5月23日は午前中にトラカイ城を見学の後、昼食をヴィルニュス旧市街で食べ、
午後は自由時間になります。
雨が降ったり止んだりの
雨模様の中、自由時間は次の4つの候補から
1)KGB博物館
2)ヴィルニュスで観るべき五つの通り ➡ 前日に殆ど済
3)もうひとつの旧市街、ウジュピス共和国 ➡ 治安が少し不安
4)ヴィルニュス大学
ということで、1)か4)か迷いましたが、この旅行を選んだ背景を重視して
KGB博物館に行くことに決めました。
勿論、その中で良さげな
通りを歩く、
トロリーバスに乗る、美味しそうな
居酒屋さんで飲む・食べる、楽しみも忘れてはいません
♪
何れの画像もクリックで
拡大します。
昼食を食べた
Radisson BLU ASTORIJA ホテルです。
前日の街歩きでも撮っていましたが、この日の食後におさらいとして
(^^ゞ
これから向かうKGB博物館は、
ゲディミノ大通りに面していますので、大通りに出るまでは、緑地帯のある
ヴォキエチュウ通り経由で
ヴィリニアウス通りを通ることにしました。
バルト三国・その4を作成時には、撮り忘れていたと思い込んでいた
市庁舎の写真。。。1枚だけありました
! 但し、真横からですので、6本のドーリア式円柱を真正面から撮った写真ではありません。この旅行では
ヴィルニュスの大聖堂も同様に、6本のドーリア式円柱を
撮りそこなっています (T_T)
ヴォキエチュウ通りを気持ち良く歩いている時に
コデマリを見つけたので撮った写真です(左)。


日本車以外では、VWは
ID.3、ポルシェは
マカンGTSですが、スコダとアウディの車種は判りません。
ヴォキエチュウ通りから
ヴィリニアウス通り入る辺りで、向こうからやってきたオッサン(
乞食です)から
「ニイハオ。。。ナンテロカンテロ」と呼びかけられました。日本語で
「中国人とまちがえてらぁ。。。乞食としての適性ゼロやなぁ!」と夫婦で会話をしていたら、前を歩いていたビジネスマンらしき紳士が、振り向いて笑いながら
同じようなことを英語で言いました・・・あの紳士は日本語が判ったのかな???
その直後に現れた
聖キャサリン教会です(左)。そのまま
ヴィリニアウス通りに進みます(右)。

ヴィリニアウス通りから
ゲディミノ大通りに出て、しばらく西進すると
KGB博物館ですが。。。
その入口(冒頭の写真です)は、ゲディミノ大通りに面しておらず、裏口みたいに殆ど反対側にありましたので、随分遠回りした気分になりましたが、まずは無事到着です。
ガイドブックにはKGB博物館であると記載されていますが、エントランスに掲げられている。。。

リトアニア語をそのまま英訳すると
OCCUPATIOS AND FREEDOM FIGHTS MUSEUM になります。
こちらは、入口で貰った小ぶりのパンフレットの表側です。
「占領と自由闘争の博物館」について。。。

。。。簡単に紹介されています。
1)この博物館は、1992年末、ソビエト連邦のKGBが約50年に亘り実際に活動していた建物に開館したこと。
2)展示は、20世紀におけるリトアニアの痛ましい時代=ソ連が占領下で奪った独立性、残忍な報復、そして独立闘争を扱っていること。
3)建物は歴史的建造物に指定されており、大きな変更は加えられておらず、一部は、オリジナルの内装が再現されていること。
パンフレットには、各階の案内が載っています。
博物館の1階部分は、尋問課と財務部の事務室として使用されていました。現在の情報センターは、かつて刑務所長の部屋として使用され、展示の最初の部屋は副長の部屋でした。
博物館の2階部分はかつてMGB B部が使用していましたが、1958年からは工作技術部(OTO)が使用していました。また、いくつかの部屋はKGB第5委員会が使用していました。

展示のメイン部分は、ソ連によるリトアニア占領直後の1940年秋に
地下に設置された、かつての
NKGB-MGB-KGB刑務所(1958年に尋問独房に改称)です。刑務所はKGBが撤退した当時(1991年8月)の姿をそのまま残しています。
刑務所は博物館とは別の場所にあり、1階と2階の展示を見る前でも後でも訪れることができます。
注)
冬季はコートを着用することをお勧めします。囚人が運動のために連れて行かれた中庭は屋外にあります。
次の3枚は、展示されていた写真です。
1952年4月4日、アリートゥス(リトアニアン南部)における
MGB作戦中に死亡したパルチザン兵士で、個人名も挙げられています。

1949年10月17日に
戦死したパルチザン兵士。背景には、リトアニア共産党中央委員会の新聞「ティエサ」のスタンドが使われています(左)。
1946年9月1日、トラカイ県グレンドヴェ村の農場で、突撃部隊によって
パルチザンと共に殺害された農場主と娘そして妻と息子の写真です(右上)。
1952 年 5 月 22 日の
MGB との戦闘で死亡したヴィティス軍管区の
パルチザン 兵士で、5人の所属、氏名等も記載されています(右下)。
1944年から1953年にかけてのパルチザンによる武装抵抗運動では、
2万人以上が命を落としました。その半数以上が、1944年から1945年にかけて自由のために戦って命を落としました。パルチザンの平均戦闘期間は2~3年でした。死亡した戦闘員のほとんどは21歳未満でした。
彼らは死後も残酷に晒されました。市民を恐怖に陥れるため、
パルチザンの遺体は町の広場、庭、農民の市場に並べられました。

これより3枚は、博物館内に残されている施設等です。
独居房が並ぶ廊下を歩いています。
懲罰室でしょうか、或いは
拷問部屋でしょうか?
通信施設のようですが。。。恐らく
盗聴のための装置だと思われます。
博物館内及び展示物には、実際に使用された処刑部屋など、かなり過酷な内容のものが多く含まれており、あまり撮っていません。ブログとしては以上とします。
最後に、ソビエト連邦及びドイツ・ナチス占領下において
失われたリトアニア住民の人数が。。。

。。。纏められていたので、掲載します
👆
こうやって比較すると、ナチスに比べて
ソ連による被害者は半数以下の人数ではありますが、占領期間で視ると、
ナチスの4年に対してソ連は47年もの間、リトアニアを占領下におき、つい最近まで苦しめていたことが判ります。
リトアニア人通訳さんの言葉の端々から、
ソ連、ロシアに対する警戒心、嫌悪感を感じた一方で、ドイツに対するそれらの気持ちが感じられなかったのも理解できます。
因みに、
現ロシア連邦大統領のプーチンについて、Wikipediaには次のように記載されています。
スパイに憧れを抱いたとされるプーチンは、大学卒業の1975年から1990年まで
KGBに勤務し、特に1985年から1990年までは東ドイツに滞在、NATOをはじめとした政治関係の情報を集める諜報活動に従事しています。更に、この間、KGBと協力関係にあった
東ドイツの情報機関・秘密警察である国家保安省(シュタージ)職員の身分証明書も持っていたことが2018年に判明しました。
さて、1時間少々かけてKGB博物館を見学した後は、
早めの夕飯にします。
食事の予約をしようとしても、有名どころだと予約出来ないという話を周囲で聞いていたので、今回は端から予約はせずに早めに入る作戦をとりました。
ところが、16時過ぎにKGB博物館を出て、切っていたスマホを繋いだのですが、どうも御機嫌が悪くて、地球の歩き方に掲載されている地図で勝負するしかなさそうな状況になっていました
(>_<) 降りしきる雨の中、疲れが出てきた家内を引率してバス停を探し、タイムリーに乗って。。。というわけにはいきません。
何とか、目的地近くを通るトロリーバスに乗って、道の雰囲気から降車停留所を決め。。。降りたバス停で、
目が合ったオジサンに地図を見せて目的の居酒屋を訊きます。
幸い、降車停留所がピッタリ合っていて、数分の距離にそのお店はありました。
ここで、もうひと波乱。。。
この写真は帰路撮ったものですが、道端の建物に幾つもの落書きがあり、
ここは治安の悪い地域だから入るのは嫌だと言うのです。 家内が
!
すぐそこは旧市街だから大丈夫だよ~と、
なだめすかして歩くこと数10メートル、目指す居酒屋に到着したものの、
入口にはタバコを吸いながら若者たちが群がっている。。。 これって、日本でも入れる雰囲気ではない状況の時がありますが、ここまで来て諦めるのは嫌な性格ですので、中に入りました。
中は中で、結構楽しそうに皆さん歓談中で、空いたお席を探しますがどのテーブルも
Reserved の札! 一巡してお店のお姐さんに、
どこか席を作ってよ、と頼んでみましたら、親分に相談したお姐さん、数人の団体さんの隣に、
わざわざ島を離して席を作ってくれました。言ってみるものです。
注文も、親分が親切かつ丁寧に説明してくれて。。。地ビール(地元の
蜂蜜ビールと
ピルスナー)と肉団子セット、そして前日食べたツェッペリーナ(但し1個の分)をオーダー出来て、無事、夫婦で歓談&ディナー。。となりました
♪ 蜂蜜ビールをひと口飲んでみましたが、やっぱり僕はピルスナー🍺が好きです。

旅行中は食べ過ぎになりがちなので、時々お腹を休憩させます。この位が丁度良い分量です
!

治安の悪い地域(ではないですけど)、ガラの悪そうなお店。。。に見えましたが、
親分もお姐さんも親切で良い人柄でした。さすが、
地球の歩き方に出ているお店です。
オスロ、トロントで地球の歩き方を参考にして自由時間の飲食店を選択しましたが、これまでハズレはありません。
1時間半ほどお食事と雰囲気を楽しんだあとは、ホテルまで戻ります。自由時間を過ごしたこの日、旧市街から歩いて帰った人もいたようですが、我々は
トロリーバスで帰ります。


乗り方、お金の払い方(単にクレカをピッと当てるだけ)は判ったものの、
降り方が判らなかったため、乗り過ごしました
(>_<) まぁ、降りられる所まで(少し遠くまで)行ったものですから、帰りは
違う線(違うルート)のバスに乗れ、よりホテルに近いバス停で降りました。。。相変わらず、降り方は判らないままですが、幸運なことに停まってくれたので助かりました。
ヴィルニュスのトロリーバスの室内です。かなり大きく感じます。運転は乱暴です
(^^ゞ
降りた所からは、ネリス川をはさんで対岸にホテル(クリーム色の高い建物)が見えました。
夜は(夕食は夕方でした)やはり地ビール🍺を~
ヴィルニュスで買ったビールはリトアニア産でしたが、その後、買ったビールは。。。今思えば、チェコ産が混ざっていたような気がします。
翌日は、カウナスを経由して
ラトビアの首都・リーガへ向かいます。
つづく
【関連のブログ】
◇
バルト三国(その1:速報)
◇
バルト三国(その2:往路ヴィルニュスまで)
◇
バルト三国(その3:ヴィルニュス初日のランチまで)
◇
バルト三国(その4:ヴィルニュス初日の午後は街歩き)
◇
バルト三国(その5:トラカイへ)