
ジョジョの第5部を読み直した。ジョルノ・ジョバーナのアレである。
突然だが、昔の日本はいわゆる55年体制の自民一強で与野党に対立はなかった。なかったは言い過ぎかも知れないが、アメリカのように妊娠中絶や銃規制など分かりやすい対立軸はなく、幼かったは私は良し悪しは別にして、議論の論点がはっきりしているアメリカを羨ましく思った記憶がある。
しかし、現在は違う。不況が長引き先が見えない中、貧富の差が広がり従来の成長モデルが見えずにもがく中で「次の方針」を巡ってアプローチの違いが出てきた。それは保守はネトウヨと呼ばれ、リベラルはパヨと呼ばれる対立である。
そんな「何が正義か分からない」時代において、第5部のジョジョは、自分の信じる絶対的な正義を持っている。そしてその「正義」に基づく「意思」と「行動」だけが「結果」を得るのである。
この点は、アバッキオの身代わりとなり殉職した刑事と、キングクリムゾンとの対比が分かりやすい。
ガラスの破片を集め指紋を取ろうとする刑事にアバッキオは問う。なぜそんな手間のかかることをするのか。無駄じゃないのか、仮に指紋が出ても裁判で無罪になるかも知れないじゃないかと。それに対して刑事は答える。結果だけを求めてはいけない、真実へ至ろうとする意思をその過程が重要だと。
これに対してキングクリムゾンは、結果だけを得る。そこに至る過程を無かったことにする能力だ。キングクリムゾンには、警官やアバッキオ、ナランチャ、ブチャラティと受け継がれる正義と意思がない。その差が、最後のゴールドエクスペリエンスとの戦いで顕在化するのである。これがジョルノがボスに勝てた理由だ。
作中、具体的な「正義」の形は示されない。しかし、それは「結果」なのだ。荒木飛呂彦のメッセージは、この刑事のセリフにこそ集約されている。

Posted at 2019/10/22 23:02:52 | |
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