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2025年06月29日 イイね!

バルト三国(その7:カウナス。。。杉原千畝)

バルト三国(その7:カウナス。。。杉原千畝)5月24日は、リトアニアの首都・ヴィルニュスを出発し、カウナス、十字架の丘経由で次の国、ラトビアの首都・リーガに向かいます。

カウナスは、ヴィルニュスがポーランドに占領されたWW1とWW2の間、リトアニアの首都になっていました。
その22年間、日本領事館だった建物が、カウナスの高級住宅街に残っており、現在は杉原千畝記念館になっています。


👈こちらは、杉原千畝が実際に発行したビザの1枚です。但し、ビザの顔写真の部分が顔出しパネル様式になっています。杉原千畝記念館にありました。


                  何れの画像もクリックで拡大します。


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朝の6時半、ヴィルニュスでの朝食です。

前日に撮り忘れていたのですが、ゆで卵が登場したくらいで、前日も同様。。。安心の朝食でした。





8時半出発で、ヴィルニュスからは1時間と少々でカウナスに到着。
まずは、上述の高級住宅街の入口付近でバスを降り、徒歩で杉原千畝記念館に向かいます。

杉原千畝は、このカウナスの日本領事館に勤務していた1940年7月から8月の間、多くのユダヤ系難民にビザを発給して彼らの命を救ったことで知られています。
今でこそ知られるこの功績ですが、1980年代になって海外(イスラエルなどユダヤ系社会)で注目され始めました。それでも国内では、ビザ発給は戦前の政府の指示に背いた杉原千畝の独断によるものであった点を重く見てしまったため、日本国政府による公式の名誉回復がなされたのは、以下のとおり2000年になってのことでした。

これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。
                                            — 2000年10月10日の外務大臣河野洋平による演説





昔の田園調布の街を思わせる街並みを徒歩数分。。。杉原千畝記念館に到着しました。
記念館に残っていた領事館当時の写真(下)と比べると、現在、塀は取り払われていますが。。。
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。。。杉原夫婦に、何としてでも人々の命を救おう、と言う気にさせた多くの人が押し寄せた門は、希望の門、命のヴィザと名付けて残されています(右)。










altこちらは、当初ビザを発行していた執務室です。
終盤は、ホテルやベルリンへの車上でも書いていたそうです。

多くの人の命を救ったそのビザですが、ユダヤ人難民避難の枠組みとしては
1)身分証明書
2)受入国ビザ
3)日本通過ビザ

の3点セットで機能させたものと思われます。




まずは1)身分証明書です。解説に以下の内容が記載されていました。
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1940年、在カウナス英国領事館は、ポーランド亡命政府に代わって、身分証明書を発行するという重大決断を下しました。この証明書は、占領下のポーランドからパスポートや正式な身分証明書を持たずに逃れてきた難民を支援するためのものでした。
彼らがこの部屋で杉原千畝に手渡したのは、まさにこの証明書でした。そして彼はそこに「命のビザ」を書き記したのです。
この協力は、第二次世界大戦が勃発するなかで行われた緊急かつ人道的な外交努力の象徴であり、難民にとって命をつなぐ貴重な支えとなりました。



続いて2)受入国ビザです。 
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オランダ領事館の外交官・ヤン・ツヴァルダイクが発行したもので、オランダ領への受け入れを示しています。便宜的にオランダ領への入国ビザとなっていますが、ユダヤ人難民が日本経由で他国へ逃れるための重要な書類となっていました。

3)の日本通過ビザと合わせて1)に記載されています。



最後になりますが、杉原が発行した3)日本通過ビザです。
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英文で、スリナム(スリナム共和国:旧オランダ領ギアナ)、キュラソー島(オランダ領)およびその他のオランダ領への渡航に際し、日本通過を認めることが記載されています。
和文では、査証(蘭領行き、敦賀上陸)、滞在拾日限、昭和十五年七月三十一日、在カウナス、領事代理、杉原千畝 が読み取れます。



因みに、冒頭に載せた査証は、これより1か月ほど後、8月23日に発行されたビザです。英文部分がスタンプになっています。これは、査証を発行するのに万年筆が折れ、腕が萎えるほどで、合間に杉原夫人が腕のマッサージをされたという逸話もありますから、効率アップのために改善されたことが窺えます。


館内には、不穏な足音が忍び寄る時期とはいえ、当時の日本領事の生活を偲ぶ備品がありました。
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杉原千畝記念館には小一時間滞在の後、カウナス旧市街に向かいました。

最初に訪れたのは、14世紀にはドイツ騎士団との戦闘の場になっていたカウナス城です。
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偶然ですが、左端に旧市庁舎イエズス教会(何れも後掲)が写っていました。


1410年、ヴィータウタス大公がドイツ騎士団にタンネンベルクの戦いで勝利を収めてからは、トラカイ城と同様、お城としては機能していないようでした。
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お堀の縁をゆっくりと散歩していると見えてきた聖ゲオルギオス教会。。。ぶっといゴシック様式
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ぐるっと周って市庁舎広場にやってきましたが。。。広場は敷石の全面改装工事中で入れません。
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イエズス教会(左)は全容が判りにくく、白鳥にたとえられる旧市庁舎(右)もパッとしません。

工事塀に描かれていた鳥瞰写真でイメージを膨らませることに。。。して下さい。
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その市庁舎広場に沿って歩いていくと。。。
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ヴィルニュスと同様、カウナスの街にもありました・・・聖ペテロ・パウロ教会
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リトアニア最大のゴシック様式の教会です。





沢山のフレスコ画が描かれた壁、そして凝った造りの彫刻で飾られた祭壇に。。。。暫し見入ってしまいました。


この時点で正午前。







聖ペテロ・パウロ教会から1kmほどの場所にあるレストランMIESTO SODASで昼食です。

マッシュルームスープ(左)とコルドゥナイ(リトアニア風水餃子)ですうまい!うまい!うまい!
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スープもリトアニア風水餃子も、とても美味しいのですが、何しろ量が多い!!


アイスクリームでお口直し (^^)/







この後、午後は十字架の丘があるシャウレイ経由ラトビアの首都・リーガまで、あと270kmほどのバス移動があります。



つづく



【関連のブログ】
 ◇ バルト三国(その1:速報)
 ◇ バルト三国(その2:往路ヴィルニュスまで)
 ◇ バルト三国(その3:ヴィルニュス初日のランチまで)
 ◇ バルト三国(その4:ヴィルニュス初日の午後は街歩き)
 ◇ バルト三国(その5:トラカイへ)
 ◇ バルト三国(その6:KGB博物館@ヴィルニュス)


Posted at 2025/06/29 21:00:52 | コメント(2) | 海外(遊び) | 日記
2025年06月18日 イイね!

バルト三国(その6:KGB博物館@ヴィルニュス)

バルト三国(その6:KGB博物館@ヴィルニュス)5月23日は午前中にトラカイ城を見学の後、昼食をヴィルニュス旧市街で食べ、午後は自由時間になります。

雨が降ったり止んだりの雨模様の中、自由時間は次の4つの候補から
1)KGB博物館 
2)ヴィルニュスで観るべき五つの通り ➡ 前日に殆ど済
3)もうひとつの旧市街、ウジュピス共和国 ➡ 治安が少し不安
4)ヴィルニュス大学
ということで、1)か4)か迷いましたが、この旅行を選んだ背景を重視してKGB博物館に行くことに決めました。
勿論、その中で良さげな通りを歩くトロリーバスに乗る、美味しそうな居酒屋さんで飲む・食べる、楽しみも忘れてはいません


                     何れの画像もクリックで拡大します。


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昼食を食べた Radisson BLU ASTORIJA ホテルです。
前日の街歩きでも撮っていましたが、この日の食後におさらいとして (^^ゞ





これから向かうKGB博物館は、ゲディミノ大通りに面していますので、大通りに出るまでは、緑地帯のあるヴォキエチュウ通り経由でヴィリニアウス通りを通ることにしました。
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バルト三国・その4を作成時には、撮り忘れていたと思い込んでいた市庁舎の写真。。。1枚だけありました 但し、真横からですので、6本のドーリア式円柱を真正面から撮った写真ではありません。この旅行ではヴィルニュスの大聖堂も同様に、6本のドーリア式円柱を撮りそこなっています (T_T)





ヴォキエチュウ通りを気持ち良く歩いている時にコデマリを見つけたので撮った写真です(左)。
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日本車以外では、VWはID.3、ポルシェはマカンGTSですが、スコダとアウディの車種は判りません。


ヴォキエチュウ通りからヴィリニアウス通り入る辺りで、向こうからやってきたオッサン(乞食です)から「ニイハオ。。。ナンテロカンテロ」と呼びかけられました。日本語で「中国人とまちがえてらぁ。。。乞食としての適性ゼロやなぁと夫婦で会話をしていたら、前を歩いていたビジネスマンらしき紳士が、振り向いて笑いながら同じようなことを英語で言いました・・・あの紳士は日本語が判ったのかな???

その直後に現れた聖キャサリン教会です(左)。そのままヴィリニアウス通りに進みます(右)。
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ヴィリニアウス通りからゲディミノ大通りに出て、しばらく西進するとKGB博物館ですが。。。
その入口(冒頭の写真です)は、ゲディミノ大通りに面しておらず、裏口みたいに殆ど反対側にありましたので、随分遠回りした気分になりましたが、まずは無事到着です。

ガイドブックにはKGB博物館であると記載されていますが、エントランスに掲げられている。。。
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リトアニア語をそのまま英訳すると OCCUPATIOS AND FREEDOM FIGHTS MUSEUM になります。


こちらは、入口で貰った小ぶりのパンフレットの表側です。「占領と自由闘争の博物館」について。。。
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。。。簡単に紹介されています。
1)この博物館は、1992年末、ソビエト連邦のKGBが約50年に亘り実際に活動していた建物に開館したこと。
2)展示は、20世紀におけるリトアニアの痛ましい時代=ソ連が占領下で奪った独立性、残忍な報復、そして独立闘争を扱っていること。
3)建物は歴史的建造物に指定されており、大きな変更は加えられておらず、一部は、オリジナルの内装が再現されていること。


パンフレットには、各階の案内が載っています。
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博物館の1階部分は、尋問課と財務部の事務室として使用されていました。現在の情報センターは、かつて刑務所長の部屋として使用され、展示の最初の部屋は副長の部屋でした。







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博物館の2階部分はかつてMGB B部が使用していましたが、1958年からは工作技術部(OTO)が使用していました。また、いくつかの部屋はKGB第5委員会が使用していました。







alt展示のメイン部分は、ソ連によるリトアニア占領直後の1940年秋に地下に設置された、かつてのNKGB-MGB-KGB刑務所(1958年に尋問独房に改称)です。刑務所はKGBが撤退した当時(1991年8月)の姿をそのまま残しています。
刑務所は博物館とは別の場所にあり、1階と2階の展示を見る前でも後でも訪れることができます。
注)
冬季はコートを着用することをお勧めします。囚人が運動のために連れて行かれた中庭は屋外にあります。





次の3枚は、展示されていた写真です。

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1952年4月4日、アリートゥス(リトアニアン南部)におけるMGB作戦中に死亡したパルチザン兵士で、個人名も挙げられています。


alt1949年10月17日に戦死したパルチザン兵士。背景には、リトアニア共産党中央委員会の新聞「ティエサ」のスタンドが使われています(左)。

1946年9月1日、トラカイ県グレンドヴェ村の農場で、突撃部隊によってパルチザンと共に殺害された農場主と娘そして妻と息子の写真です(右上)。

1952 年 5 月 22 日の MGB との戦闘で死亡したヴィティス軍管区のパルチザン 兵士で、5人の所属、氏名等も記載されています(右下)。

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1944年から1953年にかけてのパルチザンによる武装抵抗運動では、2万人以上が命を落としました。その半数以上が、1944年から1945年にかけて自由のために戦って命を落としました。パルチザンの平均戦闘期間は2~3年でした。死亡した戦闘員のほとんどは21歳未満でした。彼らは死後も残酷に晒されました。市民を恐怖に陥れるため、パルチザンの遺体は町の広場、庭、農民の市場に並べられました。




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これより3枚は、博物館内に残されている施設等です。





独居房が並ぶ廊下を歩いています。




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懲罰室でしょうか、或いは拷問部屋でしょうか?





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通信施設のようですが。。。恐らく盗聴のための装置だと思われます。





博物館内及び展示物には、実際に使用された処刑部屋など、かなり過酷な内容のものが多く含まれており、あまり撮っていません。ブログとしては以上とします。


最後に、ソビエト連邦及びドイツ・ナチス占領下において失われたリトアニア住民の人数が。。。
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。。。纏められていたので、掲載します👆
こうやって比較すると、ナチスに比べてソ連による被害者は半数以下の人数ではありますが、占領期間で視ると、ナチスの4年に対してソ連は47年もの間、リトアニアを占領下におき、つい最近まで苦しめていたことが判ります。
リトアニア人通訳さんの言葉の端々から、ソ連、ロシアに対する警戒心、嫌悪感を感じた一方で、ドイツに対するそれらの気持ちが感じられなかったのも理解できます。

因みに、現ロシア連邦大統領のプーチンについて、Wikipediaには次のように記載されています。
スパイに憧れを抱いたとされるプーチンは、大学卒業の1975年から1990年までKGBに勤務し、特に1985年から1990年までは東ドイツに滞在、NATOをはじめとした政治関係の情報を集める諜報活動に従事しています。更に、この間、KGBと協力関係にあった東ドイツの情報機関・秘密警察である国家保安省(シュタージ)職員の身分証明書も持っていたことが2018年に判明しました。






さて、1時間少々かけてKGB博物館を見学した後は、早めの夕飯にします。
食事の予約をしようとしても、有名どころだと予約出来ないという話を周囲で聞いていたので、今回は端から予約はせずに早めに入る作戦をとりました。

ところが、16時過ぎにKGB博物館を出て、切っていたスマホを繋いだのですが、どうも御機嫌が悪くて、地球の歩き方に掲載されている地図で勝負するしかなさそうな状況になっていました(>_<) 降りしきる雨の中、疲れが出てきた家内を引率してバス停を探し、タイムリーに乗って。。。というわけにはいきません。
何とか、目的地近くを通るトロリーバスに乗って、道の雰囲気から降車停留所を決め。。。降りたバス停で、目が合ったオジサンに地図を見せて目的の居酒屋を訊きます
幸い、降車停留所がピッタリ合っていて、数分の距離にそのお店はありました。

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ここで、もうひと波乱。。。

この写真は帰路撮ったものですが、道端の建物に幾つもの落書きがあり、ここは治安の悪い地域だから入るのは嫌だと言うのです。 家内が




すぐそこは旧市街だから大丈夫だよ~と、なだめすかして歩くこと数10メートル、目指す居酒屋に到着したものの、入口にはタバコを吸いながら若者たちが群がっている。。。 これって、日本でも入れる雰囲気ではない状況の時がありますが、ここまで来て諦めるのは嫌な性格ですので、中に入りました。
中は中で、結構楽しそうに皆さん歓談中で、空いたお席を探しますがどのテーブルも Reserved の札 一巡してお店のお姐さんに、どこか席を作ってよ、と頼んでみましたら、親分に相談したお姐さん、数人の団体さんの隣に、わざわざ島を離して席を作ってくれました。言ってみるものです。
注文も、親分が親切かつ丁寧に説明してくれて。。。地ビール(地元の蜂蜜ビールピルスナー)と肉団子セット、そして前日食べたツェッペリーナ(但し1個の分)をオーダー出来て、無事、夫婦で歓談&ディナー。。となりました 蜂蜜ビールをひと口飲んでみましたが、やっぱり僕はピルスナー🍺が好きです。
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旅行中は食べ過ぎになりがちなので、時々お腹を休憩させます。この位が丁度良い分量です
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治安の悪い地域(ではないですけど)、ガラの悪そうなお店。。。に見えましたが、親分もお姐さんも親切で良い人柄でした。さすが、地球の歩き方に出ているお店です。
オスロ、トロントで地球の歩き方を参考にして自由時間の飲食店を選択しましたが、これまでハズレはありません。




1時間半ほどお食事と雰囲気を楽しんだあとは、ホテルまで戻ります。自由時間を過ごしたこの日、旧市街から歩いて帰った人もいたようですが、我々はトロリーバスで帰ります。
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乗り方、お金の払い方(単にクレカをピッと当てるだけ)は判ったものの、降り方が判らなかったため、乗り過ごしました (>_<) まぁ、降りられる所まで(少し遠くまで)行ったものですから、帰りは違う線(違うルート)のバスに乗れ、よりホテルに近いバス停で降りました。。。相変わらず、降り方は判らないままですが、幸運なことに停まってくれたので助かりました。

ヴィルニュスのトロリーバスの室内です。かなり大きく感じます。運転は乱暴です (^^ゞ
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降りた所からは、ネリス川をはさんで対岸にホテル(クリーム色の高い建物)が見えました。
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夜は(夕食は夕方でした)やはり地ビール🍺を~


ヴィルニュスで買ったビールはリトアニア産でしたが、その後、買ったビールは。。。今思えば、チェコ産が混ざっていたような気がします。








翌日は、カウナスを経由してラトビアの首都・リーガへ向かいます。



つづく



【関連のブログ】
 ◇ バルト三国(その1:速報)
 ◇ バルト三国(その2:往路ヴィルニュスまで)
 ◇ バルト三国(その3:ヴィルニュス初日のランチまで)
 ◇ バルト三国(その4:ヴィルニュス初日の午後は街歩き)
 ◇ バルト三国(その5:トラカイへ)



Posted at 2025/06/18 23:42:23 | コメント(0) | 海外(遊び) | 日記
2025年06月15日 イイね!

バルト三国(その5:トラカイへ)

バルト三国(その5:トラカイへ)ヴィルニュス二日目の午前中は、近郊(西へ約30km)にあるトラカイの街へ行きました。
トラカイは、ヴィルニュスの前に首都がおかれた街で、30個以上にもなる湖に囲まれた自然豊かな観光地です。
今回は、その観光の中心になるトラカイ城へ向かいます。丁度、湖に囲まれた半島のような地形にあるトラカイの街、その先端にある島にトラカイ城はありました。


                   何れの画像もクリックで拡大します。


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トラカイの街歩き開始です。

開始早々で恐縮ですが、この建物、何だか明確に覚えていません。。。が、左奥にあるのは火の見やぐらで消防署だったような(と勝手に思っているのかも)。。。





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カライメ博物館です。

カライメとは、15世紀初頭に、時のリトアニア大公・ヴィータウタスがクリミアから傭兵として招いたトルコ語系少数民族のことです。







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この少数民族は、今でも約200名がトラカイの街を中心に民族性を維持しながら暮らしているそうで、この礼拝所・キエネサにもカライメの特徴が現れています。






こちらはカライム通りに面した伝統的なカライメの住宅です。三つ並んだ窓が、その特徴です。
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三つの窓は、神様、大公ヴィータウタス、家族のための三つという意味合いがあるとのことでした。




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しばらく通りに沿って歩いた後、湖のほとりに出たところです。

ちょっとしたリゾートの雰囲気です。





トラカイ城は二つ目の島に建っており、橋を二つ渡って向かいます。ここは二つ目の橋です。
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橋を渡ると城壁があり、そこから先が有料となっています。ここは入って直ぐの前庭です。
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前庭には、拷問器具のレプリカがいくつか置いてありました。奥のお城への階段を上がると。。。


空堀があり(左)、跳ね橋を渡って(右)城内に入ります。当時は湖の水位が高かったと思われます。
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城内、中庭から見た城郭です。矩形の城郭は、基本的に3層構造になっており、一辺だけが。。。
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。。。更に3層構造の建屋が乗っていて、天守閣のようになっています。



矩形部分には、各階とも木製の内側通路と階段が設けられており、城内の行き来の利便性が図られていたようです。




階段を上がったり降りたりしながら、内部の展示物を観ます。









内部は、14世紀後半(室町幕府確立の頃です)としては、重厚な造りだと思います。
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トラカイ城の完成図でしょうか。。。今は木々が生い茂る一つ目の島もお城の機能を有していた。。。
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。。。ようで、今のトラカイ城は大公の住居だったことが想像されます。


代々のリトアニア大公のレリーフも飾ってありました。こちらでも登場した祖父と孫の孫を本人に。。。
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。。。すると、左から曾祖父・ヴィータウタス(曾孫と同じ名前)、祖父ゲディミナス伯父・アルギルダス、ケーストゥティス本人ヴィータウタスの5名分です。


こちらは、1410年に起こったタンネンベルクの戦い(或いはグルンヴァルトの戦い)=ポーランド・リトアニア連合軍とドイツ騎士団との闘いを描いたものです。
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リトアニアを率いたのは当然、時の大公・ヴィータウタス(孫の方)でした。


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トラカイ城は、戦後はそのお城としての機能よりもヴィータウタスの住居として活用されるようになったようです。

👈従って、大公ヴィータウタスは城内のステンドグラスにも描かれていますし。。。



胸像も飾ってありました👇


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何となくトルコっぽいので、少数民族カライメの生活を表しているのではないかと思しきディスプレイです(左)。 昔の銀貨も展示されていました(右)。
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騎士ヴィーティス(Vytis、追跡者)をモチーフにしたリトアニア大公国の紋章(左)。。。リトアニアの国章の起源になります。元々はヴィータウタスの伯父・アルギルダスが印章のデザインとしていたようです。 また、騎士ヴィーティスのデザインは、現在のリトアニアのユーロ硬貨にも採用されていますが、殆どがカード決済の環境下、残念ながら我々が手にする機会はありませんでした (>_<)
紋章については最後にもう一度夜明けの門おさらいをします。
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ヴィータウタスの父・ケーストゥティスの祖先が使っていた紋章(右)。


以上、現地人ガイドさんの説明を基に(その場での理解が中々難しいので)、帰国後にも調べて再確認はしつつの記載です。

という間に、何だか騒々しくなったと思ったら、研修旅行でしょうか。。。大人の団体さんが登場。。。
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。。。したところで城内の説明が終わりました。良いタイミングでした。


帰路、前庭をお城側から見た眺めです。置いてある拷問器具のレプリカで遊ぶ子供達が怖い (;^_^A
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島から半島側に戻ったところに土産屋さんの屋台がありました。

遠足で来たと思われる子供達が群がっていますが、お客は我々だけの時に、ここでショットグラスを買いました。本ブログシリーズ第1弾の冒頭を飾ったショットグラスです。






午前中の観光を終えヴィルニュスに戻ります。30kmほどですからスグに着きます。

旧市街にある Radisson BLU ASTORIJA で昼食を食べるため旧市街入口にある夜明けの門でバスを降りたところです。 前日は判りにくかったのですが、午前中にお勉強をしたリトアニア大公国の紋章が、塔の頂部に描かれていることを再確認出来ました (^^)/
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Radisson BLU ASTORIJAでの昼食です。

前菜はシーザーサラダ(左)。バターと一緒に黒にんにくがあったので、迷わず一粒(右)。
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メインは鯛のソテーと温野菜。。。美味い😋 写っていませんが白ワインとマッチしていました(左)。
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お天気はイマイチの中、午後の自由時間をどう使うか・・・相談しながらのランチでした。



つづく



【関連のブログ】
 ◇ バルト三国(その1:速報)
 ◇ バルト三国(その2:往路ヴィルニュスまで)
 ◇ バルト三国(その3:ヴィルニュス初日のランチまで)
 ◇ バルト三国(その4:ヴィルニュス初日の午後は街歩き)


Posted at 2025/06/15 12:19:44 | コメント(0) | 海外(遊び) | 日記
2025年06月12日 イイね!

バルト三国(その4:ヴィルニュス初日の午後は街歩き)

バルト三国(その4:ヴィルニュス初日の午後は街歩き)5月22日、ヴィルニュス旧市街の目抜き通りであるピリエス通りに面したレストランでランチを食べた後は、現地人ガイドさんの案内で旧市街を歩き回りました。

👈人通りの多いピリエス通りです。


      何れの画像もクリックで拡大します。


レストランを出た所にあったコレは??? 最初はピンク色をしたスープ屋さんかと思いました。
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派手な色合いとUnexpectedly Amazing というのが面白くて撮っていたのですが、ショーウインドーに書いてある文字を読むと、どう考えても観光案内所です 
そして右端にある看板に記載されているピンク色のスープというのは、ビーツの他にケフィアやバターミルク、新鮮なキュウリ、ディル、青ネギやチャイブなどから出来たスープです。その美しい色と、フレッシュでクリーミーな味わいは、まさに「世界一美しいラブストーリー」と呼ばれているそうです。
この後、5月31日には、ここヴィルニュスで世界最大のピンクスープ・フェスティバルが開催されたそうです。その詳細はこちらです。 注)ピンクスープ・フェスティバルは関西万博でも開催されたようですが、本場のそれは規模、熱気が違います。



街歩きは、ピリエス通りを大聖堂側にチョット戻ってから、ベルナルディヌ通りに入ったところから始まります。通りと言っても殆ど路地です。
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入る路地はWine BAR DECANTUSというワイン屋さんが目印になります。
こちらは、そのお店の外壁にあったモニュメント






通りを抜ける手前でシェークスピアの旗が。。。 シェークスピア・ブティックホテルでした。
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ベルナルディヌ通りを抜けた所には、聖アンナ教会(手前・左右)とベルナルディン教会(中央・奥)がありました。
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聖アンナ教会は、15世紀末に建てられた火焔式ゴシック(繊細なゴシックの装飾に曲線を絡ませたデザインを特徴とするゴシック)建築の傑作とされる教会で、当時のままの姿をとどめています。内部の見学はソ連時代に破壊され、修復された聖アンナ教会も観る価値はない?とガイドさんが飛ばしてしまいました。
ベルナルディン教会は現在も修復作業中です。


聖ミカエル教会👇を左手に診ながら、帰りは一本南のミコロ通りを戻りました。この教会は。。。
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。。。現在、教会遺産博物館となっています。ここには、ソ連の占領時代に発見されたものの、ソ連に略奪されることが明白だったため、リトアニア独立後の1998年になって初めて公表された秘宝が展示されているそうです。


再びピリエス通りに出て、スカポ通り経由でダウカント広場に出ると、大統領官邸が見えました。
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ずらりと並ぶ黒塗りの高級車(アウディ、BMWなど)の横を抜けて、大学通りに出ると、隣はヴィルニュス大学です。


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ヴィルニュス大学は、16世紀創設の由緒ある大学です。

内部には貴重なレリーフ画やフレスコ画があり、ガイド付きツアーもあるようですので、翌日に予定されている自由時間に見学する候補として考えます。

校庭からは天文台(天文観測所)も見えます。



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大学の裏側に周ったヨノ通りからは聖ヨハネ教会の鐘堂が見えました。




大学通りに続くガウノ通りに入ります(左)。ガウノ通りに面したスティクレイホテル(右)は。。。
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。。。豪華な内装やロビーや外壁を飾るフレスコ画で有名な5つホテルです。


ガウノ通りの終点=ホテルの角からは右手(写真奥)のスティクリュ通り越しに向こうにドミニコ聖霊教会の塔が見えました。ガウノ通りを直進(写真左手に)するとジードゥ通りです。
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ここで何となくホッとしたのは、造花とは言え巧みに作られた桜の木が飾ってあったからでしょうが、実はこの一帯は、ナチス占領下におけるゲットー(ユダヤ人居住区)の真っ只中に位置しており(上述の各通りは何れもゲットーの地図に登場する有名な通りです)、住民の多くが強制収容所に送り込まれたという悲惨な過去を持っています。


スティクリュ通りを反対側に進むと、市庁舎広場に出ます。ここで大きな失態を。。。
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。。。肝心の市庁舎を撮っていなかったのです 翌日の昼食で訪れるRadisson BLU アストリアホテル(左)はしっかりと撮っていたのに (>_<)   聖カジミエル教会は撮ってました(右)。


ここから、いよいよ旧市街散策もクライマックス、夜明けの門通りに入ります。

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通りの右側に現れた三位一体の門です。

奥に聖三位一体教会があります。
この宗派は16世紀にポーランド・リトアニア連合国がベラルーシ、ウクライナに進出した際に、宗教的妥協のために興った宗派云々という面白そうな話が。。。ですが省略されちゃいました (+_+)





程なくして、左手にピンクの門が見えてきました。聖霊教会の門です。そして、正面側には。。。
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。。。聖テレサ教会が建っています。


聖霊教会(左)。。。リトアニアにおけるロシア正教会の中心的存在だそうです。
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聖テレサ教会(右)。。。内装が美しいけど省略して、奥に見える夜明けの門とは繋がっています。



遂に到着、夜明けの門です! 
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二階が礼拝所となっています。中には奇跡を起こす力があると言われる聖母のイコンがあり、現在も海外から多くの巡礼者が祈りに来るそうです。中は撮影禁止でしたが、外から撮った写真の窓の中に、薄っすらとイコンが見えています。
また、現地人ガイドさんが、この夜明けの門の前の道がベラルーシに続いていることを何度か強調して説明されていましたので、門を通して見たリエプカルニ通りを写してみました(右)。
地図で確認すると、ベラルーシとの国境までは約30kmです。ドイツ軍が駐留していることも考え合わせると、明確には仰いませんでしたが、やはり脅威を抱いているのだと思います。


門を外側から見ると(左)、5個の銃眼が城門であることを示しており、上部にはリトアニアの紋章が見えています。入場しても、写真は撮れず、パンフレットの類も無かったので。。。
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。。。撮っていた銘板(右)の英文部分を自動翻訳処理をしてみました。
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リトアニア国内外で有名な聖域であり、宗教的、歴史的、文化的に最も重要な建造物の一つです。16世紀初頭にメディニンカイへの街道沿いに建てられ、当初はメディニンカル門と呼ばれていたこの門は、ヴィリニュスの城壁と共に建設された5つの防御門のうち最初のものであり、現在まで残っている唯一の門です。外側には射撃用の穴があり、ルネサンス様式の屋根裏部屋があり、リトアニアの国章を掲げた2体のグリフィン像が立っています。
門の内側には、17世紀初頭に描かれたルネサンス様式の聖母マリアの絵画で飾られた、暁の門の聖母の礼拝堂があります。この絵画は銀箔で覆われており、奇跡を起こすと信じられています。1993年にはヨハネ・パウロ2世、2018年にはフランシスコ教皇がここで祈りを捧げました。礼拝堂での祈りの後、教皇は奉納物で作られた聖母マリアの新しい金冠を聖別しました。

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ここで、旧市街の散策は終了となり、22日午後の最後は、少し離れた聖ペテロ・パウロ教会に向かいます。

聖ペテロ・パウロ教会に到着した時点でにわか雨が降っていたので、しばらくバス内で待機、雨が上がった直後に撮った写真です。
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教会は17世紀に建立されましたが、30年余りの年月をかけて内装を整備したというだけあり、その漆喰彫刻群には圧倒されます。

ここの漆喰彫刻は2000体以上もあり、当然ながらひとつとして同じものはありません。
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どう撮ったら良いものか。。。判らないので、手あたり次第撮った写真ですが、並べてみます (^^ゞ


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以上で5月22日の観光は終了し、15時半頃にはホテル Radisson BLU LIETUVA ラディソン ブル リエトヴァにチェックインしました。
ホテルは新都市に位置しており、ショッピングセンターが隣接しているので、土産、食料品、アルコール等を調達するのには便利でした。


長旅と一日観光で疲れていたので、面倒なブッフェスタイルとは言え、ホテルでの夕食は有難いものがあります(左)。部屋に戻ってからは、お隣で買った地ビールを飲みつつ翌日の予習を。。。(右)。
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翌日は、かつてのリトアニアの首都トラカイを午前中に観光し、午後からはヴィルニュスに戻って自由行動になっています。
自由行動。。。準備段階から色々と模索していましたが、
1)KGB博物館 
2)ヴィルニュスで観るべき五つの通り 
3)もうひとつの旧市街、ウジュピス共和国 
4)ヴィルニュス大学
の候補から選ぶことになると思います。まぁ、お天気が下り坂ですのでお天気とも相談だなぁ。。。

などと考えながら、5月21日の朝起床して以来、実に46時間ぶりに布団に入りました 笑


つづく


【関連のブログ】
 ◇ バルト三国(その1:速報)
 ◇ バルト三国(その2:往路ヴィルニュスまで)
 ◇ バルト三国(その3:ヴィルニュス初日のランチまで)




Posted at 2025/06/12 19:54:42 | コメント(0) | 海外(遊び) | 日記
2025年06月09日 イイね!

バルト三国(その3:ヴィルニュス初日のランチまで)

バルト三国(その3:ヴィルニュス初日のランチまで)5月21日に関空を発って、22日早朝にヘルシンキでEU圏に入国後、飛行機移動で最初の訪問地ヴィルニュス(リトアニアの首都です)に着いたのは22日の10時頃でした。

早速、10時半頃から旧市街を中心とした観光が開始されました。

👈大聖堂鐘楼です。


まずは旧市街に隣接するゲディミナスの丘へ上がり、ヴィルニュスの街を俯瞰します。


                 何れの画像もクリックで拡大します。


麓から見上げたゲディミナスの丘。。。到着早々登山は嫌だなと思っていたところ、インクラインが設置されていました。パリのモンマルトルの丘と同様、年寄りに優しい配慮ですね。
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ゲディミナス。。。14世紀の初頭、中世リトアニア大公国で、宗教、軍隊、城塞建設等バランスのとれた政治を行った賢君と言われている君主だそうです。日本では鎌倉幕府滅亡から室町時代にかけての年代になります。
麓に建っている像はゲディミナスの孫、ヴィータウタスで、同じく大公国の君主だった人です。


ゲディミナスの塔。。。かつての城壁の塔です。国旗がなびいていました。背景は新都市方面。
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ガイドさんが旧市街方面の建物を説明してくれましたが、その場では
でしたので、帰国後に、この日の午後の散策で撮った写真と見比べながら解明しました。

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こちらは目立ったので撮っていましたが、実際には訪れていない聖キャサリン教会








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聖ヨハネ教会と鐘堂(中央左)。

そして右端に写っている小さめの塔が、隣接するヴィルニュス大学の天文台(これは下の写真の左側に繋がります)。







真っ白な壁に薄緑の屋根が大統領官邸。その後ろの大きな建物がドミニコ聖霊教会と修道院(行きませんでした)。 中央左側の塔が前述のヴィルニュス大学の天文台です。
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反対側に目を転じると、この日最後に訪れる予定の聖ペテロ・パウロ教会の頭頂部(ドームの一部)が森の向こうに見えていました。


手前の赤屋根は歴史の家(国立リトアニア博物館の分館)、灰色屋根は旧拘置所です。





元に戻って旧市街でも、この丘の足下に注目すると、大聖堂(黒い三角屋根)と鐘楼(塔)。。。
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。。。手前の矩形の黒屋根は王宮です。 これから降りて行って観ることになっています。


ネリス川の対岸(右側)は新都市とでも言ったら良いのでしょうか。。。
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。。。左側奥に広がる地域が新市街と呼ばれています。手前右側の赤屋根は旧兵器廠、左側の赤屋根は国立リトアニア博物館です。 望遠にして撮ると👇


alt新都市高層ビル群の中に、これから2泊する予定のRadisson BLU リエトバ(教会右の白いビル)が見えています。

翌日の自由時間では、写っているトロリーバスで新市街方面からホテルに戻るところが、降りそこなって手前の緑橋まで来ていました。バス、トラムは、クレカで支払い可能、制限時間内は乗降自由という制度ですので、乗り間違い、降りそこない等が起こっても適当に対処出来ます。





続いて丘を降り、いよいよヴィルニュス旧市街を歩きます。
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先ほど丘の上から眺めた建物、リトアニア国立博物館です。






公園の木々を抜けると大聖堂(中央)とその鐘楼(左)が現れます。テントの奥から来たのですが。。。
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。。。強烈な逆光でしたので大聖堂の正面(屋根に白像と十字架がある)は撮らずにまわり込んで撮っています。右側はゲディミナス大公像です。



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大聖堂。。。入りました。









👈当然、主祭壇はありますが。。。




。。。この大聖堂の見所はリトアニアの守護聖人となったカジミエラス王子が安置された聖カジミエルの礼拝所👇です。



聖カジミエルの礼拝所は大理石と砂岩で囲われ、壁には8体の王の像、漆喰彫刻、フレスコ画と多様な飾りが施されています。
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正面にある聖カジミエルの聖画を拡大すると👉手が3本あります
3本目の手は、消しても消しても現れるので、残されたままになっている、と言われています。




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👈また、左側には、死後120年にお棺を開けた際に遺体に変化がなかった、という聖カジミエルの奇跡が描かれた絵もありました。








さて、大聖堂を出た所にあるカテドゥルス広場周りですが、ここではドイツ軍の戦車が並び市民との交流をやっているようでした。この時は、現地人ガイドさんも本当のことを仰らず、友好のための行事であるかのように説明されていましたが。。。
この日(5月22日)はロシアに対抗してドイツ軍がリトアニアに駐留し始めた記念すべき日であることが帰国後に判明しました。ガイドさんも添乗員さんも、観光という視点からきな臭い情報には触れない方が良いと判断された結果なのであろうと思いますが。。。

リトアニア大西洋条約協会(LATA)が入っているビルには、リトアニア、ウクライナ、そしてソ連から独立している期間にベラルーシが定めていた国旗(白赤白国旗)が掲げられています(右)。
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リトアニアは、東をベラルーシ、南をロシアの飛び地(カリーニングラード)に接する小さい国(北海道の8割ほどの広さの土地に280万人が暮らす)です。この旅行を昨秋に思い立ったのも、ロシアvs.ウクライナの状況を鑑みてのことです。現に、今年に入ってバルト三国とポーランドは対人地雷禁止条約から脱退する意向を表明しています。こうやってドイツがロシア、ベラルーシを牽制することによって、リトアニアの安全を維持しようとしているのでしょう。

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それにしても、知っていれば、ドイツの兵隊さんとも話したり、もっと写真を撮ったり出来たのに。。。と残念です。手元にある写真では、レオパルト1は確認出来ますが、レオパルト2がいたかどうか・・・若干あやふやです。



正午前になりました。観光のメインストリート(歩行者天国)であるピリエス通りを通って。。。
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                   この通りはこの日と翌日に何度も通ります。


昼食が用意されているレストランに向かいました。
ベルネリーシュ・ウジェーガ。。。リトアニア料理専門のレストランでした。
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旅行者に有難い野菜サラダ(左)と、ひき肉を練った芋で包み飛行船の形に整えた。。。
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ツェッペリナイという郷土料理(右)。練った芋の食感は、名古屋のういろう風です。美味しかったのですが、芋と肉のバランスを考えて芋は半分ほど残しました。


午後は、旧市街を歩き回ります



つづく


【関連のブログ】
 ◇ バルト三国(その1:速報)
 ◇ バルト三国(その2:往路ヴィルニュスまで)


Posted at 2025/06/09 15:50:24 | コメント(0) | 海外(遊び) | 日記

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