深海の男妾

夕暮どきの所用は小一時間で終わった。
だが，また二時間かけて常磐道をトンボ返りするのも馬鹿らしい。
連れと相談し，折角だから郷土料理を食べていくことにした。
訪れていた先は水戸。
ここは納豆や梅で有名だが，私たちのお目当てはアンコウだ。
この時季，北茨城の平潟漁港や日立の久慈浜漁港は，日本屈指のアンコウ漁獲高を誇り…
それは，「関東のフグ」とも称される。

探し当てた店は，創業六十五年の老舗「山翠（さんすい）」。
高級料亭とは言わないまでも，落ち着いた佇まいを備えた店構で，ゆっくり吾子夜鍋（アンコウ鍋）を堪能できそうだった。



「この前，キャバクラ行ったら，隣の席でキャバ嬢相手に息巻いてる奴がいてさ…」
「飲むと，王様気分になっちゃう奴だろ？」
「立てた人差指を左右に振りながら，俺に触ったら妊娠するぜ！なんて，漁色家みたいなことを，恥ずかしげもなく言ってたよ」
「でも，そうゆうのに限って，痛いぐらい不細工なんだよな」
「うん。グリム童話のカエルの王様みたいに，小男なのに腹がぷくっと出てて，おまけに口がこんなにデカかった」
「最悪じゃん。ところで何で急にそんな男の話を？」
「いや，チョウチン属の生まれ変わりかなぁと思ってさ」
「え？何それ？」
「いま目の前でグラグラ煮えてきたアンコウのことだよ」
「アンコウ？…」
「チョウチンアンコウのオスは，メスの五十分の一ぐらいしかないの知ってる？おまけに何と全身が生殖器で，メスの下腹に寄生し，栄養分を吸収しながら一生を過ごすらしい。さしずめ深海の男妾…究極のジゴロってところだね」
「なるほど。でもさ…情夫とは言っても，結婚の概念を持ってないだけで，生涯寄り添ってるなら夫婦と呼べなくもないな」
「・・・・・？」
「夫婦の役割なんて，身体構造や社会通念で分担してるだけで，特異な相互意識が投影できるライフスタイルを実践したら，中傷の対象となるべき原罪なのだろうか？」
「もしかしてお前，前世は…」
「おい！俺のオデコばっか見てないで，ゆっくりアンコウでも突っ突きながら，じっくりこいつらの気持ちを考えてみようや…」



山翠の吾子夜鍋（あこやなべ）の原点は漁師料理のどぶ汁だ。
中骨からたっぷり染み出た出汁に，アンコウの肝をすり込んで作った秘伝の焼味噌を合わせた煮汁は，香りとこくのある味わいを醸し出し，ゼラチン質で覆われた上質な正身を極みへと導く。
むろん私たちは，豊かな自然が育んだ旬の味覚に，無言でしゃぶり付いていたことは言うまでもない…