• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+
イイね!
2021年03月18日

そもそもフォードとマツダが資本提携したわけ 60年〜70年代の話

縁あって
「フォード」プローブに

乗っているのですが、
なぜマツダがフォードと1979年資本提携したのか?
なぜその相手がフォードだったのか?
そこに至るまでに何が要因だったのか
振り返りたいと思います。


〜Wikipediaから引用+追記

■1960年に日本政府は「貿易為替自由化計画大綱」を策定し、
 国際競争力の高まった産業から順次輸入を自由化する方針を示した。
 輸入自由化の後には、資本自由化も控え、
 自動車メーカー各社は自社競争力の強化に取り組んだ。
 そんな中、単独での生き残りが厳しいメーカーは合併・提携へと動き、
■1966年8月、ブリヂストン傘下のプリンス自動車工業は
 日産自動車と合併した。
 また同年10月には日野自動車とトヨタ自動車が業務提携を発表するなど、
 この後開放経済を前提とした業界再編が続き、
 最終的に身の振り方が定まらない中堅メーカーは
 本田技研工業(ホンダ)と東洋工業(マツダ)の2社となった。
■1961年、松田耕平が東洋工業副社長に就任する。

※松田耕平氏
 そして父の松田恒次社長が東洋工業の飛躍の切り札とし、

※松田恒次氏
 西独の自動車メーカーであるNSUから当時としては破格の
 2億8千万円の特許料を支払い技術導入したロータリーエンジンの責任者に、
 耕平が文系出身ながらおさまった。
■1963年には社内にRE研究部を設置し、初代研究部長には山本健一
(のち同社社長)が就任。

 NSUとの交渉の様子

 左から二番目山本健一氏 三番目松田耕平氏
■1967年5月、REを搭載したコスモスポーツの販売が開始される。
 高性能と静寂性を兼ね備えたREは”夢のエンジン”と脚光を浴び、
 東洋工業の企業イメージは向上。
 さらに販売増にも結び付き、翌1968年の生産台数はトヨタ自動車、
 日産自動車に次ぐ業界3位につけた。
 この状況を背景に1970年1月にはフォードと資本業務提携の交渉に入るが、
 その最中、松田恒次が急逝。
 松田耕平が社長に昇格し交渉は継続された。
 しかしNSUが東洋工業とフォードの資本提携は認められないと反対した上に、
 ニクソン・ショックも重なり交渉は頓挫。
■1972年3月に交渉は決裂し白紙還元に至った。
 松田耕平は、東洋工業はREがある限り将来にわたり自主独立路線を
 貫くことが可能でトヨタ、日産を追い抜くことも夢ではないと思慮していた。
 またREは、窒素酸化物(NOx)の排出も少なく、
 米国で実施されていた排ガス規制が日本においても実施されることが

※マスキー上院議員
 決定していた。
 当時、排ガス規制を達成する技術にメドをつけたのはREの実用化に
 成功した東洋工業と独自にCVCC(複合渦流調整燃焼方式)を開発した
 ホンダの2社しかなく、トヨタ、日産は無論のことゼネラルモーターズ、
 クライスラー、フォードの全米ビッグスリーも技術開発にあたっては
 手探りの状態であった。
 そうした折に耕平は、今がまさに好機でREの量産体制に入らなければ
 ならないとし、1971年春には大規模な設備増強に着手。
 設備資金、開発研究費に合わせて600億円を投じ、本社工場に
 隣接する宇品地区に新工場の建設へ向け踏み出した。
 その後もRE車はよく売れ、中でも対米輸出が好調で、
 1973年には米国向け輸出車は、11万台に達しその内、
 7〜8割をRE車が占めていた。
 しかしREを量産化するにあたっての技術が未熟で確立されておらず、
 特定の部品が予想以上に摩耗するため早急に取り換えなければならない
 事態となった。
 整備点検にあたるマツダの国内販売店は網羅的に整備されていたが、
 米国における販売店網は盤石な状態ではなかった。
 その対応策を講じていた1973年10月、第四次中東戦争が勃発し、
 第1次オイルショックに見舞われた。これを受け同業他社はいち早く
 減産体制を敷いたが、東洋工業はオイルショックによるモノ不足は
 一時的なもので、平時に帰せば車の購入は活発になる。
 そのために作りだめしなければならないとして大幅な増産体制を敷いた。
■1974年に米国環境保護庁(EPA)がRE車が普通のエンジンより20〜50%も
 燃料を食う燃費の悪い車であるとの調査結果を発表した。
 これが喧伝されると世間の関心が省エネルギーに向かっていたことから、
 売り行きはピタリと止み、国内外とも在庫は大幅に積み上がった。
 これによって1974年10月期決算では173億円の赤字を計上する事態となった。
 大幅赤字の事態を受けてメインバンクの住友銀行は、東洋工業が傘下に多くの
 下請け企業を抱え、また本社を置く広島を中心とした中国地方の経済に
 果たす役割の大きさを鑑み、東洋工業からの要請に応え、人材の派遣のほか
 緊急の融資を実施する方針を固めた。
 方針に基づき住友銀行は、本店事務管理部長であった花岡信平
(のち同行副頭取)を、住友信託銀行は法人信託部長を東洋工業へ派遣し、
 両人は1975年1月の株主総会で取締役に選出された。
 以後、東洋工業の再建は住友銀行の主導で進められることとなった。
 また住友銀行は、内外に東洋工業の支援を強力に推進していくことを周知
 するため、前頭取の浅井孝二を相談役に就任させ、広島出身で
 日本商工会議所会頭の永野重雄を最高顧問として招聘。
 更に大阪本店に東洋工業支援の専担部署として融資第二部を新設した。
 一企業支援のための専任部門を設置したことは住友銀行において 
 初の試みであり、管掌役員には副頭取であった磯田一郎が就き、

 部長には常務本店営業部長であった巽外夫が就任した。
 そして行内から選抜された精鋭が不眠不休で経営実態の洗い出しに
 取り掛かったところ、
 米国市場もさることながら国内の有力な販売店による融通手形の乱発が発覚。
 その処理には難儀したと巽は語っている。
 その間にも東洋工業の業績はさらに悪化していた。
■1976年1月には難局打開のため、

 住友銀行は村井勉常務(のち同行副頭取、
 アサヒビール社長、JR西日本会長)を副社長として派遣した。
 さらに住友グループ以外の銀行、商社にも役員の派遣を要請し、
 万全の支援体制を構築した。
 副社長として着任した村井は、経営の刷新と大規模な組織改革ならびに
 社員教育の必要性を痛感する。
 また同時期に巽は、大幅な合理化を実施するにあたって知恵を借りようと
 小松製作所を訪ね、河合良一社長から合理化策の指導を受けた。
 その教えを実践するため同年5月、東洋工業本社にコントロール部を新設。
 責任者には後に社長となる山崎芳樹を起用した。
 住友銀行は東洋工業の将来にわたるグランドデザインの策定を急いだが、
 単独での生き残り不可能であるとの結論に至り、開発したREの周辺特許を
 公開し、それを武器に他社との交渉に入ることとした。
 これに基づき、磯田が花井正八や、豊田章一郎などトヨタ自動車首脳と
 断続的に会談したが、色よい返事を得ることが出来なかった。
 その後通商産業省が日産自動車に東洋工業との提携を持ち掛けたが、
 日産側は東洋工業の財務内容に懸念を抱き、提携は成就には至らなかった。
 このほか住友銀行は三菱自動車との交渉に入るが、
 磯田が住友銀行の意向を通産省に伝えると、
 「業務提携とはいえ、既に外資(クライスラー)と提携している企業との
 結びつきは好ましくない」との応答があり、
 三菱との提携も流れた。
 この間、松田耕平社長は独自にゼネラルモーターズ(GM)との交渉に
 動いたが、GMとの提携は米国の独占禁止法上の問題から無理との
 調査結果が住友銀行の調査でも明らかとなり、これも沙汰止みとなった。
 トヨタ、日産、三菱等、国内自動車会社との提携は困難であると
 認識した時点で、住友銀行は外資との提携を企図し、
 過去に資本業務提携は頓挫したものの、1971年6月、業務提携を結び
 ボンネットトラックを輸出していたフォードを新たな提携先として選択し、
 1977年7月に前月末に頭取に昇格した磯田が
 「東洋工業はフォードとの提携強化を望み、その際には住友銀行も
 主力銀行として全面的に支援する」のヘンリー・フォード2世会長宛の
 親書をしたため、巽外夫に託した。
 親書を託された巽は渡米。フォードの海外事業担当であった
 ドナルド・ピーターセン副社長やフィリップ・コールドウィル執行副社長ら
 と交渉を行った。
 また巽は米国の独占禁止法抵触問題で交渉が滞った際には、
 ワシントンD.C.に出向き、米国連邦取引委員会(FTC)委員と個別に
 面会し説き伏せ、また流暢とはいえない英語を駆使して自ら証言台に
 立つなど奔走した。
 フォードとの交渉の渦中、村井東洋工業副社長は、松田耕平が
 社長の座から退くことなしに会社の本格的な再建は進まないと思慮し、
 辞任を迫った。また永野重雄からも辞任を促され、業績不振の責任を取る形で、
 1977年12月に松田耕平は代表権のない取締役会長に退き、
 後継には村井の推挙によって山崎芳樹専務が昇格した。
 これにより55年以上続いた松田家による同族経営が終焉した。
 一方、傘下のプロ野球球団・広島東洋カープに対しては、
 東洋工業は筆頭株主として資本関係を継続したが、企業としての
 経営関与が弱められ、事実上の松田家による独立経営となった。
 村井は新経営体制の始動に際して、集団指導体制の確立と大幅な権限委譲を
 目的に、常務会、社長室を設けたほか、研究開発体制も改編し
 車種別責任体制を導入した。
 また人材育成の観点から工場の近接地に、大規模な研修センターの建設を提案。
 その完成したセンターでは新人や中堅社員に加えて販売店社員の社員教育も
 実施させた。このほか組合の猛反発を受けながら約5千人の社員を
 国内の販売店に2年間にわたりセールスマンとして出向させる施策を断行した。
 さらに自らも先頭に立ち、マツダの国内販売店を回り、地方に赴いた時には
 地方銀行を訪れ、旧知の頭取に車の購入を懇請し、
 東京の法人が弱いとわかれば上場企業巡りに勤しんだ。
■1978年に入り、フォードと東洋工業の接触は頻繁となり、
 同年2月にはフォードが公認会計士を含む財務担当者を中心とする
 プロジェクトチームを編成。メンバーは東洋工業本社へ派遣され、
 約1ヵ月広島に滞在し、経営実態の洗い出しを行い、グループ全体における
 財務等の全貌の解明に努めた。
■1978年3月、村井副社長から「ポルシェの半額のスポーツカーを作れ」と
 指示を受けたRE研究部が、RE車であるサバンナRX-7を完成させ、発売した。
 同車はアメリカ市場にも投入され、世界で大ヒットとなる。
■1979年明けと共に交渉は大詰めを迎え、フォードの資本参加の方法が
 主題として議論された。そこではフォードの出資における負担軽減を
 図る術として、住友銀行融資第二部次長の発案による東洋工業が
 フォードの在日子会社のフォード・インダストリーを吸収合併すると
 いう方法が創出された。
 これによって実質休眠会社である同社の資産を活用し、フォードが
 米国から持ち出す資金は絞り込むことが出来た。
 同年2月、住友銀行の米国現地法人であった加州住友銀行の
 新頭取就任パーティーに出席することを名目に磯田は渡米し、
 その合間を縫ってディアボーンのフォード本社を訪れ、
 フォード2世と会談した。
 このトップ会談によってフォードと東洋工業の資本提携は事実上成立した。
■1979年5月18日、提携に関するスクープ記事が掲載されることが判明したため、
 予定期日より早めてフォードが東洋工業の株式20%を購入する可能性
 について交渉していると発表し、翌日に東洋工業が緊急役員会を開催した。
 その後記者会見を開き、山崎社長が既にフォードと資本提携することで
 合意しており、米国FTCに届出書を提出したと発表した。
■1979年11月1日に、両社の提携はフォードが25%出資することで
 スタートした。
■1980年1月、村井副社長が住友銀行に復帰し、

※左:山崎芳樹氏   右:岩澤正ニ氏
 代わって岩澤正二副頭取が
 東洋工業会長として派遣された。
 そして20代の技術者らが中心になって具現化したハッチバック式の
 「ファミリアXG」が発売された。斬新なデザインと圧倒的な燃費の良さに
 加えて、手頃な価格が話題を呼び、当時の若者らに圧倒的に支持され
 ヒットし、その年の第1回日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。
■1982年に発売された新型カペラも大ヒット。
 同車も第3回日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。
 これら車種の販売が好調に推移したことや、フォードとの資本提携が下支え
 となり、東洋工業の業績は回復。
 7期連続で増収増益を樹立し、勢いに乗って米国で単独での車の現地生産を
 開始した。



このような経緯からマツダとフォードは資本提携に至るわけですが、
長年の同族経営から脱却するというターニングポイントは必然だったとはいえ
マツダにとっては大きなエポックメイクであり、結果的に倒産という危機を免れ
80年代の飛躍に繋がったことはこれ以上ない経験といえます。

ふと思ったのは、本田宗一郎氏に藤沢武夫氏がいたように
マツダの中では松田恒次氏に対する参謀的な立ち位置の方が誰かなと
考えた時、それは松田耕平氏だったのかもしれないなと。
※村尾時之助氏も重要な方です。
ただ松田耕平氏は恒次氏の息子であり同族経営では自然かもしれませんが
マツダほどの大企業になると、一線を画した存在の相手の方が
よかったかもしれません。....っていう勝手な想像ですが。

また1996年のフォード傘下入りまで1979年から17年しか経過していないことを
90年初頭の業績悪化も凄まじいものだったのですね。
まさに激動です。
この傘下入りは1979年の資本提携がなかったら....と思うとなかなか怖い結果を
想像してしまいます。
そんな激動のマツダ&フォードの関係の中で生まれた
フォードプローブを所有するということは生粋のマツダ車に乗る以上に
エキサイティングなことであり、この素晴らしいコラボレーションを果たした
プローブを大切にしていこうと思います。


ブログ一覧 | マツダ全般 雑学備忘録 | 日記
Posted at 2021/03/18 10:40:59

イイね!0件



今、あなたにおすすめ

ブログ人気記事

ヘビ🐍ではないが
blues juniorsさん

本日のその後のミラー番♬
ブクチャンさん

今の車は長持ち
giantc2さん

GWを地元(オホーツク)で過ごす…
なみじさん

真っ黄なmacchinaでマキナへ
SNJ_Uさん

桜餅?
ターボ2018さん

この記事へのコメント

2021年3月18日 11:03
必然か偶然かは分かりませんが、マツダとフォードの国際結婚のお陰で私のテルスターTX5も存在しています。有り難いことです。
コメントへの返答
2021年3月18日 11:11
こんにちは。
ほんとその通りですね。
マツダとフォードの親和性、相性が良かったのでしょうね。

プロフィール

「残念ですね」
何シテル?   12/06 19:56
■「変わってるね」が褒め言葉。 ■ インスタはじめました。 miyama393   プロフィールのQRでもどうぞ。
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/5 >>

    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

リンク・クリップ

Yaita Saita 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2011/01/28 21:38:58
 

愛車一覧

トヨタ アクア トヨタ アクア
■2020年12月~。■S ビジネスパッケージ。■社有車。■すぐノーマルに戻せるカスタマ ...
フォード プローブ フォード プローブ
■2020年3月〜。■2500GT。 ■ダリハン、マツダKLのV6、114.3の5穴 ■ ...
トヨタ プリウスα トヨタ プリウスα
■2016年8月~。■S。■嫁さん専用。■ふたたびハイブリッドに戻りました。 20プリウ ...
マツダ プレマシー マツダ プレマシー
■2015年9月~2016年7月。■20Z。■嫁さん専用。■こだわりのアイシーブルー。■ ...

過去のブログ

2023年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2022年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2021年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2020年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2019年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2016年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2015年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2014年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2013年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2011年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2010年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2008年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2007年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
ヘルプ利用規約サイトマップ

あなたの愛車、今いくら?

複数社の査定額を比較して愛車の最高額を調べよう!

あなたの愛車、今いくら?
メーカー
モデル
年式
走行距離(km)
© LY Corporation