※このブログ記事は、『過去の旅』、
2006年9月30日~10月8日、入社(途中入社ですが・・・・)15年目の『特別休暇』を利用して出掛けた『イタリア旅』の旅行記です。
プロローグは・・・・
こちら
関連記事は・・・
こちら
※画像はすべてFUJIFILM FinePix A345で撮影・・・・
「あっディレクターがこんなことやってますんで… CMですか」(三本和彦さん風に)
※当時モノ(2006年)のCM・・・
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・・・折角だから、1975年のAlfa Romeo 2300のCMも・・・(^_^)b
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ミラノの
ATA QUARK HOTELS で一泊した翌朝・・・
旅の第2日目・・・
もっとも、前日は、ほぼムービングデイだったので・・・
この日がサイトシーイング初日・・・(おいおいっ!『ルー語』かよ!・・・大汗)
チェックアウトして・・・
これが、2日目~3日目の朝まで利用したツアーバス・・・
ボディは・・・イタリアのコーチビルダーである
Irisbus
シャシーは・・・イタリアの車両メーカーである
Iveco
ホテルをあとにして・・・
そして、市内観光を・・・
・・・・と、ここで、2006年当時のミラノ市内、朝の様子を・・・
・・・・落書きが~・・・( ̄。 ̄;)
・・・こんな狭い路地にも路面電車の線路が通る・・・
・・・かつて市電が走っていた頃の名古屋市の八事辺りよりも狭い気が・・・(^_^;)
先ず訪れたのは・・・
Chiesa di Santa Maria delle Grazie
(サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会)
赤煉瓦と漆喰(?)のコントラストが美しい・・・
入り口部分が補修中なのかシートが被っているのが・・・おしい!
とはいえ、
『築537年!』 (2006年当時)だから・・・
仕方ないかも・・・(^_^;)
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会( Chiesa di Santa Maria delle Grazie )・・・についての説明だけど・・・
もう、お判りかと思うけど・・・
『引用という名の手抜き』で・・・(^_^;)
※Wikipedia『サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (ミラノ)』 から引用
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(イタリア語: Chiesa di Santa Maria delle Grazie)は、イタリア・ミラノにあるカトリック教会の聖堂である。レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐は、敷地内の修道院にある食堂の壁画であり、ユネスコの世界遺産(レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院)に登録されている。
概要
1296年、アルノルフォ・デ・カンピオの設計により大聖堂を取り壊して着工し、ジョット、フランチェスコ・タランティらが造営主任をつとめる。以降、ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァがドミニコ修道院と教会の建設を指示し、建築家ソラーリによって長い年月をかけ1469年に完成した。教会のアプスは1492年以降、ドナト・ブラマンテにより改築されたものとされる(明白な証拠はない、という指摘もある)。当時ブラマンテはミラノに居住しており、教会の歴史書のなかにも一度登場している。
レオナルドと8歳年上のブラマンテは同時期にミラノに滞在していた。レオナルドの手記にも理想の教会堂のスケッチが残されており、両者の交流があったことが考えられる。
教会は第二次世界大戦中に連合軍の空襲を受け、大きな被害を受けた。『最後の晩餐』の前には土嚢が積み上げてあったため、かろうじて被害を免れたという。
建築様式
支配者スフォルツァ家の命によりグィニフォルテ・ソラーリによって1469年に完成されたゴシック様式の教会である。しかし新公爵によってスフォルツァ家の霊廟として改築することが決定し、それを任されたのがドナト・ブラマンテ(Donato Bramante)である。彼は東端を増築し、長くて水平軸性のあるバシリカ形式の身廊と円形や多角形平面を構成するために必然的に垂直軸性となるドーム形式東端増築部の結合により空間衝突をドームのかかった集中式平面として演出した。主祭壇の置かれる内陣のさらに奥の後陣で長軸の推進力は終了してしまうが、後陣天井において空間を覆うために発達した曲面構造体であるヴォールトは傘型を成しており、この教会がゴシック様式であったことを想起させるものだ。この教会の外観と内観は全く違っており、内観には全く地縁的特色が見られないのに対し、外観はロンバルディア地方の慣例に従った郷土色の強いものとなっている。このためブラマンテがこの建築にどこまで関わったのかが疑問視されており、外観の建築はジョヴァンニ・アントニオ・アマデオによるものではないかという意見もある。
見学
見学には事前の予約が必要である。また閲覧時間は15分と限られている。
引用終わり
・・・と言う様な教会である・・・
そして、この教会は、
『最後の晩餐 (レオナルド)』 が有る事で有名・・・・
お気づきかと思うが、内部の写真が無いのは、内部は撮影・録画禁止だから・・・
しかし・・・世の中便利になったもの・・・
『困ったときは・・・Wikipedia・・・(?)』(^_^;)
という事で・・・ここでまた・・・
『引用という名の手抜き』で・・・(^_^;)
※Wikipedia『最後の晩餐 (レオナルド)』 からの引用
※長いので概要のみ
『最後の晩餐』(さいごのばんさん、伊: L'Ultima Cena)は、レオナルド・ダ・ヴィンチが、彼のパトロンであったルドヴィーコ・スフォルツァ公の要望で描いた絵画である。これはキリスト教の聖書に登場するイエス・キリストの最後の晩餐の情景を描いている。ヨハネによる福音書13章21節より、12弟子の中の一人が私を裏切る、とキリストが予言した時の情景である。
絵はミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画として描かれたもので、420 x 910 cm の巨大なものである。レオナルドは1495年から制作に取りかかり、1498年に完成している。ほとんどの作品が未完とも言われるレオナルドの絵画の中で、数少ない完成した作品の一つであるが、最も損傷が激しい絵画としても知られている。また遅筆で有名なレオナルドが3年でこの絵を完成しているのは彼にしては速いペースで作業を行ったと言える。「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」は世界遺産に登録されている。
レオナルドは、遠近法、明暗法、解剖学の科学を駆使し、それまでとはまったく違った新しい芸術をうみだした。
引用終わり
・・・で、
『最後の晩餐 (レオナルド)』 の画像・・・
※Wikipediaクリエイティブコモンズからの引用
第二次世界大戦中に連合軍の空襲で破壊されたものの、
戦後、見事に復元された・・・
赤煉瓦の色を活かした外観が、僕的に好みだったりする・・・
たぶん、フィルム画像は『シツコイぐらい』撮ったと思うのだが・・・(^_^;)
さて、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会を後にして、次に向かったのは・・・
つづく・・・・・
追伸・・・
1日分を1ブログ記事に納めようっと!・・・と目論んだものの・・・
草臥れちゃったので・・・(^_^;)
Posted at 2014/06/29 15:58:19 | |
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