2015年03月08日
鰯の頭も信心から
先週ガレージに集まった名車ですが、多忙と疲労の為にそれぞれ30分程度しか乗れませんでした…
私は良い車を味わう為には「体力に自信の持てる日」「道が空いている日」「天気の良い日」の3つの条件が必要不可欠なので、そのどれも揃わなかったので次回に期待です。
さて、タイトルの「鰯の頭も信心から」ですが…
私の義母は自営ですので毎日店番をしているのですが、たまにはお客さん以外の変わった訪問者が現れる事もしばしばで、昨日は知らない年配の女性がやってきて
女性「奥様お久しぶりです」
義母『!?』
女性「以前にもお伺いした者ですよ」
義母『はあ』
女性「奥様は神が存在すると思いますか?」
義母『え?』
女性「神を信じるか否かで今後の人生が変わって来るんですよ」
義母『…。』
という遣り取りの後、小冊子を置いて去って行ったようです。
皆さんもうお分かりかと思いますが、この女性は新興宗教の勧誘だったようです。
私自身は何かを熱心に信心するほどの気持ちを持たない罰当たりですが、自身の親兄弟の寺は一応檀家総代という事になっているので仏教徒という事になるのでしょうか。
件の女性が勧誘してきたのはキリスト教系の新興宗教で、私的にはやや胡散臭い団体という印象を持っています。その勧誘はよく休日に小さな子供を連れて家族で回っている姿も見かけますが、小さなうちからこうした環境下で育つ事はあまり感心しないなと思ってしまします。
どの勧誘でも共通しているのは、自身の信仰を語る時の目は陶酔したかの如く異様なほど輝いており、その人にとっての絶対的幸福感の拠り所となっている事は間違いないのでありましょう。しかし私のような不信心者からすると、その姿は自然なものとは言い難く悪心すら覚えます。
こうした新興宗教団体の多くは何らかのノルマが課せられている事が多く、一定期間に何人という具合に勧誘を求められるのでありましょう。
で、私が思い浮かんだのはタイトルの「鰯の頭も信心から」という事になりますが、故事辞典では…
「鰯の頭のようなつまらない物であっても、神棚にまつって信心すれば、有り難いと思うようになることから。第三者の目からはつまらないものに見えても、信心する人にとっては尊くありがたい存在になるということ」
という事で、その宗教がその人の幸福の拠り所となる事に否定はしませんが、第三者にとってはまさに大きなお世話であり、その人には金塊以上のものであっても私には石ころと同等かそれ以下にしか思えないのであります。加えて私は「信仰心」と「宗教心」は全く別物であり、信仰とは神仏を崇める事ではなく、日々の生活が平穏である事への感謝の心を持つだけで充分で、信仰の対象がノルマを課したり高額なお布施を求める宗教である必要は何ら感じておりません。
所詮宗教なども自分と同じ人間が作り出したもので、同じ教義であっても「旧教」「新教」、あるいは「○○宗○○派」、更には穏健派や武闘派が存在したりと、様々な解釈が可能な曖昧で完璧なものでは無いような気がします。
その反面、初詣には神社に行って、クリスマスや婚礼で教会に行って、人が亡くなるとお寺に行く日本人は宗教的には何でもありではありますが、その曖昧さが結構好きだったりします。
日本に生まれて良かった…
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Posted at
2015/03/08 19:40:09
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