ここ最近は「断捨離」という言葉や「心がときめく片付けの魔法」という本が注目されたりと、文字通り片付けという分野が確立された感があります。
私自身はと言えば、子供の頃からあまり得意な分野ではなく、お世辞にも身の回りが常に片付いているとは言えません。が、やはり整理整頓されている様は見ていて気持ちの良いもので、自分の中でどこに何があるかが分かれば良いという逃げ口上で見て見ないフリをしているのもまた事実なので、今度この本を読んでみようと思っています。
が、世の中には心をときめかせる片付けもある反面、心が切なく感じる片付けもあるもので、それが遺品整理なのだろうと思います。これまた文字通り、亡くなった人がこの世に残したモノを片付ける作業ですが、いつも思うのは、故人の生きていた痕跡を消去してしまうような気がして切なくなるものです。
今年の2月に亡くなった母の遺した洋服や身の回りのものは、幸い身内にサイズが同じ人が多かった為に全て活用出来る事になりました。そのほとんどは日本橋のデパートの特選品売り場で求めたものが多く、やはり良い品物は時代を超えて生き残る事を実感しました。しかし寝室などは全くと言って良いくらいそのままになっており、その領域に手を付けるには躊躇いを感じたりします。
そんな痕跡が車にもありまして…

これは簡易式の車椅子で、家から階下の車庫に降りる際などに使用していたものです。これと別にフレームがゴールドで座面がレザー張りを特注したフルサイズの車椅子もあったのですが、それは最後の頃お世話になっていた医療機関に寄付させて頂きました。しかしこの簡易式はなかなか需要が無いようでそのままになっています。

この別珍のクッションも、車での移動時に母が愛用していたものです。このクッションもジャガーのシャンパン色の内装に合わせて自分で選んでいた事を思い出します。今は誰かが使う訳でも無いのですが、色的にマッチしているのでこれも何となくそのままになっていたものです。
後席左側のステップには、足が不自由だった事で靴跡が残っている部分があります。少し前にコンパウンドで消そうかとも思いましたが、デパートやホテルの車寄せで見送って下さる顔なじみの担当さんに相当悪かった足の具合を悟られまいと頑張っていた痕跡だと思うと、これもまたそのままにしてしまった部分です。
葬儀の際に「今は気が張っているからいいけど、これが少し時間が経った頃が一番辛くなるからね」と色々な方々から頂いた言葉ですが、その言葉の意味を今更ながら痛感している今日この頃です。こんな事を言うと、今の時代は必ず「マザコン」という散文的なつまらない言葉で片付けようとする御仁も居られる事でしょうが、男という生き物の習性として致し方ない部分なのだろうと開き直っています。
一周忌を目処に少しずつ手を付けようとは思うのですが…
Posted at 2012/10/28 11:38:15 | |
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