『 しげるくんのおべんとう 』 をご存知だろうか。
昭和20年8月6日の暑い朝、原爆の熱線に焼かれたお弁当箱のことである。
通学途中に原爆に遭ったしげるくんの安否を捜し求める母親が見つけた、
しげるくんの遺品である。
原爆資料館にて展示されているのをご覧になった方も多かろう。
食料事情厳しき折柄、大豆がほとんどという粗末な中身ではあるのだが、
燃えずに炭化して残ったのである。
多くの方は原爆の悲惨さに涙するのであろうが、
お弁当評論家の吾輩の視点は少し異なる。
モノというものは酸素があれば燃焼する。
小学校で習ったとおりである。
教科書と一緒にお弁当を持ち歩くと必ずごはんが片寄ってしまう。
実母の愛がこもったお弁当でもその有様であるから、
継母や他人様の作ったお弁当など量が半分以下に減ってしまうほど片寄ってしまう。
しげるくんのお弁当は焼け残ったのである。
片寄らず、酸素の入り込む隙間の無いほどギュウギュウ詰めだったのであろう。
粗末な食材しかないけれど、たくさん食べてね、
と母親の想いのこもったお弁当なればこそである。
しげるくんの遺体は焼けてしまったのか、蒸発してしまったのかは知らねども、
想いを込めて作ったお弁当なればこそ、炭化して真っ黒であるにもかかわらず、
母親も一目見てしげるくんのお弁当だと判別できたのであろう。
しげるくんのお弁当の前では、原爆に涙する前に、
まず、この母の想いに涙すべきである。
昨日の悪意の話ではないが、
人様の愛、想い、善意を計る尺度、
いや、そんなものをモノサシで計るのは不届至極ではあるのだが、
あえて計るのならば 『 ギュウギュウ詰め 』 がひとつのキーワードなのである。
一枚の便箋にぎっしり書かれた手紙、
冬は寒かろうと送られて来た、衣類がぎっしり詰まった段ボール箱、
すばらしいではないか。
うちの鬼嫁の作るお弁当はお箸が折れるほどごはんが詰まっているのだ。
『 他人様の家のメシ 』 ではありえない事であろう。
吾輩には北海道に姉がいる。
とても綺麗な姉である。
姉から北海道名産 『 いくら 』 が送られて来た。
我家の大事な一人娘と同じほどの大きさの巨大な瓶に
ぎっしり詰まったイクラである。
ぎゅうぎゅう詰めのイクラ、
食っても食っても減らんぞ?
どうだ、うらやましかろ♪
Posted at 2007/10/23 16:01:04 | |
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