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勝とう常時のブログ一覧

2009年03月29日 イイね!

「55年振り!」じゃあ、55年前に・・

「デビューレースでのワンツーフィニッシュは55年振りの快挙です!」と実況が声を張り上げる・・・。

マニアな方はすぐに、“シルバーアロー”メルセデスW196のランスでの一戦を思い浮かべることでしょう。
50年代のまさに生死と隣り合わせだったF1において、私が一番好きなマシンはそのW196です。

有名なショット。1954フランスGP・スターティンググリッド。
のどかな田園風景の中にある公道を使った、ぱっと見ただの三角形の超高速サーキット、ランス。
先頭に、明らかに他車と違う“ストリームライナー”ボディ(高速サーキット仕様)を纏った二台が並んでいるその写真を初めて見たのはいつだったか・・・とっても衝撃的で、電気が走った様な気がしました。
「史上最高のレーシングドライバーは?」という問いに必ず挙がる候補の一人であるファン・マヌエル・ファンジオと、戦前に活躍したカール・クリンクがワンツーの立役者ですが、その後クリンクは翌年チームに加入したスターリング・モスの陰にも隠れ、最強チームにいながら一勝も出来ずF1を引退しました。
数年前に、お亡くなりになったという記事がほんのちょこっとだけ載り、残念に思った記憶があります。

2009オーストラリアGPのチェッカー後に、ファンジオとクリンク、そしてW196についてちょっと思いを馳せましたので、ブログに書きました。



Posted at 2009/03/29 19:19:59 | コメント(1) | トラックバック(0) | 往年のレーサー | 日記
2009年03月13日 イイね!

「A.J.フォイト」のファンです

アメリカ人で好きなレーサーはた~くさんいるのですが、昔から「A.J.フォイト」って凄く好きなんですよね~。
そのレーサーらしくない巨漢、いかにもアメリカのおっさんという風貌からは速さを感じさせないんですが、アメリカで最も成功したレーサーの一人です。
ドメスティックな印象を持ちますが、67年にル・マンで勝ったのは金字塔ですね。

私がモータースポーツに興味を持ち始めた時は既にキャリアの晩年だったんですが、シリーズ戦にフルタイムで出なくても、インディ500にだけは毎年必ず出続けて、“もう一回勝つまでは引退出来ない”といった気迫のようなものを感じました。結局、94年に59歳で引退しましたが、専門誌にちっちゃく載った引退の記事を見て、とっても悲しかったのを覚えています。



この画像は82年のインディ500なんですが、3分38秒から5分までを見て下さい。笑えます。解説者も笑ってます。
素直に工具を貸すメカニックの姿にも笑いを誘われます。

Posted at 2009/03/13 01:50:39 | コメント(3) | トラックバック(0) | 往年のレーサー | 日記
2009年02月17日 イイね!

山西喜三夫さんとの思い出 最終章

山西喜三夫さんとの思い出 最終章「もう一度コンテッサクーペでレースをやることにしたんだけど、程度は良くないんだけどベース車を提供してもらえることになって、だけどタイヤがなくて場所から引っ張り出せないんですよ。コンテッサに合うタイヤを貸してもらえないですかね。」
私は目を丸くしました。もう一度レースって・・。

びっくりした理由は、一つは年齢のことです。66歳。とうに還暦を過ぎてらっしゃいます。
また、かつてファクトリードライバーであった山西さんが、有力ショップやクラブの後ろ盾もなく、これが全く個人的なプロジェクトであるというのもびっくりしました。
国さんが自費でハコスカレーシングを作って、細谷キャプテンが自費でヨタハチレーシングを作ってレースに出る、ということは考えられません・・。

SHCCミーティングでコンテッサ900レーシングでデモランをし、山西さんの闘争心に火が着いたのです。数十年ぶりに、戦う魂が呼び戻されたのでしょう。
これは推測なんですが、カーショップをお辞めになり、クルマとは関係のないお仕事を小さくなさっていた山西さんが、筋金入りの“クルマ好き”として生まれて、そのクルマ好き人生の集大成として、最後に元気に走れる内にレースフィールドにカムバックしたい・・そう思われたのではないでしょうか。

全面的な応援を約束しました。
近所に場所を確保し、そこで知り合いのメカの方とご自分も含めて、作業を進めていくとのことでした。
メカの方もノウハウを学びに、山西さんに伴われてあるコンテッサマイスターの元に来られたりもしました。
この件はコンテッサクラブ内では周知となり、次回のクラブミーティングでは山西さんをゲストに、日野プロトにまつわるお話しの特別講演も予定されていました。が・・

体調を悪くされて入院されてしまい、ミーティングには行けなくなったという報が入りました。また、夏のSHCCミーティングにもご招待しようと思ってましたが、それもなくなりました。
その後も何度か電話でお話しをしました。声の質は変わってませんでしたが、どうやら症状はあまり芳しくないようです。
手術をされるとの話しがありました。
手術後、暫くしてから電話をかけました。手術は成功し、一ヵ月後に退院の予定とのことです。ちょうどその直後に冬のSHCCミーティングがあり、体調が良ければ是非ともご参加頂きたい旨を伝えると、「行きたいなぁ・・」と本当にしみじみと話していたのが妙に心に残りました。
冬は、山西さんと双璧を成した元日野ファクトリドライバー「塩澤勝臣」さんもゲストとしての来場を予定しており(結果的には駄目でした)、何十年振りかのツーショットをこちらも楽しみにしておりました。

ある日、電話がなりました。山西さんからの着信です。出ますと、奥様でした。山西さんの訃報でした。
退院の話しが出てたのでショックでした。急変したのでしょうか。
出来うれば、コンテッサを駆りサーキットの全コーナーでカウンターを当てて走る元ファクトリードライバーの走りが見たかった。時間が少し、足りませんでした。
ほんの途中まで製作されていたコンテッサは、主亡き後、某オークションに出品され、どなたかが落札されたようです。

終わり


[山西喜三夫]
1942年2月27日生まれ。東京都出身。
63年の第一回日本グランプリに、コンテッサ900とジャガーEタイプ(日本上陸一号車)を駆ってレースデビュー。塩澤進午率いる日本オートクラブ(NAC)に所属し、事実上の日野ワークスのエースとして60年代半ばに活躍。66年の第三回日本グランプリGTレースでは、国内初のポルシェ911でのレースで3位。コンテッサクーペに乗り66年全日本ツーリング選手権2位。この年8月の「全日本ドライバー富士」ではミッドシップの日野プロト(出走はこの一戦のみ)を駆り、ポルシェ・カレラ6/デイトナ・コブラに次ぐ3位となる。68年~72年にかけてストックカーレースで活躍。
Posted at 2009/02/17 13:38:22 | コメント(2) | トラックバック(0) | 往年のレーサー | 日記
2009年02月09日 イイね!

山西喜三夫さんとの思い出④

その日は当時の貴重なお話しや、SHCCミーティングの打ち合わせを1時間半ほどしました。私は緊張しっぱなしで、ドリンクバーを注文したのに一杯も飲まなかった程です。
山西さんは、年下の私にもとても丁寧で穏やかな応対で、私の方は兎に角恐縮しきりでした。
大磯での再開を約束し、山西さんは駐車場にある派手なワンボックスに奥様と乗り、山梨へと帰って行きました。


[そのSHCCミーティングでの内容は、その時のブログを参照して下さい(手抜きです)。]


SHCCミーティングが終わりほどなく、コンテッサ900でのデモランを本当に楽しそうに乗ってらした山西さんから連絡がありました。
何でも、相談があるとのことです・・。

続く







Posted at 2009/02/09 19:45:16 | コメント(2) | トラックバック(0) | 往年のレーサー | 日記
2009年02月01日 イイね!

山西喜三夫さんとの思い出③

それから幾日か過ぎ、本当に山西さんから携帯に電話がかかってきました。すぐに出て、お会いする日時を合わせました。「楽しみにしてます」とおっしゃって下さいました。
約束の日。スーツに着替え、時間に遅れないように早めに家を出た私の元に、山西さんから電話がかかってきました。
「本当にごめんなさい。ちょっとどうしてもの用事が入ってしまったんで、延期させてもらっていいですか?」
会社をいくつかお持ちのようですし、かなりお忙しいのが察せられました。
「もちろん構いませんよ。」「では、都合のいい日をこちらからまたご連絡します。すいませんね。」
しかしその後、暫く経っても山西さんからの連絡はなく、かなりお仕事が忙しいんだろうなぁと思っていたのでこちらからも連絡しにくく、忘れてしまったのかもしれないとも思いました。いつしかそのまま、大分時間が過ぎ去っていきました・・。

07年の夏頃。
その年12月に行われる「第38回SHCCミーティング」のゲスト招聘に関して、競技長のA氏と話していました。
数年前からほぼ毎回ゲストとして来て頂けるようになった見崎清志さんの他に、どなたかこちらからお声をかけれるような知己のある方はいないか・・。
私の脳裏に山西さんがパッと浮かびました。是非ゲストとしてご招待したい。デモランでコンテッサに乗って頂きたい・・。
こちらから電話するのは初めてです。緊張します。
コールしながらも、引退後はサーキットやカーイベントに全くといっていいほど顔を出されていないと思われる山西さんが、このお願いを受けてくれるかが心配です。
電話に出られました。再度初めてお話しするかのようにご挨拶すると、ちゃんと私のことを覚えて下さってました。
すぐにイベントの概要を説明し、ゲスト参加の依頼をしました。最初は何となく、うまく話が飲み込めなかったご様子で、説明にちょっと苦労しましたが、飲み込むと「よろしいですよ」といともあっさりとOKを頂けました。
イベント前に顔合わせということで、お会いするアポを取りました。その時知ったのですが、クルマ屋さんは辞めてしまい、今は山梨に住みそこでお仕事もしているとのことでした。ただ、たまに横浜にも行ってるとのことで、その時を見計らってアポを取りました。

ファミレスが待ち合わせ場所でした。アポが取れた日時は、結局仕事だったのでちょっと抜け出して来ました。
駐車場に旧いワンボックスが止まってました。旧めのクルマ関連のステッカーがべたべた無造作に貼られています。山西さんが乗って来られたクルマだろうか?助手席横に立って煙草を吸っている中年の女性。奥さんではないかと思いました。
見回しても山西さんらしきお姿は見られませんでした。まだ来てないか、既に店内だと思い、急いでドアを開け店内に入ると、がら空きの店内に一人ポツンと座る男性が。
私に目をやると、すぐに立ち上がりもの凄く丁寧に「勝とうさんですね。初めまして。山西と申します」と深々と頭を下げられました。私も慌ててご挨拶し、先に着けなかった非礼を詫びました。
目の前にいる元レーシングドライバー山西喜三夫選手は、ラフな格好、髪は真っ白で、幾分元気がないように感じました。ただ、がっしりとした体つき、ちょっと可愛らしさを感じさせるお顔も、写真でしか見たことのない山西さんそのものでした。

続く



Posted at 2009/02/01 10:19:58 | コメント(1) | トラックバック(0) | 往年のレーサー | 日記

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何シテル?   02/21 19:10
2007年よりみんカラを始めて、2019年途中で飽きてしまいブログを休止しておりましたが、ぼちぼちマイペースではありますが、2022年より再開していきます。se...
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