
神戸・元町にあった
海文堂という書店が、本日(9月30日)をもって閉店となりました。
私にとっては、電車の本、飛行機の本の種類が豊富に揃っているので、元町で宴会の際は、早めに行ってこちらで時間調整をしながら本を眺める・・・そんな付き合いでしたが、以下に転載する
朝日新聞の記事を見て・・・ふと、昨日(9月29日)出かけてみたくなり、写真を撮ってきました。
← クリックで
拡大
★海文堂書店閉店(1)老舗にネットの荒波(2013年09月25日掲載)
「本日、新刊の報告の必要はありません」
8月5日、月曜日。海文堂書店2階のタイムレコーダーの横に、貼り紙があった。月曜は、従業員が朝礼で担当分野の新刊を紹介する。「何かあるな」。参考書担当の笹井恭(62)と海事書担当の後藤正照(60)は、顔を見合わせた。
午前9時半。1階の中央カウンターを囲んだ11人に、社長の岡田節夫(63)から1枚の紙が配られた。関連会社集約のため、海文堂書店の営業を9月30日をもって終了させていただきます――。「書かれている通りです」。岡田はそれだけ告げると、うつむいた。
7月の中頃から、本を出版元から直接買い付けることをやめるよう言われていた。「店を縮小するのかなと覚悟はしていたが、閉店とは」。笹井は振り返る。
海文堂書店は、淡路島出身の賀集喜一郎が1914(大正3)年、当時の生田区(現中央区)で海事書の出版・販売の専門書店を開いたのがルーツ。23年、今の元町商店街の中に移り、岡田の父・一雄が引き継いだ。現在、1、2階延べ730平方メートルで約11万冊を扱う中規模総合書店だ。
2階の海事書コーナーには、航海士の参考書や船の写真集、気象や貿易の専門書などが約1千種類。後藤は「品ぞろえは日本一のはず」。解体した船の舵(かじ)やライト、文具やTシャツなどのマリングッズも売る。
2階フロアの約3分の1を近隣の古書店に貸し、新刊書と古本が並んでいるのも店の特徴だ。2000年まで社長を務めた島田誠(70)は在任中、2階の一角でギャラリーを開設。地元の無名画家の作品を展示するなど、神戸の文化発信の一端を担ってきた。
しかし、経営は年々厳しさを増していた。福岡宏泰(55)が店長に就いた00年、ネット書店大手・アマゾンが日本に進出。本の取り寄せを頼む客が激減した。「ぎっしりだったレジ横の取り寄せ棚が、すかすかになった」という。
本を1冊売って、書店の利益は定価の30%。再販制度で売れ残った本は返品できるものの、薄利多売の商売だ。大阪・梅田などの都心部では近年、数千平方メートル規模のマンモス書店が相次いでオープン。90年代後半に1日100万円を超えていた海文堂の売り上げは、下がる一方だった。
岡田が交通事故で重傷を負った5年前、当時社長を務める兄・吉弘と話し合った。「どちらかが死んだら、海文堂を閉めよう」。11年2月、吉弘が尿管がんで亡くなったが、岡田は店を閉めなかった。東京の出版部門など関連5社の社長を引き継ぎ、東京と神戸を往復する日々が続いた。
「1階フロアの真ん中、新潮文庫の棚があるあたりは昔、倉庫だった。産婆さんを呼んで、私はそこで生まれたんだ」。店の2階にあった住居で18歳まで、にぎわいを見て育った。
しかし、売り上げ回復の見通しは立たないまま。阪神大震災を境に、周辺に6店あった新刊書店は、次々店を畳んだ。「せめて海文堂だけは、と思っていたが……」。今度こそ限界だ、と岡田は感じていた。
◇
30日で創業99年の歴史に幕をおろす海文堂書店。港町神戸の顔として親しまれてきた、老舗書店の閉店までを追った。(石川達也)
★海文堂書店閉店(2)1・17感じた本の力(2013年09月27日掲載)
客足が減り続ける海文堂書店に、かつてのような熱気が戻った時があった。1995年1月17日。阪神大震災だ。
当時店長だった小林良宣(63)は、火災の煙が立ちこめる中を、垂水区の自宅からバイクで海文堂へ走った。「もう店はないかもしれない」。午前9時ごろ到着すると、三方を囲む建物はみな倒壊していたが、海文堂は無事だった。
通用口から店内に入ると、床は散乱した約15万冊の本であふれていた。余震が続く中、取次店が差し入れてくれた懐中電灯を片手に、従業員総出でひたすら本を棚に戻した。25日、営業を再開。神戸の書店で一番早かった。
再開したとたん、海文堂は客であふれた。
親戚や知人を捜すために神戸の地図を求める人々。避難所で不安がる子どもにとマンガや児童書を買っていく親。受験シーズン直前に家が焼け落ち、参考書を買い直す受験生。午後5時に閉店のアナウンスをしても、客はなかなか帰らなかった。いま店長の福岡宏泰(55)は20日間、近くの避難所に寝泊まりして店に通った。
児童書担当の田中智美(51)は、絵本を何冊も買っていく男性の言葉が心に残る。「娘が家から逃げるとき、とっさに手に取ったのが絵本の『ひとまねこざる』だった」。本の持つ力を感じた。参考書担当の笹井恭(62)は、震災前の神戸の空撮写真が飛ぶように売れたことを覚えている。自宅が焼けた男性が「ここにうちの家があったんや」と買っていった。
店の一角でギャラリーを運営していた当時の社長島田誠(70)は、震災の1カ月後、若手の画家や音楽家、詩人らに呼びかけ、芸術で被災者を励ます活動「アート・エイド・神戸」を開始。避難所でコンサートを開き、工事現場の囲いに絵を描いた。
「神戸市や県、国は何をやっているんだ」。復興への歯がゆい思いも、書棚にぶつけた。店の中央に震災コーナーを設け、復興過程の問題点を追究した本を並べた。震災関連の新刊書が少なくなっても、地元NPO団体の出版物やDVDを置き続けた。
16年後。「同じ本ばかりで回転もしていない。コーナーを片付けるかな」。福岡がそう思っていた矢先、東日本大震災が起こった。
仙台市の出版社「荒蝦夷(あら・え・みし)」から連絡が入った。人文書担当の平野義昌(60)は「全点並べてフェアをしましょう。在庫を送って」と即決。「激励の言葉より本を売る」をキャッチコピーに、レジ前の新刊コーナーをとっぱらって本を並べた。神戸の書店だからこそ、東北の気持ちが痛いほどわかった。

海文堂正面・・・二階の窓に海事書と書かれている文字が書店の性格を示している
★海文堂書店閉店(3)従業員は「棚の社長」(2013年09月29日掲載)
「従業員は、担当する棚の社長だ」
店長の福岡宏泰(55)の口癖だ。海文堂書店では、本の仕入れや陳列について、従業員に大きな裁量が与えられている。
海文堂を「神戸の文化拠点」とすることを目指した2代前の社長、島田誠(70)は1981年、店内を海事書、児童書、ギャラリーなど九つのゾーンに分けた。「専門店が集まった書店」を目指し、担当分野の本は自分の責任で発注、在庫管理するようにした。
担当者の個性が書棚に反映され、他の書店とはひと味違った品ぞろえに。従業員は本の知識が増え、お客の相談にも親身にのれるようになった。
人文書担当の平野義昌(60)は、「従業員が出版元と直に取引できる書店はなかなかない」という。「社長からは『棚に思いをぶちまけてくれ』と言われた。すぐには売れない本でも置かせてくれ、『マニアックになっても悔いはない』と背中を押された」と話す。
その「海文堂カラー」が一番発揮されるのが、毎月のブックフェアだ。従業員はそれぞれ年に2、3回、入り口近くの平台スペースが与えられる。そこでは、自分の担当分野と全く関係ない本でも、自由に仕入れて並べることができる。
参考書担当の笹井恭(62)は2年前、「妖怪や霊の登場する本がおもしろい」とホラー文庫を取り上げた。結果は大惨敗。だが「自分がおもしろいと思う感覚が一般とは違うんだとわかって楽しい」と、けろっとした様子だ。
本すら並べない猛者もいる。前店長の小林良宣(63)は、「地元のことを紹介したい」と、灘の地酒を平台に並べた。日本各地で造られる地ウイスキーをかき集め、蔵元を紹介する本と一緒に売ったこともある。でも、「酒は本ほどバンバン売れなかったな」。
「ちょっと自由にさせすぎたかな」。こう振り返る福岡も、大好きな漫画家、いしいひさいちのフェアをしたときは、ちゃっかり本人から色紙や手紙をもらった。実家の応接間にあふれていた蔵書を「身辺整理フェア」と称して売ったこともある。
閉店すれば、従業員はみな解雇される。福岡は知人に「どうせ閉店するんだから、あとは適当に仕事をすれば」と言われた。でも、「最後まで、一冊でも売りたいという思いがある。書店員ってあほですね」。
9月20日、海文堂は新刊書の最後の入荷を終えた。最後のフェアのタイトルは、「いっそこの際、好きな本ばっかり!」。自分の好きな本を、少しでも多くの人に売りたい。変わらぬ思いが、平台に積まれている。
★海文堂書店閉店(4)「海の人」集い育った(2013年09月30日掲載)
海文堂書店の入り口から階段を上がると、壁には直径1メートルほどの木製の舵(かじ)や大漁旗、世界中の海図が所狭しと飾られている。その先に、「海の本」コーナーがある。
海文堂は名前の通り、海事関連の専門書店だった。総合書店となった今も、航海士になるための参考書や法令書、気象、無線、貿易などの専門書、軍艦の写真集や航海記など1千種類、5千~6千冊をそろえ、海事書の出版もする。
前店長の小林良宣(63)は、1980年ごろまで、海事書の棚の前にノートが置いてあったことを覚えている。「○月△日上陸。××君、元気か?」。店を訪れた船員たちがメッセージを残していった。
60年、航海士の資格「甲種船長」に合格した鈴木邦裕(76)は、ノートに「俺も船長の免状をもらったよ」と書き込んだ。商船高校生だった53年、練習船で神戸港を訪れ、初めて海文堂に立ち寄った。「教科書が全部棚に並んでいる!」と感激したのを覚えている。その後も神戸を訪れるたび、長期間の航海に備えて文庫本や海事書を買い込んだ。鈴木は「海文堂は船乗りの集う場所。日本中の海にまつわる人を育ててくれた」と語る。
航海に必要な日常生活品などを船に届ける船具店も、海文堂の得意先だ。「○○万円分用意してくれ」と電話が入ると、週刊誌や雑誌を段ボールに詰める。「新造船ができると、1隻で100万円分ほどの本を頼んだこともあったよ」。神戸市中央区の「神戸船用品」前社長の西田次輝(71)は振り返る。沖合に停泊する船には、ボートに乗って本を届けた。
社長の岡田節夫(63)が小学生のころ、海事書が並ぶ2階は住居だった。元町駅で汽車を降りて神戸港から船に乗る客が、途中で海文堂に立ち寄り、船中で読む雑誌を買っていった。「遅くでも客が来るもんだなぁ…」。夜でもにぎわう店の様子が印象的だった。小学生の頃から海文堂を訪れる西宮市の自営業國松直哉(52)は「店でセーラー服を着た船員をよく見かけたよ」と話す。
しかし、オイルショック以降、外国人の乗組員が増え、コンテナ船の登場で船の停泊時間が短くなった。ポートアイランドの完成で、船の停泊場所も元町から遠ざかっていった。
幼い頃から船乗りに憧れて海文堂に通ったという東灘区の設計士中尾健一(50)は、「昔は淡路に行くにも四国に行くにも船だったが、最近は船が身近でなくなった」と語る。「特色ある本屋がなくなるのは残念だけど、時代が支えきれなくなったんだろう」
神戸の街からまたひとつ、潮の香りが消えていく。
昨日買ってきた書籍類・・・残念ながら車の好きな従業員はいなかった?(笑)
Posted at 2013/09/30 23:33:29 | |
イベント | 日記