
仕事で京都に行く機会があった。月曜の朝からだったので日曜の昼ごろ京都に入りチャリを借りて少し遊んだ。半日だったが結構見て回って楽しかった。一番印象的だったのは高瀬川。
鴨川に沿って流れる浅い人工運河で川端には桜や柳が植えられている。泊まったホテルのすぐ裏だったのでほぼ毎日のように川辺を歩いた。川辺と言っても周囲は繁華街(3条付近)でイタリアンレストランやら松屋やらの間を流れているので、一体の風景として見たとき、そこから歴史を感じることは難しいかもしれない。
(この辺の感覚は京都全体にも言える気がする。つまり市内をバスで走っても伝統的な“町並み”を見ることは出来ない。寺は単発で存在しているだけだ。京都は遺跡ではなく人が生活しているのだから当然と言えば当然かもしれないがやはり少しさみしい。)
森鴎外の『高瀬舟』は中学の教科書に乗っていた気がする。買ったが読む時間が取れたのは帰りの新幹線の中だった。このなかの『高瀬舟縁起』として鴎外自身が二つの問題を挙げている。一つは安楽死。これは有名。でもう一つは「欲」の問題である。
主人公?の喜助には欲がない。「足ることを知っている」。喜助は仕事を見つけるのに苦労した。そして見つかれば骨を惜しまず働き、食べていくのがやっとの生活に満足した。牢屋に入ってからは働かずに食べ物が与えられることに感謝し、流される前に支給された200文を財産として大事にしている。程度の違いや境遇の違いを差し引いても、自分とは決定的に違うことを同船した庄兵衛は悟る。
人間とは良識を失った動物である。
このように動物たちは人間を批評しているだろう、とニーチェは書いた(らしい)。人間が欲を捨てることが出来たならば、それはもはや車輪など歴史的発明どころではない。それは人間が別の生き物になることを意味している。直立二足歩行に匹敵する「進化」となる。
庄兵衛は喜助から「ごうこう(仏の額から発せられる光)」が差すように感じられた。つまり鴎外は喜助を仏に見立てて書いている。リーマンショック程度で人間が変わるとは到底思えない。進化は突然変異で起こるんだっけ?イギリスなどでも宗教への回帰が始まっていると聞くが、それは「支配の安全弁」として機能しないことが大前提となる。テクノロジーの暴走の手綱を握り、「足ることを知る」社会へ。宗教か共産主義か。神の存在を巡っては決定的に矛盾する両者だけれども、同時並行で進むなんてことが日本ではあったりするんだろうか。そういうの得意そうだし、日本て。
内容が無茶苦茶だ。戻ろう。『高瀬舟』からお気に入りの一節を。静けさがよく伝わってくる。見事。でもここだけじゃあんまり伝わらないかも。
----
下京の町を離れて、加茂川を横切った頃からは、あたりがひっそりとして、只舳に割かれる水のささやきを聞くのみである。
Posted at 2009/03/22 01:22:22 | |
トラックバック(0) | 日記