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TMKのブログ一覧

2025年06月29日 イイね!

バルト三国(その7:カウナス。。。杉原千畝)

バルト三国(その7:カウナス。。。杉原千畝)5月24日は、リトアニアの首都・ヴィルニュスを出発し、カウナス、十字架の丘経由で次の国、ラトビアの首都・リーガに向かいます。

カウナスは、ヴィルニュスがポーランドに占領されたWW1とWW2の間、リトアニアの首都になっていました。
その22年間、日本領事館だった建物が、カウナスの高級住宅街に残っており、現在は杉原千畝記念館になっています。


👈こちらは、杉原千畝が実際に発行したビザの1枚です。但し、ビザの顔写真の部分が顔出しパネル様式になっています。杉原千畝記念館にありました。


                  何れの画像もクリックで拡大します。


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朝の6時半、ヴィルニュスでの朝食です。

前日に撮り忘れていたのですが、ゆで卵が登場したくらいで、前日も同様。。。安心の朝食でした。





8時半出発で、ヴィルニュスからは1時間と少々でカウナスに到着。
まずは、上述の高級住宅街の入口付近でバスを降り、徒歩で杉原千畝記念館に向かいます。

杉原千畝は、このカウナスの日本領事館に勤務していた1940年7月から8月の間、多くのユダヤ系難民にビザを発給して彼らの命を救ったことで知られています。
今でこそ知られるこの功績ですが、1980年代になって海外(イスラエルなどユダヤ系社会)で注目され始めました。それでも国内では、ビザ発給は戦前の政府の指示に背いた杉原千畝の独断によるものであった点を重く見てしまったため、日本国政府による公式の名誉回復がなされたのは、以下のとおり2000年になってのことでした。

これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。
                                            — 2000年10月10日の外務大臣河野洋平による演説





昔の田園調布の街を思わせる街並みを徒歩数分。。。杉原千畝記念館に到着しました。
記念館に残っていた領事館当時の写真(下)と比べると、現在、塀は取り払われていますが。。。
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。。。杉原夫婦に、何としてでも人々の命を救おう、と言う気にさせた多くの人が押し寄せた門は、希望の門、命のヴィザと名付けて残されています(右)。










altこちらは、当初ビザを発行していた執務室です。
終盤は、ホテルやベルリンへの車上でも書いていたそうです。

多くの人の命を救ったそのビザですが、ユダヤ人難民避難の枠組みとしては
1)身分証明書
2)受入国ビザ
3)日本通過ビザ

の3点セットで機能させたものと思われます。




まずは1)身分証明書です。解説に以下の内容が記載されていました。
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1940年、在カウナス英国領事館は、ポーランド亡命政府に代わって、身分証明書を発行するという重大決断を下しました。この証明書は、占領下のポーランドからパスポートや正式な身分証明書を持たずに逃れてきた難民を支援するためのものでした。
彼らがこの部屋で杉原千畝に手渡したのは、まさにこの証明書でした。そして彼はそこに「命のビザ」を書き記したのです。
この協力は、第二次世界大戦が勃発するなかで行われた緊急かつ人道的な外交努力の象徴であり、難民にとって命をつなぐ貴重な支えとなりました。



続いて2)受入国ビザです。 
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オランダ領事館の外交官・ヤン・ツヴァルダイクが発行したもので、オランダ領への受け入れを示しています。便宜的にオランダ領への入国ビザとなっていますが、ユダヤ人難民が日本経由で他国へ逃れるための重要な書類となっていました。

3)の日本通過ビザと合わせて1)に記載されています。



最後になりますが、杉原が発行した3)日本通過ビザです。
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英文で、スリナム(スリナム共和国:旧オランダ領ギアナ)、キュラソー島(オランダ領)およびその他のオランダ領への渡航に際し、日本通過を認めることが記載されています。
和文では、査証(蘭領行き、敦賀上陸)、滞在拾日限、昭和十五年七月三十一日、在カウナス、領事代理、杉原千畝 が読み取れます。



因みに、冒頭に載せた査証は、これより1か月ほど後、8月23日に発行されたビザです。英文部分がスタンプになっています。これは、査証を発行するのに万年筆が折れ、腕が萎えるほどで、合間に杉原夫人が腕のマッサージをされたという逸話もありますから、効率アップのために改善されたことが窺えます。


館内には、不穏な足音が忍び寄る時期とはいえ、当時の日本領事の生活を偲ぶ備品がありました。
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杉原千畝記念館には小一時間滞在の後、カウナス旧市街に向かいました。

最初に訪れたのは、14世紀にはドイツ騎士団との戦闘の場になっていたカウナス城です。
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偶然ですが、左端に旧市庁舎イエズス教会(何れも後掲)が写っていました。


1410年、ヴィータウタス大公がドイツ騎士団にタンネンベルクの戦いで勝利を収めてからは、トラカイ城と同様、お城としては機能していないようでした。
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お堀の縁をゆっくりと散歩していると見えてきた聖ゲオルギオス教会。。。ぶっといゴシック様式
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ぐるっと周って市庁舎広場にやってきましたが。。。広場は敷石の全面改装工事中で入れません。
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イエズス教会(左)は全容が判りにくく、白鳥にたとえられる旧市庁舎(右)もパッとしません。

工事塀に描かれていた鳥瞰写真でイメージを膨らませることに。。。して下さい。
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その市庁舎広場に沿って歩いていくと。。。
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ヴィルニュスと同様、カウナスの街にもありました・・・聖ペテロ・パウロ教会
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リトアニア最大のゴシック様式の教会です。





沢山のフレスコ画が描かれた壁、そして凝った造りの彫刻で飾られた祭壇に。。。。暫し見入ってしまいました。


この時点で正午前。







聖ペテロ・パウロ教会から1kmほどの場所にあるレストランMIESTO SODASで昼食です。

マッシュルームスープ(左)とコルドゥナイ(リトアニア風水餃子)ですうまい!うまい!うまい!
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スープもリトアニア風水餃子も、とても美味しいのですが、何しろ量が多い!!


アイスクリームでお口直し (^^)/







この後、午後は十字架の丘があるシャウレイ経由ラトビアの首都・リーガまで、あと270kmほどのバス移動があります。



つづく



【関連のブログ】
 ◇ バルト三国(その1:速報)
 ◇ バルト三国(その2:往路ヴィルニュスまで)
 ◇ バルト三国(その3:ヴィルニュス初日のランチまで)
 ◇ バルト三国(その4:ヴィルニュス初日の午後は街歩き)
 ◇ バルト三国(その5:トラカイへ)
 ◇ バルト三国(その6:KGB博物館@ヴィルニュス)


Posted at 2025/06/29 21:00:52 | コメント(0) | 海外(遊び) | 日記
2025年06月27日 イイね!

500系新幹線

500系新幹線500系新幹線に乗りました

1997年3月にデビューした鋭いロングノーズの先頭形状が特徴となっている500系新幹線、JR西日本はその営業運転を2027年度を目処に終了すると発表しています。
今回、九州での仕事は、比較的余裕があったので、是非500系新幹線に乗ろうと決めていたのですが、流石に早朝、夜間の移動は辛いものがあり、結局、良い時間帯に運行しているハローキティ新幹線に乗ることになりました (^^ゞ


                何れの画像もクリックで拡大します。


これまで新神戸駅で一度撮っており、また偶然ですが姫路バイパス走行中にドラレコで録画する偶然にも恵まれてもいますが、乗るのは初めてです。


六甲トンネルを抜けて、ハローキティ新幹線500系新幹線ですがやって来ました
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今回、慣れたデジイチではなくコンデジで撮っていますので、思いどおりに撮れておらず欲求不満です (^^ゞ


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観光客のいない車両で静かに乗ろうと、普通指定席の4号車にしました。

楽しみにしていたとは言え、少しだけ気恥ずかしい一瞬です (^^ゞ




乗車後は速やかに全車両を点検?移動し、速やかに撮るべきものを撮ることに専念しました。

一気に最後尾8号車まで行き(左)、折り返し先頭の1号車までを走破しました(右)。
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1号車は HELLO ! PLAZA と呼ばれ、グッズの販売スペースと展示スペースになっています。
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こちらではCAさんからお写真お撮りしましょうか?と言われましたが、流石に。。。辞退しました (^^ゞ
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2号車は KAWAII ! ROOM と名付けられ、飾りつけされたフォトスポット等のある客室になっています。冒頭の写真も2号車のものです。
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1号車のショップで、CAさんから頂いた冊子 STORY BOOK と。。。
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。。。特製の時刻表です。
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キティちゃんが大好きな孫のために余分に貰ってきました。



ようやく新下関まで来たキティちゃん、ここで同型の500系新幹線とすれ違いました。



新関門トンネルを抜けたら小倉です。小倉到着前に撮った4号車です。 普通でしょ?
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新神戸で上手く撮れなかったハローキティ新幹線、小倉でもトライしましたが。。。
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。。。やっぱり思いどおりには撮れませんでした (>_<)
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今回、500系新幹線に乗るため、山陽新幹線をこだま通しで乗りました。多分、初めてです。長いな~と思っていましたが、あらためて新神戸⇆小倉の所要時間を確認すると、こだま3:44に対して、のぞみ2:10でした。1時間半も違うとは驚きです。
500系の乗り心地や意外に心地よい走行音を楽しんだり、ブレーキのかけ方が???と思って考えたり(ガタがきている=遊びが大きいのか?)、退屈することもなく、久しぶりに長時間の新幹線を楽しみました (@_@)


Posted at 2025/06/27 22:20:30 | コメント(0) | おすすめ紹介 | 日記
2025年06月23日 イイね!

広島で遊ぶ(その1:芸備線を撮る)

広島で遊ぶ(その1:芸備線を撮る)19日(木)から21日(土)まで広島で遊んできました。
5月の後半に10日間の海外旅行をしていたので仕方ないのでしょうが、5月2日から広島行の前々日(6月17日)までの間、ひと月半でたった230kmほどしか走行していません。。。これが最近の我が家のクルマ事情 (^^ゞ


      何れの画像もクリックで拡大します。


まずは神戸から一気に中国道・東城ICまでの230kmを移動した時点で、幾つか候補にしていた中から遊び方を決めます。
ここまで来たら廃線の危機に瀕している芸備線を訪ねるのがよろしいかと。。。家内に提案。特に東城駅を含む備中庄内駅から備中神代駅間の利用者は少なく、特定区間として芸備線再構築協議会で議論されているようです。


到着時刻から逆算して備後落合駅前後での撮り鉄を考えた結果、14:04比婆山駅発備後落合行を撮ることにしました。
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13:46に比婆山駅に到着、ここで家内を降ろして備後落合駅まで撮る予定の列車にひと駅乗り鉄してもらうことにします。


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列車が止まる位置、乗り方等を確認して準備万端、あとは列車に乗るだけになっていたそうです。


私は駅の北方500mほどの撮影スポットへ移動し、冒頭の写真を撮って、撮る方も準備万端。。。
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そこへ備後落合駅方面から4名乗車でやってきたのが、保線用のカート 珍しいものが見られたので、川の流れは無視してアップで撮っておきました (^^ゞ

そうこうしていると、14時頃、家内から連絡が。。。
『14:04発の列車は運休になりました。次の列車は15:58になりますので、しばらくお待ちください。』
という放送がいきなりあったと言うのです

僅か、20分ほどの撮り鉄待機でもブツブツ機嫌が悪くなる家内のことを思うと、とても2時間弱も(『しばらく』ですか)ここで待機、というわけにはいきませんので、取り急ぎ比婆山駅まで戻ることに。。。
お天気も、光線の具合も、景色の色合いもバッチリの時に限って。。。残念です



以下は、帰宅後に調べた情報です。
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保線用車両。。。ATカート AT-N4 というタイプのようです。



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運休の原因はこちらでした。。。。。。👉


駅の配置としては、備後落合から西に、比婆山駅、備後西城駅、そして13駅目が三次駅です。


丁度、家内を乗せようとした比婆山駅~備後落合駅で落石があり、その確認のために。。。4人乗りカートで出動していた模様です。
・・・が、恐らく09:12備後落合駅発の列車で見つけた落石の確認が、その次の列車通過時刻直前まで5時間近くかかっても終了していないとは、驚きです




比婆山駅で考えること数分。。。次の15:58発が動くという保証はないし、まず、約2時間をここで待つこともあり得ない! ということで、他の場所、恐らく同じ芸備線でも落石の影響が無いと思われる備後落合駅よりも東側で撮影スポットを探すことにします。


備後落合駅から2つ東の小奴可駅と3つ目の内名駅の間で橋梁を探したのですが。。。
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。。。2~30分で見つけるのは、これが限界でした。
第4東城川橋梁を通るキハ120。15:00小奴可駅発新見駅行の気動車です。


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誰も乗ってなかったよ~と家内は言うのですが、最後部にカメラを構えた乗り鉄が1人。。。
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何はともあれ、撮り鉄出来ました 朝晩を除き、昼間はこの一往復だけの気動車です



チェックインまで未だ少し余裕があるので、備後落合駅に行ってみます。
この時、家内を乗せて撮り鉄した今はなき奥出雲おろち号が走っていた木次線芸備線2本(西側からと東側から)が集まる駅です。

左から木次線の1番線、西行芸備線の2番線、東行き芸備線の3番線となっています。
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平面図ではこのようになります👉

上の写真は図の左手から右手を見た画像で、 下の写真は図の左手から左奥を見た画像です。






奥で2本に絞られている線路は、左が西南に向かう芸備線、右が北に向かう木次線です。
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あれっ 3番線の向こうに何か写っていますね。転車台は直ぐに気づいたのですが。。。
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。。。3番線の駅名標の向こうに見えるのは、機関車用の乗降台跡のようです。


最後に備後落合駅舎内をしばらく見学しました。知り合いも何人か訪れているのですが。。。
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。。。旅ノートには記載が沢山ありすぎて、サインした知人を探すことはしませんでした。


このあとは、あの時と同様に帝釈峡の休暇村へ向かいます。



つづく


Posted at 2025/06/23 23:44:21 | コメント(1) | ドライブ | 日記
2025年06月18日 イイね!

バルト三国(その6:KGB博物館@ヴィルニュス)

バルト三国(その6:KGB博物館@ヴィルニュス)5月23日は午前中にトラカイ城を見学の後、昼食をヴィルニュス旧市街で食べ、午後は自由時間になります。

雨が降ったり止んだりの雨模様の中、自由時間は次の4つの候補から
1)KGB博物館 
2)ヴィルニュスで観るべき五つの通り ➡ 前日に殆ど済
3)もうひとつの旧市街、ウジュピス共和国 ➡ 治安が少し不安
4)ヴィルニュス大学
ということで、1)か4)か迷いましたが、この旅行を選んだ背景を重視してKGB博物館に行くことに決めました。
勿論、その中で良さげな通りを歩くトロリーバスに乗る、美味しそうな居酒屋さんで飲む・食べる、楽しみも忘れてはいません


                     何れの画像もクリックで拡大します。


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昼食を食べた Radisson BLU ASTORIJA ホテルです。
前日の街歩きでも撮っていましたが、この日の食後におさらいとして (^^ゞ





これから向かうKGB博物館は、ゲディミノ大通りに面していますので、大通りに出るまでは、緑地帯のあるヴォキエチュウ通り経由でヴィリニアウス通りを通ることにしました。
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バルト三国・その4を作成時には、撮り忘れていたと思い込んでいた市庁舎の写真。。。1枚だけありました 但し、真横からですので、6本のドーリア式円柱を真正面から撮った写真ではありません。この旅行ではヴィルニュスの大聖堂も同様に、6本のドーリア式円柱を撮りそこなっています (T_T)





ヴォキエチュウ通りを気持ち良く歩いている時にコデマリを見つけたので撮った写真です(左)。
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日本車以外では、VWはID.3、ポルシェはマカンGTSですが、スコダとアウディの車種は判りません。


ヴォキエチュウ通りからヴィリニアウス通り入る辺りで、向こうからやってきたオッサン(乞食です)から「ニイハオ。。。ナンテロカンテロ」と呼びかけられました。日本語で「中国人とまちがえてらぁ。。。乞食としての適性ゼロやなぁと夫婦で会話をしていたら、前を歩いていたビジネスマンらしき紳士が、振り向いて笑いながら同じようなことを英語で言いました・・・あの紳士は日本語が判ったのかな???

その直後に現れた聖キャサリン教会です(左)。そのままヴィリニアウス通りに進みます(右)。
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ヴィリニアウス通りからゲディミノ大通りに出て、しばらく西進するとKGB博物館ですが。。。
その入口(冒頭の写真です)は、ゲディミノ大通りに面しておらず、裏口みたいに殆ど反対側にありましたので、随分遠回りした気分になりましたが、まずは無事到着です。

ガイドブックにはKGB博物館であると記載されていますが、エントランスに掲げられている。。。
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リトアニア語をそのまま英訳すると OCCUPATIOS AND FREEDOM FIGHTS MUSEUM になります。


こちらは、入口で貰った小ぶりのパンフレットの表側です。「占領と自由闘争の博物館」について。。。
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。。。簡単に紹介されています。
1)この博物館は、1992年末、ソビエト連邦のKGBが約50年に亘り実際に活動していた建物に開館したこと。
2)展示は、20世紀におけるリトアニアの痛ましい時代=ソ連が占領下で奪った独立性、残忍な報復、そして独立闘争を扱っていること。
3)建物は歴史的建造物に指定されており、大きな変更は加えられておらず、一部は、オリジナルの内装が再現されていること。


パンフレットには、各階の案内が載っています。
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博物館の1階部分は、尋問課と財務部の事務室として使用されていました。現在の情報センターは、かつて刑務所長の部屋として使用され、展示の最初の部屋は副長の部屋でした。







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博物館の2階部分はかつてMGB B部が使用していましたが、1958年からは工作技術部(OTO)が使用していました。また、いくつかの部屋はKGB第5委員会が使用していました。







alt展示のメイン部分は、ソ連によるリトアニア占領直後の1940年秋に地下に設置された、かつてのNKGB-MGB-KGB刑務所(1958年に尋問独房に改称)です。刑務所はKGBが撤退した当時(1991年8月)の姿をそのまま残しています。
刑務所は博物館とは別の場所にあり、1階と2階の展示を見る前でも後でも訪れることができます。
注)
冬季はコートを着用することをお勧めします。囚人が運動のために連れて行かれた中庭は屋外にあります。





次の3枚は、展示されていた写真です。

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1952年4月4日、アリートゥス(リトアニアン南部)におけるMGB作戦中に死亡したパルチザン兵士で、個人名も挙げられています。


alt1949年10月17日に戦死したパルチザン兵士。背景には、リトアニア共産党中央委員会の新聞「ティエサ」のスタンドが使われています(左)。

1946年9月1日、トラカイ県グレンドヴェ村の農場で、突撃部隊によってパルチザンと共に殺害された農場主と娘そして妻と息子の写真です(右上)。

1952 年 5 月 22 日の MGB との戦闘で死亡したヴィティス軍管区のパルチザン 兵士で、5人の所属、氏名等も記載されています(右下)。

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1944年から1953年にかけてのパルチザンによる武装抵抗運動では、2万人以上が命を落としました。その半数以上が、1944年から1945年にかけて自由のために戦って命を落としました。パルチザンの平均戦闘期間は2~3年でした。死亡した戦闘員のほとんどは21歳未満でした。彼らは死後も残酷に晒されました。市民を恐怖に陥れるため、パルチザンの遺体は町の広場、庭、農民の市場に並べられました。




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これより3枚は、博物館内に残されている施設等です。





独居房が並ぶ廊下を歩いています。




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懲罰室でしょうか、或いは拷問部屋でしょうか?





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通信施設のようですが。。。恐らく盗聴のための装置だと思われます。





博物館内及び展示物には、実際に使用された処刑部屋など、かなり過酷な内容のものが多く含まれており、あまり撮っていません。ブログとしては以上とします。


最後に、ソビエト連邦及びドイツ・ナチス占領下において失われたリトアニア住民の人数が。。。
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。。。纏められていたので、掲載します👆
こうやって比較すると、ナチスに比べてソ連による被害者は半数以下の人数ではありますが、占領期間で視ると、ナチスの4年に対してソ連は47年もの間、リトアニアを占領下におき、つい最近まで苦しめていたことが判ります。
リトアニア人通訳さんの言葉の端々から、ソ連、ロシアに対する警戒心、嫌悪感を感じた一方で、ドイツに対するそれらの気持ちが感じられなかったのも理解できます。

因みに、現ロシア連邦大統領のプーチンについて、Wikipediaには次のように記載されています。
スパイに憧れを抱いたとされるプーチンは、大学卒業の1975年から1990年までKGBに勤務し、特に1985年から1990年までは東ドイツに滞在、NATOをはじめとした政治関係の情報を集める諜報活動に従事しています。更に、この間、KGBと協力関係にあった東ドイツの情報機関・秘密警察である国家保安省(シュタージ)職員の身分証明書も持っていたことが2018年に判明しました。






さて、1時間少々かけてKGB博物館を見学した後は、早めの夕飯にします。
食事の予約をしようとしても、有名どころだと予約出来ないという話を周囲で聞いていたので、今回は端から予約はせずに早めに入る作戦をとりました。

ところが、16時過ぎにKGB博物館を出て、切っていたスマホを繋いだのですが、どうも御機嫌が悪くて、地球の歩き方に掲載されている地図で勝負するしかなさそうな状況になっていました(>_<) 降りしきる雨の中、疲れが出てきた家内を引率してバス停を探し、タイムリーに乗って。。。というわけにはいきません。
何とか、目的地近くを通るトロリーバスに乗って、道の雰囲気から降車停留所を決め。。。降りたバス停で、目が合ったオジサンに地図を見せて目的の居酒屋を訊きます
幸い、降車停留所がピッタリ合っていて、数分の距離にそのお店はありました。

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ここで、もうひと波乱。。。

この写真は帰路撮ったものですが、道端の建物に幾つもの落書きがあり、ここは治安の悪い地域だから入るのは嫌だと言うのです。 家内が




すぐそこは旧市街だから大丈夫だよ~と、なだめすかして歩くこと数10メートル、目指す居酒屋に到着したものの、入口にはタバコを吸いながら若者たちが群がっている。。。 これって、日本でも入れる雰囲気ではない状況の時がありますが、ここまで来て諦めるのは嫌な性格ですので、中に入りました。
中は中で、結構楽しそうに皆さん歓談中で、空いたお席を探しますがどのテーブルも Reserved の札 一巡してお店のお姐さんに、どこか席を作ってよ、と頼んでみましたら、親分に相談したお姐さん、数人の団体さんの隣に、わざわざ島を離して席を作ってくれました。言ってみるものです。
注文も、親分が親切かつ丁寧に説明してくれて。。。地ビール(地元の蜂蜜ビールピルスナー)と肉団子セット、そして前日食べたツェッペリーナ(但し1個の分)をオーダー出来て、無事、夫婦で歓談&ディナー。。となりました 蜂蜜ビールをひと口飲んでみましたが、やっぱり僕はピルスナー🍺が好きです。
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旅行中は食べ過ぎになりがちなので、時々お腹を休憩させます。この位が丁度良い分量です
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治安の悪い地域(ではないですけど)、ガラの悪そうなお店。。。に見えましたが、親分もお姐さんも親切で良い人柄でした。さすが、地球の歩き方に出ているお店です。
オスロ、トロントで地球の歩き方を参考にして自由時間の飲食店を選択しましたが、これまでハズレはありません。




1時間半ほどお食事と雰囲気を楽しんだあとは、ホテルまで戻ります。自由時間を過ごしたこの日、旧市街から歩いて帰った人もいたようですが、我々はトロリーバスで帰ります。
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乗り方、お金の払い方(単にクレカをピッと当てるだけ)は判ったものの、降り方が判らなかったため、乗り過ごしました (>_<) まぁ、降りられる所まで(少し遠くまで)行ったものですから、帰りは違う線(違うルート)のバスに乗れ、よりホテルに近いバス停で降りました。。。相変わらず、降り方は判らないままですが、幸運なことに停まってくれたので助かりました。

ヴィルニュスのトロリーバスの室内です。かなり大きく感じます。運転は乱暴です (^^ゞ
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降りた所からは、ネリス川をはさんで対岸にホテル(クリーム色の高い建物)が見えました。
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夜は(夕食は夕方でした)やはり地ビール🍺を~


ヴィルニュスで買ったビールはリトアニア産でしたが、その後、買ったビールは。。。今思えば、チェコ産が混ざっていたような気がします。








翌日は、カウナスを経由してラトビアの首都・リーガへ向かいます。



つづく



【関連のブログ】
 ◇ バルト三国(その1:速報)
 ◇ バルト三国(その2:往路ヴィルニュスまで)
 ◇ バルト三国(その3:ヴィルニュス初日のランチまで)
 ◇ バルト三国(その4:ヴィルニュス初日の午後は街歩き)
 ◇ バルト三国(その5:トラカイへ)



Posted at 2025/06/18 23:42:23 | コメント(0) | 海外(遊び) | 日記
2025年06月15日 イイね!

バルト三国(その5:トラカイへ)

バルト三国(その5:トラカイへ)ヴィルニュス二日目の午前中は、近郊(西へ約30km)にあるトラカイの街へ行きました。
トラカイは、ヴィルニュスの前に首都がおかれた街で、30個以上にもなる湖に囲まれた自然豊かな観光地です。
今回は、その観光の中心になるトラカイ城へ向かいます。丁度、湖に囲まれた半島のような地形にあるトラカイの街、その先端にある島にトラカイ城はありました。


                   何れの画像もクリックで拡大します。


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トラカイの街歩き開始です。

開始早々で恐縮ですが、この建物、何だか明確に覚えていません。。。が、左奥にあるのは火の見やぐらで消防署だったような(と勝手に思っているのかも)。。。





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カライメ博物館です。

カライメとは、15世紀初頭に、時のリトアニア大公・ヴィータウタスがクリミアから傭兵として招いたトルコ語系少数民族のことです。







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この少数民族は、今でも約200名がトラカイの街を中心に民族性を維持しながら暮らしているそうで、この礼拝所・キエネサにもカライメの特徴が現れています。






こちらはカライム通りに面した伝統的なカライメの住宅です。三つ並んだ窓が、その特徴です。
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三つの窓は、神様、大公ヴィータウタス、家族のための三つという意味合いがあるとのことでした。




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しばらく通りに沿って歩いた後、湖のほとりに出たところです。

ちょっとしたリゾートの雰囲気です。





トラカイ城は二つ目の島に建っており、橋を二つ渡って向かいます。ここは二つ目の橋です。
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橋を渡ると城壁があり、そこから先が有料となっています。ここは入って直ぐの前庭です。
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前庭には、拷問器具のレプリカがいくつか置いてありました。奥のお城への階段を上がると。。。


空堀があり(左)、跳ね橋を渡って(右)城内に入ります。当時は湖の水位が高かったと思われます。
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城内、中庭から見た城郭です。矩形の城郭は、基本的に3層構造になっており、一辺だけが。。。
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。。。更に3層構造の建屋が乗っていて、天守閣のようになっています。



矩形部分には、各階とも木製の内側通路と階段が設けられており、城内の行き来の利便性が図られていたようです。




階段を上がったり降りたりしながら、内部の展示物を観ます。









内部は、14世紀後半(室町幕府確立の頃です)としては、重厚な造りだと思います。
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トラカイ城の完成図でしょうか。。。今は木々が生い茂る一つ目の島もお城の機能を有していた。。。
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。。。ようで、今のトラカイ城は大公の住居だったことが想像されます。


代々のリトアニア大公のレリーフも飾ってありました。こちらでも登場した祖父と孫の孫を本人に。。。
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。。。すると、左から曾祖父・ヴィータウタス(曾孫と同じ名前)、祖父ゲディミナス伯父・アルギルダス、ケーストゥティス本人ヴィータウタスの5名分です。


こちらは、1410年に起こったタンネンベルクの戦い(或いはグルンヴァルトの戦い)=ポーランド・リトアニア連合軍とドイツ騎士団との闘いを描いたものです。
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リトアニアを率いたのは当然、時の大公・ヴィータウタス(孫の方)でした。


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トラカイ城は、戦後はそのお城としての機能よりもヴィータウタスの住居として活用されるようになったようです。

👈従って、大公ヴィータウタスは城内のステンドグラスにも描かれていますし。。。



胸像も飾ってありました👇


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何となくトルコっぽいので、少数民族カライメの生活を表しているのではないかと思しきディスプレイです(左)。 昔の銀貨も展示されていました(右)。
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騎士ヴィーティス(Vytis、追跡者)をモチーフにしたリトアニア大公国の紋章(左)。。。リトアニアの国章の起源になります。元々はヴィータウタスの伯父・アルギルダスが印章のデザインとしていたようです。 また、騎士ヴィーティスのデザインは、現在のリトアニアのユーロ硬貨にも採用されていますが、殆どがカード決済の環境下、残念ながら我々が手にする機会はありませんでした (>_<)
紋章については最後にもう一度夜明けの門おさらいをします。
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ヴィータウタスの父・ケーストゥティスの祖先が使っていた紋章(右)。


以上、現地人ガイドさんの説明を基に(その場での理解が中々難しいので)、帰国後にも調べて再確認はしつつの記載です。

という間に、何だか騒々しくなったと思ったら、研修旅行でしょうか。。。大人の団体さんが登場。。。
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。。。したところで城内の説明が終わりました。良いタイミングでした。


帰路、前庭をお城側から見た眺めです。置いてある拷問器具のレプリカで遊ぶ子供達が怖い (;^_^A
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島から半島側に戻ったところに土産屋さんの屋台がありました。

遠足で来たと思われる子供達が群がっていますが、お客は我々だけの時に、ここでショットグラスを買いました。本ブログシリーズ第1弾の冒頭を飾ったショットグラスです。






午前中の観光を終えヴィルニュスに戻ります。30kmほどですからスグに着きます。

旧市街にある Radisson BLU ASTORIJA で昼食を食べるため旧市街入口にある夜明けの門でバスを降りたところです。 前日は判りにくかったのですが、午前中にお勉強をしたリトアニア大公国の紋章が、塔の頂部に描かれていることを再確認出来ました (^^)/
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Radisson BLU ASTORIJAでの昼食です。

前菜はシーザーサラダ(左)。バターと一緒に黒にんにくがあったので、迷わず一粒(右)。
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メインは鯛のソテーと温野菜。。。美味い😋 写っていませんが白ワインとマッチしていました(左)。
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お天気はイマイチの中、午後の自由時間をどう使うか・・・相談しながらのランチでした。



つづく



【関連のブログ】
 ◇ バルト三国(その1:速報)
 ◇ バルト三国(その2:往路ヴィルニュスまで)
 ◇ バルト三国(その3:ヴィルニュス初日のランチまで)
 ◇ バルト三国(その4:ヴィルニュス初日の午後は街歩き)


Posted at 2025/06/15 12:19:44 | コメント(0) | 海外(遊び) | 日記

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