
私が小さい頃、ゲームは時間が制限されていた。詳しくは覚えていないが、毎日はできず、週3日30分ずつとかそんなルールだったと思う。しかし、小さな私は(大きな私もだが)そんなルールに満足できるはずもなく、両親が共働きで家にいないことをいいことに、親の目を盗んではゲームで遊んでいた。
夢を見る島は、姉が買ったゲームソフトだった。姉はそんなにゲームに熱中する方ではなかったので、少ないお小遣いからなぜ買ったのかは謎だが、私は夢中になり、ゲームができない時間は攻略本を読んで思いを馳せていた。今回、Switchのリメイク版は、Switch購入から1年以上もスプラトゥーンだけをやり続けた私にとって、2番目のソフトとなった。
以下、ネタバレ
このソフトの魅力は何と言っても 切なさ だ。リンクが島から脱出するには風のさかなを目覚めさせなければならない。しかし、それは同時に風のさかなの夢である島の人々、タリンやウルラリ爺さん、気まぐれトレーシー、そしてマリンが消えてしまうことを意味する。
作中リンクとマリンが浜辺に座って海の向こうを眺めなるシーンがある。マリンは言う「もし私がカモメだったら、ずっと遠くへ飛んでいくのに。ねえリンク、ちゃんと聞いてる?」。しかしリンクは応えない。それは、彼女の夢が叶わぬものであることを、そして他ならぬ自分自身がマリンを消さなければならないことに気づいているからだ。

ゲーム中、唯一マリンだけが、島の外を意識する。
もしかしたら、この時、リンクの中には風のさかなを目覚めさせるのをやめ、一生この夢の中で人々と生きていくのも悪くないんじゃないか。そんな選択肢が浮かんだかも知れない。しかし、下記の渡邉卓也氏の解説のように、夢を見る島というゲーム自身がプレーヤーにとっての夢であり、プレーヤーが現実に帰らなければならないように、リンクもまた8つの楽器を集め、悪夢を倒し、風のさかなを目覚めさせる。徐々に消えていく島、キャッチボールをする村の子供、キノコを探すタリン、魔物、そしてマリン。
渡邉氏の解説は魅力をよく伝えていると思うが、少々違和感があるのは、まるで「これはゲームなんだからな、現実から目を背けるなよ?」とこのゲームが言っているように感じられることだ。氏は「プレイヤーはリンクになりきるのではなく、あくまでプレイヤーのままでいていいのである。」と書くが、私は全くそうは思わない。リンクになりきり、夢中になって謎を解き、魔物を倒したプレーヤーだけが、避けられない別れの寂しさ、2度と会うことができない切なさを味わうことができるのだ。
1990年代に小学生の子供を持つ親にとって、ゲームは好ましからざるものだった。「ゲームばっかりしてないで!」というのは、親が子を叱るテンプレのようなものだった。任天堂はそのことをよく理解していたのだろう。渡邉氏は「マリンはゲームそのもの」と言っているが、私は「マリンは任天堂そのもの」だと思う。マリンが、例えリンクが島を去っても自分のことを忘れないで欲しいと願うとき、任天堂の開発者たちもまた、親の目を盗んでゲームをする子供達に、同じ思いを抱いていたに違いない。
『ゼルダの伝説 夢をみる島』はなぜ名作と呼ばれるのか――それは桜が散るかのような美しさをゲームで表現したからだ
https://jp.ign.com/legend-of-zelda-links-awakening-switch/38871/feature/
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2019/10/07 01:48:48