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勝とう常時のブログ一覧

2008年01月29日 イイね!

“キンコ~さん”との思い出②

続き

岡本さんは、GCが終焉を迎えた後も、十勝24時間レースにスポット参戦したりとちょっとの間はたま~にレースに参戦しておりましたが、90年代半ばからはとんと、どういう活動をなさっているか分からない状況でした。
2000年に発刊された、「むかし、狼が走った(井出耕也著・双葉社)」というノンフィクションの中に、著者が最近の岡本さんにインタビューしている記事がありました。
本を読んで、第一線を退かれてからも、モータースポーツへの深い愛情と情熱の火がまだ消えていないことが分かりました。ヘルメスは場所を近くに移転し、まだ営業されているとのことでした。
そしていつか、来店しお会いしてみたいという気持ちが、当然の如く沸き起こりました。

時は2005年の春だったかと思います。
静岡のYモータースに、コンテッサのレストアに通い始めて1年半位。
休日のその日も、静岡に向けてくるまを走らせながらふと、脳裏に去来したあること・・
「ヘルメスって、確かYモータースと同じ静岡市内だったような・・」
そう、実はその日帰宅してから104で詳しい住所を調べると、通い慣れたYモータースと、くるまで7~8分というとても近い距離にあったのでした。
「これは行くしかない!」
次のレストア作業日の前に時間を作って、ヘルメスにアポなしで行ってみようと決め、ちょっと道に迷いながらも、川沿いの、反対側にタミヤのラジコンコースがあるヘルメスに着くことが出来ました。
時間は朝の9時くらい。
住宅街の中の、こじんまりとした小さなお店です。2階部分が住居のようです。正面のガラスケースの中には、レースのトロフィーやポスターが飾ってあります。
ガラス戸には流れるような文体で「ヘルメス」とあり、戸は開け放たれていました。付近に人影はなく、とても静かです。
もう開店しているのか?ちょっと早かったかな~と恐る恐る店内を覗き込むと、狭い店内の奥に、奥様と思われる女性が掃除をしていました。
こちらを見て、「何でしょう?」と話しかけられ、もう開店しているかを尋ねると、何と、今はお店は休業中とのお返事でした。
それでは失礼するしかないかとお詫びして帰ろうとすると、「どちらから来られたんですか?」と問われました。
そこで、実は岡本金幸さんの大ファンで、一度ヘルメスに行ってコーヒーでも飲みながら、色々とレースのお話しを伺いたかったんですと伝えると、「あ~そういうことですか。じゃあ、上にいるんで呼びますよ」と明るくおっしゃられ、階段の下から、「お父さ~ん!お話ししたいっていうお客さんよ~!」と呼ばれますと、ほどなく階段を降りて来る音が聞こえ、私の目の前に現れたのは、写真でしか見たことがない、89年のGC最終戦の時とほとんど変わらない風貌、頭がきれいにはげ、身長は150ちょっとと小柄の、岡本金幸氏に間違いありませんでした。

更に続く・・・



Posted at 2008/01/29 22:37:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 往年のレーサー | 日記
2008年01月28日 イイね!

“キンコ~さん”との思い出①

前のブログで田中健二郎さんがお亡くなりなったことを書きましたが、その訃報を聞いて、一昨年にお亡くなりになった岡本金幸さんのことを何となく思い出しました。

タナケンが60年代を先頭グループで突っ走って注目を浴び続け、70年代に入ってすぐにスパッと引退したのに対して、“キンコ~さん”こと岡本さんはその対極と言ってもよく、GC(グラチャン)をメインに70年代から80年代を常に下位グループ(というかほとんどどべ)で、それでも地道に闘い続けてきた方です。
彼はコアなモータースポーツファンには良く知られた存在でしたが、ご存知ない方に簡単にご説明します。

静岡市在住で、「ヘルメス」という屋号の喫茶店のマスターが本職ですが、自ら独学でマシンを製作し、GC開幕年の71年から終焉を迎える89年までずっとオリジナルマシンで参戦しました。
本職の合間を縫って裏のガレージにこもり、常に資金面で厳しい状況にありながらも、“オリジナル”のマシンを製作しそれで参戦することに強いこだわりを持っておられました。
71年当時のGC参戦ドライバーの中で38歳と最年長。89年のGC最終戦で56歳と最年長。ということは、最初から最後まで最年長ドライバーだったということです。
彼はGCでは常に最下位近辺を走り、優勝はおろか表彰台すら上ったことはありません。ですが、他の参戦ドライバーやレース関係者,オフィシャル,観客まで、サーキットにいる全員が岡本さんを尊敬していました。
彼は、自ら製作したマシンを自らトラックに積み富士まで運転していき、降ろしてメンテをしてそれからレースに挑み、終ればまたご自分でマシンをトラックに積み、ヘルメスに着いたら降ろしてガレージに戻し、次のレースまでにマシンをああすれば速くなるか、それともこうしてみようかと、本業の傍らそれは、19年間続きました。
星野一義や長谷見昌弘や中嶋悟と同じラップで走ることは、例え同じマシンを与えられても岡本さんには無理だったでしょう。ですが、岡本さんと同じことをやれと言われても、星野も長谷見も中嶋も、ついでにシューマッハでも出来ません。サーキットにいる人達は、そのことを良く分かっていたのです。

名著「日本モーターレース史(桂木洋二著・山海堂)」のレーシングカーコンストラクターの一覧の中に、「コジマ」「シグマ」「ノバ」「ベルコ」らと並んで、「オカモト」があります。
「ローラ」がエリック・ブロードレイ,「ロータス」がコーリン・チャップマン,「シェブロン」がデレック・ベネット,そして「オカモト」が岡本金幸です。
彼はレーシングドライバーであり、エンジニアであり、メカニックであり、トラックの運転もし、レーシングカーコンストラクター「オカモト」の代表兼設計・製作担当者です。

続く・・・
Posted at 2008/01/28 23:06:24 | コメント(1) | トラックバック(0) | 往年のレーサー | 日記
2008年01月22日 イイね!

“レースの神様”タナケン逝く・・

60年代の国内モータースポーツ黎明期の第一人者である田中健二郎氏が、先月お亡くなりになりました。享年73。

日本の近代レースシーンの始まりである「第一回日本グランプリ」から、既に45年が経とうとしています。
仮に、当時レースに参加された方で30歳だった方は、現在75歳になります。お元気な方もいれば、そうでない方、すでに他界された方もいらっしゃるでしょう。
第二次世界大戦に実際に従軍された方々も、戦後63年が経過し、直接貴重なお話しを伺えるのも残念ながらあまり時間がないかと思います。
それと同様に、60年代の黎明期、四輪に関してほとんどの方が“初心者”であった時代に、サーキットで戦うことを選んだサムライたちの先頭を切っていたタナケン死去の訃報を聞いて、大変残念な気持ちと、ある種の不思議な危機感のようなものも沸き起こってきました・・・。
Posted at 2008/01/22 22:41:05 | コメント(2) | トラックバック(0) | 往年のレーサー | 日記

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「[整備] #ロードスター 購入後初のギア・デフオイル交換 https://minkara.carview.co.jp/userid/335937/car/3547031/7684700/note.aspx
何シテル?   02/21 19:10
2007年よりみんカラを始めて、2019年途中で飽きてしまいブログを休止しておりましたが、ぼちぼちマイペースではありますが、2022年より再開していきます。se...
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