十九路軍の背後、揚子江沿岸 七了口に上陸させ撃退した。

3月3日 十九路軍の敗退に日本軍は戦闘の中止を宣言、日中の全面戦争には至らなかった。

5月5日 英米仏伊4カ国列強の仲裁により上海停戦協定が成立し日本軍も内地へ帰還した。



第二次上海事変

中独合作・上海包囲

第一次大戦で敗北して多くの植民地と租借地を失ったドイツは中国から資源を得ており、北伐統一を完遂した蒋介石の国民党を経済と軍事の両面で支援していた。

蒋介石は日本政府の戦争不拡大方針を逆手に取り、上海停戦協定に違反して郊外の非武装地帯にトーチカと強固な要塞線をドイツの軍事顧問の指揮指導に拠り構築する。

1937年 中国国民党中央軍 最強の精鋭部隊 第87師、第88師が上海付近に集結。

ドイツ・チェコ製最新装備で完全武装した3万の中国兵が上海共同租界の日本人居住地区を包囲、市内の保安隊と警察に工作兵を紛れ込ませ対日戦闘を準備、上海周辺の無錫や蘇州に20万以上の中国国民革命軍が攻撃命令を待ち倦ね、更なる兵力増強に各地で進撃体制を整えていた。

ドイツ軍事顧問 ファルケンハウゼン中将が指揮する ドイツ式精鋭部隊 国民党軍 第87師と第88師、中独合作の兵士はドイツ製モーゼルM98歩兵銃やチェコ製機関銃で武装する。

また国民党と内戦停止・一致抗日を訴える共産党との国共合作も成立し、共産党の八路軍も加わり中独共合作で増強された国民革命軍の兵力は充実し士気は高く抗日戦闘意欲も旺盛であった。


上海市街戦
8月9日 中国保安隊が日本海軍特別陸戦隊の中隊長 大山中尉と斎藤一等水兵が運転する車両を共同租界内の自由通行路上で待伏せて銃撃、 2名を惨殺する事件を起こした。

これまでにも共同租界では巡洋艦「出雲」から上陸し安全区域内で買物散歩中の日本人水兵4名が便衣兵と思われる数名の中国人に銃撃され死傷する事件が起きており大山中尉殺害事件と中国軍の不穏な動静に共同租界の警備に駐留していた海軍陸戦隊は警戒を厳にする。



当時、上海を包囲した3万以上の中国兵に対し共同租界の邦人居留民 約2万数千人を守れるのは帝國海軍上海特別陸戦隊に艦付を含めた2400名と在泊中の第三艦隊旗艦司令部である旧型の装甲巡洋艦「出雲」と軽巡「川内」他、揚子江警備任務に就く軽駆逐艦と特務艇数隻のみ。

第三艦隊旗艦司令部 装甲巡洋艦「出雲」 上海 黄浦江




8月13日 海軍陸戦隊陣地へ包囲していた中国軍が突然、機銃掃射を浴びせる。


上海停戦協定を守ろうとする海軍陸戦隊は応戦するも極力交戦を回避し防御戦闘に徹していたが、中国軍の砲撃を伴う総攻撃に已む無く反撃を開始、日中両軍は市街戦に突入した。



上海空襲
同日、中国軍の軽爆撃機21機が黄浦江に停泊中の日本艦艇を狙い空襲、キャセイホテルやパレスホテルが並ぶ繁華街と婦女子の避難所である大世界娯楽センターに爆弾を投下。

約3000人の市民が犠牲になり、租界に関係する各国は中国側に空爆の抗議を行った。

またフランス租界上空の中国軍機に対してフランス駐屯軍も高射砲の一斉射撃を行なう。


「出雲」「川内」は艦載の九五式水偵を上げ迎撃、艦高射砲とで応戦し中国軍機3機を撃墜する。

イギリス海軍 重巡洋艦「カンバーランド」と米国アジア艦隊 旗艦 重巡洋艦「オーガスタ」も日本艦と誤認され標的にされたが、中国軍爆撃機2機の急降下爆撃は失敗に終る。

中国軍機から爆撃を受ける米海軍重巡洋艦 USS ”Augusta”

標的を大きく逸れた中国機の爆弾は欧米商社の倉庫と石油タンクを炎上させた。


渡洋爆撃・航空支援
8月14日 帝國海軍は渡洋爆撃を開始、台北、台南、済州島、長崎大村の海軍航空隊各基地から、九六陸攻爆撃隊が東シナ海を横断、南昌・南京・広徳・杭州・蘇州など上海周辺の中国軍飛行場を空襲して大戦果を上げたが、航続距離の短い援護戦闘機を伴えない強襲は爆撃隊にも多大な損害を出した。

帝國海軍 九六式陸上攻撃機 電波航法で 1000海里以上の基地と大陸間を往復する。

8月15日 第二航空戦隊の空母「加賀」、22日には第一航空戦隊「鳳翔」「龍驤」の3空母が参加して九六式艦上戦闘機隊が加わり中国軍が有利であった上海周辺の制空権を掌握した。

第二艦隊 第二航空戦隊 空母「加賀」


中国軍は第15師、第118師、17日には第36師も参戦、上海は7万の中国兵に包囲された。

8月18・19日 横須賀、呉、佐世保から特別陸戦隊の増援2400名が上海に到着する。


上海派遣軍
海軍は上海の不穏な情勢に危機感を持ち、陸軍部隊の派遣を要請していたが、既に北支方面にも兵力を取られ、中支方面での戦火の拡大を危惧する陸軍参謀本部は最小限の兵力の派遣を決め、名古屋の第3師団と第一次上海事変に動員した善通寺 第11師団に再び命令が下り上海派遣軍を編制、松井石根大将が司令官となる。


8月23日未明、派遣軍2個師団が揚子江から上海北部に艦砲援護射撃下に敵前に強襲上陸を開始、沿岸で敵の抵抗を排除しながら第3師団は呉淞鎮に第11師団は川沙鎮に上陸する。

両師団は敵に包囲され揚陸を阻まれながらも、翌24日までに 戦車1個大隊、軽装甲車1個中隊、機関銃1個大隊、野戦重砲1個連隊、迫撃砲1個大隊、工兵1個連隊、防空隊、衛生病院隊などの主力と装備の揚陸を完了させ進撃を開始した。


既に兵力を15個師に増強し迎え撃つ中国軍の優勢な火力に派遣軍は苦戦を強いられる。

9月6日 第3師団の後続部隊、歩兵1個大隊、山砲1個中隊編成の飯田支隊が戦車1個小隊を伴い公大飛行場周辺の敵を強撃、支隊長を失うも飛行場の制圧奪取に成功。

2日後には海軍 第12・13航空隊が進出、陸軍の地上戦を航空支援の陸上基地として運用を開始以降、公大飛行場は重慶など内陸部への爆撃隊基地として機能する。

また同時期に第3師団は宝山城攻略に成功、第11師団 天谷・浅間支隊は月浦鎮に突入占領し、第3師団は上海陸戦隊本部前面から中国軍を駆逐し、第11師団と連結する。

8月13日の中国軍の包囲攻撃から約3週間に渡り海軍特別陸戦隊は2400名の陸戦隊増援だけで殺到する10倍の最新装備の敵精鋭部隊を相手に大損害を出しながらも孤軍奮闘して共同租界の日本人居留区を死守した。

しかしドイツ軍軍事顧問 ゼークト大将の指導に拠り、郊外に構築された トーチカと水路を利用した要塞線は兵力を増強され依然頑強で激しい戦闘に消耗しながらも僅か2個師団で戦う上陸部隊の戦死者は既に2560名 負傷者7560名に昇り、揚子江岸近くに釘付けにされた派遣軍は大規模な増援を陸軍参謀本部に要請する。

9月28日 急遽、台湾守備隊から増援された重藤支隊を編入した第11師団は攻撃方向を転換して強力に抵抗する敵陣を突破し羅店鎮を占領した。

10月8日 東京 第101師団、金沢 第9師団、高田 第13師団の3個師団が加わった上海派遣軍は攻勢を開始、頑強な要塞線を突破して要衝の大場鎮を占領。 第一次上海事変の停戦協定ラインの蘇州河 南岸まで敵を追いやるが、中国軍も上海周辺へ逐次、兵力を増強し続けていた。

10月20日 戦線の膠着が続く上海周辺の戦況を打開する為に、熊本 第6師団、久留米 第18師団、宇都宮 第114師団、広島 第5師団 歩兵第9旅団(国崎支隊)が、第10軍として新たに編成され、苦戦する上海派遣軍の増援に動員が決定された。


10月31日 上海の南側から中国軍の脅威を排除する為に第3師団、第9師団、第101師団が個々に蘇州河の渡河を開始するも対岸には敵の強力な野戦機関銃陣や強固なトーチカがあり、渡河作戦は激烈を極めながら成功する。

第9師団は南進を続けて、第3師団は租界地南側の龍華を占領して南市まで進み、第101師団は黄浦江東岸付近の激しく抵抗する敵兵を掃討、上海国際租界の安全は一時的に確保された。


8月23日の揚子江上陸開始から続いた激戦で上海派遣軍の死傷者は約2万名に達していた。


杭州湾・白茆口 二面上陸作戦
11月5日 第6師団と第18師団は杭州湾 金山衛に上陸成功、第18師団は敵の退路遮断に西進、第6師団と国崎支隊は北上し金山鎮、8日 黄浦江を渡り国崎支隊は松江を攻略する。


11月7日 上海派遣軍と第10軍、上海方面の全作戦を統括指揮する「中支那方面軍」が創設され、上海派遣軍の松井石根大将が司令官を兼任する事となり、中支那方面軍の任務は従来の居留民の保護から敵掃滅に拠り戦争終結の動機を得る事に変更された。

しかし戦線拡大を望まない陸軍参謀本部は作戦地域を蘇州ー嘉興の線迄を制令線と定めた。

11月9日 第10軍に拠る退路断絶に大きく動揺した中国軍は一斉に退却し始める。


第6師団は蘇州河に向けて前進、後退中の敵を追撃して損害を与えながら 14日に平望鎮を占領、15日には崑山を占領した。

11月13日 中国軍の後方、揚子江の上流に位置する白茆口に重藤支隊と北支方面から増援された京都 第16師団が上陸、強固な敵陣地への攻撃を開始する。


上海・南京追撃戦
上海派遣軍と第10軍は平行追撃戦に入り、第101師団は13日 嘉定を奪取して更に前進を続け、第13師団は14日に劉河鎮を攻略、第3師団と第11師団は並進し14日に太倉を占領、第9師団は滬寧鉄道沿に前進して15日に崑山を占領した。

11月19日 第9師団は蘇州を第13師団は蕭家橋と謝家橋を第11師団は莫城鎮を占領、白茆口に上陸した第16師団は常熱を奪取、杭州湾に上陸した第18師団は嘉興を占領、南西方面への敵の退路遮断に成功する。

第10軍は独断で揮下兵団に南京攻略作戦を発動、蘇州ー嘉興の制令線を越え進撃を開始。

陸軍参謀本部では制令線を越えた部隊を全て後退させる強い意見も出たが、24日に参謀本部は作戦地域の制限を解除、但し南京方面へ進撃しないよう打電する。

現地の中支那方面軍から「敵の継戦意志を粉砕する為に南京攻略が必要である」との意見具申が通り、28日 参謀本部は南京攻略作戦を追認した。


上海派遣軍と第10軍は戦機を逃さず攻勢に敗走する中国軍を追って南京攻略に向かった。



兵力60万の中国国民革命軍との戦闘に帝國陸海軍が25万の兵力を投入した第二次上海事変は日中の本格的全面戦争の緒戦となった。

結果、日本軍は陸海軍合わせ約1万名が戦死、日露戦争の旅順攻略以来の損害を出した。

最終的に北中支への動員兵力は16個師団にも及び、内地に残る常設師団は禁闕守護の任を負う帝都 近衛師団と札幌 第7師団のみとなり、日本は莫大な戦費を出費困窮した。


蒋介石は虎の子の精鋭部隊と兵力25万を失い暗躍したコミンテルンと共産党を喜ばせた。

力を失った蒋介石と国民党は後の国共内戦再発で大陸を追われ小さな島に渡る事になる。




盧溝橋の銃弾と侵略戦争

「軍拡と侵略戦争を計画準備した帝國主義日本が土足で中国に押し入った。」

「上海を先制攻撃した軍国主義日本が中国の首都南京で30万人大虐殺した。」


アホか。

日本の敗戦を良い事に満洲事変や第一次上海事変の前1927年に中国国民革命軍共産党派が起こした日本や欧米の領事館を襲撃して外国人居留民を暴行殺害した 南京事件漢口事件などの中国に拠る暴挙を全く無かったことにするな。

揚子江に停泊中の米海軍と英海軍艦艇は南京城内の中国軍に艦砲射撃を加え陸戦隊を上陸させ交戦したが日本軍は無抵抗の命令を受け艦砲射撃も防御戦闘も行わなかった為に入城した中国兵に一方的暴虐に遭い多くの日本人と外国人が殺害され婦女子が強姦された。

当事者である各国の領事館員や目撃した新聞記者も事件を中国を批難糾弾し日本軍の治安維持の介入に期待していると国際的に報道された。

翌年4月には山東省 済南で北伐軍内の共産党派が掠奪を働き、居留民を虐殺して警備に当たる日本軍の臨時派遣隊と武力衝突した済南事件を起こした。

南京事件の当時に領事館付陸軍武官少佐で後に駐蒙軍司令官となる根本博 中将は領事館内で発砲され銃剣で突き刺されて重傷を負った経験から終戦時に停戦命令と武装解除に従わず、破竹の勢いで進撃してくるソ連赤軍に対して独断で反撃命令を下す。

駐蒙軍は激しく抵抗反撃して八路軍も抑え、4万人の在留邦人が内蒙古から天津へ脱出が終わる8月21日まで防衛戦闘を行い避難民を守り抜いた。



「盧溝橋のたった一発の銃弾から日中戦争が始まった。」


違うな。

盧溝橋の支那駐屯軍 夜間演習部隊は中国兵の挑発狙撃に応戦せずに冷静に撤収し抗議したが、事件発生と同時に中国軍は城門を閉鎖して日本軍の増援を阻止し飛行場を占拠、電話線を切断、交渉中も銃撃を続け、非常呼集した日本軍に迫撃砲を撃込み一斉射撃を浴びせた。




「最初に撃ったのは誰だ。 日本軍の陰謀だ。」 

誰が最初に撃とうが謀略であろうが偶発であろうが日中戦争に大きな捩れは生じない。 

狙撃されたのはサラエボの皇太子でもハルビン駅の首相統監でもない。


盧溝橋の弾丸は、最初の一発ではない。

溢れそうになったコップに落とした最後の一滴だった。

国共独合作後の南京政府には強い対日戦争の意思があり、戦争準備さえ整えば何時か何処かで日本軍の兵力分散を狙い陽動誘出の蛇口を開く。



1937年7月7日 盧溝橋事件に始まった一連の戦闘は不拡大方針で処理に当たる支那駐屯軍が関東軍からの増援を断り折衝を重ね、駐屯軍司令官 香月清司中将に中国第二十九軍の親日的な軍長 宋哲元が謝罪を行い停戦協定が結ばれた。


15万の北支中国軍に対し僅か4個中隊に拠る通達済の夜間演習を日本軍の挑発と言うな。

1935年12月頃から共産党配下の第二十九軍幕僚は日本軍を敵として作戦計画を立案、頻繁に演習を実施、盧溝橋一帯の兵力を増強して機関銃陣や野砲陣地、散兵壕を構築した。

更に日本軍の演習を偵察して周到な対日戦準備を整え、中国軍営地の射程内接近時には射撃を指示して日本軍の火網包囲を画策していた。


廊坊事件、電話修理の通信隊と軽装備の護衛中隊で、中国軍の一個旅団 数千名、且つ 重装備の兵営を襲撃するか。

天津への通信線は度々中国軍に拠って切断され、日本軍は中国側に事前通知し折衝を終えてから電線修理を始めたが、中国軍兵営から機関銃と迫撃砲の攻撃を受けた。

広安門事件では、北平城内の駐営地へ戻る日本軍部隊の通過中に中国軍が城門を締めて隊列を分断し、手榴弾と機関銃の猛射を浴びせた。

何れの事件も中国 第二十九軍が停戦協定を破り日本軍に待伏せ攻撃を仕掛けてきた。

この一連の流れから中国側の一方的な挑発攻撃であり、日本政府が戦争不拡大方針であった事は明白である。

7月29日 第二次上海事変の10日前に中国人保安隊が北京で在留日本人・朝鮮人200人以上を猟奇的に虐殺した通州事件まで無かったように揉み消すな。



「他国で戦ったから侵略戦争だ」とバカを言うな。 

ならば鴨緑江を越えた中ソ赤軍も沖縄と朝鮮で戦った米軍やPKO部隊も侵略軍になる。

第二次上海事変は日本が領土侵略を目論み始めた戦闘ではない。

中隊長と運転手の水兵と二人で車に乗り拳銃で中国保安隊が警備する飛行場を襲うか。

兵力20万の中国中央軍を相手に計画も無く、2400名の海軍陸戦隊で侵略を始めるか。

上海包囲攻撃は対日強行政策とドイツ軍事顧問の綿密な作戦立案指導に拠るものだ。

3年掛けて要塞線を構築し兵力60万を移動させて日本軍を誘き出し待伏せ攻撃を企んだ。

攻防兵力比 3対1の法則、常識を考えろ、上海で日本軍はドイツ軍とも戦った事になる。

戦争は大量の物資を投じる経済力の消耗戦である。

内地に2個師団しか残せず、戦費もない日本は戦争不拡大を望んでいた。

上海の日本軍は不拡大方針に基づき可能な限り交戦回避の努力を行い、戦闘が国際区域に拡大させぬよう防衛的戦術に限定し、低空で侵入する中国軍機に対しても爆撃を受けるまでは対空防御を行わなかった。

当時ニューヨーク・タイムズ上海特派員は「日本軍は中国軍の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し数日間全ての日本軍部隊を兵営の中から一歩も出さなかった。 但しそれに拠り日本人の生命と財産を危険に曝した。」と記して「中国軍が上海で戦闘を無理強いして来たのは疑う余地は無い」と他紙も報じている。

満洲国を承認してナチスやファシストを批難し対立していたローマ法王ピオ11世は「日本軍の行動は侵略ではない。日本はシナを守ろうとして共産主義を排除する為に戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会信徒は遠慮なく日本に協力して下さい。」と言う声明を出した。

鉄道付属地や租界など国際条約で保証された日本の権益や邦人居留民達の生命や財産を武力で脅かされ、日本軍が応戦反撃して守った事を侵略と言うな。

第二次上海事変も中国軍の包囲攻撃に始まった自衛戦闘であった。

当初、これら全面戦争に繋がる中国軍の日本軍への挑発攻撃はアメリカでさえ批難した。

欧米列国を対日戦争に巻込みたかったコミンテルンと民国政府や軍閥内に潜り込んだ共産党員が北・中支各地で日本軍を挑発して開戦を嗾けた。

サイクス・ピコにヤルタ密約、中立不可侵条約を一方的に破棄し宣戦布告前に大挙して満洲や千島など他国の領土に攻め込み占領したソ連の対日参戦こそが侵略戦争である。


だが戦争は勝ち負けが全てだ。 

卑怯な陰謀でも自衛の為に始めた戦闘であっても負けた者が悪くなる。


問題はコミンテルンや中共、戦勝国のプロパガンダを多くの日本人が鵜呑みにし史実を無視し検証もせず教育者やマスコミ解説者が「上海事変は日本が中国に仕掛けた侵略戦争だ」と真顔でバカを言いながら日本の侵略を前提にアホがテレビで朝まで熱く語っている事だ。



「日本が大陸に行った事が間違えだ」と言う者がいる。

日本が日清、日露、第一次世界大戦の戦役で権益を得て国際条約や協定に基づき、満州や租界に行った事は間違いではない。

大陸には英、仏、米、独、露他、多くの国から来た外国人が居留生活し事業を行っていた。

日本が馬賊の奉天軍閥や南京政府、ソ連が条約を守ると思った事が間違いの元だった。

中共の条約・契約軽視は今に始まった事ではない、中国は昔から約束を守らない国である。

日本は同盟協力の相手に張作霖や上海の包囲攻撃を主導したドイツを選んだのも間違いだ。

米英もやっていたからと言って、日本は中国に欧米列強と同じ振舞いをしてはいけない。

革命家 孫文も、知日派 汪兆銘も中国から逃れ支援を求め日本で亡命生活をしていた。

蒋介石は日本に留学し帝國陸軍で砲術や用兵を学び孫文と亡命して来た反共親日だった。

周恩来も留学していた日本には同じ東洋人にしかできない支援協調政策の選択肢があった。

倒閥した軍閥を武装解除し旧態に復すれば足元を掬われ国際世論を敵に回す事もなかった。

空母「加賀」艦載機日本海軍パイロットは450 トンの小さな河川砲艦に爆弾を命中させる。

中立国である米海軍砲艦「パナイ」の誤爆撃沈事件は米国民の対日感情を悪化させた。




暴支膺懲

「暴支膺懲 南京政府の反省を促す。」

悪い奴を懲らしめ成敗倒閥する。 気持ち良い言葉だ。

南京まで殴りに行くのは良い、敗軍も放置すれば体制を立て直し反撃攻勢に出てくる。

しかし正統な理由で始めた自衛戦闘も支那の横暴と味方の犠牲に怒り過剰防衛になった。

近衛内閣は「国民党政府を対手とせず」と声明を出したが、それを言ってはお終いだ。

文民統制、シビリアンコントロールは万能なブレーキではない。

中国は軍事力の後ろ盾の無い外交交渉が通じる相手ではない。

だが外交力の無い軍事力の行使はブレーキが壊れた暴走機関車になる。

叩いて弱った交渉相手は潰さず残すべきだ。

陸軍参謀本部は戦争不拡大方針をとり、蒋介石の国民党を交渉相手と認めていた。

「暴支膺懲」とマスコミは国民世論を煽動して戦争を支持させた。

近衛内閣は戦争遂行の予算をとり、全面戦争に消極的だった軍部のケツを叩いた。

これは軍上層部や現地派遣軍だけの過ちではなく、民主主義に拠る文民統制の結果だ。


中国兵を殺しても南京政府は反省せず、反省を促す為に日本兵を死なせてはならない。

殺せば殺すほど敵対心と殺意は募り、敵兵ゲリラの志願者は増える。

民心を掴む事が大切だ、当時、日本人に対し敵意を抱く中国人ばかりではなかった。 

戦闘になれば降伏するまで叩くのも良いが停戦講和は勝っている方が申入れるものだ。

また停戦交渉は降伏勧告ではなく、休戦協定は最後通牒ではない。

大陸の安全を確保しないまま、欧米列強の喧嘩を買ってはいけない。

中国で戦闘を続け、多勢の連合国軍を相手に太平洋で戦端を開いたのは大間違いだ。



「日本帝國主義がアジアの平和を脅かした。」と言われる。 

外国に覇権を求め進出、アジア、アフリカ、南米を植民地支配する列強は全て帝國主義だ。


支那軍閥は勢力争い国共内戦に明け暮れ分裂、義和団は再び青龍刀で居留民を襲った。

民国は国の体をなさず、条約協定を破り武力挑発を続け国際共同租界を包囲攻撃した。

欧米列強は大陸に近い新興島国の台頭に大陸権益の危機感を抱き日本の排除を考えた。

米英は香港・仏印・ビルマからの援蒋ルートを使い軍需物資を輸送して蒋介石を支援した。

英軍は仏領シリア・レバノンを攻撃占領しながら、許可を得た日本の仏印進駐を抗議した。

日本を包囲、経済封鎖した米国の海兵隊は日本陸海軍を仮想敵として強化されていた。

米国は日本に消耗させ日英同盟を四ヵ国条約で妨害しチャーチルはハルノートを書かせた。

ノモンハンで仕掛けたソ連は日中米の衝突消耗を謀り、中共を支援し南下の隙を伺った。

戦闘で負け戦略で勝ったイギリスはアヘンで手に入れた香港を97年まで返還しなかった。



「日本は中国に宣戦布告をせず、戦争を「事変」と偽り、国民を騙した」と左巻は言う。

日本が布告しなかったのは中立国アメリカから石油や物資の輸入ができなくなるからだ。

武器弾薬を輸入に頼る中華民国が国際法上、戦争当事国になれば軍需物資の調達が困難になる故に蒋介石も宣戦布告をしなかった。

日本が米英に宣戦布告した翌日の12月9日、蒋介石は日本に対して宣戦を布告した。



日清間で締結、中華民国にも継続された日清通商航海条約の破棄を一方的に宣言した。

「列強が押付けた不平等条約だ」と中国が言う。

長年に渡り不平等な朝貢強制で周辺国を搾取支配して来た中国が言うな。

当時、欧米列強や戦争に勝った者と負けた者が平等の条約を結べなかった。

列強との不平等条約を甘んじて受けて来た貧国弱兵だった日本は富国強兵に努力した。

「政権政府が変わったから以前の条約は無効だ。」と言う道理が通れば条約に不満を持つ国は何度でも国名党名を変更して条約や協定を破棄すれば良い事になる。

前者から権利は相続したが義務は知らん。 と言う身勝手な言い分は通用しない。



「日本軍が捕虜を虐殺した。」

上海戦敗退後も多くの中国軍敗残兵が民間人を襲い、食糧や服を奪い便衣兵となり避難民に紛れ込み日本軍や民間人を襲撃していた。

敗残中国兵がフランス租界の重要機関に放火、フランスの警備隊も避難民に紛れた便衣兵に対して銃撃戦を行っている。

多くの敗残兵が強盗匪賊となり日本軍に処刑されたが、便衣兵は捕虜と見なさない。

「隠れ戦闘員」便衣兵は捕虜とは異なり、国際法である陸戦法規の保護を適用されない。

戦場では殺るか殺られるか、躊躇すれば己が死ぬ。

観測兵や狙撃兵が身を隠し、反撃や狙撃の拠点になりうる家屋や建物は初隊の通過時に調査して潰しておくものだ、撃たれてからでは遅い。 


しかし掠奪や強姦は軍律に反し人として失格だ。 

愚かな兵により、国と軍旗に泥を塗る犯罪が無かったと言わない。

戦陣訓を読め、強姦するような愚か者が外交官を殴る。 



上海派遣軍司令部周辺に毒ガス弾を撃込んだ中国軍は対日戦だけでなく内戦や民衆の鎮圧にも毒ガスを使用した。

国民党軍の督戦隊は自軍兵士の逃亡防止にトーチカに錠を掛け離脱兵を処刑、前線から後退した部隊を銃撃して何度も同士討ちを起こした。

中国軍は追撃する日本軍の足止めに焦土作戦を行い長沙の街に放火して市民2万人を焼殺、黄河の堤防を決壊氾濫させ農作物に被害を与え100万人を水死と飢餓、疫病で苦しめた。

日本軍は進撃を停止して数万人の黄河流域の避難民を救助し住民と共に堤防修理や流路誘導を行い、後の大飢饉でも軍糧を放出して被災地で救援活動を行った。

大洪水を起こしたうえに農民から牛や食糧を徴発する国民党軍から離反した民衆は日本軍を支持、大陸打通作戦時に河南省では民衆の自主的な協力を得て6万の日本軍が30万の中国軍掃討戦に成功し、国民党は漢奸狩りで自国人民を日常的に処刑した。


南京、武漢と二度も首都を失った蒋介石は民衆の支持まで失い共産党分子を増殖させた。


共産党軍は長春包囲戦で国民党軍と長春市民を合わせて33万人を餓死させている。

国民党軍も共産党八路軍も各地で外国人居流民だけでなく多くの中国人を虐殺した。




帝國海軍はスラバヤ・バタビア沖海戦で撃沈した連合国艦艇の漂流する米英壕将兵800名以上を敵潜水艦から雷撃される危険を顧みず救助した。

一方で日本軍はビルマやタイで連合軍捕虜を泰緬鉄道建設に役使しバターン半島では収容所への移動中に多くの捕虜を死亡させた。

日本はジュネーブ条約には加入していたが捕虜の待遇に関する条約(全97条)に批准していない日本軍では捕虜の扱いの教育が統一徹底されず、また自軍の食糧、医療品確保や補給も充分できなかった為に多くの捕虜を病死させ、B・C級戦犯として軍事裁判で裁かれた。


では連合国は日本人捕虜をジュネーブ条約やハーグ陸戦協定に則り正しく扱ったのか。

ソ連赤軍はポツダム宣言受諾後も停戦せず南侵を続け満州で多くの民間人を殺害し略奪と強姦を繰返し日本人をシベリアに抑留し劣悪な環境下で強制労働させ34万人を死亡させた。

豪軍は移送中の輸送機から後手に縛った日本人捕虜全員を突き落とし殺害し、カウラ収容所から脱走した545名の内235名を射殺、ナウル島では降伏投降した700名の捕虜に水も与えず行進させて殺したが、これは一部であり戦闘後の虐殺が日常的に続いた。

米軍はルソン第一捕虜収容所で食事を与えず日本兵捕虜 1万2千名が栄養失調で死亡した。

白い船体に赤十字を明示した病院船「ぶえのすあいれす丸」はラバウルから傷病兵を乗せてパラオに回航中にB-24に爆撃され沈没、その後も来襲した米軍機が海面を漂う負傷者や看護婦、医師、乗員の救命艇へも機銃掃射を掛けて殺害した。

この7ヵ月前、同船は香港近海でも米潜水艦 SS-275の雷撃を受け7名が負傷者した。 

犠牲者174名を出した非情な攻撃を日本は抗議したが米国は「赤十字の表記不明瞭による誤爆で抗議は筋違い」と回答、同船には条約規定以上に標識が追加され連合国籍の病院船と同じ表記がなされた何処から見ても病院船だった。

史実から連合軍がハーグ陸戦条約を遵守せず日本人の命と尊厳を軽視していた事が分かる。

この他にも雷撃沈没させた日本艦船の乗員を米潜水艦は浮上して機銃を撃込み殺している。

日本本土で米戦闘機は非戦闘員と目視確認できる低空から婦女子を機銃掃射で殺害した。

日本人を人とは見ず東洋の黄色い猿として首を刈り、捕虜を捕らない事を自慢する部隊が米壕軍に存在し、両手を上げ投降する無抵抗の日本兵を嬲り殺して楽しみ民間女性を強姦して殺した。

人間から金歯や手首、頭蓋骨を集めていたのはアウシュビッツのナチスSSだけではない。

こうして多くの日本人 WIAやPOWは、MIAやKIAになった。


しかし戦勝国の米英豪中ソ軍の蛮行は、一例も戦犯として裁かれる事は無かった。
 
戦うなら絶対に負けてはいけない。

侵略、大虐殺、戦犯、敗者が悪となり、勝者が正義を騙り裁く戦争に勧善懲悪など無い。


また日本軍の多くが玉砕し民間人が自決した理由は戦陣訓や軍上層部の強要だけではない。

降伏しても殺されるなら、最後まで応戦して死ぬ事を多くの将兵が選んだからだ。

戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず」は捕虜にならず自決せよ。 と言う意味ではない。


栗林忠道中将 率いる小笠原兵団の硫黄島での戦いを見よ。

島民を強制疎開させ敵の艦砲射撃と爆撃に曝される水際の防御戦を採らず、地下要塞を構築して無意味な肉弾突撃や自決を厳禁とし、最後の総攻撃まで敢闘、栗林中将は戦死した。




軍紀と戦陣訓

自分の元直直属上司で元陸軍航空技術大尉の父上、畑俊六 元帥陸軍大将の日記より

支那派遣軍も作戦一段落とともに軍紀風紀漸く類廃、掠奪、強姦類の誠に忌はしき行為も少からざる様なれは、此際、召集予后備役者を内地に帰らしめ現役兵と交代せしめ、 また上海方面にある 松井大将も現役者を以て代らしめ、また軍司令官、師団長等の召集者も逐次現役者を以て交代せしむるの必要あり。

畑俊六 陸軍大将 寺内寿一 陸軍大将 二元帥、徐州にて   中国国民党 蒋介石 蒋緯国 ドイツ軍装


畑俊六 大将は松井石根 大将の後任で中支那派遣軍司令官になり徐州・武漢作戦を指揮。

大陸打通作戦を完遂、元帥府、教育総監、広島で原爆に被爆する。


畑俊六 大将は戦後に下記の日記を残している。


昭和十三年二月、私は松井石根 大将の後を受けて上海に到着した。

私は直接には兵団と関係がなかったので、各郷土の特質についてはあまり良く知らないが、上海に到着するまで、南京の虐殺と言う事は夢にも考えていなかった。

南京に到着してみても、なんの痕跡もなかった、人の耳にも入ってない。

ところが、東京裁判が始まると南京虐殺の証拠が山の様に出された。

それが為に松井石根 大将は、ついに悲惨な最期を遂げられた。

それも運命と思えば諦められないこともないが、今にして思えば、南京の虐殺も若干行われたことを私も認めている。

けれどもこれは戦場という特種の環境の下で働いた心理作用のなせる業で平静に帰った時、これを責めるのも無理だと思っている。

元々、この裁判の遠因が、所謂、復讐の為の裁判だったのだから止むを得ないことだろう。



左翼が畑俊六 大将の日記を引用、編集し、南京大虐殺が有った証拠だと喚く。


日記の何処にも大虐殺が有った、大虐殺を見たと書いてない。


南京で処刑はあったのか。   答えは「YES」だ。

南京大虐殺はあったのか。   答えは「NO」だ。


南京も他の戦場と同じように便衣兵掃討、敗残兵捕虜の虐殺が起こっても不思議ではない。

しかし上海派遣軍参謀の通達また下令に拠る民間人の大量虐殺は行なわれなかった。

大量虐殺の現場を見た証言者はおらず、証拠の写真とされる物も捏造や通州事件で中国保安隊が起こした物と擦換えられ、また戦闘前25万だった南京の人口が攻略後5万人増加している。


だが右翼も全く虐待虐殺が無かったと言うな、虐待虐殺の無かった戦争など無い。


盧溝橋事件、大山中尉事件、廊坊事件、広安門事件、全て中国軍が仕掛けた戦闘だ。


上海市街爆撃、南京虐殺、長沙大火、黄河決壊など中国は自軍の掠奪虐殺の蛮行を常に日本軍の暴挙として喧伝した。


戦後、中共と日本国内の左巻連中が史実を隠蔽し、70年経った今でも南京事件は捏造水増しされ反日のプロパガンダに都合良いツールとして利用している。



「天皇崇拝と戦陣訓が日本人を人殺しにして玉砕を産んだ。」とバカが言う。

天皇陛下の御心は常に友好と安寧を望んでおられた。

戦陣訓を曲解するな。

戦陣訓は教育総監を務め旧会津藩士 畑俊六 大将が陸軍大臣時代に皇軍軍紀の乱れを憂い戒める為に発案した。


戦陣訓 本訓 其の三 第一 戦陣の戒

一 一瞬の油断、不測の大事を生ず。 常に備へ厳に警めざるべからず。
   敵及住民を軽侮するを止めよ。 小成に安んじて労を厭ふこと勿れ。 
   不注意も亦災禍の因と知るべし。

二 軍機を守るに細心なれ。 諜者は常に身辺に在り。

三 哨務は重大なり。一軍の安危を担ひ一隊の軍紀を代表す。
   宜しく身を以て其の重きに任じ厳粛に之を服行すべし。
   哨兵の身分は又深く之を尊重せざるべからず。

四 思想戦は、現代戦の重要なる一面なり。 
   皇国に対する不動の信念を以て、敵の宣伝欺瞞を破摧するのみならず、
   進んで皇道の宣布に勉むべし。

五 流言蜚語は、信念の弱きに生ず。 惑ふこと勿れ、動ずること勿れ。 
   皇軍の実力を確信し、篤く上官を信頼すべし。

六 敵産、敵資の保護に留意するを要す。 
   徴発、押収、物資の燼滅等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。

七 皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。

八 戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は慾情に駆られて本心を失ひ皇軍の威信を損じ、
   奉公の身を過るが如きことあるべからず。
   深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。

九 怒を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。
    一瞬の激情悔を後日に残すこと多し。
   軍法の峻厳なるは特に軍人の栄誉を保持し、皇軍の威信を完うせんが為なり。
   常に出征当時の決意と感激とを想起し、遙かに思を父母妻子の真情に馳せ、
   仮初にも身を罪科に曝すこと勿れ。


  第二 戦陣の嗜

一 尚武の伝統に培ひ、武徳の涵養、技能の練磨に勉むべし。  
   「毎事退屈する勿れ」とは古き武将の言葉にも見えたり。

二 後顧の憂を絶ちて只管奉公の道に励み、常に身辺を整へて
   死後を清くするの嗜を肝要とす。
   屍を戦野に曝すは固より軍人の覚悟なり。
   縦ひ遺骨の還らざることあるも、敢て意とせざる様予て家人に含め置くべし。

三 戦陣病魔に斃るるは遺憾の極なり。  
   特に衛生を重んじ、己の不節制に因り奉公に支障を来すが如きことあるべからず。

四 刀を魂とし馬を宝と為せる古武士の嗜を心とし、戦陣の間常に兵器資材を尊重し、
   馬匹を愛護せよ。

五 陣中の徳義は戦力の因なり。常に他隊の便益を思ひ、
   宿舎、物資の独占の如きは慎むべし。 「立つ鳥跡を濁さず」と言へり。 
   雄々しく床しき皇軍の名を、異郷辺土にも永く伝へられたきものなり。

六 総じて武勲を誇らず、功を人に譲るは武人の高風とする所なり。
   他の栄達を嫉まず己の認められざるを恨まず、省みて我が誠の足らざるを思ふべし。

七 諸事正直を旨とし、誇張虚言を恥とせよ。

八 常に大国民たるの襟度を持し、正を践み義を貫きて皇国の威風を世界に宣揚すべし。
   国際の儀礼亦軽んずべからず。

九 万死に一生を得て帰還の大命に浴することあらば、具に思を護国の英霊に致し、
   言行を慎みて国民の範となり、愈々奉公の覚悟を固くすべし。



帝國軍人は兵士である前に、武士、紳士、人として己を戒め高めよ。と言うことだ。



日本兵が中国の子供達と遊び笑顔で話している写真。

左翼は侵略戦争を隠す為に日本軍がやらせで撮った宣伝だと言う。 

米兵がガムを配る写真も原爆や焼夷弾を落とした無差別爆撃を誤魔化すプロパガンダか。



「日本軍は弱かった。 八路軍は強かった。」

大陸で日本兵は旧式装備と劣勢な兵力で300万の中国軍を相手に8年間も連戦連勝した。

上海戦で敢闘精神ある中央精鋭部隊の壊滅後、中国兵は局所を襲撃しては逃げ回った。

幾つ都市を落とそうが中国軍は殲滅できない、国府軍は都市を死守して決戦全滅はしない。

そもそも、街や田畑に放火して黄河の堤防を壊す中国兵には領地領民を守る意識がない。

日本軍に負ければ便衣兵になり良民に紛れ込み、農民から牛や食糧、衣服を強奪する。

武器弾薬など軍需物資を外国の援助に頼る中国の都市産業に重爆撃を加えても効果は薄い。

日本軍は英米からの援助物資の輸送路である援蒋ルートを遮断する為、仏印に進駐した。



インパール作戦は中盤まで完全に日本の勝利の連続だった。と言う者がいる。

敵の放棄地帯への進撃を勝利と言うな。

防御戦闘をとりながら後退する英軍に攻撃限界点まで引込まれ兵站は延び切り疲弊した。


ディマプールさえ落とせば英軍の食糧が手に入ったはずだ。と言うアホもいる。

占領軍部隊は占領地の放棄退却時、食糧、燃料弾薬を敵に残さず処分するのが鉄則だ。

敵の糧食、燃料を当てにする作戦を無謀と言う。 

日本軍はディマプール攻略どころか陥したコヒマの維持も不可能な状態だった。


陸軍最強と謳われた菊兵団 久留米 第18師団は友軍の53師団から糧食武器を強奪した。

最強兵団も飯と弾がなければ戦はできぬ、強い軍隊には強い兵站補給が必要だ。

戦争に強い精神力は必要だが精神力だけでは勝てない。

兵站を無視したインパール攻略は400km後方のメイミョウいた牟田口の無責任な妄想。

味方の兵を殺す無謀な作戦を立案強行した無能な高級参謀や指揮司令官こそ戦犯である。


日本軍は追撃殲滅戦を繰返し兵站補給線は延び消耗を続け南方へも兵力を抽出した。

広い大陸で兵站を陸路鉄道に頼っては勝てない、大陸の行動には機動空輸力が必要。

戦線を延ばす事は難しくないが、拡大した占領警備地域の安全と兵站維持は難しい。

広い敵地、アウェイである中国大陸での戦いは大きな肥溜に嵌ったも同然だった。

奪取占領した点と線は翌日から糞の中に沈み始める。


だが海軍特別陸戦隊は兵力10倍の包囲攻撃から共同租界を守り抜き、上海派遣軍は兵力10倍の敵要塞線の防御を撃破、日本軍は攻防兵力比 3対1の常識を破った。

ノモンハンの戦いでは関東軍 第23師団は戦車・装甲車輌数8倍の圧倒的優勢なジューコフのソ連赤軍第57特別軍団の戦車250輌・装甲車70輌を撃破、戦死傷者約2万6千名の損害を与えた。

マレーの虎 山下奉文中将はマレー半島上陸から95回の戦闘に勝利し55日間で1,100kmを走破進撃、一週間でシンガポール要塞を攻略、英軍13万名を捕虜にした。

栗林忠道中将は参謀長として僅か18日で九龍要塞を落し香港を攻略、英軍1万1千名を捕虜にし硫黄島の戦いでは米軍の戦死傷者はノルマンディー上陸時を上回る約2万8千名に達した。




「八路軍が日本軍から中国を解放した」と中共と左翼が言う。


八路も上海で国府軍と共に日本軍を包囲攻撃したが、形勢不利になると真っ先に逃げた。 

国共独合作の結果は記した通り、上海はおろか上陸した3個師団に首都南京まで奪われた。

日本が連合軍に降伏し、停戦命令を受け武装解除された祖父は、八路に外套、時計、万年筆など、私物を身ぐるみ剥がれたが、戦闘で八路に負けた事は一度も無い。

日本軍が戦闘初段で八路に不意討ちを食らう事は1,2度あるが全て反撃撃退している。


1945年のソ連参戦以前に八路軍が戦闘で日本軍から奪回した街は一つも無い。

有ると言うなら都市の名を上げてみろ、聞いた事もない百人に満たない村の名を言うな。

内戦停止、一致抗日を訴え国共合作を叫んだ共産党は国民党軍と日本軍を戦わせておきながら、己は逃げ回り、ちょこちょこ山から降りて来て散発的な襲撃を繰返した。

最後には美味い話しで農民を騙し、国府軍の足を掬って飯と大陸を手に入れた。

通化事件、いったい何処が解放軍だ。

人民解放軍と名乗る毛沢東の八路は独立国チベットに解放と嘯き侵攻 して武力で征服する。 

漢民族解放軍は国民の軍隊ではない、人民解放軍は中国共産党の私兵だ。

人民解放軍はポルポトの虐殺に手を貸し、親ソ国であったベトナムにも侵攻した。


ベトコン NVAは強い、仏米との終戦4年後、兵力6倍の人民解放軍と戦い負けなかった。

たとえ敵であっても祖国の為に勇敢に戦う将兵には敬意を持つべきだ。

インドシナに駐屯していた帝國陸軍 第38軍 第34独立混成旅団 参謀 井川省少佐ら高級将校から下士官、兵卒に至る 約600余名の日本人志願兵が祖国の降伏後も復員帰国せず植民地ベトナムとフランスとの間に勃発したインドシナ独立戦争に参加した。

インドネシア、ビルマ、ベトナム、マレーで独立戦争で数千名の日本兵が戦死した。




「日本は反省もせず、新しい国際秩序へ挑戦している。」と中共の報道官が嘯く。

「新しい国際秩序」 狂った様に軍拡し海外覇権を狙う中共に都合の良い言葉だ。

共産主義を捨てた覇権主義中華帝国はチベット、ウイグル族など少数民族を搾取虐待し周辺諸国に対して嘘と挑発による侵略を今日現在も行なっている。


大陸から復員して起業した祖父は華人の友人や取引相手が多く中国が好きだった。

片言ながら中国語を話せた祖父は記したように南京攻略には参加していない。

漢奸だと言われれば、それまでだが平穏時は日本軍衛生兵が中国人を診る事もあった。

祖父は日本兵が虐殺や強姦する現場を見た事はない。

満州や北支でも祖父と中国人との関係は敗戦まで悪く無かったと聴いた。

自分の華僑の友人や上海、大連の海運会社の知合いは日本と日本人が好きだ。 

全中国人の行儀が悪いわけではなく生れ育った環境や思想知識は人格形成に影響する。

頭が回る左は人民を洗脳、粛清し邪魔者を消す。 

頭の悪い左は他国に利用され祖国を売り滅ぼす。

感情的な左は革命に酔いテロと内ゲバで市民も仲間も殺す。

狡く賢い左は共産主義を騙り、独裁と搾取で私腹を肥やす。

平気で嘘を並べ他人の物を欲しがる中国共産党を自分は信用しない。


戦後、中国と友好条約を結んだ日本は再び中国に行った。

日本は中国に莫大な資金援助を行い空港や地下鉄、港湾設備を整備し工場やプラントを作り、惜しみなく技術を教え、中国は物を作れる国になり消費を楽しむ国になった。

中共は抗日と建国を援助した米国を裏切り、紅い同志ソ連も裏切った恥知らず恩知らずだ。

経済的に繁栄すると共産党は歴史・領土問題を持ち出し反日を指導し排日運動を煽動した。

「我が中国は豊になった、小日本鬼子は出て行け。」

中国大陸に赴いた在留邦人が再び襲われた。

排日を叫ぶ暴徒達は日本企業の工場や店舗に火を放ち日本車を壊し日本大使を襲撃した。

青龍刀や銃こそ使わないが、やっている事は義和団や事変の便衣兵と変わらない。

「愛国無罪」・・・・・ 上海租界や通州の中国保安隊か。 

チベットやウイグル、天安門では容赦ない武警や公安が反日排日暴動は傍観している。





負けても強い国

再び中国は横暴になり南シナ東シナ海で無法を繰返し尖閣や沖縄を狙い米軍と日米安保の弱体化を工作、朝鮮半島の利用を企み、対日長期戦を想定し挑発と罠を仕掛ける。


時に感情的な振りをする事も必要だが国家が感情で行動していけない。

戦いは冷静な者が勝つ、相手の真の意図とリスクを分析しなければならい。 

武力に拠る正面衝突だけが戦争ではない。

勝者が正義を騙り、敗者を悪とする戦争に正義はない。

衝突を回避し、軍事と経済力を後ろ盾にした外交努力が最優先。 

だが掛る火の粉は払わねばならない、戦わざるを得ない時、絶対に負けてはいけない。


戦わねばならぬ時は全力で戦い負け戦を美化せず、検証反省しなければ同じ過ちを繰返す。

過去に学んで未来に活かす。 

自分は祖父や伯父が陸海軍にいたからと言って擁護や欲目、左右思想で歴史を見ない。

日本は敗戦を反省しなくてはならないが必要以上に自虐的になる事は無い。 

今に生きる日本人は祖国の歴史事実を知っておくべきだ。


米・英・壕・中・ソ他の連合軍を敵に回し、8年間も戦った島国など世界の何処にも無い。

連合国から袋叩きに遭い、原爆を2発も落とされ人類初唯一の被爆国となり、敗戦した資源も無い日本は焦土から這い上がり産業を復興し、僅かな歳月で世界有数の経済技術大国になった。

自分は国と家族の為に戦った日本軍将兵を誇りに思い感謝し、絶対に忘れない。


日本人は一度、戦争に負けた事で誇りと自信まで失ってはいけない。 


負けても立ち上がる国が本当に強い国だ。



「太陽の帝国」 兵に告ぐ 二・二六事件 に続く。

Posted at 2013/11/12 23:03:09 | コメント(3) | トラックバック(0) | 太陽の帝国 | 日記
2013年10月12日 イイね!

Empire of the Sun 10 「太陽の帝国」 満洲事変

Empire of the Sun 10 「太陽の帝国」 満洲事変「太陽の帝国」 運命の瞬間 の続き。

自分の父方の祖父や伯父達は帝國海軍いたが母方の祖父は帝國陸軍に籍を置き上海、台湾、満洲と転任して終戦を華北で迎え、約1年後に小倉に復員した。

また軍人だけではなく 親戚が海運会社を経営していた関係で南満洲鉄道や華北交通などの運輸流通や満鉄病院など医療で外地に勤めていた方々がいる。


祖父の存命中には神戸にある祖父の知人の華僑が経営する支那料理店にもよく連れて行って貰い大陸の話しをよく聞いた。

祖父は戦中に何度となく死にかけたが、料理同様に支那や満洲が好きで懐かしんでいた。


また自分の元直属上司の父上が対ソ戦発動と三国同盟 日米開戦の反対を具申した侍従武官長 陸軍大臣 支那派遣軍総司令官と歴任し終戦前に広島で被爆した 畑俊六 元帥 陸軍大将であり 張作霖爆殺事件後に着任した関東軍司令官 畑英太郎 陸軍大将が叔父上だった元陸軍航空技術大尉からよく話しを伺って大陸・満洲に於ける日本の歴史は身近に感じる。

畑俊六 陸軍大将 寺内寿一 陸軍大将 二元帥、徐州にて   中国国民党 蒋介石 蒋緯国


自分は船員時代に天安門事件前、人民服の大連港やソビエト連邦時代から太平洋艦隊基地があるウラジオストク開港前のナホトカに入港、戦前と変わらぬ様な古い港湾設備と煉瓦作りの倉庫街並や深い森林と広がる大地を見て同じ北東アジアでありながらも日本とは全く異質な極東地域の風情に郷愁を感じた。 極東ソ連の事は、また今度書きたいと思う。


その遼東半島 大連や沿海州 ナホトカから奥入る、我々の先輩達が開拓開発した満洲とは、

満洲は現在の中国東北部、ロシア沿海州、内モンゴル東部の満州族、モンゴル族の支配故地

面積は日本の約3倍ある広大な地域で、北東はアムール川(黒竜江)、ウスリー川の対岸はロシア、南東は鴨緑江を境に朝鮮半島、南は遼東半島を有し黄海と渤海に面し、西は大興安嶺山脈を隔てモンゴル高原、南西は万里の長城東端の山海関が華北との境界「関の東」と言う意味で「関東」とも呼ばれる。



太平洋戦争は真珠湾攻撃ではなく、満洲、上海、日華事変から始まる。

その事変に至る経緯と史実は日清戦争以前まで遡らなければ正しく理解し判断できない。

満洲は中共やマスコミ左翼が言う様に日本が土足で侵略し漢民族から奪い盗ったのか。



ロシアの南下
1636年 少数民族の満洲族が満洲に清国を建国、多数であった漢民族の明朝を滅亡させて満洲地域及び中国内地全体を支配し、漢民族が満州に移入することを禁じた。

明や清の時代の一時期を除いて万里の長城の外側である満洲はチベットやモンゴルと同じく漢民族の絶対的統治領ではなかった。

17世紀になると南下を始めたロシアと清朝との間で紛争が発生、ネルチンスク条約により国際的に満州全域が正式に清朝の国土と定められたが、イギリスは阿片を蔓延させフランスと連合して弱体した清に軍を送り、不平等な天津・北京条約を結ばせ清の植民地化を図る。

これらの条約でイギリスは九竜半島と香港を手に入れ、調停に入ったロシアは清にアイグン条約を結ばせ外満洲地域(沿海州)を割譲してウラジオストクを開港する。

1894年 朝鮮で近代化を求め清国への事大政策と朝貢廃止を掲げた甲申政変に続き農民戦争が発生して日清両国は天津条約に基づき朝鮮に出兵、動乱終息後も清国は軍を撤退させず、日清の対立は激化し日清戦争に発展した。

威海衛港の清国北洋艦隊と基地を殲滅した帝國陸海軍に降伏する清国兵捕虜

日清戦争に勝利した日本は遼東半島、台湾、澎湖諸島を清から割譲して朝鮮を朝貢冊封体制から解放独立させ、沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放させる日清講和・下関条約を締結する。

しかし仏・独・露の三国干渉と賄賂に拠り、ロシアは遼東半島南端の旅順港に艦隊を強制入港させ旅順・大連を租借して不凍港を獲得すると同時に万里の長城以北と満洲全域に勢力圏を拡大。

更にロシアは朝鮮半島北部の鉱山採掘権や森林伐採権、関税権などの国家基盤を朝鮮王朝から取得し、朝鮮での影響力を増して南下政策を取り続ける。

ロシアの南下政策に危機感を持っていた日本が朝鮮王の高宗が売り払った利権を買い戻して朝鮮の国権を回復させた。

1900年 清で義和団の乱(排外運動)が起こり欧米列国に宣戦布告、ロシアは満洲へ侵攻し全域を占領下に置いて満洲の植民地化の既成事実を企み、朝鮮半島も勢力権内に取込もうとするが、日英米がこれに抗議し為にロシアは撤兵を約束する。

しかしロシアは履行期限後も撤退するどころか駐留軍の増強を図り、旅順港に強力な艦隊を配置し旅順要塞も大規模に強化した。

西洋の大国であるロシア帝国が極東の新興小島国であった日本との外交交渉に耳を貸す事はなくロシアとの戦争を決意した日本は日英同盟を頼りに借金をして戦費を調達し、シベリア横断鉄道の全線開通とバルト海を出るバルチック艦隊が日本近海に到達する前にロシアとの開戦を準備する。

1904年2月8日 帝國海軍は仁川と旅順港奇襲攻撃を以って日露戦争の戦端を開いた。


帝國海軍連合艦隊は黄海海戦で旅順艦隊、蔚山沖海戦でウラジオストク艦隊を撃退する。

日露戦争に於ける主たる陸海戦図

帝國陸軍は仁川上陸に始まる南満洲を主戦場にしたロシア帝国陸軍との会戦に勝利を重ねるが、旅順要塞攻略に苦戦し、奉天占領時には各師団の戦闘能力は既に限界を超えて戦費は底を着き武器弾薬の補充調達にも苦慮していた。

帝國陸海軍に包囲攻略された旅順港

一方のロシア帝国も国内で民衆に拠る反帝政の革命運動が高まり、各地での陸戦海戦に連敗し、日本海海戦に於いてもバルチック艦隊が連合艦隊に撃破され制海権も失っていた。


艦砲と海軍陸戦重砲、及び二八センチ榴弾砲の砲撃で大破して自沈、擱坐したロシア旅順艦隊


戦争継続能力を失いつつあった日露両国は米国の仲介により講和交渉のテーブルに着いた。



南満洲鉄道獲得、大陸進出
1905年9月4日 ポーツマス日露講和条約調印で南満洲鉄道を獲得し、遼東半島の旅順・大連の租借権など日本は大陸に於ける権益を得て朝鮮半島を保護下に置き、北緯50度以南の南樺太を奪還する。

同年、満州善後条約で日清両国間でも南満州鉄道及び附属地の権益と吉林への延伸、日露戦時に日本が建設した鴨緑江に至る安奉線の継続使用権、関東州租借権、日本軍常駐権、鉱山採掘権、森林伐採権、日本人の居留保障を確認、日露協約で朝鮮・満洲と内蒙古東部に於ける日本の権益を協約した。

しかしロシアから賠償金は取れず、戦費返済に苦しむ事になり日本国民は暴動を起こした。

1909年10月26日 ロシア蔵相 ウラジーミル・ココツェフとの会談の為に満洲を訪れていたアジア最初の立憲体制の生みの親であり、日本の初代内閣総理大臣、初代韓国統監を歴任した伊藤博文を朝鮮人の安重根がロシア権益のハルビン駅構内で襲撃し殺害した。

暗殺当時、伊藤は既に(同年6月)韓国統監を退任していた。

1910年8月29日 日本の寺内正毅 韓国統監と大韓帝国の李完用 首相により日韓併合条約が調印され大日本帝國が大韓帝國を併合した。

1912年 清国で辛亥革命が起こり、革命家孫文を臨時大総統として南京に臨時政府を置き共和制を敷く中華民国が誕生、清朝の第12代 皇帝 愛新覚羅 溥儀は北洋直隷軍閥の袁世凱に退位させられる。

君主制が終わり軍閥の勢力争いと1949年の国共内戦終結まで続く長い内乱が始まる。

1914年8月23日 日本は日英同盟に基づきドイツ帝国へ宣戦布告、連合国側で第一次世界大戦に参戦、帝国陸軍はドイツ権益の山東半島 青島要塞を攻略、帝国海軍はドイツ植民地の南洋諸島を攻略した。

1916年 満州 鄭家屯で中国軍が駐留日本軍将兵と警察官の殺害事件を起こし、長春で日中両軍が衝突した寛城子事件の勃発により日中関係は悪化する。

1918年 連合国はチェコ軍捕囚救出の名目でロシア共産革命政の権打倒と東部戦線への揺動にシベリア出兵を決定、日米主力の連合軍がウラジオストクに上陸した。

1919年4月 帝國陸軍は広がった外地領や大陸の租借地に内地から編入し駐屯守備隊を増強、台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍と同様に遼東半島と南満洲鉄道附属地の警備、邦人保護と治安維持を目的として関東軍を編成する。

1920年にはニコラエフスク(尼港)で赤軍パルチザンと中国海軍によって駐留日本軍が殲滅、領事一家以下在留邦人300人以上が惨殺され、住民 6000人余りが虐殺される尼港事件が引き起こされた。

1922年 ロシアでは内戦後ボリシェヴィキがソビエト連邦を樹立、全土が共産赤化する。

この頃より中国は排日に傾き、ソ連は南下政策を進め日本が正当に得た権益や居留民の生命財産が脅かされる事になる。

1924年 皇帝を退いた溥儀は軍閥のクーデターにより紫禁城からも強制的に退去させられ、各国の領事館に庇護を求めたが内政干渉になると拒否される。

関東大震災で溥儀から義援金を送られた日本政府は教師ジョンストンの申し出から彼を受け入れ、北京の日本公使館に保護された溥儀は後に天津の日本租界に移住する。


内地では工業化が進むも日本は依然として農業が主体で世界的な経済恐慌と冷害に因る飢饉は農村部へ大きな打撃を与え、日本政府は外地に活力を求める。


1929年 政府は外地統治の為に拓務省を新設して朝鮮総督府・台湾総督府・樺太庁・南洋庁の監督業務を行い、拓務省下に南満洲鉄道や東洋拓殖、南洋拓殖、南洋興発などの国策会社を設立する。


国策に沿って財閥民間企業も大陸や朝鮮、台湾に進出しインフラや産業は整備され、金融機関が集まり都市部は近代化が進んだ。


大陸都市部の新市街は広さやデザインに自由がありモダンで独創的な建築物が立ち並んだ。




支那軍閥と関東軍
関東軍は日露戦時に日本に寝返った満州の親日派馬賊 張作霖の奉天軍閥に軍事顧問団を送り 協力関係を保っていたが満洲を実効支配した張作霖は日本の意に反し関内へ南侵を始める。

張作霖は満洲南部に産まれ吉林で馬族になったが、漢族移民の子で満州族ではない。

安徽派や直隷派など他の北洋軍閥との戦の度に張作霖は関東軍に支援を求めながら朝鮮人安住や土地商租権など諸問題解決の約束は守らなかった。

欧米資本を取入れたい張作霖は欧米列強に追随し日本と距離を置き始め関東軍との関係も悪化、特に大陸政策に出遅れていた米国が接近し経済政治両面で積極的に張作霖を支援した。

1926年12月 山海関内、即ち中国国内に侵攻し北京に入城した張作霖は自ら大元帥に就任すると同時に中華民国の主権者であることを宣言する。

1927年3月 南京・上海を占領した中国国民革命軍内の共産党派が外国人と外国領事館を襲撃する南京事件漢口事件を起こした。

南京城内の中国軍に対して揚子江に停泊中の米英海軍艦艇が艦砲射撃を加え陸戦隊を上陸させ交戦したが日本軍は無抵抗の命令を受け艦砲射撃も防御戦闘も行わなかった為に入城した中国兵の一方的な暴虐に遭い日本と欧米の外交官と宣教師が虐殺され婦女子が強姦された。

翌年4月には山東省 済南で居留民が北伐軍内共産党派に掠奪虐殺され、警備に当たる日本軍の臨時派遣隊と武力衝突した済南事件を起こす。

国民政府は日本軍の不法行為と宣伝したが、ニューヨーク タイムズや英国紙デイリー テレグラフの現地特派員は「日本人の忍耐にも限度がある。」と中国軍の掠奪虐殺を強く批難糾弾し、日本軍の行動は当然の自衛の為に必要最低限の正当防衛で今後の日本軍の治安維持活動に期待していると国際的に報じた。

蒋介石は武漢国民政府の左派勢力に対抗し国民党から共産主義者とソ連の顧問を排除追放して南京に国民政府を設立する。

奉天軍内への共産主義の浸透を危惧し満洲の共産化を警戒した張作霖は在北京ソ連大使館官舎を強制捜索、ロシア人と中国人80名以上を検挙、武器と機密文書、煽動紙等を押収した。

蒋介石から「山海関以東には侵攻しない」と言質を取った関東軍は張作霖を積極的に支援しなくなり蒋介石の北伐国民革命軍との戦いに敗れた張作霖 奉天政府の財政は破綻し満洲の支配力も衰え国民党に擦り寄って行く。

張作霖と旧知の仲である元満州軍参謀 田中義一首相は奉天軍閥と関係を維持しようとしたが勢力争いを続ける支那軍閥に頼る安定統治に限界を見た現地の関東軍高官は社会インフラを整備して親日政権国家樹立に拠る満洲の間接統治(満洲国建国)を考える様になる。


1928年6月4日 関東軍司令官 村岡長太郎 中将が発案し、高級参謀 河本大作 大佐が首謀して張作霖が乗った南満洲鉄道の特別列車を奉天近郊の皇姑屯を走行中に爆破、国民党軍の仕業に見せ掛ける偽装工作を行い張作霖を殺害する。

田中首相は陸軍と閣僚に押され事件を隠蔽上奏し、謀略を知った天皇陛下に叱責され田中は引責辞任して内閣は総辞職、陸軍は村岡司令官を依願予備役、河本大佐を停職に処した。

爆死した張作霖の後を引継いだ息子の張学良は青天白日旗を掲げ南京国民政府へ下り、蒋介石に満州の不干渉を確約させ北満からソ連の権益排除を画策する。

蒋介石は奉天軍閥 張学良の合流により北伐を完遂させ国内の共産勢力掃討に力を注ぐ。

翌年、コミンテルンの赤化工作の謀略を察知した蒋介石は張学良に命じ活動拠点であるハルピンのソ連総領事館を強制捜査させ領事と職員を逮捕、ソ連権益の中東鉄道に軍隊を配置して南京政府が接収、ロシア人管理職員を排除して中国人を任命した。

1929年7月18日 日本が厳正中立の立場をとり関東軍の不介入を確認したソ連は南京国民政府に国交断絶を宣告して赤軍が満洲に侵攻、張学良軍を撃破し中東鉄道全線を占領して中東鉄道の経営権と特別区の行政を握り、満洲に於けるソ連の影響力を反対に強める。



1928年7月19日 中華民国南京政府は国家継承に於ける条約継承否定説を採用、日清間で締結された諸条約無効を主張し一方的に日清通商航海条約の破棄を宣言していた。

ソ連に敗れた南京政府と張学良は矛先を日本の権益と日本人に向け排日に傾いて行く。

南京政府は南満洲鉄道と並行する鉄道新設の禁止等を定めた日清間の満洲善後条約締結を無視して新たに満鉄線に並行する鉄道路線を建設、安価な輸送単価で南満洲鉄道の経営の枯渇を狙い満鉄の付属地に柵を張り廻らし通行口に監視所を設け大連港から入る物品に輸入税を掛けて更に付属地から持出す物品に対し二重の税を掛けた。

また満洲善後条約では鉄道付属地外でも営業権は保証されていたが、中国の官憲による一方的な許可取消や事業妨害に林業、鉱業、商業等の日本人企業の経営不振が続出する。

満洲鉄道、及び東清鉄道の路線図

徹底的に排日を進める南京政府は日本人や朝鮮人に土地を貸売りした者を国土盗売者として処罰する「盗売国土懲罰令」を制定、多数の朝鮮人農民から土地を奪い抵抗した500人以上の朝鮮人が奉天監獄に投獄された。

更に「鮮人駆逐令」の発令により、迫害された朝鮮人農民は長春 西北の万宝山に入植しようとし、反発した中国人が朝鮮人農民を襲撃、日本領事館が朝鮮人農民保護の為に急行させた警察官と武装した中国人の暴徒が衝突する 万宝山事件が発生し、朝鮮排華事件が起こる。


1931年6月27日 南京政府の排日政策が続く中、対ソ戦に備えて陸軍参謀 中村震太郎 大尉が軍用地誌調査の命を受けて匪賊横行を理由に一方的に設定された蒙古興安嶺の日本人立入禁止区域に農業技師と身分を隠し井杉延太郎 退役兵曹長と白ロシア人、蒙古人の4名で調査旅行中に張学良配下の屯墾軍に拘束される。

中村大尉は護照を提示したが屯墾軍は無効として取り合わず、一行が多額の旅費を所持していた為に殺害し証拠隠滅に遺体を焼いて埋め、一行の金品、護身用ピストル、その他一切の物を隊長の関玉衡とその部下が略奪した。

これと時を同じくし日本人女学生数十人がピクニック中に集団強姦される事件も発生する。

各問題を奉天の日本総領事から外務省を通じて南京総領事が南京政府に協議解決を申入れるが無視され続ける。

事変前にはこの様な懸案が370件余りに達し、また関東軍も再三に渡って抗議するも南京政府から明確な回答は無かった。

日本政府の対中・英・米外交は頓挫し、無秩序状態が続く中華民国は国家ではなかった。


関東軍に作戦参謀として赴任した石原莞爾 中佐は満洲の地域自決・民族自決に基づく分離独立、満蒙領有計画を立案する。

南京政府の排日政策と満洲・東北の治安悪化に危機感を抱いた関東軍幹部達は本国の陸軍中央参謀本部に諮ることなく再び独断で軍事行動を開始した。



満洲事変
1931年9月18日 石原莞爾中佐は着任した高級参謀 板垣征四郎大佐と奉天近郊の柳条湖付近で南満州鉄道の線路を爆破して張学良東北軍の犯行に見せ掛けた柳条湖事件を起こし、特務機関の工作で吉林も不穏な状態に持込む。

これを理由に関東軍は軍事行動を開始、東北軍兵営 奉天北大営と奉天城を制圧する。

翌日までに奉天以外に長春、安東、鳳凰城、営口の南満洲主要都市の殆どを占領した。


19日午前10時 事態に日本政府は緊急の閣議を召集「事変不拡大」と決議した。

南次郎 陸軍大臣は政府の方針に留意して行動するよう本庄繁 関東軍司令官に訓電する。

陛下は参内した若槻首相に「事変不拡大を徹底するよう努力せよ」との御言葉を掛けた。


21日 朝鮮軍司令官 林銑十郎 中将は二個飛行中隊を増援、独断で混成第三十九旅団に越境を命じ旅団は鴨緑江を越えて関東軍 本庄繁 中将の指揮下に入る。

天皇陛下の勅裁を受けない皇軍の国外派兵は統帥権干犯であり、重大な軍紀軍律違反で死刑に値する重罪であったが事後に閣議決定承認され正式の派兵となった。


満鉄線路爆破は軍事行動の口実を作る三文芝居だが石原莞爾中佐ら関東軍の作戦参謀は事前に北満を偵察して準備周到に綿密な占領作戦を計画していた。

また関東軍作戦参謀は華北の国民革命軍 第13路軍を買収し反乱を起させ張学良軍の満洲駐留兵力 約23万の半数以上の大部隊を山海関内に誘出し、満洲を手薄な状態にする陽動工作も成功させる。

1931年10月8日 奉天を放棄した張学良が拠点を移し東北軍の兵力が多数集結していた錦州を石原莞爾中佐が司令機に搭乗して作戦指導を行い関東軍の爆撃機12機が空襲した。

1932年2月 越境した朝鮮軍の増援で管轄外の北部満洲に進出、ハルビンを制圧占領。


張学良が指揮する東北辺防軍の総兵力約45万に対して、関東軍は増援を含めて1万数千名程の兵力であったが、国共内戦の為に対日戦に兵力を割く余裕が無い張学良は日本軍の挑発と衝突を避けて殆ど抵抗せず、関東軍は僅かな兵力を以って難なく日本本土面積の3倍を有する満州・東北全域を制圧占領した。


袁金鎧の奉天地方自治維持会、煕洽の吉林省臨時政府、張景恵のハルビン東省特別区治安維持委員会の東北三区が中国国民党政府からの分離独立を宣言する。



満州国建国
1932年1月28日 中国国民党軍 第十九路軍が上海付近に進出駐留し、日本人僧侶襲撃事件や排日暴動から租界の日本人居留民を警護する日本海軍陸戦隊に第十九路軍が銃撃して陸戦隊に90数名の死傷者を出す第一次上海事変が勃発していた。


1932年3月1日 関東軍の石原莞爾主任参謀らの主導のもと「王道楽土」「五族協和」をスローガンに東北三区の政都として長春を新京と命名、満州族出身で清朝最後の皇帝 溥儀が国家元首として政務を執り、日本に国防・鉄道・通信の管理を委ねる親日国家 満洲国が建国される。


1933年3月 国際連盟創立以来の原加盟国で常任理事国でもあった日本は国連の総会で満洲を支那の一部分とする撤退勧告を受け国際連盟を脱退する。

その後、当時の国連加盟独立国は60ヵ国程でアジアやアフリカは欧米の植民地が殆だが、満州国は中華民国南京国民政府をはじめ植民地を除く23ヵ国から承認された。

1934年3月1日 満洲国は溥儀が皇帝に即位し満洲帝國となった。

独ナチス党や伊ファシスト党を強く批難し対立していた時のローマ法王 ピオ11世のバチカン市国は枢軸国のドイツやイタリアより早く1934年から満洲国を承認している。

1932年4月 満州国軍が創設され治安維持と国境警備に当たり、日満議定書により国防は関東軍が担い、日本人将校が満洲国軍の軍事顧問や教官を務め、部隊長等は日本軍から転籍した将兵が任官する事もあった。

当初、部隊構成は軍閥の配置を踏襲したが陸軍軍官学校が設立され将校を養成、満洲国国民の満州族、漢族、蒙古族、ウイグル族、白系ロシア、日本人、朝鮮人、台湾人が入学した。

後の韓国大統領 朴正煕(日本名は高木正雄)は新京の満洲国軍軍官学校を首席卒業後、東京の帝國陸軍士官学校を卒業、関東軍部隊に配属され見習士官として勤務した後、満洲国軍の少尉に任官奉職し中尉に昇進して終戦を迎えた。

また奉天の満州国軍軍官学校には丁一権や白善燁が入学し、後に彼らは韓国軍の主力中枢として朝鮮戦争で指導的役割を果し、韓国陸軍の第19代までの歴代参謀総長は全て旧日本軍若しくは満州国軍出身者で占められている。


嘗て国民党 蒋介石は日本に留学し帝國陸軍に籍を置き砲術や用兵を学び日本に亡命経験もある反共親日であった。

1936年12月 共産党と密かに接触していた張学良と楊虎城は西安で蒋介石を拉致監禁し息子の蒋経国も留学先のソ連に人質に捕られ、それまで日中友好と反共討伐の政策を推進して満洲国も黙認した蒋介石の国民党は共産党軍との内戦を停止、国共合作と排日抗日政策に転換する。


欧米列国を対日戦争に巻込みたかったコミンテルンと民国政府や軍閥内に潜り込んだ共産党員は北・中支各地で日本軍を挑発して日中開戦を嗾ける。

1937年7月 北京 盧溝橋で通達済の夜間演習中に日本軍駐屯部隊を国民革命軍 第二十九軍の兵士が狙撃、抗議と解決協議中にも迫撃砲を撃込まれる 盧溝橋事件と中国人自治政府保安隊が在留日本人・朝鮮人200人以上を猟奇的に虐殺した 通州事件を起こす。

同年8月 上海停戦協定を破り、非武装地帯にトーチカと強固な要塞線を構築したドイツ軍事顧問が指揮する最新装備で完全武装した3万の国民党中央軍の精鋭が上海国際租界の日本人居留区を包囲攻撃する 第二次上海事変 を起した。

ソ連の南侵を警戒する石原莞爾ら事態不拡大派の意に反して日中は全面戦争に突入する。




ノモンハン事件
満州国建国以来、満州・ソ連国境のアムール川(黒竜江)では越境上陸し乾岔子島を不法占拠したソ連軍に日・満軍が応戦してソ連軍砲艦を撃沈した乾岔子島事件や満州東南端の朝鮮に近接する豆満江とハサン湖間にある国境不確定な緩衝地帯の丘陵に陣地構築を謀り越境侵攻したソ連軍を日本軍が撃退した張鼓峰事件などの国境紛争が起り、満州・蒙古国境西部フルンボイル平原では哈爾哈(ハルハ)廟事件など国境哨戒中にモンゴル軍の侵犯挑発に拠る銃撃戦が頻発していた。

1939年5月11日 ハルハ河付近 ノモンハンの国境係争地で満州国軍 国境警備隊とモンゴル軍の交戦に端を発し、両国を支援する日本軍とソ連赤軍に拠る大規模な軍事衝突に発展する。

この突発的な武力衝突に即応してソ連軍 第57特別軍団は戦車、装甲車、自走砲、機関銃狙撃兵、モンゴル騎兵団を投入してハルハ河西岸に榴弾砲を据えて架橋した東岸に陣地を構築した。

日本軍は第23師団捜索隊、歩兵大隊、輜重輸送部隊、山砲、速射砲、重機関銃、満州国軍騎兵の混成支隊を送り、戦車を伴うソ連軍の装甲部隊と戦闘になる。

衝突直後は日本軍が戦闘に勝利して東岸に応急陣地を構築したが、日・ソ両軍ともに指揮通信の混乱から統制を失い組織的な展開や戦闘の連携がとれず、分散した各部隊が個々の判断で攻撃・防御と孤軍奮闘する。

ソ連軍に火力で劣る日本軍は夜襲を掛けて反撃、上空では九七式戦闘機が空戦でソ連軍機に圧勝を続けて日本軍航空隊が制空権を抑え機銃掃射や哨戒偵察、陣地爆撃で地上軍を航空支援した。

日本軍の増援攻勢を警戒した ソ連・モンゴル軍はハルハ河西岸に撤退して5月の大規模な衝突は一時的に終息する。

第一次衝突の損害

日本軍 戦死傷者 約290名 装甲車 2輌 トラック 8台 乗用車 2台 速射砲 1門

ソ連軍 戦死傷者 約370名 戦車・装甲車 13輌 トラック 15台 火砲 3門



第二次ノモンハンの衝突

6月20日 戦車を伴う十数輌のソ連軍装甲部隊とモンゴル軍騎兵が越境し、集落内にある日本軍の宿営地を砲撃、日本軍は速射砲と機関砲で応戦し戦車・装甲車4輌を撃破、越境部隊を撃退する。

この頃、ソ連軍は日本軍飛行場への越境爆撃と小兵力の地上部隊を侵入させては威力偵察攻撃を繰り返し、452輌の戦車と装甲車旅団を投入する大規模な侵攻を準備していた。

ソ連軍を指揮するのは第一次衝突を観察分析酷評、二次侵攻を緻密に計画して地上及び航空戦力を増強して関東軍に挑み、後に屈強なドイツ第6軍をスターリングラードで包囲、モスクワ侵攻阻止、東部戦線からドイツ軍を駆逐し自らベルリンに入城、「ソビエト連邦英雄」の称号を受けて上級大将、元帥まで昇り詰めるゲオルギー・ジューコフである。

冷酷なスターリンが認める冷徹な司令官ジューコフは容赦なく自軍兵士を銃殺処刑の督戦を行い、勝利の為には兵の生命、兵力の消耗を厭わず間髪を容れぬ打撃重視の電撃戦を得意とする。


日華事変勃発で中国戦線に兵力を抽出していた日本陸軍中央の満・ソ国境紛争の不拡大方針に関東軍は第6軍と第23師団、第7師団の一部で衝突に対応するが、実際は一個師団程度の兵力であるのに対してモスクワの国防部は第57特別軍団にジューコフの要求以上の増援を送り込み、最終的にソ連軍は8個師団を投入した。


関東軍はソ連軍の火力と機動力に対して第1戦車団の戦車2個連隊を増派、自動車化歩兵大隊、歩兵1個連隊、独立野砲1個連隊、工兵連隊、砲兵・高射を含む戦車(戦車73輌・装甲車19輌)を主力とする機械化混成部隊を編成、第23師団の別動支隊とする。

 
日本軍 戦車隊・装甲機械化部隊は第23師団本隊に先行してハルハ河の前線に向かう。

夏期の辺境モンゴルの草原、砂丘でのソ連軍の戦車・装甲車旅団との戦闘になった、ノモンハンの第二次衝突が日本陸軍の戦車対戦車、両軍機甲部隊に拠る近代的な集団機甲戦の初戦となる。


7月2日 ハルハ河東岸に進出した日本軍戦車連隊はソ連 第11戦車旅団の戦車・装甲車と交戦、ソ連軍戦車20輌、装甲車12輌、トラック20台を撃破しながら、西岸の砲兵陣地から強力な榴弾砲の激しい砲撃に前進出来ず釘付けにされた歩兵第64連隊を支援、ソ連軍の防御陣地を突破して東岸の野砲陣地を蹂躙し無力化する。

一方、ハルハ河の渡河作戦に成功し西岸に進出した歩兵中心とする砲兵、工兵の第23師団主力もソ連軍 第11戦車旅団、第8、第7装甲車旅団の攻撃を受け、戦車67輌、装甲車41輌を撃破撃退したが、東岸での戦闘で日本軍戦車隊も戦車30輌を喪失、関東軍司令部は前線から戦車連隊を後方支援部隊まで後退させた。

7月4日 第23師団は弾薬枯渇と退路遮断の危険性から橋を渡りハルハ河西岸から撤退を開始、以降、東岸での対戦車戦、砲撃戦、空中戦、空爆、夜襲、白兵戦、塹壕戦、高地攻防戦など激しい戦闘は 9月15日の停戦合意まで続いた。


第一次、第二次の参加兵力

日本軍 約30,000名 戦車73輌 装甲車19輌 歩兵中心の機関銃・野砲混成部隊

ソ連軍 約70,000名 戦車438輌 装甲車385輌 戦車主力の機甲・機械化部隊

加えてソ連軍は機動兵力だけでなく支援火砲でも圧倒しながら更に増派増強していた。


日本軍の損害 戦死傷者 約19,000名 戦車 約30輌 航空機 約160機

ソ連軍の損害 戦死傷者 約26,000名 戦車 約250輌 航空機 約360機


過去、ノモンハン事件はソビエト連邦が崩壊してソ連側の正しい情報が公開されるまで「ソ連赤軍の圧勝、日本軍の惨敗」と言われてきた。

関東軍から増派も僅かな第23師団に対してソ連赤軍 第57特別軍団のハルハ河での開戦布陣は戦車輌数2倍、装甲車13倍、榴弾重砲3倍、野砲も優勢で歩兵と航空機数は互角。

戦力で日本軍を圧倒しながらソ連軍は自軍の戦車兵の逃亡を防ぐ為に乗員ハッチを外から施錠し、戦線を離脱した兵の処刑督戦に火炎放射器まで使い、戦車1個旅団と装甲車1個旅団を損耗壊滅させて戦車2個旅団、装甲車3個旅団、化狙撃兵3個師団、空挺1個旅団の30,000名以上の増援を受けて、疲労した一個師団に勝てないならジューコフも赤軍政治将校も無能である。

戦車・装甲車が8倍以上のソ連軍に日本軍は軽装甲に小口径搭載砲の戦車戦、速射砲や機関砲に拠る正確な接近射撃と死力を尽くした肉薄戦の火炎瓶、地雷、手榴弾でソ連軍戦車250輌を撃破、多勢に無勢の空戦でも360機を撃墜した。

これは精神論ではなく、兵力、火力、装備の物理的な劣性に銃砲弾薬も不足する辺境最前線での日本軍歩兵、戦車兵、騎兵、砲兵、工兵、整備兵、航空兵達の技能技術を応用駆使した奮戦敢闘は称賛されて然る可きである。

尤も敵を侮り万策を講じず、最前線からの情報や意見具申を無視した上に己の失策と用兵の責任を部下に押付け腹を切らせる無能な軍司令官や師団長、作戦参謀などは万死に値する。

このような軍上層部の体質がポートモレスビー、ガダルカナル、インパールなど南方作戦で失う必要がない多くの皇軍兵士の命を失わせた。


1941年10月15日 停戦後の国境画定交渉に於いてノモンハン以北は従来の国境線、南方地区は停戦前の日本軍の占領地は満州国の領土とする満州国に有利な議定書がハルビンで調印され モンゴルは1,140㎡を領土を失うと言う結果になった。

日本は政府が関与せず、外地駐屯軍の一師団が対応し、ソ連が国家的な対日戦争として対応したノモンハンの領土争奪戦は日本の勝利に終わる。


「ノモンハンはソ連赤軍の圧勝、日本軍の惨敗」は共産主義左翼のプロパガンダである。


1945年 ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、ソ連赤軍が大挙し満洲に侵攻した。


1905年にポーツマス条約で南満洲鉄道の権益を獲得して以来、日本人が満蒙開拓開発を続けて40年の歳月で重工業を発展させ、辺境の荒野は近代的産業地域に生まれ変わった。

極東の近代国家満洲國は日本の敗戦まで13年間続いた。

旧満洲国 大慶で深々度の大油田が発掘されたのは日本の敗戦後であった。



関東軍の功罪
日本人は努力して匪賊が横行する無法地帯に産業を発展させ近代都市を作り、満洲は急速な発展を遂げたが、満洲の中国人や朝鮮人は支那軍閥政府の圧政に苦しめれていた。

条約や外交により権益を保証されるのは当然だが、相手が約束を守らない中露であるうえに内戦で混乱中の一時的短命政権とは条約も外交も機能不全に陥いり、大陸では権益や家農地などの資産どころか人権や生命の安全すら保障されなかった。


五族協和を謳い満洲国の建国を目指した石原莞爾は日本人も国籍を離脱して満洲人になるべきで国民党の蒋介石と共闘し中国共産党軍を抑えソ連の南下を阻む為に中国戦線不拡大を主張した。


皇軍を裁可無く、軍事行動に使った関東軍高級参謀らの独断先行は正当化できない。

しかし中ソは条約を破り、日本が日清・日露の戦役で多大な犠牲を払い正当に得た権益を脅かし、移住した日本人と朝鮮人に危害が加えられ満洲鉄道警備と邦人保護を目的として派遣されていた治安維持軍である関東軍が指を咥え放置する事はできなかった。

古来、山海関 即ち万里の長城東外の関東・満洲は漢民族の土地ではなく、軍閥は徴税収奪しても保護統治せず、民国政府の施政権下にも無かった。

満洲国には漢族に反目する満洲族をはじめ赤化の圧政から逃れた来た白系ロシア人やユダヤ人、ソ連に抵抗する蒙古人、台湾や半島から移住してきた台湾人や多くの朝鮮人がいた。

満洲国に人種差別が無かったとは言わない、日本人の中にも職業や貧富の差別はあった。

大陸の覇権に出遅れていたアメリカも満洲の利権を狙い、ソ連は中国赤化による領土侵略を企み、支那軍閥と左右思想、民族間の勢力争いに中国人同士が殺し合っていた。

荒野を開発し満洲の産業発展と近代化に努力した日本は搾取する悪の帝国にされている。


果たして関東軍が行動を起こさなければ、居留民達は満洲で安全に暮らせたであろうか。

現地の居留民や関東軍からの緊迫する訴えに国際連盟常任理事国であった日本政府は南京政府や欧米列強の思惑に対し北京議定書、日清通商航海条約、満州善後条約、日英同盟に基づき国連や二国間交渉で政治的に大陸の権益を守る外交戦略を尽力すべきであった。

日本は例え再び三国干渉されても国際連盟を脱退したのは大間違いだ。



ソ連赤軍の侵攻に日本軍は邦人居留民を置き去りにして逃げた言う論調がある。

1945年8月9日 越境侵攻してきた圧倒的な兵力と重装備で優勢なソ連赤軍と中国兵に対して、日本軍はただ敗走したのではない、陸軍は南方方面の作戦に兵力を転用され、兵員不足に火力も不十分ながら各師団は最後まで抗戦し多くの連隊、部隊が全滅している。


ポツダム宣言受諾後、日本軍は一切の武力行動禁止が命じられたが領土拡大を企むソ連赤軍は侵攻を止めなかった。

千島・占守島では陸軍 第91師団、満洲から転出した戦車第11連隊と海軍警備隊が強力に抵抗しソ連赤軍を撃退して、日魯漁業の女子従業員達の脱出後に停戦、降伏した。


また北支・内蒙古の警備に当たっていた駐蒙軍司令官 根本博 中将は1927年の南京事件の際に無抵抗の命令を受けた日本軍が防御戦闘を行わなかった為に外国人と日本人が入城した中国軍の一方的な暴虐に遭い、婦女子は強姦され南京領事館付武官であった自身も領事館内で発砲され銃剣で突き刺されて重傷を負った経験から根本中将は停戦命令と武装解除に従わず、破竹の勢いで進撃してくるソ連赤軍に対して独断で反撃命令を下し駐蒙軍は激しく抵抗反撃して八路軍の攻撃も抑えて、4万人の在留邦人が内蒙古から避難し天津へ脱出が終わる8月21日まで防衛戦闘を行い避難民を守り抜いた。

1946年8月 終戦から一年後、北支那方面軍司令官を兼任していた根本中将は在留邦人の帰国と北支那方面の将兵35万の内地復員を終わらせた最後の船で帰還した。

1949年 根本中将は在留邦人と将兵の復員帰国協力また国体護持への恩義を蒋介石に返すべく台湾に渡り金門島の戦いを指揮し殺到する中共軍を撃破して台湾の独立に貢献する。



撤退には、優勢な敵に陣地や防衛線を突破された際、抵抗しつつ味方の損害を最小限に抑え戦線を後退する退却戦、または局所的な攻勢に出て敵の進撃速度を低下させる遅滞戦と急速に部隊を拠点まで撤退させ戦力を整える迎撃戦がある。

撤退に付いて行けない落伍兵や民間人が犠牲になる事は欧州戦線に於いても多くあった。

1946年4月迄、有効な日ソ中立条約を破って侵攻したソ連はクソであるが、条約を当てにし不穏な動きを察知しながら、居留民の夫人子供を退避させなかった政府と軍にも責任がある。


関東軍の罪は独断で軍事行動を起した事と条約を守らない強盗ソ連赤軍と蛮族支那兵に対し邦人の安全が確保される前に停戦を受入れ武装解除に従った事だ。

張作霖の爆殺は張学良の個人的な恨みと不信感を強め、より反目するようになった。

奉天軍閥を倒閥、武装解除し旧態に復すれば国際世論も敵に回す事もなかったであろう。

また早い時点で反共、北伐の蒋介石と手を結び、反ソ的な張学良との仲介も可能であった。


日本の歴史番組や左巻きが偏った思想で作った映画の中では日本政府と財閥や帝國陸海軍、特に関東軍は悪役にされ中共軍やパルチザンは正義と人民の味方である様に描かれている。

帝國陸軍は民間人を凌辱虐殺し、八路とソ連赤軍や朝鮮パルチザンは兵隊だけを殺したか。

日本降伏後の満洲を見よ

蛮族は葛根廟事件敦化事件小山克事件通化事件牡丹江事件麻山事件を起こした。

敗戦の結果、内地の農村で貧困に喘ぎ、満州・大陸に夢と希望を求めて移住した人々は家財総てを失い家族や命まで失う事になった。

帰国出来た人達は幸運であり、無事に日本に帰れなかった方々が沢山いる。


戦勝国を名乗る中ソの蛮行は、一例も戦犯として裁かれる事は無かった。

戦後、中共と日本国内の左巻連中が史実を隠蔽し、70年経った今でも南京事件は捏造水増しされ反日のプロパガンダに都合良いツールとして利用している。

全てを日本の侵略悪業にして共産主義者と偏狭左翼は尼港事件も無かった事にするな。

共産主義とは分け合うのではなく他人から奪い盗り恥ずかしげも無く嘘をつく事か。

祖父は停戦命令に拠り武装解除され、八路に外套、時計、万年筆など私物を身ぐるみ剥がれたが、まだましであった。

近所の叔父さんは火事場泥棒のソ連赤軍の捕虜となり終戦後に8年間もシベリアに抑留され強制労働させされラーゲリで足先を失い痩せ細って帰還した。

ソ連は約107万人を終戦後に抑留し強制労働させ、約34万人の日本人を殺している。


「武装解除に応じず最後まで戦って死んだ方が良かった。」

叔父さん達はシベリアの冷たく固い土を掘り戦友の亡骸を埋めながら涙を流した。

帝國軍人は戦場で戦って死ぬ覚悟をする。

しかし火事場強盗のソ連に強姦され、扱使われて命と領土まで盗られる覚えはない。

日本人なら帝國と陸海軍を一方的で阿漕な侵略者と決めつけず史実と経緯を検証すべきだ。



欧米列強は支那の植民地化を企み中国人に阿片を売りつけ中毒にして奴隷の如く搾取した。

支那軍閥は権力勢力争いに明け暮れ国家を分割破壊して山賊の如く庶民から略奪し農民から糧を徴収し殺し犯した。

日本は満洲鉄道支線を延長し鉱山を開発、ダム、工場、農場を作り産業を発展させ雇用を産みだしインフラを整備し、銀行、学校、図書館、病院などの公共事業施設を街に創り未来に投資した。


日本やドイツ、現在の韓国、フィリピンはアメリカの傀儡国家なのか。

満洲国を傀儡と言うならば、他国の力を借りて独立し保護された国は皆、傀儡国家になる。


独立主権国家であっても援助支援を受ける国の影響を受け傾倒するのは当然の事だ。

親日、親米、親ソ、親中国家になり、同盟、連邦を構成し、自治州に取込まれるという形もある。

戦後、NATOとワルシャワの条約機構で東西に別れ資本主義と共産主義は互いに牽制してきたが、東側共産主義陣営の縛りは厳しいものであった。


中共は自治州・解放と言う欺瞞と武力で統治し、チベットやウイグル自治区に独立を絶対に認めず、思想粛清と人権弾圧を行ない独立運動を潰し他国からの暴力的弾圧に対する抗議を内政干渉だと跳ねつける。

戦前、大日本帝國、大英帝國、ロシア帝国、帝政を敷く国だけでなく、国外に覇権を求めて植民地を持つ国は総て帝國主義であり、列強と並び日本も国際連盟常任理事国であった。


敗戦で日本は帝國主義侵略国家と呼ばれ続け戦後、多大な賠償と国際貢献をして来たにも拘らず中露の政治戦略的な妨害により未だに敵国扱いされ国連常任理事国になれないでいる。



民主主義独立主権国家である日本が何時まで戦犯国扱いされるのか。




太陽の帝国 上海事変 に続く。


日本の近代史・戦史を書いたブログ

Empire of the Sun 1   「太陽の帝国」その1   真珠湾攻撃・マレー・蘭印作戦

Empire of the Sun 2   「太陽の帝国」その2   インド洋作戦・珊瑚海海戦

Empire of the Sun 3   「太陽の帝国」その3   遣日独潜水艦・海軍技術士官

Empire of the Sun 4   「太陽の帝国」その4   ミッドウェ-海戦

Empire of the Sun 5   「太陽の帝国」その5   聯合艦隊旗艦

Empire of the Sun 6   「太陽の帝国」その6   大和出撃

Empire of the Sun 7   「太陽の帝国」その7   マリアナ諸島 テニアンの戦い

Empire of the Sun 8   「太陽の帝国」その8   大日本帝國

Empire of the Sun 9   「太陽の帝国」その9   運命の瞬間

Empire of the Sun 10   「太陽の帝国」その10  満州事変

Empire of the Sun 11   「太陽の帝国」その11  上海事変

Empire of the Sun 12   「太陽の帝国」その12  兵に告ぐ 二・二六事件
Posted at 2013/10/12 17:39:41 | コメント(1) | トラックバック(0) | 太陽の帝国 | 日記
2013年08月09日 イイね!

Empire of the Sun 9 「太陽の帝国」 運命の瞬間

Empire of the Sun 9 「太陽の帝国」 運命の瞬間「太陽の帝国」 大日本帝國 の続き。

帝國海軍技術士官であった氏を偲んで生前にお聞きした話を故人の手記より抜粋し数回に分けて書いている。

故人の回顧録、戦争・第三部「大和出撃」の続き。

戦争・第四部 「運命の瞬間」

1945年(昭和20年)8月9日 
その日、私は大村海軍航空基地の岸壁で佐世保より到着した機材の陸揚げを監督していた。

当時、佐世保工廠造船部の部員だったが同じ鎮守府である海軍大村航空基地での作業を支援する任務を与えられ部下を連れて出張していた。


実はこの機材は昨日到着の予定であったが部下の不手際で一日遅れ今日になったのだった。

お陰で作業は遅れ、また今日も長崎へ出張する予定が延び延びになってしまった。と口の中でブツブツ言いながら海の彼方を眺めていた。
 
その時だ、ピカリと黄色い一閃、続いてドーンと強烈な響きを体に感じて、ハッとして地に伏すと南の岬の彼方、長崎の方角に真っ白いキノコ状の雲が立上がり、その真ん中に火の柱が紅に巻き上がり続いて地を這う土煙が、じわりじわりと盛り上がっていった。

それは短い一瞬であったが時系列を追ったパノラマの動きは、五十年たった今日でも、色鮮やかに脳裏に焼き付いている。

「これは6日に広島に落とされた原子爆弾だ」と直感した。

しかしその時は、まだ長崎が被災地だという実感は無く、この瞬間、これでまた多数の人が命を失っただろうという、憤りと虚無感を抱いて私は呆然と立ち竦んでいた。

あの土煙の下、数万の人命が失われた事を後で知った。

長崎が直撃されて、地獄の惨状だという情報が入ったのは数時間たってからだ。

予定通りにこの日、長崎へ出張しておればその中に巻き込まれたはずだ、それが部下の不手際で伸び、悲運が一瞬ずれたと知った時、私の運命を左右する「何か」の存在を感じた。


「被災者救済」
その夜、佐世保鎮守府の命により長崎から大村駅に運ばれる負傷者を配下の工廠のトラックで大村海軍病院へ送る作業に従う事になり、駅に出向き列車の到着を待ったが、なかなか来ない。

漸くにして駅に着いた客車と貨物の寄せ集めの列車にはケガ人が、ぎゅう詰めに溢れて連結部から機関室までも負傷者がしがみ付いていた、その人達を労りながらホームに降ろす。 

殆ど皆、裸に近くシャツらしいものを纏っていても短冊、あるいはボロボロに裂けていた。

裸の人の背中が真っ赤な色だと思って見ると皮膚が剥けて海藻のように垂れ下がっている。

「痛い、痛い」と辛さを訴える呻き声、「水をくれ、水を」と言う幽かな声。

まさに駅の周辺は地獄の様相、残酷で虚しい夜だった。

この人達を海軍病院へ運んだが、後で聞くところによると、このケガ人の殆どは亡くなったという。

 
「長崎行」
一日おいて、被爆の日より三日目、トラックで長崎に向かった、人を尋ねてである。

当時、佐世保工廠から長崎の刑務所に、船舶用の小型構造物の製作を委託していた。
その指導監督が私の責任であり、部下の技師二名を刑務所に派遣していたのだ。

あの日、その状況を見に長崎へ行く予定になっていたが佐世保の部下の手配の不手際の為に中止せねばならないことになり、生死のすれ違いという運命が生じた次第だ。

部下の二名の安否が心配で、それを確かめに、長崎へ行くことを独断で決めた。
大村から長崎までは、車で三十分の南下行と予想される行程である。

長崎の街が近づくにつれ周りの雰囲気に何か異様な気配を感じ、ふと振り返りハッとした。
それまで青々と見えていた山の斜面が、首を回して反対側から見ると、赤茶けている。

つまり長崎に向いた面が赤い、長崎側が焼き焦がされているのだ。
これは落とされた爆弾の熱風に拠るもので、原子爆弾なる物の凄まじさを感じさせられた。

街に入ると、その凄さは増々強まった。
今まで佐世保、北九州都市の空爆被害の跡を見ている。
そこには焼落ちた残骸、鉄骨建築の名残、嘗てここに街が在ったと思わせる物があった。

だが此処の原爆の跡は違う。

街の爆芯地に入ると、そこにあるのはただ瓦礫、一望の間、瓦礫の原っぱ。
全てが完全に破壊されたという印象で、ここに街が在ったとこと想わせる物は何も無い。

人の遺骸がまだ放置されており、焼け焦げた牛が腹を膨らませて転がっていた。

漸く刑務所の跡を探し充て、其処で部下の一人を見つけた。
怪我をしたが何とか生き延びたと言う。

仲間の遺体を焼いた、しの夜、彼と遺骨と共に佐世保へ帰った。

それから数日後、日本は敗北を宣言した。

その数日後、原爆の下をどうにかを生き延びた部下も死んだ。


「数年後」
終戦後、私は神戸の造船所にいた、業界は昭和三十年代に輸出船ブームを迎える。

それに先だつ時期に我々技師は英語会話の勉学に追われ、キリスト教会の牧師の指導する英会話グループに通った。 と言っても、立派な教材や、テープ・レコーダの無い時代だ。

無茶苦茶にしゃべって度胸を鍛えるのが唯一の勉強だ。
この教会で「英語スピーチ大会」が行われる事になり、私も応募した。

演題は、「That Tragic Day」 あの長崎被爆の悲しく忘れる事の出来ない日々の体験談。

未だに脳裏にコビリついているキノコ雲、火の柱、大村駅に辿り着いた悲惨な被爆者の群。

皮膚が垂れ赤く剥げ、水を求める幽かな声、瓦礫と化した長崎の街、荼毘に立ち上る煙。

瓦礫野でやっと見つけた部下のことなど忘れられない悲憤を私はブロークンな英語で語り、最後に「如何なる者に他の人種を悪魔の原子爆弾に拠って殺戮する権利ありや」と結んだ。

スピーチの後、「You’re very brave」と言って、握手を求めてきた外国人がいた。

それが何れの国の人だったか、残念ながら覚えていない。

思えば、まだ原爆を大っぴらに非難する事が出来なかった時期だった。

次の日、会社へ米国情報局CIAの職員が訪れ人事部長に面談を求めて来た。

「Kawashima という Communist を出せ!」 と、居丈高に迫ったという。

「川嶋はいるが、Communist (共産主義者)ではない彼はNavy Officer (海軍士官)だ。」と言ったら黙って帰ったよ」と、学生時代に相撲部の主将だったという人事部長は豪快に笑った。


私が部下の不手際で予定が延び悲運とすれ違ったのは、運命を左右する「何か」の存在がある。と前段に書いたが、実はこの様に紙一重でのすれ違いの体験は戦争中、この他に何度もあった。

その様な環境の中で私を生かした、この存在とはなんだろう。

宗教心強い人なら、神様、仏様のお陰と、信仰の世界にのめり込んで行くだろう。

しかし私にはそれがない。 

だが私は、一口に言えないが、「何か」”Something Great”と言うものがあると思っている。

その存在が私の下に「出来の悪い部下」を配し、それが一連の運命的な結果を生み出した。

戦後、色々な仕事に従い多くの部下を持ったが出来の悪い部下ほど大事に扱ってきた。

被爆三日目の放射能が残る長崎に入り、終日過ごしたが、二次的な放射能障害が無かったのか、と聞かれるが機能障害を患う事なく八十余歳の今日まで生き延び頭の毛も残っている。

それは、あの日、長崎へ出発する時に宿舎の寮母さんが大きな握り飯と満杯の水筒を持たせてくれた、私は、それで終日過ごし、現地の水や炊出しに触れなかったからだと思う。

聞く処に拠ると直後に現地入りした応援の医者や看護婦は被曝した現地の水や食糧を喫し、二次的放射能障害を被ったという。 

これも ”Something Great”が、命じたものか。 私は人生を振り返った。


・・・・・以上、故人の回顧録より。 





68年前の今日 昭和20年8月9日 広島に続き二発目の原子爆弾が長崎に投下された。

改めて亡くなられた総ての戦没者の方々の御冥福を心からお祈り致します。





1945年8月9日 日本の空

大戦末期の頃、帝國は日本周辺の制空海権を失い本土上空も既に日本の空ではなかった。

米軍は「飢餓作戦」をB-29長距離戦略爆撃機で日本全国の軍港、貿易港、瀬戸内海や関門海峡に12,000個以上の磁気と音響機雷を投下、潜水艦の通商破壊と共に日本の海上閉鎖を行っていた。

威力偵察、制空戦闘目的で飛来したP-51 マスタング、F4F ワイルドキャット、F6F ヘルキャットなどの米戦闘機は鉄道や工場等を空襲しただけではなく、非戦闘員と目視確認できる低空から婦女子を機銃掃射で殺害した。 


この日、原爆投下の第一目標を小倉、第二目標を長崎として爆弾搭載機である 「Bockscar」観測機「Great Artiste」、天候偵察機(小倉)「Enola Gay」、天候偵察機(長崎)「Laggin' Dragon」、撮影機「Big Stink」、爆弾搭載予備機「Full House」(硫黄島待機)計6機の Silverplate B-29 Superfortress が、米軍占領下の北マリアナ諸島 テニアン島 ノースフィールド飛行場の滑走路を飛び立った。

(テニアン島の米軍上陸占領 B-29の配備に至るまではテニアンの戦い に書いている。)


07:40 新型爆弾搭載機 「Bockscar」と観測機「Great Artiste」は屋久島上空の合流地点に到着して、40分待機したが撮影機「Big Stink」と会合できず、已むなく2機編隊で作戦を続行した。

7月に神戸に2回の空襲を行い、6日の広島への原爆投下に参加したスウィーニー少佐らの爆撃隊は前回の広島と同様、味方護衛戦闘機を伴っていない。

敵戦闘機の接近銃撃を阻む火器管制装置に拠る優れた防御火力と重厚な防弾・防爆力を備える スーパーフォートレス「超空の要塞」B-29は強力なインタークーラー付ツインターボ4発エンジンで対空砲火射程外の高々度を旧型戦闘機を上回る高速巡航で侵入する。

1942年4月に空母「ホーネット」から初めて日本本土空襲した ドーリットル中佐のB-25 Mitchell や B-17 Flying Fortress とは全く別世代の長距離戦略爆撃機である。

このB-29の性能に対して日本には優れた防空監視レーダー網が無く、迎撃に上がる帝國陸海軍の1段2速式スーパーチャージャー搭載の単発戦闘機は高々度で会敵、要撃するだけでも苦労し、第二撃や追撃は困難であった。


銀色の悪魔は、精神力では墜せない。

しかも悔しいことに、「超空の要塞」B-29は米国の標準、量産型であった。

空戦も既にパイロットの腕ではなく、科学技術と工業力の優位が勝敗を決した。

しかし高々度からの爆撃は精度を下げ戦果を得られ難い為、米軍は中低空爆撃に戻した。

帝國は機体と燃料、熟練搭乗員の不足に加え、陸海軍指令部は本土決戦に備えて戦力を温存して出撃を控える中、震天制空隊が武装を撤去し軽くした古い機体を使って体当り攻撃を敢行したが、多勢に無勢、然したる戦果は上がらなかった。


09:40 スウィーニー少佐の原爆搭載機「Bockscar」は、大分・姫島方面から投下目標である小倉の陸軍造兵廠上空へ到達する。

「Bockscar」は爆撃航程を繰返すも、前日の八幡空襲で発生した残煙が小倉上空に流れ込み靄に覆れていた為、爆撃手が投下目標の目視確認に3度失敗して45分間燃料を費やす。

結果、小倉上空の天候は徐々に悪化、更に「Bockscar」の燃料系統に故障も発生する。

また築城の零戦や芦屋の五式戦の迎撃戦闘機発進情報が確認され対空砲火も激しくなる。

10:30 投下目標を小倉から第二目標である長崎に変更、爆撃編隊は小倉上空を離脱した。



途中、「Bockscar」が急旋回して「Great Artiste」と空中衝突寸前のニアミスを起こした。

10:50 小倉を離れた爆撃隊は約 20分後には長崎上空へ侵入、戦闘機による要撃も対空砲火も無かったが高度1800m~2400m間が90%近く厚い積雲で覆われていた。

爆撃隊は「目視爆撃が不可能な場合は、太平洋に原子爆弾を投棄せよ。」と厳命を受けていたが、已むを得ず命令違反であるレーダー爆撃に切替ようとした時に雲の切れ間から一瞬、眼下に広がる長崎の市街地を確認、直ちに爆撃手の自動操縦に切り替え高度 9000mから手動投下した。




11:02 目標の長崎市街中心部工業地帯から約 3km 逸れた信仰心の厚い人が集まる平和な町である浦上地区の上空、高度約503mで、Mk.3 核爆弾ファットマンは炸裂。

この時、浦上教会の天主堂に礼拝に訪れていた多くのカトリック教徒全員が亡くなった。



原爆投下後「Bockscar」は衝撃波を避ける為、機体を北東に向けて急旋回と急降下を行い、後方の「Great Artiste」は爆発圧力、熱温度等を計測するラジオゾンデ3個を落下傘投下。

「Bockscar」と「Great Artiste」の2機は暫く長崎上空を旋回し被爆状況を観測、テニアン基地に爆撃報告を送信した。

14:00 残燃料が僅かになった2機は占領下の沖縄 読谷飛行場に緊急着陸、スウィーニー少佐らは日本本土爆撃と北アフリカで昇進したドーリットル中将に沖縄で面会する。

17:00 燃料補給と整備を終了し離陸 23:06にテニアン島に帰還した。


この様に様々の要因が絡んだ結果、長崎に原子爆弾が投下される事になった。


もし平地が広がる小倉市に投下されていた場合、北九州一帯と関門海峡を挟む下関市まで威力は及び、死傷者と家屋建築物への被害は広島の規模を超えていたと考えられる。

また原爆の投下目標として広島、長崎、小倉以外に京都、横浜、新潟も検討されていた。




帝國の落日

祖母は「おじいさんは国の為に戦い亡くなった」と話すが、「アメリカに殺された」とは言わない。

近所の叔母さんは、不可侵条約を平気で破り日本の降伏の混乱に火事場泥棒に来て、大陸にいた叔父さん達を長い間、シベリアに抑留し強制労働させて殺したソ連の事を「嘘つきの泥棒、共産主義は信用できない。」と言うが病院船や市民に機銃掃射を掛け焼夷弾で神戸の家を全焼させた米軍の事は悪く言わない。

アメリカに正義があった訳でもなく、GHQに洗脳されたのでもない。

それは戦争に敗れながら援助を受けた敗戦国である日本のアメリカに対する負い目と反省であり、「負けたから仕方ない。」と言う諦めだったのかも知れない。


広島と長崎でウラニウム型とプルトニウム型のそれぞれ別タイプの原子爆弾を使用したのは都市部で新兵器の威力を比較し放射能による影響を生きている人間で実験する為だ。


この時、既に3月26日から3ヵ月に及んだ沖縄戦で民間人 約10万人が亡くなっていた。

敗戦寸前の日本の都市への原子爆弾投下を連合国軍総司令官 マッカーサーやアイゼンハワーは「核爆弾を使わなくても勝てる、日本は降伏準備を始めている」と強く反対した。

独系・伊系米国人には触れず日系米国人だけを収容所に入れて日本に対し原子爆弾使用を考えたルーズベルトの後を継いだ民主党大統領トルーマンは反対意見に耳を傾けず、ポツダム宣言の前に政治判断で原爆投下を決定した。

広島・長崎の原子爆弾使用は本土決戦を唱える日本の降伏を早める為だけではなく、次の敵となるソビエトに対する威嚇であり米国の軍事力を大戦後の世界に誇示する目的もあった。


数年後、朝鮮戦争で越境攻撃を行っては旧満州に逃げ込む中国共産軍に対して原爆使用を求めたマッカーサー元帥をトルーマンは解任した。

トルーマンは、原爆の残虐性や中国人の命や倫理を考えた言う。

では何故、敗戦目前 虫の息だった日本の人口密集地に二度も核を使い多くの市民を殺した。

威力を見せ戦意を喪失させる事が目的ならば民間人の少ない島に投下すれば済む事である。

ルーズベルトは人種差別主義者でトルーマンは臆病な偽善者だ。 

彼の政治判断とは、中共・ソビエトとの戦線拡大を恐れただけだ。

もし日本で原爆を使っていなければ中ソは本格的に南侵し米国は躊躇なく核兵器を使う。


現場を知らぬ臆病な政治家が政治判断と称しボタンを押し兵隊と民間人が血を流す。


原子爆弾に拠る 広島の死者 約20万人 長崎 約15万人  


重慶やドレスデンと同じく戦時国際法で明確に禁止されている非戦闘員への無差別爆撃。

1945年(昭和20年)3月10日夜の東京大空襲では325機のB-29が来襲。

38万1300発 1783トンもの焼夷弾を投下して10万人の東京都民を殺した。



「火垂るの墓」 


1945年(昭和20年)神戸大空襲 罹災者54万人、死者8千人、負傷者1万7千人

当時、祖母と幼い母と2才の妹は葺合区から叔母の家に移り東灘区の本山で生き延びた。

母達は三ノ宮駅から岡山に疎開、終戦後に神戸に戻り、母方の祖父は大陸から復員した。

三ノ宮・阪急電車・布引・御影公会堂・石屋川・酒蔵・夙川・回生病院・神戸の街と言葉。

三ノ宮駅には母と同年齢で親を亡くし行き場のない戦災孤児が多く居た事を母に聞いた。

空襲と疎開、駅で置引きに遭い優しい巡査、防空頭巾を肩に掛ける母の写真は節子の様。

自分にとって「火垂るの墓」は他人の話しではなく、幼い節子が不憫で何十回も泣いた。

海軍に奉職した父方の祖父は南方方面で消息不明、音信不通となり帰って来なかった。

清太の父が乗る重巡洋艦「摩耶」は1944年(昭和19年)10月 レイテ沖海戦に於いて

フィリピン・パラワン水道で米潜水艦の雷撃を受け沈没している。

清太も駅で衰弱死、ドロップの缶に納められた節子の小さな遺骨は駅員に投げ棄てられた。





これら日本本土への戦略無差別爆撃は紛れもない国家に拠る民間人の大量虐殺だった。 

原子爆弾はキリスト教徒も捕虜となり広島や長崎にいた味方の連合軍将兵も焼き殺した。

こんな悪魔の兵器を作り使用する世界一の超大国に極東の新興島国が勝てるわけがない。



原爆投下後、間もなく帝國は降伏を受け入れる。

しかし仮に枢軸国が先に原爆製造に成功していたならば、日本やドイツも間違いなく使う。

国家が国益、道義や正義を理由に武力を行使して組織的に民間人の大量虐殺を起した。 


それが戦争だ。


太平洋戦争での日本軍将兵の戦没者 174万1千人 民間人 39万3千人

日本人 213万4千人の命を失い、 太陽の帝國は落日のように終焉を迎えた。


連合国・占領国の死者 約1900万人。

これほど多くの命を犠牲にしてまで戦い取る価値がある植民地、資源など世の中には無い。




戦争責任と正義

帝國は日本の領地権益維持と経済封鎖を破るべく、欧米列強の植民地支配下にある南方資源地帯の確保を目指して米英との戦端を開いた。

帝國陸海軍上層部には勝てないと解かっている対米戦を始めない理性と勇気が必要だった。

二・二六事件以降、皇道派を締め出した統制派軍部が統帥権を楯に大善を騙り軍政を敷く。

「君臨すれども統治せず。」

既に御前会議は大本営の立案を追認されるだけの形式的なものであったが、二・二六事件の決起部隊討伐発言に責を感じられた昭和天皇は国政により口を閉ざす様になられた。

米国の国力を知る山本五十六や栗林忠道ら駐米武官を経験した陸海軍の将官達は三国同盟締結と対米英参戦に強く反対したが、軍部は広い視野と国際感覚を持つ戦争不拡大派を中枢部から遠ざける。

開戦前、北進を唱え対ソ戦に備えていた陸軍は米領フィリピンやグアムを攻めなければ米国は出て来ないと踏んでいた。

近衛内閣と世論に押され中国大陸での戦線を拡大し泥沼に嵌っていた陸軍は蒋介石との和平交渉が潰れ、ドイツのフランス占領を期に悩みの種であった援蒋ルートの遮断を目的に仏ヴィシー政権政府と仏印総督の許可を得て仏領インドシナに進駐する。

蘭印・仏印の両植民地本国をドイツが占領した事は三国同盟を進める大きな要因となった。

また仮想敵を米海軍とし、一方的に軍縮条約を破棄して大型艦艇を次々と建造した海軍内で多数を占めた対米英強行艦隊派も日米開戦を望んだ。

仮想敵としながら石油と鉄の殆どを米国に依存していた海軍が艦隊を燃料の縛りなく運用するには南方石油資源地帯が必要であり輸送ルート上に位置するフィリピンの攻略が不可欠であった。

日本軍の南部仏印への進駐に対する米国の対日資源禁輸制裁による艦隊への燃料調達の困難と真珠湾作戦遂行上、冬季北大平洋の天候不利を理由に海軍軍令部は早期開戦を進言した。


日米開戦を憂慮した昭和天皇は三国同盟に反対であった海軍大臣 米内 光政を総理大臣に陛下が信頼する畑 俊六の陸軍大臣留任を強く勧められ、米内内閣が組閣任命された。

しかし陸軍部内開戦派の圧力によって畑 俊六は陸軍大臣を単独辞職、海軍大臣 吉田善吾は病気で辞任し、陛下が信任、期待された米内内閣は半年で解散に追い込まれる。


「四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世になど波風の 立ちさわぐらん。」

陛下は御前会議で開戦に明確に反対する御心を明治天皇が詠まれた御製で表された。

軍部は外交交渉に期限を限り、1941年11月26日 野村駐米大使がハル・ノートを受取る前日、連合艦隊の空母機動部隊は真珠湾に向け単冠湾を出撃する。


12月2日1700 発 聯合艦隊司令長官  宛 機動部隊指揮官 
本文 「ニイタカヤマノボレ一二〇八」 開戦は12月8日 と決定された。

12月6日 ルーズベルトから親電が発せられたが、故意に留め置かれ陛下の手元に届けられたのは真珠湾攻撃の30分前であった。


戦略なき戦術に戦局は次第に悪化したが大本営は陸海軍の大敗を国民に隠し嘘の戦果戦況を流し続け、自分達が見捨てた皇軍部隊の全滅を「玉砕」と美化して言論統制を厳しくする。

また陸軍参謀本部と海軍軍令部は互いに作戦失敗の責任を擦り合い互いの情報まで隠した為に、多くの作戦遂行に大きな支障を来した。

日米開戦に走った大本営作戦部中枢の無能なエリートは戦争を終わらせる方策は全く持たず、何処を戦争終結点にする目標もなく漠然と兵の命と国力を消耗し戦争を続けて行く。

それでも師団、艦隊末端の将兵は作戦に矛盾を感じながらも最前線で必至に戦い続ける。

大本営は沖縄占領、原爆を投下されて尚も徹底抗戦、本土決戦、一億玉砕を主張していた。

最後の御前会議で軍部の「国体護持」を求める抗戦派を諌め、ポツダム宣言を受諾し降伏を促されたのは開戦を憂慮し、軍政軍令一体に懸念を示され国民の将来を憂う陛下の御聖断であった。


終戦前日の8月14日 ポツダム宣言と終戦決定を受入れず本土決戦を主張する陸軍の若手参謀らが、近衛第一師団師団長 森赳中将と第二総軍参謀 白石通教中佐を殺害し、偽の師団長命令書を作成、警備の近衛歩兵第二連隊に宮城を占拠させ玉音放送を阻止する為にNHK放送会館に近衛歩兵第一連隊を派遣した宮城事件を起こす。

この宮城事件の朝にも陛下は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べられておられる。

阿南惟幾陸軍大臣は敗戦と宮城事件の責任をとり終戦の日に陸相官邸で自刃した。


しかし「軍部」と、一括りには出来ない。 

満州事変を画策した石原 莞爾は中国戦線不拡大を唱え、早期和平を望み日米開戦と三国同盟に反対した。

終戦に貢献した米内 光政は蒋介石の南京政府との和平交渉の打切りを強く主張して、日中戦争の泥沼化を招いた。

また中国戦線拡大と対ソ対米英の両面戦を主張した東條 英機は天皇絶対忠信者であり、陛下から戦争回避に力を尽くすように直接指示されると、それまでの開戦論姿勢を直ちに改め対米協調路線に変更、外交交渉に全力を尽くすも開戦を避けられず陛下に泣きながら詫びる。

開戦前から帝國陸海軍の軍部に於いても、それぞれ主張の違いと紆余曲折があった。

善悪正誤は一人物に存在するもので、戦犯も然り、誰が良い悪いと決める事は出来ない。

温厚篤実または好戦的な提督や将軍が実戦に於いて、必ずしも軍事戦略に長け戦果を上げる秀でた武人、優れた闘将だとは限らない。

軍人が戦争回避の為に意見具申、進言する事は良いが、政治外交に介入してはならない。

しかし開戦の責任すべてを陸海軍上層部だけに押付てはいけない。


日本を三国同盟と対米戦争へ進ませたのは一部の軍人だけではなく、ドイツのヨーロッパ電撃侵攻に靡き破滅行きのバスに飛び乗った政治家、マスコミ、財閥をはじめとする経済界と貧しかった国民自身だ。

戦争は麻薬である。

満州建国の夜、真珠湾攻撃の朝、ラジオの臨時ニュースに国民は喜び沸き万歳三唱する。

国民は総力を結集し家族の為、お国の為に死ぬ事に、一致団結した。


刀は抜くより、収める方が難しい、戦争を精神論と失業対策で始めてはいけない。


マスコミは開戦を煽り、無知故に翻弄される者、金儲けに走る輩の世論が戦争に加担する。

何時の時代も戦端を開かせるのは、過去、現実、未来を正しく見ない愚者達だ。

右翼は不必要に国威を発揚し、無責任な日和見リベラルと左翼の売国奴が国を売り滅ぼす。



欧米列強との地資源争奪戦に日本は敗れた。

アジアを侵略し現地民を奴隷の様に扱い搾取した白人連合国に正義が有った訳ではない。

新興小国日本の首を絞め上げ、アジアで植民地支配を続けた列強にも責任の一端は有る。

戦前の台湾、朝鮮、南満州鉄道及び付属地、樺太、千島列島、南洋群島は国際社会から認められた大日本帝國の正当な領土、及び統治権益地で武力により侵略したのではない。


支那軍閥は勢力争い国共内戦に明け暮れ分裂、義和団は再び青龍刀で居留民を襲う。

民国は国の体をなさず、条約協定を破り武力挑発を続け国際共同租界を包囲攻撃した。

スターリンはノモンハンで仕掛け日中米の衝突消耗を謀り中共を支援し南下の隙を伺った。

ブラウナウの伍長はドーバーを渡れずロシアの冬に泣き、日本に英印に出兵を要請する。

ルーズベルトは援蒋ルートで物資を送り、経済制裁と包囲で日本の首を絞め追い詰める。

英軍は仏領シリア・レバノンを攻撃占領しながら、許可を得た日本の仏印進駐を抗議した。

チャーチルはハルノートを書かせ米国参戦を画策し、日本海軍の真珠湾攻撃に歓喜した。

太平洋戦争には、それぞれの思惑があった。


国際連盟常任理事国であった日本は南京政府や欧米列強の思惑に対して北京議定書、日清通商航海条約、満州善後条約、日英同盟に基づき、国連や二国間の交渉で政治的に大陸の権益を守る外交戦略に尽力すべきだった。

日本は再び三国干渉されても国際連盟を脱退すべきではなかった。


クリミア半島で行われたヤルタ会談はミュンヘン会談から続く連合国の占領エゴ協定だ。

ルーズベルト、チャーチル、スターリンのヤルタ密約は東西冷戦と現在の領土問題を産む。

戦後も米国が沖縄返還を盾に日露の平和条約締結と北方領土の返還交渉に圧力を掛けた。



連合軍占領統治下の東京での極東軍事裁判に戦犯を裁く判決は有ったが正義は無かった。

中立国からの判事は一人も選ばれなかった。

連合国軍による無差別爆撃、病院船の雷撃、婦女子への機銃掃射、民間人や捕虜の虐殺と暴行はジュネーブ条約やハーグ陸戦協定に明確に違反しているが裁かれる事はなかった。

戦勝国側の行為はすべて不問した勝者に拠る、正義の無い報復の儀式は裁判ではない。

証拠証言も認めず一方的に裁いて決した戦犯、日本人は戦争責任、犯罪を裁けなかった。

戦争は善悪正義の有無、思想や精神力では勝てない、技術力と物量、戦略で勝敗が決る。


パール判事曰く「戦争の勝ち負けは腕力の強弱であり、正義とは関係ない。」正論である。






爆撃で亡くなった幼い弟を背負い、姿勢を正し唇をかみ締める少年の凛とした立ち姿。

日本人なら誰しも、この少年の悔しさと悲しみが分るはずだ。


あの時代、日本は少年だった。




終戦の日

毎年、8月になるとマスコミは先の大戦と原爆の悲惨、悲しみと過ちの反省を一斉に流す。

お盆と言う事もある、しかし戦没者が亡くなったのは暑い夏だけではない。

極寒のアリューシャン、千島、シベリア、中国、極暑熱帯の密林に山岳、南洋の孤島。

毎日、何処かで多くの日本軍将兵、大陸、沖縄、本土の空襲で民間人が亡くなられている。

過去を反省検証する事は絶対に必要だ、日本人は、この時期に感傷的、自虐的になる。

日本軍を鬼畜扱いした戦史にドラマや憲法改正と自衛隊を危険視する番組を放送する。


そして敗戦記念日には、靖国神社への参拝をマスコミは騒ぎたてる。

1985年に朝日新聞が書きたて間違った認識を煽るまでは靖国神社への参拝に言い掛かりはなく、日韓に慰安婦問題など存在もしなかったうえ、韓国人に拠る否定の証言もあった。

兵力、輸送力も不足する日本軍が慰安婦20万人 約10個師団を強制連行したと嘘を吐く。

しかも日本帝國軍には自ら志願した朝鮮人の軍人軍属 24万2,341名が含まれる。

帝國陸軍に自ら志願し戒厳令まで敷き日韓基本条約を締結した朴正煕大統領は売国奴か


上海市街爆撃・南京虐殺・黄河決壊、支那は自軍の蛮行を常に日本軍の暴挙と喧伝した。

南京の死者数は大量水増し捏造されているが、日本軍による殺害があった事は否定しない。

南京には民間人を装い日本人を襲う便衣兵も多くいた、国民党軍や八路も中国人、日本人を虐殺し朝鮮戦争、ベトナム、ボスニア、イラク、アフガンで東西両陣営の兵士は多くの民間人を殺した。

虐殺が行なわれなかった戦争など無い。

兵士による民間人の殺害は、今現在も発生している大きな問題である。

日本だけが70年前の事で反日国に内政を干渉され参拝を控える必要など何処にもない。

政治家に限らず明治以降、国に殉じた人に感謝し慰霊するのは日本人としての心の問題。


中韓は史実を捏造、改竄し、故意に外交の手段にしている。

日本は尖閣など領土侵略と同じ様に、中韓に対応すればよい。

参拝を控えても、中韓は盗みを止めない、通州事件を起こした蛮族に言われたくない。


外交や安全保障問題は他国の干渉や過去に捕らわれず、現状と未来を冷静に考えるべき。




日本の核武装と原子力平和利用

核兵器廃絶には賛成だが、しかし世界中の核兵器を総て廃絶する事は難しい。

核兵器は強力な軍事的抑止力になり、また核兵器を持たなくても平和にはならない。

貧しい国々、第三世界は通常兵器・兵力より遥に安上がり故に核兵器を欲しがる。

パキスタンはインドに怯えインドは中国を警戒し中国はアメリカやロシアに対抗する。

北朝鮮は長年苦労し嘘を吐き続け制裁を受けてまで一度手にした核兵器を手放さない。

当然、核弾道ミサイル東風を日本の都市に照準を合わせている中国もオホーツク海に戦略原潜を潜ませるロシアも核兵器を放棄しない。

北の核武装を阻止できないなら日本も核武装する。と言うのは中露に対して効果がある。

核兵器廃絶により軍事的均衡が崩れ、世界各地で紛争が起こり易くなる現実がある。

愚かにも人類の平和は核に拠って保たれて来たのが現状であると言っても過言ではない。


核兵器がなければ、いや人類に広島と長崎の惨劇の歴史が無ければ東西冷戦は熱い戦いとなり、米ソ代理戦争から直接戦争、第三次世界大戦、即ち核戦争に至っていた可能性は高い。



核武装を言うならば先ずは核弾頭つまり弾丸より、発射できる銃である弾頭を運ぶ巡航ミサイルや中長距離ミサイルはじめとする対遠隔地攻撃能力が必要。


自分は抑止の上で日本の核武装に強行に反対しないが非常に慎重だ。

また「目には目を」と言う、安易な考えと勢いだけで核兵器を構えてはいけない。

仮に日中が戦端を開き、人口14億の広大な国土に日本が数発の核ミサイルを撃込んでも中共軍は生き残り報復の核攻撃で日本は消滅する。

敵より早く多くの都市を攻撃破壊し、少しでも敵より多く生き残り更に報復する。

東西冷戦下の米ソに拠る核戦略には勝者はない。

軍用施設だけをピンポイントで狙える最新小型戦術核搭載の対地巡航ミサイルでも広島型の数倍の破壊力があり、戦術核の使用は外交交渉で話が付かない核保有国が相手なら倍返し以上の報復反撃を受ける覚悟がいる。

しかし日本周辺近海での通常兵器に拠る防衛戦闘に於いて日本は中共に負けない。

そして日米安保条約が有効な限り、中共は日本に対し核兵器を使えない。

戦略核は複数目標弾頭一発で100万人都市を消滅させる広島型の数十倍の威力がある。

例え憎むべき敵とは言え、核兵器を使い無差別大量に市民を殺す事など自分には出来ない。

核兵器を持つと言う事は、一瞬にして非武装市民を大量に殺し、殺される覚悟が必要。

覚悟もなく無責任に核武装を唱えるのは、広島・長崎に投下を決めた政治家達と同じ。

日本の核武装化に慎重なのは、自分に責任能力も多くの良民を殺す覚悟も無いからだ。

また核は抑止力になる反面、公言すれば相手に先制核攻撃の口述を与える事にもなる。

核武装を可能にする設備や技術体制を自ら「保持している。」「いない。」を公表する必要はない。

つまり核弾頭搭載可能な中長距離弾道ミサイルやトマホークなどの巡航ミサイルとミサイル潜水艦を近海に配備するだけで中身は通常弾頭であっても抑止力は上がる。

日米同盟が盤石で核の傘がある限り、結局は持っていても使えない核兵器ならば持つ必要はなく、抑止力だけなら持っている振りをするだけで良い。





しかし原子力=核兵器ではない、原発と原爆、被曝と被爆は違う。

日本は原子力の平和利用、技術研究は核廃棄物処理を含め続けるべきだ。

何時でも核武装が可能な潜在能力を保持する国であると周辺国に知らしめる必要がある。

原発を無暗に増やせと言っているのではない、それを言う政治家も今の日本にはいない。

地震と津波による未曾有の自然災害と設計や管理など人的ミスが重なり低脳政権が被害を拡大した今回の原発事故は「神の啓示」などではない。

原発即時全廃を言う者は、安全ではなく、安心を求めている。

やがて枯渇する化石燃料を使い、CO2の排出を続ける事に反対していた偽善エコロジストも批難の矛先を原発に変えた。


「原発を推進してきた国が悪い、責任をとれ。」・・・

これまで経済成長、安定電力供給の恩恵に俗して来た者達が澄まし顔で言うな。

先の大戦の石油禁輸、通商破壊戦、中東戦争にオイルショックを忘れたか。

エネルギーの自給力は資源を他国に求める国とって生存を掛けた死活問題になる。


空気より重たい航空機は空を飛ぶ危険な凶器か。

ドクターヘリもジャンボ旅客機も墜ちる時は墜ちる、自衛隊機や米軍機だけを叩くな。

軽自動車と戦車の事故死亡者数を比べても無意味、文明の利器は使い方次第で凶器になる。

火を恐れて使わない原始の猿人に未来も進歩も無い、使いこなした者だけが人類になれる。


原発を責める前に原発の安全確保とメタンハイドレートなど日本周辺の海底資源開発に国力を注ぐべきだ。

海外にエネルギー資源を依存するなら尚更シーレーン防衛に力を入れなければならない。


68年前、長崎で原爆の被害を目の当たりした海軍技術士官であり造船工学博士だった伯父さんは戦後、日本初の原子力船の研究開発の推進に携わった。

原子力実験船「むつ」 

少資源国日本の未来を開く技術研究実験は無知なマスコミに潰された。

1974年、青森県沖太平洋上で行われた初原子力航行試験中、原子炉出力を約1.4%に上げた時にストリーミングに因る極微量(0.002ms/h)の放射線漏れが検知され警報が鳴った。

この単なる実験試験過程に想定される極微量の放射線漏れを朝日新聞は大声で騒ぎたてた。

当時、試験航海に同乗した記者3人は「我々が乗ってなかったら事故は隠蔽されただろう。」と、今も自慢している。

「0.002ms/h?」「放射能漏れ?」「事故?」「隠蔽?」 お前らの脳ミソが放射脳だ。

「むつ」の真実については、また別の機会に書きたいと思う。




日本人の歴史認識

>私の下に「出来の悪い部下」を配し、それが一連の運命的な結果を・・・

伯父さんの回顧録には、現在の自分の個人的な立場や環境を再考させる話もある。


歳月が流れ、最近は実際に戦争を体験された方から貴重な話を伺う機会が少なくなった。

陸海軍にいた祖父や元上司から聞いた話は沢山ある、また一般市民である祖母、叔母に母の体験も参考になる。

戦争の悲惨さを後世に伝えなければならないと言う使命感を持って話される方もいる。

しかし戦争の体験も階級や所属、戦局、戦線、戦場、兵科、交戦相手に拠って異なり、それぞれ違った戦争観があり、また戦後受けた思想信条に拠っても表現は変わる物でもある。

仕事柄、滅多に旅行では行けない太平洋の激戦地にも行き、現地の老人から話も聞いた。

元米軍や元帝國軍人の韓国軍将校であった人とも知合い、色々と話ができた。


多くの方が亡くなった太平洋戦争の史実をドラマチックに脚色するのは映画TVだけでよい。

頭の中で作られた武勇伝も偏った左翼思想も必要ない、ただ事実だけを知っておくべきだ。 



天皇陛下に非礼な謝罪を要求し「原爆は神の懲罰」だと低脳が妄想する。

歴史を捏造し真実を捻じ曲げて嘘の証言を並べ賠償を要求する国が近隣にある。

日本にも自分で碌に史実を調べ検証もせず、反日国の虚言に同調して、日本の右傾化と騒ぎ自脳の左傾化に気付かない者がいる。

核兵器廃絶と原発即時全廃、日米同盟と戦争参加を一緒にして左翼は沖縄を利用するな。


紅い核は綺麗な核か。 

鉄道も安全に運行できず事証を土に埋め、無造作に原発、核兵器を増やす国には黙んまり。

中共は人民日報に「沖縄独立の勢力を育成する」との記事を掲載したが既に実行している。

日本の弱体化を画策して、核軍拡、侵略、原発増設、環境破壊、少数民族弾圧、言論統制を続ける中共の手先だ。

「原爆はいけません」「人殺しはいけません」「戦争はいけません。」

そんな事は小学生でも判る当り前の事だ、日本の学校は戦争の正体を教えなかった。

はだしのゲンも学校で先生に読まされた「天皇は人殺し、日本兵は悪魔、朝鮮人は善人」

一作者の漫画を平和教育と称し教師がついでに偏狭な思想まで子供に摺り込むな。

思想に関係無く描かれた「火垂るの墓」を一度見て欲しい。


戦は人類の歴史でもあった、石器時代から近代まで古来、人は様々な理由で戦をした。

人類は戦争に学び反省し、科学は進歩し、手にする武器や戦う理由も規模も変化して来た。

自由、平等、友愛などの美辞麗句を並べ臭い物には蓋をし歴史的検証もせず何を教えた。

学校と教師が考えない右へ倣えのバカや議論も出来ないアホな日本人を作ってどうする。

その結果「大量虐殺の侵略戦争を日本は猛省すべき」「アジア解放の為に始めた大東亜戦争」などと左右両極端な感情論を日本の戦後世代は持つ様になった。

近代史に無知な故に国策プロパガンダを伴う中韓からの謝罪要求に言いなりに謝罪する。

潔く非は認めて同じ轍を踏まないのが日本人だが、理不尽な要求に謝罪する必要はない。

ある一面だけを見て、戦争と歴史の全体を判断し国防安全保障を考えてはいけない。




日本の安全保障とアジアの平和

富国強兵が悪い訳ではない、独立主権国家として当然の権利である。

今の日本は国連会議場を退席したりしない。

日本が強い防衛力を保持しアジア諸国と協力して国民と地域の平和を守る事は正しい。 

これは戦争する為ではなく、大国からの侵略戦争を抑止防衛する為にも必要な事だ。


中共は機関紙人民日報に「尖閣のみならず沖縄も日本の領土でない、日本が不法占拠している」「サンフランシスコ平和条約は中国に拘束力を持たない、米国が勝手に沖縄を日本に戻す権利はない」と報じ、人民解放軍高官は必ず日本から沖縄を奪還すると発言している。

中共の対日強硬策を「先に日本が火を付けた。」「中国国内向けだ。」「単なる威嚇だ。」などと安易に決めつける左翼は己の発言に責任を取らず、沖縄の安全も保障しない。

現在も東シナ海・沖縄はシーレーン及び防衛上、日中にとって重要な要衝である。

しかし日本は二度と沖縄への侵攻を許し、市民を犠牲にする事はできない。



憲法が平和を守るのか

改憲は危険だ、改悪だ、軍になれば戦争を始めて人殺しに出掛ける、歯止めが効かない。

日本は右傾化して戦争をしたがっている!


そんな奴は日本人ではない。

中共の報道官に左に倣えの日本国内の左翼。

防衛力の強化と法整備を単純に同盟国の紛争に追従参戦、徴兵制度に結びつけるな。


戦後、日本人は憲法9条に縛られ、9条が有ったから戦争をしなかったのではない。

日本人が平和を愛し日米安保条約に拠る核の傘と自衛隊や米軍に守られていたからだ。 

日本は自国の防衛以外は、二度と戦争をしないと誓った国だ。

例え、憲法 9条が無かろうが軍隊を持とうが日本から戦闘を仕掛ける事はない。

しかし9条が有っても、攻めて来れば国民と領土を守る為に交戦する。

9条が有れば戦争にならないと思うな、平和と安全はタダではない。


日本国憲法は日本国民のものであり、宗教でもなく国際条約協定でもない。

日本国憲法は国民の権利を保障し、政治権力を縛る。 しかし外国には全く通用しない。

「戦争は怖いから先ず対話、外交で解決しよう。」 

外交努力をするのは当前の事だ、子供の喧嘩ではない。

「仲良くしよう、どんな国でも話合えば判るよ。」 

他国の領土を欲しがる強盗は軍事力の後ろ盾も無い話し合いが通じる相手ではない。


高級ブランド腕時計と服のポケットに札束を突っ込み背中に「日本人」と書いて外国を歩いてみろ


自分は「軍備を最優先せよ」などとは一度も言っていない。

賢い政治外交力と強い経済力が日本に一番必要だと言う事を大前提にしている。

己の安全運転だけでは事故は防げない、整備不良の車に保険も無く公道を走る奴はバカだ。

安全保障条約は万が一に備え加入する任意相互保険である。


集団的自衛権、俺が危ない時は助けてくれ、お前が危ない時は助けない。 

そんな虫の良い友情、友好条約、同盟関係はない。

何もアメリカが自国の国益の為、勝手に売った喧嘩を日本が買えと言うのではない。

集団的自衛権であり集団的攻撃義務ではない、自衛以外の戦闘攻撃に付き合う必要はない。

また友人ならば喧嘩しない様に止めるのが真の友情である。


隣国の軍事力と戦争に対する脅威が軍備を拡大させ、不信感と驕りから引鉄を引く。

他国の軍拡に合わせる軍事力の強化には限がない、無駄な出費に付き合う必要もない。

しかし、横暴な隣国に変な気を起こさせず、好き勝手にさせない為に、日本の身の丈に合った強力な抑止防衛力の保持と効果的な米国・アジア諸国との同盟関係とは必要だ。


国連は世界平和を守る正義神ではなく、侵略戦争や紛争を押える権力権限はない。

米国も世界の警察官ではなく、安全保障条約を結んだ自国益を優先する日本の同盟国だ。

どんなに優れた宗教、主義、憲法、条約、協定も、人が作った物は人によって破られる。 

自国の平和は他国の慈悲により与えられる物ではない。

年中、毎夜、枕を高くして寝られるのは、誰かが起きて守っているからだ。



新しい国日本

今の日本は開国以来、多くの人達の犠牲の上に成り立っている事を忘れてはいけない。

生き残った人達は敗戦の焦土から僅かな時間で日本を世界有数の経済技術国に復興した。

私達は、あの戦争で亡くなった全ての人達に恥ずかしくない日本にしなければいけない。

彼らの子孫、後輩である私達にも出来ると信じたい。

そうしなければ、日本の未来を信じ、国の為に命を捧げた人達に顔向けできない。

日本国は1952年 サンフランシスコ平和条約で主権を承認され生れ変わった新しい国。

戦後、新しい日本に生まれた今の世代、これからの日本人に過去の戦争責任はない。

これまで日本は反省し賠償責任を果たし迷惑を掛けたアジア諸国にも充分に貢献してきた。

極東の小さな島国であった日本はアジアで唯一、欧米列強の植民地支配に抗い、先進国白人連合を相手に国土が焦土と化すまで精一杯戦った。



何時まで日本人は敗戦を引き摺り、頭を垂れて歩かなければならないのか。


戦後 68年に及ぶ長過ぎる自虐的な懲役は、もう終らせるべきだ。


日本は何時までも、少年のままではいられない。



「太陽の帝国」 満州事変に続く。



日本の近代史・戦史を書いたブログ

Empire of the Sun 1   「太陽の帝国」その1   真珠湾攻撃・マレー・蘭印作戦

Empire of the Sun 2   「太陽の帝国」その2   インド洋作戦・珊瑚海海戦

Empire of the Sun 3   「太陽の帝国」その3   遣日独潜水艦・海軍技術士官

Empire of the Sun 4   「太陽の帝国」その4   ミッドウェ-海戦

Empire of the Sun 5   「太陽の帝国」その5   聯合艦隊旗艦

Empire of the Sun 6   「太陽の帝国」その6   大和出撃

Empire of the Sun 7   「太陽の帝国」その7   マリアナ諸島 テニアンの戦い

Empire of the Sun 8   「太陽の帝国」その8   大日本帝國

Empire of the Sun 9   「太陽の帝国」その9   運命の瞬間

Empire of the Sun 10   「太陽の帝国」その10  満州事変

Empire of the Sun 11   「太陽の帝国」その11  上海事変

Empire of the Sun 12   「太陽の帝国」その12  兵に告ぐ 二・二六事件
Posted at 2013/08/09 12:27:57 | コメント(5) | トラックバック(0) | 太陽の帝国 | 日記
2013年07月30日 イイね!

Empire of the Sun 8 「太陽の帝国」 大日本帝國

Empire of the Sun 8 「太陽の帝国」 大日本帝國国際連盟承認の大日本帝國領土は以下の通り。

千島 1875年 日露・千島樺太交換条約
   根室海峡からカムチャツカ半島南端、千島海峡間の列島

台湾 1895年 日清戦争 下関条約 清国より割譲
   高雄市に含め領有した新南群島(南沙諸島)を含む。

樺太 1905年 日露戦争 ポーツマス条約 ロシアより割譲
   北緯50度以南を奪還。

朝鮮 1910年 国際法上合法である韓国併合ニ関スル条約
   朝鮮半島の帝國併合。

南洋群島 1922年 第一次世界大戦 敗戦国ドイツ領を国際連盟より統治委任
北マリアナ諸島(米領グアムを除く、サイパン・テニアン・ロタ他14島)
カロリン諸島(トラック・パラオ・ヤップ・ポナペ・クサイエ・サタワル・ウルシー環礁)
マーシャル諸島(クェゼリン・ビキニ他・32環礁)
南洋群島の統治領は太平洋ニューギニア赤道以北地域、ミクロネシアに相当する。


大戦前、帝國には上記の領土の他に施政権が及ぶ租借地や租界、鉄道附属地があった。



帝國の大陸進出・外地入植統治政策

1894年 朝鮮で近代化を求め清国への事大と朝貢廃止を掲げた甲申政変に続き農民戦争が発生して天津条約に基づき朝鮮に出兵した日本は日清戦争に勝利した。

日本は遼東半島、台湾、澎湖諸島を清から割譲して朝鮮を朝貢冊封体制から解放独立させ、沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放させる日清講和・下関条約を締結する。

だが仏・独・露の三国干渉と賄賂に拠り、ロシアは旅順港に艦隊を強制入港させ遼東半島を租借して不凍港を獲得すると満洲全域に勢力圏を拡大し朝鮮半島を狙う。

清から得た賠償金で軍備を増強し、ロシア帝國の南侵に対抗した日露戦争に日本は勝利して大陸に権益を獲得して朝鮮を保護下に置き、北緯50度以南の樺太を奪還する。

1905年 ポーツマス日露講和条約調印と満州善後条約締結で日清間の南満州鉄道及び附属地と吉林への路線延伸、日露戦時に日本が構築した鴨緑江に至る安奉線の継続使用、旅順・大連港を含む関東州租借、日本軍常駐、鉱山採掘、森林伐採等の権利と日本人の居留保障、沿海州沿岸の漁業権を確約して日露協約で朝鮮・満洲と内蒙古東部に於ける権益を得た。

1910年8月29日 日本の寺内正毅 韓国統監と大韓帝国の李完用 首相により日韓併合条約が調印され大日本帝國が大韓帝國を併合した。

しかしロシアから賠償金は取れず戦費返済に苦慮し、日本は工業化も進むが依然農業主体で政府は過剰な労働力の受入先でもある外地の権益領地にも活力を求める。 

外地の開拓開発事業は政府国家に拠る大掛かりな口減らしの移住政策でもあった。


日本政府は外地日本領の行政統治開発の為に拓務省を新設、朝鮮総督府・台湾総督府・関東庁・樺太庁・南洋庁の監督を行い拓務省下に南満州鉄道や東洋拓殖・南洋拓殖・南洋興発などの国策開発会社を設立する。


国策に沿い財閥民間企業も大陸や朝鮮、台湾に進出、開拓開発事業に参画した。


満州や朝鮮、台湾の農地、ダムや河川の治水、港湾、鉄道や道路、電気水道などインフラや産業が整備されて金融機関が集まり、台北、基隆、高雄、京城、釜山、平壌、大連、新京、奉天、ハルビンの都市部は近代化が進む。



帝國陸海軍の外地常駐配備

1901年の北京議定書に拠り清国に権益を持つ日本も列国に並び占領駐兵権を行使する。

1914年に日本は日英同盟に基づきドイツ帝国へ宣戦布告、連合国側で第一次世界大戦に参戦、帝国陸海軍はドイツ権益の山東半島 青島要塞を攻略、植民領の南洋諸島を占領した。

帝國陸軍は外地の日本領や租借地の駐屯守備隊に内地から師団編入して増強し台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍、遼東半島と南満州鉄道附属地警備を目的として関東軍を編成する。

帝國海軍は欧米列強海軍と同様に租借地の警備に陸戦隊を配備して旅順や鎮海などの要港部と上海・青島・天津など租界に艦艇を派遣した。

上海 黄浦江に錨泊中の軽巡洋艦「長良」  手前は米海軍砲艦「アッシュビル」


駆逐艦「初霜」 山東半島 青島


1927年3月 南京・上海を占領した中国国民革命軍の共産党派が外国領事館と居留民を襲撃する南京事件漢口事件を起こした。

南京城内の中国軍に対して揚子江に停泊中の米英海軍艦艇が艦砲射撃を加え陸戦隊を上陸させ交戦したが日本軍は無抵抗の命令を受け艦砲射撃も防御戦闘も行わなかった為に入城した中国兵の一方的な暴虐に遭い日本と欧米の外交官と宣教師が虐殺され婦女子が強姦された。

翌年4月には山東省 済南で居留民が北伐軍内共産党派に掠奪虐殺され、警備に当たる日本軍の臨時派遣隊と武力衝突した済南事件を起こす。


蒋介石は武漢国民政府左派勢力に対抗し国民党から共産主義者とソ連の顧問を排除して南京に国民政府を設立、関東軍は蒋介石に「山海関以東の満州には侵攻しない」と言質を取る。



関東軍と支那軍閥

関東軍は日露戦時にロシアから日本に寝返った満州の馬賊 張作霖の奉天軍閥に軍事顧問を送り支援していたが、朝鮮人安住や土地商租権等の約束を守らず、山海関内に進攻し北京に入城した張作霖は蒋介石の北伐軍との戦いに敗れ、大陸の覇権に出遅れた米国が接近し支援を始めた。

張作霖と旧知の仲である元満州軍参謀 田中義一首相は関係維持を模索したが勢力争いを続ける支那軍閥の統治に限界を見た関東軍高官は社会インフラを整備して親日政権国家樹立に拠る満洲の間接的な安定統治を考える様になる。

1928年6月4日 関東軍司令官 村岡長太郎中将と河本大作大佐が首謀して満洲鉄道の特別列車で移動中の張作霖を奉天近郊で爆殺する。

奉天軍閥を引継いだ張学良の合流で北伐を完遂させた蒋介石は国内の共産勢力掃討に力を注ぎコミンテルンの赤化工作の活動拠点であるハルピンのソ連総領事館を強制捜査して総領事と職員を逮捕、ソ連権益の中東鉄道に軍隊を配置して接収、ロシア人職員を排除して中国人を任命した。

1929年7月18日 日本の厳正中立と関東軍の不介入を確認したソ連は南京国民政府に国交断絶を宣告してソ連赤軍が満洲に侵攻、張学良軍を撃破し中東鉄道全線を占領して経営権と特別区の行政を握り、満洲に於けるソ連の影響力を反対に強める。

ソ連に敗れた南京政府と張学良は矛先を日本の権益と日本人に向け排日に傾く。

日清間で締結、中華民国にも継続された日清通商航海条約の破棄を一方的に宣言した南京政府は満洲善後条約も無視して南満洲鉄道に並行する鉄道路線を建設、満鉄付属地に柵を張り廻らし監視所を設けて大連港と付属地持出とに二重関税を掛け、一方的な許可の取消や事業妨害を行い林業、鉱業、商業等の日本人企業の経営不振が続出する。

満洲鉄道、及び東清鉄道の路線図

更に南京政府は「鮮人駆逐令」で朝鮮人農民から土地を奪い抵抗した530人を奉天監獄に投獄、迫害された朝鮮人が長春 西北の万宝山に入植して反発した中国人に襲撃され、日本領事館から朝鮮人農民保護の為に急行させた警察官と武装した中国人の暴徒が衝突する万宝山事件が発生して朝鮮排華事件が起こる。

1931年6月27日 対ソ戦に備えて地誌調査に蒙古興安嶺を旅行中の陸軍参謀 中村震太郎 大尉と井杉延太郎 退役兵曹長、白ロシア人、蒙古人の一行4名を張学良配下の屯墾軍が拘束、金品、護身用ピストル、その他一切の物を奪い殺害した。

これと時を同じくし日本人女学生数十人がピクニック中に集団強姦される事件も発生する。

日々この様な懸案が370件余りに達し、外務省を通じ南京政府に協議解決を申入れ関東軍も再三に渡り強く抗議するも無視され続けた。

関東軍に作戦参謀として赴任した石原莞爾中佐は満洲の地域自決・民族自決に基づく分離独立、満蒙領有計画を立案する。



満洲事変

南京政府の排日政策と満洲・東北の治安悪化に危機感を抱いた関東軍幹部達は本国の陸軍中央参謀本部に諮ることなく再び独断で行動を開始する。


1931年9月18日 石原莞爾中佐は着任した高級参謀 板垣征四郎大佐と奉天近郊の柳条湖付近で南満州鉄道の線路を爆破して張学良東北軍の犯行に見せ掛けた柳条湖事件を実行、特務機関の工作で吉林も不穏な状態に持込み満洲事変を起こす。

関東軍は僅かな兵力を以って難なく日本本土面積の3倍を有する満州・東北全域を制圧占領した。



満洲国建国

1932年3月1日 関東軍の石原莞爾主任参謀らが主導「王道楽土」「五族協和」を理念に東北三区の政都として長春を新京と命名、満州族出身で清朝最後の皇帝 溥儀が国家元首として政務を執り日本に国防・鉄道・通信の管理を委ねる親日国家 満洲国が建国される。

1933年3月 国際連盟創立以来の原加盟国で常任理事国でもあった日本は国連の総会で満洲を支那の一部分とする撤退勧告を受け国際連盟を脱退する。

当時の国連加盟独立国は60ヵ国程でアジアやアフリカ地域は欧米の植民地が殆だったが、満州国は中華民国南京国民政府をはじめ植民地を除く23ヵ国から承認された。

1932年4月 満州国軍が創設され治安維持と国境警備に当たり、日満議定書により国防は関東軍が担い、日本人将校が満洲国軍の軍事顧問や教官を務め、部隊長等は日本軍から転籍した将兵が任官する事もあった。

当初、部隊構成は軍閥の配置を踏襲したが陸軍軍官学校が設立され将校を養成、満洲国国民の満州族、漢族、蒙古族、ウイグル族、白系ロシア、日本人、朝鮮人、台湾人が入学する。

後の韓国大統領 朴正煕は新京の満洲国軍軍官学校を首席卒業後、東京の陸軍士官学校を卒業、関東軍に配属され見習士官として勤務後、満洲国軍で中尉に昇進した。




日華事変

1932年1月28日 中国国民党 第十九路軍が上海市郊外に進出、日本人僧侶襲撃や排日暴動が発生、租界を警備していた日本海軍陸戦隊が十九路軍に銃撃され90余名が死傷して戦闘に至り、第一次上海事変が勃発する。

陸軍は4個師団動員、海軍が空母 加賀・鳳翔の第一航空戦隊を派遣して中国軍を撃退した。

1936年12月 共産党と密かに接触していた張学良は西安で蒋介石を拉致監禁し息子の蒋経国も留学先のソ連で人質に捕られ、反共討伐の政策を推進し日本との対立を避けて満洲国も承認した蒋介石の国民党は共産党との内戦を停止、国共合作で排日政策に転換する。


内地では依然、世界的な大恐慌から長く続く深刻な不況とインフレ、失業、自殺増加、農村部は冷害に因る凶作飢饉に喘ぎ疲弊していた。

「五・一五事件」に続き、国家社会主義者と陸軍皇道派将官の影響を受けた青年将校が政治腐敗や農村の困窮を憂い決起、「二・二六事件」を起こすが、クーデターは失敗に終わる。

この動乱と政府の外地日本領の権益保護政策は軍の国政関与を深める。


欧米列国を対日戦争に巻込みたかったコミンテルンと中国共産党は民国政府や軍閥内に潜り込み北・中支各地で日本軍を挑発して日中開戦を嗾ける。

1937年7月 北京 盧溝橋で通達済の夜間演習中に日本軍駐屯部隊を国民革命軍 第二十九軍の兵士が狙撃、抗議と解決協議中にも迫撃砲を撃込まれる 盧溝橋事件と中国人自治政府保安隊が在留日本人・朝鮮人200人以上を猟奇的に虐殺した 通州事件を起こす。

同年8月 上海停戦協定を破り、非武装地帯にトーチカと強固な要塞線を構築したドイツ軍事顧問が指揮する最新装備で完全武装した3万の国民党中央軍の精鋭が上海国際租界の日本人居留区を包囲攻撃する 第二次上海事変 を起した。

ソ連を警戒する石原莞爾ら不拡大派の意に反し8年に及ぶ長い日中の全面戦争に突入する。



海軍は渡洋爆撃を開始、加賀・鳳翔・龍驤の3空母を派遣し制空権を掌握、航空支援を行う。

3個師3万に包囲攻撃された僅か6千の海軍陸戦隊は約3週間に渡り日本人居留区を死守。

揚子江岸に強襲揚陸、反攻を開始した上海派遣軍と第10軍は上海周辺の敵を排除して追撃戦に移り首都南京を攻略、支那派遣軍が徐州、武漢、広東、南昌、海南島を占領、中国軍は敗走した。

大陸に進出した陸海軍の航空爆撃部隊は蒋介石が遷都した重慶に戦略爆撃を開始する。

中国軍は追撃する日本軍の足止めに焦土作戦を行い長沙の街に放火して市民2万人を焼死させ、黄河の堤防を決壊氾濫させて農作物に被害を与え100万人を水死と飢餓、疫病で苦しめた。

日本軍は進撃を停止して数万の黄河流域避難民を救助し住民と共に堤防修理や流路誘導を行い、後の大飢饉でも軍糧を放出して被災地で救援活動を行った。

大洪水を起こしたうえに農民から牛や食糧を徴発する国民党軍から離反した民衆は日本軍を支持、大陸打通作戦時に河南省では民衆の自主的な協力に拠り、6万の日本軍が30万の中国軍掃討戦に成功する。


南京、武漢と二度も首都を失った蒋介石は民衆の支持まで失い共産党分子を増殖させた。




ノモンハン事件

満州国建国以来、満州・ソ連国境のアムール川(黒竜江)では越境上陸し乾岔子島を不法占拠したソ連軍に日・満軍が応戦してソ連軍砲艦を撃沈した乾岔子島事件や満州東南端の朝鮮に近接する豆満江とハサン湖間にある国境不確定な緩衝地帯の丘陵に陣地構築を謀り越境侵攻したソ連軍を日本軍が撃退した張鼓峰事件などの国境紛争が起り、満州・蒙古国境西部フルンボイル平原では哈爾哈(ハルハ)廟事件など国境哨戒中にモンゴル軍の侵犯挑発に拠る銃撃戦が頻発していた。

1939年5月11日 ハルハ河付近 ノモンハンの国境係争地で満州国軍 国境警備隊とモンゴル軍の交戦に端を発し、両国を支援する日本軍とソ連赤軍に拠る大規模な軍事衝突に発展する。

この突発的な武力衝突に即応してソ連軍 第57特別軍団は戦車、装甲車、自走砲、機関銃狙撃兵、モンゴル騎兵団を投入してハルハ河西岸に榴弾砲を据えて架橋した東岸に陣地を構築した。

日本軍は第23師団捜索隊、歩兵大隊、輜重輸送部隊、山砲、速射砲、重機関銃、満州国軍騎兵の混成支隊を送り、戦車を伴うソ連軍の装甲部隊と戦闘になる。

衝突直後は日本軍が戦闘に勝利して東岸に応急陣地を構築したが、日・ソ両軍ともに指揮通信の混乱から統制を失い組織的な展開や戦闘の連携がとれず、分散した各部隊が個々の判断で攻撃・防御と孤軍奮闘する。

ソ連軍に火力で劣る日本軍は夜襲を掛けて反撃、上空では九七式戦闘機が空戦でソ連軍機に圧勝を続けて日本軍航空隊が制空権を抑え機銃掃射や哨戒偵察、陣地爆撃で地上軍を航空支援した。

日本軍の増援攻勢を警戒した ソ連・モンゴル軍はハルハ河西岸に撤退して5月の大規模な衝突は一時的に終息する。

衝突の損害

日本軍 戦死傷者 約290名 装甲車 2輌 トラック 8台 乗用車 2台 速射砲 1門

ソ連軍 戦死傷者 約370名 戦車・装甲車 13輌 トラック 15台 火砲 3門



第二次ノモンハンの衝突

6月20日 戦車を伴う十数輌のソ連軍装甲部隊とモンゴル軍騎兵が越境し、集落内にある日本軍の宿営地を砲撃、日本軍は速射砲と機関砲で応戦し戦車・装甲車4輌を撃破、越境部隊を撃退する。

この頃、ソ連軍は日本軍飛行場への越境爆撃と小兵力の地上部隊を侵入させては威力偵察攻撃を繰り返し、452輌の戦車と装甲車旅団を投入する大規模な侵攻を準備していた。

ソ連軍を指揮するのは第一次衝突を観察分析酷評、二次侵攻を緻密に計画して地上及び航空戦力を増強して関東軍に挑み、後に屈強なドイツ第6軍をスターリングラードで包囲、モスクワ侵攻阻止、東部戦線からドイツ軍を駆逐し自らベルリンに入城、「ソビエト連邦英雄」の称号を受けて上級大将、元帥まで昇り詰めるゲオルギー・ジューコフである。

冷酷なスターリンが認める冷徹な司令官ジューコフは容赦なく自軍兵士を銃殺処刑の督戦を行い、勝利の為には兵の生命、兵力の消耗を厭わず間髪を容れぬ打撃重視の電撃戦を得意とする。

日華事変勃発で中国戦線に兵力を抽出していた日本陸軍中央の満・ソ国境紛争の不拡大方針に関東軍は第6軍と第23師団、第7師団の一部で衝突に対応するが、実際は一個師団程度の兵力であるのに対してモスクワの国防部は第57特別軍団にジューコフの要求以上の増援を送り込み、最終的にソ連軍は8個師団を投入した。

関東軍はソ連軍の火力と機動力に対して第1戦車団の戦車2個連隊を増派、自動車化歩兵大隊、歩兵1個連隊、独立野砲1個連隊、工兵連隊、砲兵に高射を加え、戦車73輌・装甲車19輌を主力とする機械化混成部隊を編成して第23師団の別動支隊とする。

 
日本軍 戦車隊・装甲機械化部隊は第23師団本隊に先行してハルハ河の前線に向かう。

夏期の辺境モンゴルの草原、砂丘でのソ連軍の戦車・装甲車旅団との戦闘になった、ノモンハンの第二次衝突が日本陸軍の戦車対戦車、両軍機甲部隊に拠る近代的な集団機甲戦の初戦となる。


7月2日 ハルハ河東岸に進出した日本軍戦車連隊はソ連 第11戦車旅団の戦車・装甲車と交戦、ソ連軍戦車20輌、装甲車12輌、トラック20台を撃破しながら、西岸の砲兵陣地から強力な榴弾砲の激しい砲撃に前進出来ず釘付けにされた歩兵第64連隊を支援、ソ連軍の防御陣地を突破して東岸の野砲陣地を蹂躙し無力化する。

一方、渡河作戦に成功しハルハ河の西岸に進出した歩兵中心とする砲兵、工兵の第23師団主力もソ連軍 第11戦車旅団、第8、第7装甲車旅団と交戦、戦車67輌、装甲車41輌を撃破撃退したが、東岸での戦闘で日本軍も戦車30輌を喪失、関東軍司令部は前線から戦車連隊を後退させた。

7月4日 第23師団は弾薬枯渇と退路遮断の危険性から橋を渡りハルハ河西岸から撤退を開始、以降、東岸での対戦車戦、砲撃戦、空中戦、空爆、夜襲、白兵戦、塹壕戦、高地攻防戦など激しい戦闘は 9月15日の停戦合意まで続いた。


第一次、第二次の参加兵力

日本軍 約3万名 戦車73輌 装甲車19輌 火砲82門 歩兵主力の混成部隊

ソ連軍 約7万名 戦車438輌 装甲車385輌 火砲370門 戦車主力の機械化部隊

加えてソ連軍は機動兵力だけでなく支援火砲でも圧倒しながら更に増派増強していた。


日本軍の損害 戦死傷者 約19,000名 戦車 約30輌 航空機 約160機

ソ連軍の損害 戦死傷者 約26,000名 戦車 約250輌 航空機 約360機


ソ連が崩壊して情報開示されるまで「ノモンハンはソ連赤軍の圧勝、日本軍の惨敗」とされてきた。

関東軍から増派も僅かな第23師団に対してソ連赤軍 第57特別軍団のハルハ河での開戦布陣は戦車輌数2倍、装甲車13倍、榴弾重砲3倍、野砲も優勢で歩兵と航空機数は互角。

戦力で日本軍を圧倒しながらソ連軍は自軍の戦車兵の逃亡を防ぐ為に乗員ハッチを外から施錠し、戦線を離脱した兵の処刑督戦に火炎放射器まで使い、戦車1個旅団と装甲車1個旅団を損耗壊滅させて戦車2個旅団、装甲車3個旅団、化狙撃兵3個師団、空挺1個旅団の30,000名以上の増援を受けて、疲労した一個師団に勝てないならジューコフも赤軍政治将校も無能である。

戦車・装甲車が8倍以上のソ連軍に日本軍は軽装甲に小口径搭載砲の戦車戦、速射砲や機関砲に拠る正確な接近射撃と死力を尽くした肉薄戦の火炎瓶、地雷、手榴弾でソ連軍戦車250輌を撃破、多勢に無勢の空戦でも360機を撃墜した。

これは精神論ではなく、兵力、火力、装備の物理的な劣性に銃砲弾薬も不足する辺境最前線での日本軍歩兵、戦車兵、騎兵、砲兵、工兵、整備兵、航空兵達の技能技術を応用駆使した奮戦敢闘は称賛されて然る可きである。

尤も敵を侮り万策を講じず、最前線からの情報や意見具申を無視した上に己の失策と用兵の責任を部下に押付け腹を切らせる無能な軍司令官や師団長、作戦参謀などは万死に値する。

このような体質がポートモレスビー、ガダルカナル、インパールなどの南方作戦で多くの皇軍兵士の命を失わせた。

1941年10月15日 停戦後の国境画定交渉に於いてノモンハン以北は従来の国境線、南地区は停戦前の日本軍占領地を満州国領土とする満州国に有利な議定書がハルビンで調印されモンゴルは1,140㎡を領土を失う。

日本は政府が関与せず、外地駐屯軍の一師団が対応し、ソ連が国家的な対日戦争として対応したノモンハンの領土争奪戦は日本の勝利に終わる。


「ノモンハン事件はソ連赤軍の圧勝、日本軍の惨敗」は共産左翼のプロパガンダである。




委任統治領 南洋群島

1922年 日本は第一次大戦敗戦国ドイツ領の南洋群島を国際連盟より統治委任された。

南洋庁パラオ支庁と逓信省パラオ電信所


民間による南洋開発を推し進める為、日本からの定期航路・空路も就航する。

内地と南洋諸島を結ぶ、大日本航空 海洋部 川西九七式飛行艇とパラオ郵便局。


また拓務省内に海外移住相談所を開設し北米や南米を含め移民の募集や指導を行っていく。

南洋諸島にも多くの人々が仕事を求め入植移住し砂糖黍栽培や製糖工場に従事した。



ミクロネシア連邦の記念切手 

スペイン時代は宣教師 ドイツ時代はコブラ農園 日本時代は学校 アメリカ時代はストア

植民地だったミクロネシアが独立建国するまでの歴代統治国の特徴をよく表している。

好意的に見れば、それぞれ宗教、農業、教育、経済をミクロネシアに齎したと言える。

しかし見方を変えれば、統治支配国に拠る現住民の洗脳教育と労役搾取でもある。

スペイン・ドイツ・アメリカへの評価は判らないがミクロネシアに於いて日本人は好感を持たれており日本に拠る島の開発は島民に感謝され、パラオと日本の友好関係は現在も維持されている。

これは当時、日本からの入植者の多くが貧しい農村部出身故に島民を一方的に奴隷として扱わず、共に汗を流しインフラを整備を行い、友好と教育を大切にした人達の功績である。

南洋の平和な島を戦争に巻き込んでしまった日本にとって唯一価値ある嬉しい財産だ。


日本は国際連盟の脱退後に絶対国防圏防衛に武装禁止だった委任統治領 南洋群島に停泊施設や航空基地を増設する。

日本軍の南洋拠点、第四艦隊司令部が置かれたトラック諸島の連合艦隊泊地 


南洋の島に配備された帝國海軍「二式水戦」





日華事変の早期から米英は香港や仏印・ビルマからの輸送ルートを使い軍需物資や石油を雲南省 昆明に送り込み蒋介石を支援していた。

1940年9月23日 世論に押された近衛内閣に蒋介石との和平交渉を潰され中国戦線を拡大して泥沼に嵌っていた陸軍はドイツのフランス占領を期に悩みの種であった援蒋ルートの遮断を目的に仏ヴィシー政権政府と仏印総督の許可を得て仏領インドシナに進駐を開始。

英軍は仏領西アフリカに侵攻して仏軍と交戦、シリアやレバノンを武力で制圧占領しておきながら、許可を得た日本の南部仏印進駐を強硬に抗議し米英は対日経済制裁を行った。

蘭印・仏印の両植民地本国をドイツが占領した事は三国同盟を進める大きな要因となった。

国共合作軍との戦闘に三国同盟、仏印進駐は植民地支配国の欧米列強に東洋の新興国日本への疑念と反感を抱かせ資源禁輸制裁を受け包囲され枯渇する日本は選択を迫られる。




南方作戦

戦うも亡国、戦わざるも亡国、戦わずしての亡国は魂までも喪失する永久の亡国。

帝國は日本の領地権益維持と経済封鎖を破るべく、欧米列強の植民地支配下にある南方資源地帯の確保を目指して米英との戦端を開いた。

1941年12月8日未明、帝國海軍聯合艦隊は米海軍太平洋艦隊ハワイ真珠湾基地の在泊艦艇を徹底的に叩き機動力を奪う事で米国の戦力戦意を削ぎ、早期和平講和に持込むべく初戦に総力を掛けて空母機動部隊と潜水艦艇に拠る奇襲攻撃を敢行する。

早朝の真珠湾攻撃に先立つこと1時間20分、山下奉文中将揮下の帝國陸軍 第25軍 第18師団 歩兵第56連隊が海岸線で英印軍第8旅団の激しい抵抗を受けながらマレー半島北部 コタバルに強襲上陸、同半島を縦断して南端に位置する英印豪軍支配下のシンガポール要塞攻略を目指してマレー作戦を開始する。

第25軍 第5師団はタイ領内に上陸して進撃、英領マレー国境の英印軍第6・第15旅団の90輌の装甲車部隊と構築した強固な防御要塞を戦車12輌と580名の特別挺進隊が短時間で突破した。

マレーの虎 山下奉文中将が率いた第25軍はコタバル上陸から自転車歩兵部隊と九七式中戦車を主力とする機械化部隊を用いた電撃戦で英軍との95回の戦闘に勝利して55日間で1,100kmを走破快進撃してマレー半島南端に到達する。

クアラルンプールを攻略した第25軍は一週間でシンガポール要塞を陥落させ占領、英領マレー軍司令官パーシヴァル中将が降伏して揮下の英印・豪軍13万名を捕虜にした

同日12月8日 英領香港攻略に酒井隆中将揮下の陸軍 第23軍が九龍北方本土側より攻撃開始、参謀長 栗林忠道少将が香港攻略を作戦立案、英軍要塞防衛線を突破して12月25日クリスマスに11,000名の英軍が降伏して僅か18日間で攻略を完了させて英領香港を占領した。



翌年1月11日 海軍横須賀第1特別陸戦隊の空挺部隊がセレベス島のランゴアン飛行場に降下、陸戦隊が上陸してメナドを制圧、陸軍もボルネオ島バリクパパン、マルク諸島アンボンへ上陸 して蘭・豪連合軍を捕虜にする。

2月14日 陸軍 第1挺進団 挺進第2連隊がスマトラ島に空挺作戦を行い、蘭印軍守備隊、連合軍装甲車部隊と交戦、飛行場とパレンバン市を制圧占領、東南アジア屈指の大油田地帯と製油所を確保した。

今村均中将揮下の陸軍 第16軍主力がバリ、ティモール、ジャワの各島に上陸、700名の挺身隊がジャワ島バンドン要塞を攻撃、蘭英豪軍8,000名が降伏、蘭領インドネシアの石油資源獲得を目指した蘭印作戦を成功させる。



ペリリューの戦い

大戦末期、連合艦隊主力は米軍の飛石作戦に拠る米機動部隊の空襲を避ける為にトラック島泊地から滑走路や通信・補給施設が整ったパラオに後退、米軍はトラック基地空襲に続きパラオを空襲し上陸作戦を行う。

当時、パラオ諸島のペリリュー島には日本軍が2本の滑走路を整備、中川州男 陸軍大佐が率いる第14師団歩兵第2連隊及び歩兵第15連隊を中心とする陸海軍守備隊が置かれ米軍の反攻上陸を予想し強固なトーチカを構築、島の天然洞窟を要塞化して持久戦に備えていた。

1944年 9月15日 ガダルカナル以来、米軍最強とも謳われた第1海兵師団が強力な艦砲射撃と航空支援のもとに上陸を開始した。


11月24日 上陸以来、激しく抵抗した日本軍守備隊は玉砕電文「サクラ サクラ」打電。

司令部全滅後、米軍の掃討網を抜け関口中尉、山口少尉以下の約50名が遊撃戦闘に移る。


11月25日迄の10日間の激烈な戦闘で日本軍守備隊は10,695名の戦死者を出した。



一方、ペリリュー島を強襲した第1海兵師団も損耗率60%を超える壊滅状態に陥り陸軍第81歩兵師団に交代、米軍は1,794名の戦死者、戦傷者 8,010名他、数千名が精神に障害を受ける。


また硫黄島の戦いでも栗林忠道中将 率いる小笠原兵団は圧倒的に優勢な米軍に対し地下要塞を構築し最後の総攻撃まで敢闘玉砕、ノルマンディー上陸に匹敵する甚大な損害を与えた。


世界最強の米軍が恐れ怯えたのは一殺必中の航空特攻だけではない。

多勢に無勢の陸戦に於ての近接戦闘、十死零生の肉弾突撃、弾幕に怯まぬ侍の斬り込み。

抜刀隊の刃󠄁、不屈の精神と長く鋭い銃剣、日本兵の白兵戦に米兵達は慄いた。


戦後、敵将ニミッツ提督が日本兵の武勇敢闘を讃えペリリュー島の神社に建てた石碑に刻む

Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.

Pacific Fleet Command Chief(USA) C.W.Nimitz


この島を訪れる諸国から旅行者は如何に日本の兵士達が愛国心と共に勇敢に戦い、この島を守り玉砕したかを知らしめるべきである。

米国太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ


ニミッツ提督は、「ペリリュー島の攻防戦は米軍が既に制海空権を握っていながらも米国の戦史上、如何なる上陸作戦にも見られない最悪の損害(米海兵師団第一連隊全滅、1万人を超える死傷者)を出し、この島を占領したことは今もって疑問である。」と回想している。


先の大戦で太平洋を挟み日米両軍は死力を尽くして戦い壮絶に殺し合い、互いに畏れ讃え尊敬したからこそ今日の信頼関係と強固な日米同盟がある。


この激戦に於いて日本軍は戦闘前に住民を退避させ島民に1名も死傷者を出さなかった。


だが大戦中、帝國が武力に拠り制圧した占領地域に於いて総てがこの限りではない。



大東亜共栄圏

日本を盟主として共存共栄の国家連合・経済共同体、新たな国際秩序の建設を目指す。

欧米の搾取に苦しみ「八紘一宇」の理想を抱く日本人やアジアの人々がにいた。 


祖国から遠く離れた南の島で日本の若者達は神州不滅、皇国の正義と繁栄を信じて戦った。   

南洋に配備した帝國海軍「零式水上観測機」と命を掛け奮闘努力した若きパイロット達。 
 


アジア人の解放、大東亜共栄圏。

それは日本の自衛戦争をアジア人の聖戦として占領国を感化する方便になった。


帝國は列強から植民地を自由解放独立させる事を目的に出兵し占領したのではない。

大戦を戦った祖父や伯父達は帝國が欧米支配下の南方資源地帯を確保してABCD包囲網を破り、有利な講和を求めて戦端を開いた資源争奪戦を大東亜戦争と呼ばなかった。


しかし大陸に於ける戦いは帝國が始めた侵略戦争ではない。

日本が日清・日露・第一次大戦の戦役で多大な犠牲を払い正当に得た所領地や鉄道付属地、租界など国際条約で保証され日本が開拓整備した施政権益まで脅かされた。

古来、山海関 即ち万里の長城東外の関東・満洲は漢民族の土地ではなく、軍閥は徴税収奪しても保護統治せず、民国政府の施政権下にも無かった。

満州を我が物顔で荒し回った馬賊の頭目 張作霖は漢族移民で満州族ではなく、蒋介石も関東への侵攻を否定し、蒋介石の黄河決壊や焦土戦を批判した国民党和平派 汪兆銘政権政府は満州国を承認し平和共存を望んでいた。

満洲国には漢族に反目する満洲族、赤化の圧政から逃れた来た白系ロシア人やユダヤ人、ソ連に抵抗する蒙古人、移住してきた台湾人や多くの朝鮮人がいた。


支那軍閥は勢力争いを続け、義和団同然に民兵は再び青龍刀で居留民を襲った。

中華民国は国の体をなさず、条約協定を破り挑発を続け共同租界を包囲攻撃した。


居留民の生命財産を武力で脅かされ日本軍が応戦反撃して守った事を侵略戦争と言うな。

自国の外地、他国での戦闘を侵略とするなら世界中の国が侵略戦争をやっている事になる。


米英は大陸に近い新興国日本の台頭に脅威を抱き排除を考え蒋介石を軍事的に支援した。

米国は日本に消耗させ日英同盟を四ヵ国条約で妨害しチャーチルはハルノートを書かせた。


世界平和を望み臣民の幸福を願う陛下の大御心は戦争不拡大、日米開戦に反対であった。

戦争は死傷者数や後先で良い悪いが決るのではなく腕力の勝ち負けで善悪が決められる。

そして戦勝国が正義を名乗り敗戦国を裁き、戦勝国にとって都合良い歴史に書換えられる。


上海市街爆撃・南京虐殺・黄河決壊、支那は自軍の蛮行を常に日本軍の暴挙として喧伝した。

帝國に保護を願い出た朝鮮、居留民を襲い自国民を水攻め放火した支那、火事場強盗のロシアに侵略戦争と言われる筋合いは無い。




独立義勇軍

帝國は武力で占領した国には軍政官を置き独立を認めず帝國を盟主とし同盟傀儡政権を樹立させ対米英戦遂行の資源供給地にした。

英国支配から独立したビルマや米国統治から民政に移行していたフィリピンでも戦時と言う事もあり民主的選挙を認めず親日政権に据え換え占領軍の軍政下に置く。

やがて戦局悪化に軍票に拠る統制経済も崩れ始め、連合軍に協力する工作や抗日ゲリラが増加、日本軍に対する破壊活動は激しくなる。

一方、占領国民には日本の文化思想を教え軍事教錬を行い対英米の同盟として期待した。

嘗て蒋介石は日本に留学し帝國陸軍に籍を置き、朴正煕も陸軍士官学校を卒業した。

彼らは自ら希望志願して陸軍士官候補生として日本まで来て兵科や用兵を学んだ。


帝國は不足する占領地での守備兵力を補う為に親日派の優秀な若者達を現地で集め特務機関や陸軍中野学校出身の情報将校らが武術、戦術、用兵、工作、語学、軍政、情報戦等を教え幹部士官を養成し民族軍を設立する。

この幹部士官の中に後のインドネシア大統領となる若き日のスハルトやビルマのアウンサン将軍、ネ・ウィン大統領がいた。

1942年 ビルマではアウンサン達の独立義勇軍が日本軍と共に戦い首都ラングーンを陥落させて英軍を駆逐したが、1945年には敗色が濃い日本軍に対して反旗を翻し英軍の指揮下に入る。

しかし英国は彼らとの約束を反故にしビルマを再び英国植民地にして独立を認めなかった。

英軍に利用されたアウンサンはビルマの独立を見ずにして政敵に暗殺されたが、帝國陸軍 特務「南機関」 鈴木敬司大佐に受けた恩義を死ぬまで忘れる事はなかった。



1943年4月26日 遣独潜水艦作戦でインド人独立運動家チャンドラ・ボースを乗せて北仏を出航したドイツ海軍 U-180とインド洋のマダガスカル島南南東400浬の洋上で日本海軍の情報技術士官 友永英夫中佐と江見哲四郎中佐が乗艦の伊29潜が密会合を行う。

ボースらは伊29潜に移乗して日本に向い、友永中佐らはU-180でドイツへ向かった。

日本軍はマレー作戦やシンガポール攻略で投降し捕虜となった英印軍インド人将兵から志願者を募り「インド国民軍」を編制していた。

日本に亡命中のビハーリー・ボースからインド独立連盟と国民軍最高司令官を引継ぎ日本占領下のシンガポールに自由インド仮政府を樹立したチャンドラ・ボースは英米に宣戦布告。

インド国民軍には英国からの解放独立を求めて東南アジア在住の多くのインド人が志願、日本軍に拠って再武装された国民軍の総兵力は約45,000名に達する。

インド領内に進撃を望むボースの再三の要求でインド国民軍 6,000名がインパール作戦に参加、その後もインド国民軍は日本軍と共にイラワジ会戦等のビルマ戦線で英軍と戦う。

1945年8月18日 独立の闘士チャンドラ・ボースは台湾から大連へ向かう爆撃機の離陸時に事故に遭い台湾陸軍病院に入院、手当を受けたが2年後のインド解放独立を見ずに亡くなる。



日本の敗戦後、アジアは欧州列強の植民地支配が再開され現地民族の独立運動が起こる。

インドネシアではジャカルタ駐在武官 前田精海軍少将がスカルノとハッタを自公邸に受入れ独立を打合せ、1945年8月17日 連合国の承認を得ずインドネシア独立を宣言する。

しかし連合軍は敗戦した駐留日本軍に対し占領国の治安維持と独立派現地民への武器引渡しの禁止を厳命した為に、この命令を忠実に守ろうとした日本軍と現地住民との間で武力衝突が生じ、ジャワ島スマランでは両者に多数の死傷者を出し日本の民間人数百名が殺された。

この武器引き渡しを巡る紛争で英軍部隊と日本軍部隊が共同で現地人武装勢力と交戦する。

だが日本軍の多くは連合軍による武装解除の前に独立義勇軍に対し密に武器を引き渡した。

植民地の再支配を宣言したオランダは地上部隊を派遣し空爆を行うが、日本軍が鍛えた現地民族軍は苦戦しながらも植民地支配から独立を勝ち取る。


また日本の降伏後も内地へ復員せず占領国独立の為に現地兵と共に独立義勇軍として戦った多くの日本軍将兵がいた事も事実である。



1946年 インドシナに駐屯していた帝國陸軍 第38軍 第34独立混成旅団 参謀 井川 省 少佐ら 高級将校から下士官、兵卒に至る 約600余名の日本人志願兵が日本の降伏後も復員帰国せず、植民地ベトナムとフランスとの間に勃発したインドシナ独立戦争に参加した。

彼らはベトミンに戦闘訓練と作戦指導を行いベトナム・ラオス・カンボジア独立に貢献する。


ベトコン NVAは強い。 

彼らは深い熱帯ジャングルと泥濘をホーチミンサンダルで駆け抜け、掘り廻らせたトンネルに潜み、降り注がれる枯葉剤とナパームの雨に耐え、ネズミを食いながら餓えを凌ぎ、物量に物を言わせる米軍との戦い勝利した。

ジャングルで動きが鈍る米兵を息を殺して待ち伏せ罠を仕掛け単純必殺の武器を使う。

ベトナムは8年に及ぶインドシナ戦争を戦い抜きフランスから独立を勝ち取り、更に米軍と10年間も戦い追返した4年後、6倍の兵力で攻め込む中共人民解放軍にも負けなかった。

ソ連の軍事支援を受けていたホーチミンを是としないが、彼は共産主義者である前に愛国者であり、主義思想を問わず 祖国の為に命を捧げ勇敢に戦った将兵には敬意を持つべきだ。

ベトナム初の士官学校 クァンガイ陸軍中学の教官と医務官は全員日本人で元日本将兵約30数名がベトナム政府から勲章や徽章を授与され、現在に至るベトナム人の日本人に対する友好感情の基軸となっている。



アジアには日本が欧米列強と戦い植民地駐屯軍を排除し、独立の引き金になった事を今でも感謝してくれる友好国がある。

日本は清国とロシアの大国に抗い、先の大戦では欧米先進国連合を相手に国土が焦土と化すまで精一杯戦った。

日露戦争での日本の勝利に西洋に植民地支配されていたアジアの人々は歓喜した。

過去数百年に及び西洋白人に絶対支配されて来たアジアやアフリカ人々に東洋の端にある小さな島国の有色人種でも白人と対等以上に戦える事を証明し、白人支配と戦う勇気と希望を与えた事は疑う余地はない事実だ。

しかし自衛と国益、生存の為であっても日本が武力で制圧した東南アジアの占領国民からは侵略と言われても仕方ない。


欧米連合国との資源争奪戦に日本は腕力で負けた。

日本は大負けしたが、同時に英仏蘭は多くの植民地と奴隷を失いアジアは勝った。

西洋に対し日本がアジア人の解放「大東亜戦争」を掲げて戦った意義だけは生きた。


現地民を奴隷の様に扱い搾取支配してきた欧米列強に正義が有った訳ではない。


だが敗戦の結果である占領していた国々の独立を日本人が自慢してはいけない。

日本は負け犬のような遠吠えをせず、潔く非は認めて轍を踏まないのが日本人だ。


富国強兵が悪い訳ではない、独立主権国家として当然の権利である。

当時、欧米列強や戦争に勝った者と負けた者が平等の条約を結べなかった。

列強との不平等条約を甘んじて受けて来た貧国弱兵だった日本は富国強兵に努力した。


今の日本は国連会議場を退席しない。

日本が強い防衛力を保持しアジア諸国と協力して国民と地域の平和を守る事は正しい。 

これは戦争する為ではなく、軍事大国からの侵略を抑止防衛する為にも必要な事だ。



インドネシア・ビルマ・ベトナム・マレーで独立戦争に参加した数千名の日本兵が戦死した。


日本は敗戦降伏したが、彼らは敗残兵などではない。

部隊も階級も思想も補給も無く、彼らは誇り高く最後まで勇猛に戦った。

独立を見届けて帰国する人、また異国に残り、その国の国民として生きた人達がいた。

彼ら、名もなき戦士の事を日本が忘れてはいけない。


正義と友情の為に戦った彼らには紛れもなくアジア人の解放「大東亜戦争」であった。




勇敢に戦い殉じた若い空兵、水兵、歩兵、陸戦隊は国の誇り。 


硫黄島やペリリューの戦いを見よ 



領土国境とは命の上に在るものである。



現在の日本国領土。


戦前の台湾、朝鮮、南満州鉄道及び付属地、南樺太、千島、南洋群島は国際社会から認められた大日本帝國の正当な領土と統治権益地であり、日本が不法占拠、略奪したのではない。

尖閣諸島・竹島・北方四島は国際社会が他国領と歴史上一度も認めた事が無い日本固有の領土である。


1945年8月15日 帝國はポツダム宣言を受諾降伏する。

8月8日 一方的に日ソ中立条約を破棄して宣戦布告したソ連は樺太・千島・満州・朝鮮に侵攻して内地である北方四島まで降伏後に武力で強奪する。

ソ連赤軍は15日を過ぎても停戦せず侵攻を続け、多くの開拓民や無抵抗の市民をなぶり殺し婦女子を連れ去り強姦と略奪を繰返した。

ソ連赤軍と八路や朝鮮パルチザンがやった犯罪、日本降伏後の満洲を見よ

蛮族は葛根廟事件敦化事件小山克事件通化事件牡丹江事件麻山事件を起こした。


千島・占守島では陸軍 第91師団、満洲から転出した戦車第11連隊と海軍警備隊が強力に抵抗しソ連赤軍を撃退して、日魯漁業の女子従業員達の脱出後に停戦、降伏した。


北支・内蒙古の警備に当たっていた駐蒙軍司令官 根本博 中将は停戦命令と武装解除に従わず、破竹の勢いで進撃してくるソ連赤軍に対して独断で反撃命令を下し、駐蒙軍は激しく抵抗反撃して八路軍の攻撃も抑えて、4万人の在留邦人が内蒙古から避難し天津へ脱出が終わる8月21日まで防衛戦闘を行い居留民を守り抜いた。

1946年8月 終戦から一年後、北支那方面軍司令官を兼任していた根本中将は在留邦人の帰国と北支那方面の将兵35万の内地復員を終わらせた最後の船で帰還した。

総てを失っても帰国出来た人達は幸運であり、無事に日本に帰れなかった方々が沢山いる。

内地の農村で貧困に喘ぎ、大陸に夢と希望を求めて移住した人々は家族や命まで失った。


ソ連は終戦後に107万人の日本人をシベリアに抑留し強制労働させ約34万人を殺した。

この不当な抑留は戦後最長13年間にも及び強奪した北方四島は今も盗まれたままである。


ポツダム宣言「日本が国民多数に拠る平和的政権を成立すれば連合軍は日本から撤退する」

北方領土に居座るロシアはカイロ宣言の条項を引継ぐポツダム宣言にも明白に反している。


カイロ宣言 「日本は1914年の第一次世界大戦以降に占領した太平洋の全島を失う」

日本は大戦に完敗し国際連盟から正式に委任された統治領まで総て失った。


北方四島は開国以前より日本施政下の日本固有の領土であり、1855年の日露和親条約に於いて択捉島と得撫島間に日露の国境が確定され、ロシア領であった事は一度もない。

1875年の樺太・千島交換条約で日本は樺太の権益を放棄、ロシアは得撫島以北、占守島までの千島18島を日本に譲渡、更に1905年のポーツマス条約で樺太の北緯50度以南を永久に日本へ譲渡した。

厳密に言えば日本は史実や条約に基づき南樺太の返還も要求しなければならない。

だがソ連邦の崩壊時に領土返還の機を逃したのは日本政府の怠慢もある。

ヤルタで密約を交わした米国も沖縄返還を盾に日露条約締結と返還交渉に圧力を掛けた。



敗戦まで日本であった台湾も朝鮮も日本国民として欧米列強と戦った。

日本は兄弟である台湾や朝鮮を戦争に巻き込んだ事を反省すべきだ。

しかし韓国は宗主国 清の支配とロシアの侵略に自ら日本に保護を求めて併合されながら敗戦後に戦勝国と称し日本から竹島を盗み70年経った今も謂れ無い謝罪と賠償を要求する。

多くの朝鮮人が豊かさを求め日本、台湾、南洋、大陸に出稼に来ていた事実を揉み消すな

兵力、輸送力も不足する日本軍が慰安婦20万人 約10個師団を強制連行したと嘘を吐くな

帝國陸軍に自ら志願し戒厳令まで敷き日韓基本条約を締結した朴正煕大統領は売国奴か

旧帝國軍朝鮮人将兵が指揮を執り臆病な李承晩より勇敢に朝鮮戦争を戦った事も忘れたか

厳しい競争を勝抜き帝國軍人となり家族と国の繁栄の為に戦った80万人の朝鮮人志願兵を裏切り者呼ばわりして親日反逆罪を負わせた韓国は情けない。

日本に「歴史を忘れた民族に未来はない」と喚く前に国連加盟国ならばSF講和条約とカイロ宣言、日韓基本条約を自国民に読ませ真実の歴史を教えるべきだ。



国共内戦に破れ共産党に大陸から追い出された蒋介石と国民党は台湾に逃れ悪政を敷く。

国民党の独裁圧政に抵抗する本省人民衆が蜂起する二・二八事件が起き、蒋介石は戒厳令を敷き知識人や反対派を弾圧した。

台湾に生まれ若き日々を日本人として過ごした李登輝氏が蒋親子の死後、国民党主席に就き台湾の民主化を推進するまで強権政治は続いた。

京都大学から学徒出陣、帝國陸軍少尉として名古屋の高射砲部隊で終戦を迎えた李登輝総統は フィリピンで戦死した帝國海軍軍人の兄 李登欽氏が奉られている靖国神社を参拝した。

台湾でも国民党に拠り反日教育は行われたが、台湾の人達が友好的なのは知性的な李登輝総統の言葉や統治だけでなく開発もした日本と苦しめに来た国民党との違いを見たからだ。


根本博中将は終戦後、在留邦人と将兵の帰国協力また国体護持への恩義を蒋介石と台湾の人達に返すべく台湾に渡り金門島の戦いを指揮し殺到する中共軍を撃破して台湾の独立に貢献する。


日本人も国籍を離脱して満洲人になるべきと五族協和の建国を目指した石原莞爾は蒋介石と共闘してソ連の南侵と共産党を抑えるべく中国戦線不拡大を主張した。

帝國は対米戦争ではなく国民党が排日に傾く以前に蒋介石と合議して毛沢東の中共と強盗強姦を働くソ連のサイコ野郎スターリンを押えるべきだった。 

アジア人の解放、大東亜共栄圏は、それからでも遅くはなかった。

旧満州国 大慶で深々度の大油田が発掘されたのは日本の敗戦後であった。



海ゆかば

自分はタンカーや木材、冷凍運搬船で千島からインド洋、マリアナ、フィリピン、インドシナ、マレー、インドネシア、ニューギニア、ポリネシアの激戦地跡へ寄港した。

今でも海図に残る沈船表記、海岸で朽ち果てた艦船、航空機、戦車、機関銃、野砲の残骸。

現地の老人方から優しい日本の兵隊さんが教えてくれたと言う日本の歌も聴き、目と耳に確りと焼付けて来た。

故郷から遠く離れた南海の孤島、熱帯ジャングル、極寒の辺境で祖父達が家族と国の為に餓えや病に苦しみながら戦ってくれた事を思う。


祖国日本の正義と勝利を信じ、戦友と助け合い気候の厳しい外地で過酷な行軍戦闘に耐える姿、現地民や敵の捕虜、戦死者に対す­る敬意、戦友と談笑、疲れて眠る姿、素朴な笑顔、家族から来た手紙を懐かしみ嬉しそうに読む姿は平和な現代を生きる私達と何等変わらない。

しかし多くの日本軍将兵が海に沈み、空に散り、遠い異国の土になり、二度と日本の地を踏む事が出来ず愛する家族との再会を果たせなかった。

多くの市民を巻込み、敵味方の兵士の血を流した大戦を美化するつもりはない

また無謀な作戦を立案強行した無能な高級参謀、将官を讃えるつもりもない

ただ左巻が家族と国の為に戦った人達を鬼悪魔、犯罪者喚ばわりするのは我慢できない


国旗国歌に敬意を払い国の歴史を知り伝統を愛し護る心は帝國主義・民族主義ではない。





日本の近代史・戦史をに書いたブログ

「太陽の帝国」その1   真珠湾攻撃・マレー・蘭印作戦

「太陽の帝国」その2   インド洋作戦・珊瑚海海戦

「太陽の帝国」その3   遣日独潜水艦・海軍技術士官

「太陽の帝国」その4   ミッドウェ-海戦

「太陽の帝国」その5   聯合艦隊旗艦

「太陽の帝国」その6   大和出撃

「太陽の帝国」その7   マリアナ諸島 テニアンの戦い

「太陽の帝国」その8   大日本帝國

「太陽の帝国」その9   運命の瞬間

Empire of the Sun 10   「太陽の帝国」その10  満州事変

Empire of the Sun 11   「太陽の帝国」その11  上海事変

Empire of the Sun 12   「太陽の帝国」その12  兵に告ぐ 二・二六事件





38度線 休戦協定破棄 「朝鮮戦争 1950 KOREA」

赤いキャビア 極東安全保障経済戦略 北方領土

Posted at 2013/07/30 17:50:07 | コメント(3) | トラックバック(0) | 太陽の帝国 | 日記

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今年もなんとか運転免許更新を無事にクリア。」
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元・気楽な海上サラリーマン  現・厳しぃ陸上自営隊  時々・トランスポーター 
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