2009年12月01日
元富士重工ワークスドライバー/監督であり、老舗クラブである「上州オートクラブ」会長の小関典幸氏が、昨日お亡くなりになったそうです。
氏は古くからのスバリストにとっては、日産での高橋国光やマツダでの片山義美同様神様のような存在で、レースではてんとう虫からff-1まで一貫してスバル車でご活躍され、日本グランプリで駆った手作りフォーミュラ「上州F3国定」も一部のマニアの間では有名です。
その後もレオーネでラリーに度々参加され、STI設立前のスバルモータースポーツの中心人物としてご活躍されました。
近代国内モータースポーツの黎明期を深く知る方が、また一人お亡くなりになりました。
ご冥福をお祈り致します。
Posted at 2009/12/01 06:00:37 | |
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往年のレーサー | 日記
2009年11月12日
1967年のF1ワールドチャンピオンであるニュージーランド人のデニス・ハルムが、1992年、「バサースト1000」というオーストラリアでの伝統的な耐久レースの走行中に心臓発作で亡くなったという小さい記事を読んだ時に、まだ現役で走り続けていたのかという驚きと、深い悲しみに包まれました。
笑顔の似合う愛嬌のある顔でどこかの農夫のようですが、レースとなると非常に速いという印象があります。フォーミュラだけではなく、マクラーレンを駆ったカンナムでも大活躍しました。
実は、初期のグループA(JTC)にもスポットでスープラだったかな?に乗ったことがあります。
ワッペン一つない真っ白のレーシングスーツのポケットに両手を突っ込み富士のパドックに立つ、60年代当時とあまり変わらないような風貌。若い時からかなりの老け顔だったせいでしょう。
死亡を伝える当時の記事には、走行中に激しい発作に襲われたものの、何とかマシンをコース外の芝生に導いたことに対し、さすがフルムであった・・というようなことが書かれていたと思います。
メカニックをしながらキャリアをスタートし、29歳でやっと隣国オーストラリアの英雄ジャック・ブラバムのチームからF1デビュー。その後王座を取り、ブラバムと袂を分かちマクラーレンへ。
シビアなレースを止めてからも、レースを心から愛し、戦い続けることを止めなかった56歳の彼は、サーキットで亡くなり、生涯現役を全うしました。
映像としてはずっと見れなかったんですが、何とか探せました。
Posted at 2009/11/12 17:55:43 | |
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往年のレーサー | 日記
2009年11月05日
ずっと前にクラブの掲示板に書いた話しなんですが、「スタン・フォックス」氏のことを書きたいと思います。
大変魅力的な方なんでしょうが、これから書くこと以外の情報は知りません。逆にご教授下さるとありがたいくらいです。
レース中のアクシデント映像でかなり衝撃的だったものは、FDでの長屋宏和やCARTでのグレッグ・ムーア等色々ありますが、それらは後からyoutube等で見たものです。
もう十数年前になると思いますが、フォックスのアクシデントは実際にテレビ中継を視聴してて目の当たりにし、よってその衝撃度は凄まじかった感があります。
「スタン・フォックス」は40代のアメリカのダートオーバルのドライバーで、彼の地では有名なトップレーサーの一人だそうです。
ですが、年に一回だけ、戦う場所をダートから舗装路に移すのです。その場所は、聖地「インディアナポリスモータースピードウェイ」。
そうです。世界三大レースの一つにして、世界最大の観客動員数を誇る「インディ500」に参戦するためです。
たった年に一回だけにも関わらず、マシンも走り方も速度域もミジェットカーとはかなり隔たりがあるマシンを駆って易々と予選を突破(当時の500は予選落ちが大量に出ていました)する彼は、この年は予選8位とかなりの上位に着けていました。
アンドレッテイ親子やレイホール、アンサーやフィッティパルディ等シリーズを戦う猛者の中に混じるフォックスの名前。俄然、注目してしまいます。
スタートしてすぐに、フォックスは他の一台と絡んで大クラッシュ。マシンは宙を舞いバラバラに。ノーズももげ、両足が露になっていました。ピクリとも動かない彼。まず間違いなく即死であろうと思いました。レースが再開され見入りながらも、生中継ではなかったのによくぞカットしなかったものだと思っていたくらいです。
レース中にフォックスに関する何らかのアナウンスが流れるものと思ってましたが、何もなく番組終了。その後発売されたレース雑誌の記事にもこのアクシデントのことは載りましたが、その後のフォックスの容態等を知らせる内容は、何故か皆無だったと思います。
何となくもやもやした気分でいましたが、数年が過ぎ、次第にフォックスのアクシデントのことも忘れかけていた数年前、実は、あのアクシデントからフォックスは生還していたことを知りました。ですが、その記事は、フォックスの死亡記事から知ったのです。
?? 何のとこか、咄嗟にはわからないかも知れません。
“インディ500での凄まじいアクシデントで二週間もの昏睡状態から生還した元レーサーのスタン・フォックスが、病気で亡くなった”というような小さい記事でした。記憶が曖昧です。もしかしたら事故だったかもしれません。
あれほどのアクシデントからフォックスが生還していたんだなぁと知って嬉しかった反面、もうフォックスがこの世からいないのに寂しさを覚えました。不思議な感情でした。
かつてアメリカに、「スタン・フォックス」というダートオーバルのトップドライバーであり、インディ500のトップコンデンダーでもあるレーシングドライバーがおりました・・・
(敬称略)
Posted at 2009/11/05 08:30:57 | |
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往年のレーサー | 日記
2009年09月04日
60年代にミニを駆って活躍した方というと、“オリジナル”ZFCC会長「伊能祥光」氏や、パリダカでお馴染み「菅原義正」氏、著名なカメラマンでもあった「早崎治」氏を連想される方が多いかと思いますが、次点になるかもしれませんが、著名なイラストレーターでもあった「山下勇三」氏を思い出される方も多いのではないでしょうか。
70年代初期まで長きに渡ってミニで戦い続け、その後はフォーミュラの世界に転身。80年代初頭まで活動されました。
77年の筑波、FL500ですね。
車体のカラーリングに合わせたヘルメットの色に、芸術家としてのセンスを感じます。
当時のFL500は、ラップは2秒くらいだったと思います。意外と画質がいいですね。
それにしても、今と大分見える景色が違いますね~。コースレイアウトは全く変わってませんが。
Posted at 2009/09/04 00:21:20 | |
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往年のレーサー | 日記
2009年09月02日
グレアム(グラハムといった方が通りはいいでしょうが)・ヒルは、私が同じヘルメットのデザインにしているほど大ファンでして、大変尊敬しているレーシングドライバーです。
世界三大レース(モナコGP・インディ500・ル・マン24時間)を制している唯一の存在で、マリオ・アンドレッティがフォーミュラ引退後も、残ったル・マンをどうしても制したいと還暦近くまで度々参戦していたのは有名な話です。
彼は「50年代から70年代を知る男」です。
苦労人の彼は、最初はレースメカニックとして働き、58年に29歳でF1デビュー。75年に46歳で引退するまで足掛け17年、175戦(非選手権除く)を戦いました。この最多参戦記録は、その後10年以上破られませんでした。
50年代のずんぐりむっくりしたフロントエンジンの時代から、ミッドシップ革命後の60年代の“葉巻”の時代を経て、前後ウイングが付き、かたちもかなり洗練されてきた70年代半ばまでを、彼は全力で駆け抜けました。
39秒:
チームロータスでチームメイトであったジム・クラークの死亡事故現場で厳しい表情を見せるヒル。
49秒:
69年ワトキンズグレンでの有名な事故。マシンから投げ出され、ぴくりとも動かないヒルに観衆は凍りつく。重症だったが一命を取り止める。
1分50秒:
息子のデーモンが現役当時にヘルメットと同じデザインのキャップがありましたが、これって当時からあったの~!?
3分12秒:
走行後に手渡すドリンクも、ビン入りってのが時代ですね~。
3分43~57秒:
これは73年モナコGPの予選の映像ですね。
この年から「エンバシーレーシングwithグレアム・ヒル」というチームを結成した彼は、過去に5回も制した得意のモナコでブービーに沈みます。69年の事故以来、遂に優勝はおろか表彰台にも立つことは叶わなかった彼は、きっと焦燥感を募らせていたことでしょう。「こんなに頑張ってるのに、どうしてこんなに遅いんだ・・」ヘルメットを脱いだ彼の表情がそう言っているようです。
このちょうど2年後の75年モナコGPで予選落ちを喫し、46歳の彼はヘルメットを脱ぐ決心をします。晩年の成績不振は、怪我の影響と、年齢的なものと、マシンの戦闘力不足が絡み合ったものでしょう。
死と隣り合わせだった危険な時代を生き延びた彼が、引退してすぐに飛行機事故であっけなく亡くなってしまったというのは皮肉というしかありません。
もし存命ならば今年80歳。
大分薄くなった口ひげを蓄え、自身最後のマシンであった“ヒルGH1”に乗り、グッドウッドのヒルクライムコースを手を振りながら走るヒルを見たかった・・・。
Posted at 2009/09/02 22:37:28 | |
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往年のレーサー | 日記