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2021年03月08日

『国鉄キハ82系気動車』 新製・量産

『国鉄キハ82系気動車』 新製・量産 国鉄キハ80系気動車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

[写真・画像] 国鉄 キハ82系特急「おおとり」 1986年頃

国鉄キハ80系気動車(こくてつキハ80けいきどうしゃ)は、日本国有鉄道が開発した特急形気動車。系統としては、1960年(昭和35年)に量産先行車的要素で特急「はつかり」用として製造されたキハ81系グループ26両と1961年(昭和36年)以降に製造されたキハ82系グループ358両の総称で、基本構造の多くを共通とする。

 国鉄キハ80系気動車 基本情報
運用者 日本国有鉄道、北海道旅客鉄道、東海旅客鉄道
製造所 日本車輌製造・新潟鐵工所・帝國車輛工業・富士重工業・東急車輛製造・近畿車輛[1]・日立製作所[1]・汽車製造[1]・川崎車輌[1]
製造年 1960年(キハ81系)1961年 - 1967年(キハ82系)
製造数 384両
運用開始 1960年12月10日
運用終了 2002年10月14日
廃車 2009年3月31日
 主要諸元
軌間 1,067
最高速度 100 km/h
 車両定員
40人(キハ81) / 52人(キハ82)
72人(キハ80) / 48人(キロ80)
40人(キサシ80)
36人(キシ80)
 自重
42.2 t(キハ81)
42.0 - 44.3 t(キハ82)
40.2 - 41.2 t(キハ80)
41.1 - 42.3 t(キロ80)
38.2 t(キサシ80)
43.0 t(キシ80)
 全長
21,300 mm (キハ81)
21,100 mm (キハ82、キハ80、キロ80、キサシ80、キシ80)
全幅 2,903 mm
全高 3,910 mm
台車
DT27/TR67 → DT31B/TR68A(キハ81系)
DT31A/TR68(キハ82系前期)
DT31B/TR68A(キハ82系後期)
動力伝達方式 液体式
機関 DMH17H
 機関出力
180 PS / 1,500 rpm × 1基(キハ81、キハ82)
180 PS / 1,500 rpm × 2基(キハ80、キロ80、キシ80)
変速機 TC-2A/DF115A
変速段 変速1段・直結1段
制動装置 電磁自動空気ブレーキ (DARS)
保安装置 非常時交互点滅灯・ATS

1 概要
 日本における初の特急形気動車であり、1967年(昭和42年)までに384両が製造され、日本全国で広く特急列車に用いられた。
 1987年の分割民営化時には、北海道旅客鉄道(JR北海道)と東海旅客鉄道(JR東海)に継承され、一部はジョイフルトレインに改造された。
 JR東海所属車両が1992年(平成4年)まで特急列車として定期運用された後、約2年半の間は臨時列車で運用され、1995年(平成7年)1月が最後の運転となった。同年2月以降は美濃太田車両区で長らく4両が保存車として在籍していたが、2009年(平成21年)に在籍する全車が廃車となり形式消滅となった。
 四国を除く日本各地に配備され、その地方を代表する特急列車として長く運用されたことから、各地に静態保存車が十数両存在する。早期に廃形式となったキサシ80形以外のすべての形式が保存されており、営業当時の基本編成に近い状態で保存の例もある。

4 キハ82系(1961年 - 1967年)
 1961年から製造されたキハ82系[注 41] は、キハ81系の改良型で当初投入された列車の一つである特急「白鳥」にちなみ「白鳥形」とも呼ばれる。82系の登場から従来の81系と合わせ「キハ80系」または「80系気動車」という統一形式[注 42] で呼ばれるようになった。
 「はつかり形」キハ81系は、登場早々のトラブル続きで不評を買い将来性を危ぶまれた。しかし、その間にも旅客需要の増大で日本全国の国鉄線における輸送力改善は急務となっていたため、国鉄は1961年10月1日白紙ダイヤ大改正を計画する。同改正では全国に特急列車を大増発することが計画された。特急新設路線の多くは地方の亜幹線であり、当然ながら非電化で気動車を充当せねばならなかった。このため国鉄は1960年末から改良型となるキハ82系の開発に着手した。

4.1 主要機器
■貫通型先頭車・食堂車の動力車化
 キハ81系には走行機器のトラブル多発のほか、いくつかの欠点があった。特に代表的なのは次の2点である。
1.DMH17系エンジンの低出力。編成内に付随車のキサシを含むことに伴う編成全体の出力不足。
2.先頭車と食堂車のみに電源を搭載し、先頭車は非貫通構造でもあるため編成を組成する際のフレキシビリティに欠ける。
・過去に特急運転の実績がない地方の亜幹線では、特急9両編成は輸送力過剰が危惧されたが、1961年当時の特急列車には1等車と食堂車の連結は必須であり、このような状況で走行用エンジンを搭載しないキサシ80形を組込んだ6両ないしは7両編成を組むと9両編成時以上に著しいアンダーパワーとなり、特急列車に求められる走行性能が確保できず、既存のキハ55系による準急・急行は特急型気動車のような電源エンジン制約がなく2基エンジン車増結可能で性能余裕を得られる状況で、出力でこれに劣る状態では特急列車に相応する速達ダイヤを引けないと想定された。
 これらの問題に対するキハ82系では、全体に信頼性向上を図った上で先頭車を貫通式運転台と電源セットを備えるキハ82形に、食堂車を走行用エンジン2基搭載の動力車キシ80形に車種変更した改良を行った。本方式では中間車全車を走行用エンジン2基搭載とし、サービス電源容量が必要な場合はキハ82形の増結で対処することで一応の編成出力を確保した。また同時に運転区間途中での増解結ならびに分割併合を自在にするメリットもあり、編成組成の自由度を上げた。

■ディスクブレーキ台車
 気動車用のディスクブレーキは、1960年(昭和35年)に試作されたキハ60系気動車用のDT25系で試用された実績がある。本系列では、当時アプト式で走行用レールの中間にラックレールがあった信越本線横川 - 軽井沢間では、一般的な踏面ブレーキ式台車のブレーキ部品がラックレールに接触して通過不可能であったこと。また車輪踏面のフラット対策と高速域でのブレーキ特性改善を目的として、DT27系を基本とする空圧油圧変換式キャリバー車輪ディスクブレーキ方式のDT31A形・TR68形台車を装着した。なお、本台車は1961年5月に就役した信越本線用のキハ57系急行形気動車に導入したDT31の改良形である。1965年(昭和40年)度以降の生産車は改良型のDT31B・TR68Aに移行しているが大差はない。
 DT31系は揺れ枕吊りにベローズ式空気ばねを搭載する第1世代の空気ばね台車であり、DT27系との相違はブレーキ関連機器のみである。そのディスクブレーキは、酷寒地域の厳しい気象条件の中でも高速域から有効にブレーキ力を発揮し、また長い下り勾配での酷使にも耐えた。乗務する運転士達からも「キハ82のブレーキは良く効く」と信頼を得た。
 しかし、逆転機とディスクブレーキユニットを車輪間の狭いスペースに並べて押し込めたその設計は、整備性という点では劣悪であり、整備担当の現場作業員は、窒息しそうなほどの窮屈な空間でブレーキダストで全身真っ黒になりながらブレーキパッド交換などの困難な作業を強いられたという。また車輪踏面に清掃装置を装備するもののブレーキシューが接触しない構造のため北海道地区では、後年に冬期を中心に踏面剥離現象[注 43] が多発した。

4.2 設備
 キハ82系では、車体側面部において赤帯からはみ出ていたドア戸袋の点検蓋を小型化し、81系では車体裾の赤帯部にあった冷却水の給水口の位置を赤帯上部に移し形状を変更するなど仕様変更が見られる。入口ドアの引戸に付くステンレス製の帯が従来1本だったのが2本に増え、床下の機器類ではキハ81系ではあったエンジンカバーがなく(キハ81系は後に撤去)、レイアウトも一部異なっている。くずもの入れの大型化で妻板部分には張り出しを設け、仕切り扉の客室側の金属製のハンドルが縦長の黒い長方形の樹脂製プレートに変更された。
 原設計では酷寒地域対策が特段に行われていなかったものの北海道地区にも配属され、後述のように現地での小改造を行うなど事後的な対策が取られた。

4.3 仕様変更・改造工事
・北海道地区に配置されたキハ82形では乗務員室扉の窓をタブレットによる破損防止の観点から窓全体を覆う開閉可能な保護網が装着された。
・キハ82形のタイフォンは中折れシャッター仕様・スリット仕様・多孔板仕様が設定された[注 44]。
・運転室前面ガラスは熱線入り窓ガラス仕様やデフロスタ仕様など数種類が存在する。また前面ガラス上部の雨樋の形状は製造年度により異なる。
・当初はキハ82形運転台側とキシ80形のみが制御回路を両渡り構造とし、1961年のキハ82系運転開始時にはキシ80形組込を前提とした編成組成とし[注 45]、同形式で回路をクロスさせて片渡り構造の中間車へ対応させた[注 46]。しかし、1962年10月1日ダイヤ改正で運転開始された「おおぞら」旭川編成ではキシ80形を不連結としたため制御回路を構成できなくなることから、充当される函館運転所所属のキロ80 6・15・17・25に後位側のみ両渡り構造とする改造施工で対応した。その後本工事は既造のキロ80形全車に施工されたほか、キロ80 43以降は両渡り構造で製造された。また付属編成連結位置の関係や普通車のみで編成組成を可能とする必要から、一部のキハ82形には後位側へ本工事が施工された[注 13]。
・1963年度増備車よりキハ82形はクーラーを増設し、キハ82・キハ80・キロ80の各形式ではデッキ側天井にダクトが追加された。従来車も追設工事を施工した。また行先表示・号車番号・座席種別のサボ受けの取り付け位置が変更され、従来車は一部を除き移設工事を施工した[6]。
・1965年度増備車より台車がDT31B・TR68Aに変更され、キハ81系も同台車に交換された。
・1966年度増備車ではキハ82・キハ80・キロ80のデッキ側妻面に貫通扉が追加された。これに伴いくずもの入れを排気口側車端部に移設した[6]。
■横軽対策
 最大勾配 66.7 ‰に達する信越本線横川 - 軽井沢間(碓氷峠)は1963年にアプト式から通常の粘着運転へ切換られたが、同区間を通過する列車は峠麓側(横川側)に補助機関車のEF63形を重連で連結し、気動車[注 47]の場合は無動力での推進・牽引運転で最大連結両数を7両までの編成組成制約を課した上で連結器破損や座屈による浮き上がり脱線予防ならびに車両逸走を防止する点から通過対象車両に施工された以下の対策(通称:横軽対策)である[7][8][9]。
・台枠・連結器を強化
・緩衝器容量を増大
・非常ブレーキ吐出弁絞りを追加
・横揺れ防止装置を追加
・坂上で力行した際に心皿脱出ならびに破損防止のため空気ばね台車へパンク装置を追加[注 48]
・識別のため車両番号の頭に直径40mmの「●(Gマーク)」を付加
 また気動車とEF63形の連結は、連結器以外はブレーキ管(BP管)の接続のみでも可能であるが[注 49]、軽井沢に向う下り列車では押し上げ対象列車の運転士が信号機と安全の確認を行ない連絡を担当することから連絡回線を確保のためEF63形のうち1969年までに製造された1 - 21には軽井沢側に本系列用KE62形2基を装備する[注 50]。
 本系列では同区間で運用される向日町運転所所属の「白鳥」上野編成充当車に施工。1965年10月1日ダイヤ改正で系統分割された「はくたか」充当用金沢運転所転出車は向日町で本工事を施工された車両に限定されたが、本系列の横軽区間での運用は「はくたか」485系電車化ならびに上越線経由に変更された1969年10月1日ダイヤ改正で終了した。
■黒磯駅通過用列車選別装置
 1968年10月1日ダイヤ改正で、黒磯駅はそれまで全列車停車していた東北本線特急の一部が通過に変更され、本系列充当列車では「つばさ」が対象とされた。これに伴い同駅は交直流切換が地上方式であったところ新たにデッドセクションを設け車上切換方式も可能にして対応したが、通過に際しては本デッドセクションと地上信号が連動となることから、本系列でも電源切換が不要なもののの黒磯駅通過用列車選別装置の搭載は必須となり、担当する尾久客車区所属のキハ81・82形に搭載工事が施工された。
 なお、同区配置のキハ82形は1970年2月までに全運用を終了したために他車両基地へ転出の際に同装置を取外したが、例外として「いなほ」運用に転用となり秋田運転区へ転出したキハ81形は羽越本線・上越線で運転不可となった際の迂回ルートに東北本線が含まれていたことから搭載を継続。1972年10月の「くろしお」転用で和歌山機関区へ転出の際に取外された。

4.4 新造車
製造年度 落成時期 キハ82 キハ80 キロ80 キシ80 落成配置 両数 備考
・1961年度 1961年7月-9月 1 - 43 13 - 53 6 - 27 1 - 21 向日町78 尾久34 函館15 両数127 1960年度債務1961年度本予算
・1962年度 1962年4月-1963年3月 44・45 54 - 64 28 22 向日町3 尾久10 函館2 両数15 「はつかり」「つばさ」「白鳥」増強他
・1963年度 1963年7月-1964年2月 46 - 55 65 - 85 29 - 32 23 - 26 向日町21 尾久16 函館2 両数39 キハ82形クーラー増設、一部車両にダクト追加
・1964年度 1964年7月-1965年1月 56 - 77 86 - 118 33 - 47 27 - 34 和歌山20 向日町16 尾久11 盛岡2 函館29 両数78 「みどり」「やまばと」「おおとり」用増備他
・1965年度 1965年6月-8月 78 - 107 119 - 163 48 - 60 35・36 和歌山2 向日町48 山形17 函館23 両数90 台車変更
・1966年度 1967年1月 108 - 110 164 - 166 61・62 37 函館9 両数9 「北海」用増備

4.4.1 キハ82形 (1 - 110)
 1961年から1967年までに110両が製造された。キハ81形に代わって開発された本系列の貫通型先頭車である。発電セットを床下搭載としてボンネットを廃止し、当時の一般形・準急形気動車や急行形電車同様の貫通式運転台を採用した。客室のレイアウトもキハ81形と比較して、トイレ・洗面所の位置をデッキ寄りに変更。売店も廃止されたことから客室が拡大されている。このため座席定員は、キハ81形より座席3列分12人多い52人となった。
 一時は気動車特急の代名詞的存在となり、スタイリングはキハ181系やキハ391系はもとより、民営化後に製造されたキハ189系や373系電車にも受け継がれた。造形面での優美さと機能性を兼ね備えた完成度の高い前頭形状は、今なお工業デザイナーや鉄道愛好家から高く評価される[注 51]正面貫通式で両側に若干の後退角を伴ったパノラミックウインドウ(曲面ガラス)付き高運転台は、星晃[注 52] らの手で同年に設計されたクハ153形500番台にも採用された当時最新のデザインであるが、灯具位置や塗色の違いから両者の印象は相当に異なる。
 153系電車などのような列車種別表示幕は設けず、屋根上両側に前照灯と標識灯をセットとした横長のライトケースを設置した[注 53]。パノラミックウインドウは、前面の平面部分から曲面部分までがシームレスの大きな一体型ガラスで、コスト高を押して採用された。窓下には鳥の翼を思わせる広幅の赤帯を塗装してアクセントとしており、このイメージは後のキハ181形にも多少の改良を伴いながら継承された。
 貫通扉にはドアサイズに合わせた小型の列車愛称表示板と逆三角形の特急シンボルマークを装備さする。貫通幌は収納時には車体側の凹みに面一で格納され、通常の貫通幌のように飛び出ることのないスマートな外観となった[注 54]。
 1963年(昭和38年)製の46- は冷房装置の位置を変更し5基となる。さらに洗面所寄りにはダクトが追加された。従来の車両も順次追設工事[注 55] が施工された。また1965年製の76- は台車をDT31B/TR68A形に変更した。

4.4.2 キハ80形 (13 - 166)
 1961年 - 1967年に154両が製造された。番号はキハ81系からの続番で基本構造もほぼ同じであり、台車のDT31A形への変更と排気管をはじめとするエンジン周辺の熱害対策が施された程度の違いのみである。119- は台車をDT31B形に変更。

4.4.3 キロ80形 (6 - 62)
 1961年 - 1967年に57両が製造された。キハ80形同様に1960年製造車からの続番で熱害対策やDT31A形台車への変更のほか、地方線区での受信環境やイヤホン消毒のメンテナンス難を考慮したシートラジオを廃止。前位屋根上に水タンクを増設を実施したことから、遠方から編成の向きを判断する手掛かりにもなった。また48- は台車がDT31B形に変更された。

4.4.4 キシ80形 (1 - 37)
 1961年 - 1967年に37両が製造された。キサシ80形から以下の設計変更を実施した。
・アンダーパワーを解消する目的から床下搭載エンジンを発電用1基から走行用2基へ変更。
・調理用電源給電はキハ82 (81) 形からの供給のみとする。
・水タンクは厨房側車端床上搭載としたため食堂定員が左右1卓ずつ減り8卓32人に減少。
 当初はキサシ80形同様に走行位置表示板を搭載したが、他線への転用の際に撤去された。クーラーパネルはキサシ80と同タイプが初期車に採用され、後の増備車では82系1・2等車と同じ改良型に変更された。
 35・36は台車をDT31B形へ変更し走行位置表示器を廃止。1967年1月落成の最終増備車37は、さらに食堂部窓を大窓化しベネシャンブラインド[注 56]を装備しており、同年夏以降に製造開始となった583系電車やキサシ180形の試作的要素を持った異端車である。
 1986年10月の「おおとり」「オホーツク」を最後に一般定期運用を終了。1987年の分割民営化時には29・36・37の3両が保留車のままJR北海道に承継。36・37はそのまま廃車となったが、29は1988年3月にジョイフルトレイン「トマムサホロエクスプレス」用の501へ改造。同車は2007年6月6日付で廃車され形式消滅となった。

9 脚注
9.1 注釈
[注 13]^ 1965年10月1日ダイヤ改正により特急「北斗」で実施された函館方への付属編成連結では、引き通しの関係からキハ80形の方向転換を要した。このため所属基地である函館運転所ではキハ80形には向きの異なる車両が混在し、検修設備上ならびに運用上で煩雑を生ずるほかに予備車も別に確保せねばならないなどの非効率により、1972年3月15日ダイヤ改正でキハ82形後位側を両渡りに改造して対応させた。しかし、この方式では乗降扉の位置が偏るなど旅客案内上の問題があり、1975年以降には再び方向転換車を存在させて限定運用で対応させた。
[注 34]^ キハ81形とキハ82形では定員数が異なる上に天王寺方・名古屋方も指定席となるため販売の際に充当列車を限定する必要があったこと。また名古屋発着編成は組成3本充当2本で6両必要となることから車両数が一致したという理由もある。
[注 40]^ キサシ80形が「はつかり」以外で定期運用に充当された唯一の例
[注 41]^ キハ82形と同時期に設計・製造されたグループの呼称である。
[注 42]^ 485系電車、583系電車も統一形式である。
[注 43]^ 「と蝕」と呼ばれ10年程度の経年で出現するとされる。現在までその根本的原因は究明されていない。
[注 44]^ スリット仕様はメンテナンスが簡便で積雪の少ない西日本・九州地区配置車に多く見られたほか、ステー形状にもいくつかのバリエーションが存在した。
[注 45]^ 本系列では東海道本線基準で下り神戸方キハ82形の次位にキロ80形を1両ないし2両連結した上でキシ80形を組成し、そこからキハ80形を連結し東京方キハ82形で組成する6・7両での基本編成が、大阪基準で逆向きとなる「白鳥」向日町所属車を除き原則とされた。
[注 46]^ 本方式は151系電車で当初はサロ25形→サロ151形ならびにサシ151形を両渡り構造とした方式を踏襲した。
[注 47]^ 横軽対策が施工された気動車は本系列のほか、信越本線用に特化されたキハ57形・キロ27形ならびに架線・信号検測事業用車のキヤ191系のみである。
[注 48]^ 空気ばね台車の限界自連力が金属ばね台車に比べて著しく小さいため垂直座屈に弱い一方で空気ばねをパンクさせてストッパゴムだけで車体を支持する状態にすると空気ばね有効時と比較して約6倍の限界自連力を得られることから実施。
[注 49]^ ブレーキの制御指令はEF63形から行うとともに自動空気ブレーキ動作に必要な空気圧は本系列側に搭載する空気圧縮機から供給されるためMRP管(元空気溜管)の接続は不要である。
[注 50]^ 本系列との連結が終了した以降に製造された22 -25は未装備であり、2・14・15・16・17は運転終了に伴い後年に撤去。
[注 51]^ キハ81形からキハ82形へのデザインの変化の過程の中で検討された「高運転台+前面貫通型」の組み合わせは後にクハネ581形のデザインのベースとなった[11]。
[注 52]^ 臨時車両設計事務所在籍(当時)。1953年から1年間スイスへの留学経験があり、10系客車でのヨーロッパ調デザインの導入など、この時代に設計された国鉄車両のエクステリア・インテリアデザインに大きな影響を与えた。なお、この曲面ガラスを使用する貫通型の前面デザインも当時のスイスで見られたものを巧みに換骨奪胎して構成されたものであった。
[注 53]^ これは同時代のアメリカ製乗用車の影響と見られる。
[注 54]^ 同様の貫通幌は14系・24系客車の初期車にも採用された。
[注 55]^ 既存の4基搭載車は位置を変更せず、増設分を狭いスペースに押し込む形となったことから、カバーも2連用を半分に切った形状となった。
[注 58]^ ダイヤ改正を前に1961年夏から秋にかけて、性能確認のために試運転も繰り返され、運転士をはじめ検修技術者らへの講習も念入りに実施された。
[注 59]^ 1964年7月20日に向日町運転所へ改称→1996年に向日町操車場と統合し京都総合運転所へ改称→2012年に組織統合により吹田総合車両所京都支所へ改称。
[注 60]^ キハ58系等の急行形気動車では、補機なしの板谷峠越え自走運行も1980年代初頭まで行われていたが、その登坂速度は著しく低い。
[注 61]^ いわゆる「1便」接続と呼ばれる、本州側 1D/2001D - 青函航路 1便 - 北海道側 1Dと、列車番号と便名がすべて「1」(上りは「2」)で統一された当時の最速乗り継ぎである。
[注 62]^ 大阪発列車では青森編成が下り列車で上野編成が上り列車に、大阪行列車では青森編成が上り列車で上野編成が下り列車になる。そのため上野編成は直江津で分割後に列車番号が2001D→2004D・2003D→2002Dとなる。
[注 63]^ 485系電車化後の1975年3月10日のダイヤ改正で湖西線経由に変更されたことにより1040.0 kmに短縮。同時に山陽新幹線全線開業により東京 - 博多間直通列車が1069.1 km(実キロ)と29.1 km長いために国内最長距離昼行列車の座は明け渡したが、在来線最長距離昼行列車としては2001年の列車廃止まで記録を保持し続けた。
[注 64]^ このため向日町運転区での車両の向きは他の所属車と同じで、上野編成に充当される尾久所属車が逆向きとなる。
[注 65]^ キロ80形の両渡り構造化については#仕様変更・改造工事を参照のこと。
[注 66]^ サシ151形+モハシ150形による東海道・山陽特急。36形食堂車導入後の東海道山陽新幹線「ひかり」編成。
[注 67]^ デビュー当初のモハシ150形による東海道本線特急「こだま」、サハシ153形による東海道本線急行、サハシ451形による初期東北本線常磐線急行・北陸本線急行、サハシ165形による初期上越線急行、36形食堂車落成以前の35形ビュフェ車2両組込の東海道山陽新幹線0系など。
[注 68]^ 「つばさ」盛岡編成は483系電車化で「やまびこ」に分離。信越白鳥は上野 - 金沢「はくたか」と大阪 - 金沢「雷鳥」に分離。
[注 69]^ 1992年7月1日の新千歳空港ターミナルビル移転供用開始に伴い現駅名へ改称。新たに連絡線ならびにターミナルビル地下に新千歳空港駅を建設開業させ対応した。
[注 70]^ 本系列が道内で運用を開始した1960年代本州 - 北海道の旅客輸送は青函連絡船を介した鉄道によるものが主流であったが、1970年代後半には航空機輸送が逆転し鉄道輸送の比率は5%まで低下した[36]。これに対して国鉄は航空機と連帯運用する鉄空一貫思想への転換を図り、1980年10月1日に千歳空港ターミナルビルに連絡橋を介したアクセス駅として千歳空港駅(現・南千歳駅[注 69])を開業し、札幌を中心とした道内主要都市間輸送体系特急網の形成に方針転換した[36]。
[注 71]^ 当初は試作車編成を充当させた試験的充当のため隔日で本系列と交互での運転。
[注 72]^ 列車名は前日まで東京 - 名古屋間で運転されていた電車特急からの転用である。列車名の由来は、いわゆる鳳凰など架空の大きい鳥類を意味する言葉であり、列車愛称の制定時に存在した「特別急行列車は鳥類にちなむ」という国鉄の規定による。
[注 73]^ 同改正では尾久客車区担当の「つばさ」キハ181系置換えにより捻出された本系列を函館運転所に転属転用する計画であったが、車両落成が遅れ置換えが1970年2月になった[42]。
[注 74]^ 急行型車両の特急列車への充当は、1970年代に14系座席車落成以前に12系客車が臨時特急列車に充当されたほか、これ以前にも151系電車が東海道本線特急に充当されていた1958年 - 1964年に車両配置のない大阪地区で車両故障や異常が発生した際に宮原電車区(→宮原総合運転所→現・網干総合車両所宮原支所)所属の153系電車を充当する所謂「替えだま」と呼ばれるケースがあり、長期に渡って充当された例には1964年4月24日に発生した特急「富士」脱線事故の影響で同月25日 - 5月6日に上述した「替えだま」同様「こだま」1往復に153系電車を充当したケースがある。なお、「北斗」へのキハ56系充当に際し接客設備が劣ることから特急料金を100円引きとする減額措置が採られた[42]。
[注 75]^ 長万部以遠を函館本線経由する唯一の特急であり、室蘭本線・千歳線経由となる他の特急列車とは、札幌駅基準で編成が逆向きとなることから、下り「北海」に充当した編成は上り「北海」で函館に戻す制約が存在した。
[注 76]^ 列車名は1951年から1960年まで室蘭 - 札幌間で運転されていた準急列車で使用された後、本列車に転用。さらに1989年から2006年までは、寝台特急「北斗星」を補完するB寝台のみで組成された臨時列車に使用された。
[注 77]^ 青函連絡船を挟んだ上野 - 青森間は583系電車を充当し、下りが常磐線経由寝台列車、上りが東北本線経由による昼行列車の「オリンピア1号」として運転。
[注 78]^ 「いなほ」→「ひたち」へ上野での折り返し間合いが30分しかなく、冬期は豪雪地帯で名高い上越線を経由するため遅延や車両故障による「ひたち」運休を避けるためにしばしば勝田電車区(現・勝田車両センター)所属の451・453系電車での代走が記録されている。この教訓から両列車485系電車化の際には「いなほ」は青森運転所に「ひたち」は仙台運転所に分離移管すると共に青森所の運用に首都圏側でほぼ丸1日停泊する運用が設定された。詳細は国鉄485系電車#東日本地区も参照のこと。
[注 79]^ キハ82 902は1970年2月28日付で鹿児島運転所転出後、同年9月22日付で和歌山機関区へ転出
[注 80]^ 広域転配のため本系列の充当は、ダイヤ改正直前の1972年9月26日で終了。
[注 81]^ 今日の「サンライズ瀬戸・出雲」(285系電車)の運用と同様のパターンである
[注 82]^ 当時、山形地区に日本食堂の支店・営業所がなかったこと。また運営できる民間業者もなかったことも一因と言われている。
[注 83]^ 会津若松編成は1968年9月17日から「あいづ」として、山形編成は10日間単独運転の後9月27日から485系電車化。
[注 84]^ 全車1961年新製車で、新製配置先はキハ82 8 キハ80 15・16・24 キシ80 6の5両が向日町。キハ82 1 - 3 キハ80 13・14・17・18 キロ80 7・8 キシ80 3の10両が尾久であり、1963年に「白鳥」上野編成の移管により向日町へ転出した経歴がある。なお、この15両は「はくたか」運用終了後に函館運転所へ転出し「北斗」1往復増発分に転用される計画であったが、「つばさ」キハ181系化の遅れから暫定的に尾久転出へ変更となった。1970年2月のキハ181系化完了による再転出で函館へ転出したのはキハ80 16 - 18・24ならびにキロ80 7のみで他は元々尾久に配置されていた車両に振替られた。
[注 85]^ 「つばさ」もキハ181系→485系電車化の際に秋田運転所へ移管された。
[注 86]^ このため「北斗」1往復が1970年2月28日までキハ56系による代走となった。
[注 87]^ 転入車のうちキロ80形4両は、老朽化した初期車置換え名義であり、以前から配置されていたキロ80 9・11・38・39が廃車。
[注 88]^ このため、車内アコモの意匠が北海道車とは異なる。
[注 89]^ うち1往復は予定臨時列車扱いで1989年3月11日ダイヤ改正で定期列車化された。
[注 90]^ 「はくたか」電車化時には485系向日町運転所配置車に移管されたが、充当に際して送り込みと返却を兼ねた「雷鳥」との共通運用となった。1978年には食堂車連結中止に伴い「はくたか」は「雷鳥」との運用を分離。金沢運転所に再移管され「白山」と489系による共通運用へ変更された。
[注 91]^ この2両は同年7月から8月にかけて向日町運転所に新製配置されており、事実上の新製車である
[注 92]^ 基本編成もふくめて10両中3両がキロ80形が組成された理由として、当時は沿線の和歌山県西牟婁郡白浜町(南紀白浜)が新婚旅行として人気が高かったことによる。
[注 93]^ 下り3号は名古屋1930発湊町2247着、上り1号は湊町0820発名古屋1134着。
[注 94]^ 「あすか」廃止後の1967年12月には名古屋滞泊の間合いを利用して臨時急行「ひだ」に投入された実績がある。
[注 95]^ 向日町転入車のうちキシ80 16・17は改正後の1968年12月となったことから、同時期まで「にちりん」はキシ80形不連結で運転された。
[注 96]^ 同様の廃止事例は、1975年11月に尾久配置のキハ181系で運転されていた「つばさ」電車化による仙台 - 秋田間の「あおば」がある。
[注 97]^ このさよなら運転の際には、歴代使用列車のヘッドマークを掲示する演出を行うため、前面に大型の回転式ヘッドマーク装置が取り付けられた状態で運行された。
[注 98]^ 鈴鹿サーキットで開催される鈴鹿8時間耐久ロードレース・全日本スーパーフォーミュラ選手権・全日本ロードレース選手権などのレース開催時には臨時列車を運転せず、最寄駅となる鈴鹿サーキット稲生に特急「南紀」快速「みえ」の臨時停車で対応する[55]。
[注 99]^ 1995年以降はキハ85系で運転。日本グランプリが富士スピードウェイ開催となった2007年・2008年は運転されず、再び鈴鹿開催となった2009年から「鈴鹿グランプリ」として運転再開された。ただし2020年は新型コロナウイルス感染拡大の影響により日本グランプリが中止となり、運転を取り止めた。
[注 100]^ 同線は1985年頃までに電化工事を中止し、駅構内などの線路改良と高性能気動車(後のキハ85系)の製造に転換した。

9.1.1 出典
[4]^『形式キハ80・181系』p64-73 キハ80/181系 全車両の履歴
[6]^『形式キハ80・181系』p16-45 キハ80・181系詳細ガイド
[7]^ 真宅正博・渡辺登「信越線横川-軽井沢間の電気機関車と電車の協調運転」『鉄道ピクトリアル』No. 213 p26/27/29 電気車研究会 1968年8月
[8]^ 中橋順一「列車の座屈現象 (PDF) 」 『Railway Research Review』Vol.65No.8、鉄道総合技術研究所、2008年8月、 26 - 29頁。
[9]^ 菅原憲一「国鉄の急こう配線の現状と展望」『鉄道ピクトリアル』No. 363、電気車研究会、1979年7月、 48頁。
[10]^ 『レイル』No.3 1981 Spring エリエイ出版部 p23-26
[11]^ 『レイル』No.3 1981 Spring エリエイ出版部 p52-55「はつかりからかもめへ ディーゼル特急前頭の変身 黒岩保美」
[12]^『東海旅客鉄道20年史』p253
[13]^ 日本国有鉄道監修 時刻表1960年12月号 日本交通公社出版事業局(現・JTBパブリッシング)
[14]^ 日本国有鉄道監修 時刻表1961年3月号 日本交通公社出版事業局
[15]^ 日本国有鉄道監修 時刻表1961年10月号 日本交通公社出版事業局
[16]^ 国鉄監修 交通公社の時刻表1965年10月号 日本交通公社出版事業局
[18]^ 国鉄監修 交通公社の時刻表1968年10月号 日本交通公社出版事業局
[22]^ 『新幹線がなかったら』
[23]^ 『鉄道ピクトリアル』1961年12月号 No.125
[24]^ 本州~北海道間接続列車 青函連絡船後半生のあゆみ/寺本光照(文)、pp.8,10。
[25]^ 日本国有鉄道監修 時刻表1962年7月号 日本交通公社出版事業局
[30]^ 国鉄監修 交通公社の時刻表1970年10月号 日本交通公社出版事業局
[31]^ 日本国有鉄道監修 時刻表1962年5月号 日本交通公社出版事業局
[32]^ 時刻表 完全復刻版 1964年10月号 JTBムック
[33]^ 国鉄監修 交通公社の時刻表1967年10月号 日本交通公社出版事業局
[34]^ 本州~北海道間接続列車 青函連絡船後半生のあゆみ/寺本光照(文)・1965(昭和40)年10月1日改正、pp.11-12
[35]^ 国鉄監修 交通公社の時刻表1972年3月号 日本交通公社出版事業局
[36]^ 守屋憲治. “小さな私鉄の大きな変身”. 9-10. 北海道千歳市. 2008年4月8日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2021年2月22日閲覧。
[37]^ 日本国有鉄道監修 時刻表1962年10月号 日本交通公社出版事業局
[38]^ 国鉄監修 交通公社の時刻表1980年10月号 日本交通公社出版事業局
[39]^ 国鉄監修 交通公社の時刻表1981年10月号 日本交通公社出版事業局
[40]^ 国鉄監修 交通公社の時刻表1985年3月号 日本交通公社出版事業局
[41]^ 国鉄監修 交通公社の時刻表1969年10月号 日本交通公社出版事業局
[42]^ 草原社 THE LAST RUNNERS Vol.5 「80系気動車物語」p.77
[43]^ 国鉄監修 交通公社の時刻表1971年7月号 日本交通公社出版事業局
[44]^ 国鉄監修 交通公社の時刻表1967年3月号 日本交通公社出版事業局
[45]^ ・東京/大阪~青森~北海道間連絡列車編成図 1968(昭和43)年10月1日、p.15。
[46]^ 国鉄監修 交通公社の時刻表1976年10月号 日本交通公社出版事業局
[47]^ 国鉄監修 交通公社の時刻表1978年10月号 日本交通公社出版事業局
[48]^ 国鉄監修 交通公社の時刻表1971年10月号 日本交通公社出版事業局
[49]^ 国鉄監修 交通公社の時刻表1972年1月号 日本交通公社出版事業局
[50]^ 国鉄監修 交通公社の時刻表1972年10月号 日本交通公社出版事業局
[51]^ 国鉄監修 交通公社の時刻表1974年5月号 日本交通公社出版事業局
[52]^ 国鉄監修 交通公社の時刻表1975年3月号 日本交通公社出版事業局
[53]^ 国鉄監修 交通公社の時刻表1982年7月号 日本交通公社出版事業局
[54]^ 国鉄監修 交通公社の時刻表1965年3月号 日本交通公社出版事業局
[55]^ 曽根悟(監修)『週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』26号 長良川鉄道・明知鉄道・樽見鉄道・三岐鉄道・伊勢鉄道、朝日新聞出版分冊百科編集部(編集)、朝日新聞出版〈週刊朝日百科〉、2011年9月18日、p22・28。
[56]^ 『東海旅客鉄道20年史』p84
[57]^ 『東海旅客鉄道20年史』p258

最終更新 2021年1月17日 (日) 01:34 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)


≪くだめぎ?≫
 今回、改めて見ると結構慎重に新製配置された事だろう、一部列車はダイヤ設定されたものの運転開始は延期されたのもあるから。
 DMF31HSA形エンジン (400 PS)キハ60系気動車の開発が不調で不採用。
 「先頭車を貫通式運転台と電源セットを備えるキハ82形」
 「食堂車を走行用エンジン2基搭載の動力車キシ80形」
中間車全車を走行用エンジン2基搭載、サービス電源容量が必要な場合はキハ82形の増結で対処するで編成出力を確保した"マイナーチェンジ版"である。
 それでも、「青森白鳥」大阪-青森、「つばさ」上野-秋田 など相変わらずの長距離運転、奥羽本線の急勾配区間の板谷峠で補助機関車の連結などもあり、「北陸トンネル」通過も交流電気機関車「EF70」牽引通過があっても良いのではと今でも思う。
 "キハ82系"の成功で『特急』増発出来たことは、功績である。
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Posted at 2021/03/08 09:30:06

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