これまでにない転機を迎えつつある、私のカーライフ。
これを気に、ここまでのカーライフを
振り返ってみたいと思いました。
私にとって、あのSVXという車が
ただの愛車ではなかったことを、忘れないために。
だらだら長いですw
自分用ですww
………………………………………
かつて、私が学生だったころ。
東京に独り住んでいた私は
ある日、新宿スバルビルの地下通路を通る用事がありました。
そこで私は、その後のカーライフを決定づける
ある異端車と対面しました。
その車は、当時の国産の、何処のどんな車にも似ていない。
その車は、まるで戦闘機のキャノピーのような、黒光りするキャビンに
まるで後からデザインラインを加えてコンプリートしたような、ミッドフレームウインドウを持っていた。
モーターショーのコンセプトカーを、ほぼそのまんま市販化したという
あまりにも美しく、奇抜で、非日常的な佇まい。
目を奪われるとは、まさにこのこと。
これこそが、スバルが渾身の力を込めて完成させた、入魂のスーパーカー
「アルシオーネSVX」
(原型となったショーコンセプトモデル。いかに量産型が原型に忠実であったかが窺い知れる)
そのころ私は、ある「販売事業」に手を出しており
いろいろと無謀な夢を抱き、人生を踏み外しはじめていた頃で。
当然、それまでは自己所有することを殆ど考えていなかった
「くるま」というものに、再び興味を抱き始めており。
それは、幼少の頃の「スーパーカーブーム」当時の鮮烈な記憶を基に興味が構築されていて…
まさしくそれは、私が夢に思い描いた「スーパーカー」の、究極の具現でありました。
そりゃそうですね。
デザイナー自身が、各種スーパーカーを描いてた「ジョルジェット・ジヴジアーロ」その人なのですから。
その値段は、私には到底手の届くものではなかった。
けど、先に述べたように、無謀にも「何時いつまでになら、こいつだって買えるのさ」と、息巻いてました。
当然、そんな虫のいい話があろうはずもなく
私は徳島で親の引っ張ってきた仕事を受けるという形で、バブルの弾けたメガロポリスを後にしました。
いくばくかの借金だけを抱えて。
こうして、東京での夢物語は、いったん幕を閉じるのです。
…
社会人として辛くも再起し、近所の仕事場へ
自転車で往来する日々。
このトクシマが、超々クルマ社会であり
およそ車なしで満足に生活することなど先々不可能であるという危機感は、まだありませんでした。
学生の間に免許を取っていなかったのは、虚しく苦々しい青春時代を送った、この徳島へ戻るという発想自体存在せず
向こうでそのまま就職し、ゆくゆくは徳島で生活に苦しむ親をも迎えて生活拠点を徳島から断ち切るという構想で
自家用車の必要性自体「存在しない」と決めつけていたため。
向こうでは電車に乗れさえすれば、およそ何でもできましたからねw
約2年で、諸般の事情で所属する会社が変わり
最初の1年は、そのまま自転車通勤を続けていました。
しかし、社長がある日、業務命令を下しました。
このさき様々な業務に従事するうえで、機材運搬などの業務もしてもらいたい、
ついては君にも運転免許を取得してもらうことにする、と。
元手は会社が貸付し、月払いで給料からの天引きとすることで確保してくれました。
これが、カーライフ勃興の転機となったのです。
月に何度も休みのない身で、社会人生活を送りながらの免許取得は
とうぜん一筋縄では行かず
ほぼ全ての寸暇を、まだ自分の意思とも言い切れない、業務としての免許取得に費やす日々。
それを以てしても、卒業は締切ギリギリ。
卒検を落としたら在校期限に後がないという、まさに最後のチャンスでした。
しかも「AT限定」で、ですwww
ミッションだったら、貸し付けられた金額を棒に振ってたかもしれません。
間が空きすぎて、教わったことも、感覚も、ざるで水を掬うように、まるで身に付いていかなかったのです。
けど、厳しさ県下随一と言われる、バス会社運営の教習所で
じわじわと、しかし時間を掛けて
そんじょそこいらの教官とはタフネスぶりが違う「元・バス運転職人」の剛の者たちの、鉄の教えを受け続けたことは
後々、あらゆる場面で、私を支えることになりました。
技術や経験の吸収は緩慢でしたが、気付いてみれば、そのぶん地盤は堅固なものとなっていたのでした。
促成栽培コースでは、これは出来なかったところでしょう。怪我の功名ってやつです。
その間
趣味である鉄道旅行/撮影を、ほぼ完ぺきに封じられていた私は
その趣味生活の矛先を、せめてクルマにも向けようともがいてました。
当時最新のGT2(グランツーリスモ)に、フォースフィードバックハンドルを繋ぎ
来る日も来る日も、とことん気の済むまで走り込みました。
あれって凄かったですね。
完璧なシミュレートなんて今では口が裂けても言えませんが、
レースなどとは程遠い「普通の速度域」で流しても、そう違和感はないほど自然だったのを覚えてます。
レーシングゲームとは根本的に異なる何かであったことは確かです。
これで、「走る感覚」を叩き込みました。
ただ、いきなりそんなとこに掲出されてるようなまともな車に乗れるはずなどない…と思ってはいました。
おもに財政面と自信のなさで。
その時はまだ額の大きいボーナスが受け取れていた頃でしたが、やはり最初は
それこそ「壊れず走らせられれば御の字」ということで、トヨタとかの安い車で諦めるつもりで居たのです。
ところが。
思いも寄らぬ車で、私は公道デビューを飾ることになってしまいました。
親の知り合いが、まもなく廃車にしようかというところで
残りの車検期間を私が譲り受けていいよという事になった、その車は
「EF7 CR-X Siグラストップ」
(もはや約20年前に廃車された車なので、ナンバー隠す必要は既にないものと判断します)
目から鱗とはこのことですw
仲間が「PS13シルビアK's」を駆る、筋金入りの「走り屋」だったことから
峠に名だたる「サイバースポーツ・CR-X」の勇名は、つとに知りうるところでした。
実際GT2でも、EF8 SiR-VTECがラインナップされていましたし。
(余談ですが、そのPS13は、のちに父の車として譲渡され、我が家で余生を送ったのです。
最末期には、限定解除成ったばかりの私を、厳しく指導してくれました。
最後には現役時代の過酷な走りを物語るかのようにボディそのものの歪みが進んでおり、後進を「エアロエクスプレス」に譲り、使命を終えました。ありがとう、PS13)
交付された免許証を手に、CR-Xを受領して家に向かう時。
正直、誰も傍にいない、ほんとうの意味での一人路上乗り出しは
ビビるほど怖かったです。
が、このままビビってたんじゃ、この先なにもできやしない。
受領したその日の夜
私は覚悟を決め、いきなり「鳴門スカイライン」へ向かいました。
無謀もいいとこですw よくまあ無事に帰ってきたもんだと今更ながらに思いますwww
そこで私は知ってしまったわけです。ええ、デビューと同時に。
「クルマと一体になって、思いのままに走る喜び」というものを。
当然のことですが、VTEC以前とはいえ
ホンダツインカムの真骨頂のひとつであった「ZC」エンジンは
教習車とは次元の違うパワー・スピード・レスポンスを
これでもかと魅せつけてきます。
4輪ダブルウィッシュボーンに、ショートホイールベースレイアウトの足回りは
まさしくカミソリのようにコーナーへ切れ込んでいきます。
アクセルが、ハンドルが、ブレーキが
すべて意思と直結し、ダイレクトに応えてくれる。
麻薬のようでしたw
ご友人さん、よくまあこれを「カローラⅡ」扱いの短距離通勤用にしてたもんですw
そういう車とは思わないで買ったらしく、走りなどというものにはとんと興味のない人だそうで
整備状況も(言っては悪いですが)粗悪なものでありました…
実際、高速でいきなりタイミングベルトが飛ぶという大惨事も体験しました。
走行65000km。オイル管理の劣悪さが招いた悲劇です。
幸い周囲は全く車両の存在がなく、たまたま目の前にあった高速バス停に軟着陸することが出来ました。
これは「教習車が突然故障し不動になる」という珍事を体験したため、冷静に対処できたもののひとつです。
(即断速攻でハザード炊いてサイドを引き故障停止措置をとったことは、教官の皆様から高く評価されましたww)
またA/Tであり、動力と伝達軸が直結していないことが功を奏したか、バルブ打ちはひとつもなく、
タイベル交換とウォーターポンプ交換で、後日すんなり生きて帰って来ました。
しかし、ディーラーから車検には意外なほど整備費用が掛かる見込みと言われてしまった老体であったこと
その費用に対し「今後円滑に運用し続けていける目途」が、車体の経年的に不透明であること
そして、ボディ各所のヘコミや傷。
サイドや後ろはほぼ受領当時のまんま、あと愚かにも起こしてしまった追突事故でフロントバンパーに多少の傷
(この事故で、私は、言い訳無用の「追突の恐ろしさ」を、いやというほど理解したものです)
そして、いまどきの軽よりも軽い車体はフレームも華奢で、その事故によってボンネット先端部のチリがフェンダーと5ミリほど合わなくなっており
全部治すとフレーム修正込み全塗装扱いのほうが手っ取り早いことになり、それだけでも総額35万を超えるというお達し。
かように、そもそも状態が悪いことは受領当時より理解していました。
残念ですが、乗り換えを検討せざるを得なくなったのです。
当時はネット環境など普及しておらず、分厚い辞書のようなカーセンサーと首っ引きですw
その検討のさなか
私は、ふと出来心で、あの車を探ってみました。
あの車。
私の、そしてスバルの、「バブル時代の夢の欠片」
アルシオーネSVX
今ほどではないにせよ、本当にタマ数が少ない。
当然ですね。
5800台あまりしか納車されていない、知る人ぞ知る希少車なんですからw
が、ありました。
ボーナス全額突っ込んだら買える金額で。
ボーナス全額突っ込んだら買える金額で。
まさか、この短期間に
ここまで暴落するなんて思いも寄りませんでした。
なにしろ諸経費込みで100万しなかったんですから。
(最後期型のS4が販売終了して、幾らも経っていなかったはずです)
数年前、夢破れた東京に置いてきた、夢の欠片
いまそこに、手の届くところにある─────
免許取得して、僅か一年。
私は、
この夢の欠片と、カーライフを歩む決意をしました。
若葉マークのペーペーには、それはものすごい勇気が要りましたw
店頭納車を選んだため、大阪の車屋から受け取って帰ります。
なんといいますか、興奮で手が震えてましたw
ああ、ワシ、ホンマにこの車と、いま歩んでるよ…!!って。
それは非常に運転として危ない状態であろうことを自覚しましたので(←
車屋の近所で停めて、まずはじっくり気分を落ち着けて…
小一時間も、邂逅の喜びを噛みしめたのち
私は徳島へ無事帰還しました。
…
それからのカーライフは
まるで夢のような…と言うには
あまりにも紆余曲折の道程でしたw
・フロントロワアーム折損
付け根の溶接部からポッキリと。ディーラー自身が「これは一応本社へ事例として上げておきます」と言ったほどw
・3万キロ程でリバースに入らなくなる
とつぜん、後ろへ下がれない車にw
冷や汗をかきながらディーラーへ駆け込みました。
リビルトアッセー交換で30万弱、これで根性が据わった気がしますwww
そして出るわ出るわ、弱点と言われる部分が次々に
・オルタ死亡
・パワステポンプ異音
・ラジエータアッパー破裂
・トランスファクラッチ損耗
正直、何でお前こんな車乗り続けてんの?と奇異の目で見られることもありました。
けどね。
走ったら解ります。
スタイルだけでここまで惚れるこたぁ無いです。
粗野な振動もなく、一気にレブまで吹け上がる「EG33」。
FRのそれと酷似した、素直で忠実なハンドリング。
それはもう、何時までも何処までも走っていたくなるほど、快適で愉しい、至福の時間でした。
そして、ヘビーウェットだろうが未舗装路だろうが台風直撃の暴風だろうがお構いなしに踏破する
スバルの誇る「VTD-AWD」。
さらには、平坦地なら、凍結路だろうが雪道だろうが、無茶さえしなければ
特別な冬季装備がなくても難なく走り切ってしまうほど。
ここ一番の悪条件下では、鉄壁の信頼感を見せてくれました。
…
購入して、数年。
いつまでも、こんな時間が過ぎてゆくと思っていた頃。
そんなカーライフにも、次々と転機、そして危機が訪れてきました。
身の回りを取り巻く環境は、じりじりと悪化していったのです。
家が破産しました。
父が勤め先と問題を起こし、お払い箱を受けました。クビです。
父の全収入の何割というローンが払えません。私の収入など完璧に超えます。
それ以前に、その収入見込みで新築なんてどう考えてもおかしいやろ、と、今であれば強烈に突っ込めます。
そもそも母子揃って反対だったんですが、独断でやられました。
歯牙にもかけられませんでした。
まだ社会人もペーペーの自分に、「世帯主の裁量権」を覆すだけの力はありませんでした。
私の収入をも当て込み、母まで働かせて収入源に仕立て、依存しようとして、
知り合いの不動産屋にいい顔をした結末がこれです。
(その不動産屋さんが今の住居物件を紹介してくれた時、しみじみ言われました。
「ワイは商売やけん断る立場ちゃうけど、無茶でないん止めといた方がええんちゃうんてゆうたんやけどなぁ」)
我らの提案どおり数百万の中古物件にしていれば、ここまで問題は拡大せず、とっくに完済できていた所です。(そのぐらいの金額は支払い済みでした)
それまでも家に一定額の生活費用の納入は続けていましたが
私の手取り月収が2.5倍あれば助けられたとか、そういう額の世界であって
この、手の掛かる車の維持にかかる金額とか、そこからみれば端数のようなものでした。
私が道楽で車につぎ込む金があったらそっちをどうにかせんかい、とか
そういう桁の話ではなかったです。もはや焼け石に水、です。
東京で、甘い見通しでおかしな夢を見て破滅した私と、なにも変わらんことをしてたわけです。
結局は、血の争えない親子であり、情けない限りです。
相前後して、私の勤務形態が変わりました。
そこそこだった収入は、一気に並以下になり
それは今もって同じ状況のままです。
仕方ありません。これはこれで私に問題があってそうなったのですから。
…ただ、ここで社長の提案を請け、契約社員の道を選んでいなければ、いまごろ私は家庭の(足が悪く介護を要する母の)面倒を見ることも出来ていません。
収入と引き換えに「責任を軽減できる時間」を得たようなものです。
正社員の皆様は、未婚・離婚・単身世帯…職務と義務に追われ、何かを棄てて生きているかのようです。
社長がそんな殺伐とした状態を望んでいなくとも、現実が待ってくれません。
私もまた、わりと心を病んでいますが、そのまま行けば通り越して破綻が訪れていた可能性、大です。
そんな生活の中
自分・家族共の生活費用を支えるため
私もまた、カード沼へ、じわじわと沈んでいました。
なので、辞めて別の道を探すことなど、到底出来なかったのでした。
リスクをとるには足枷が既に多く、あまりに危険が過ぎたのです。
やがて家は競売に掛けられ、手放し、引っ越しました。
アルシオーネも、後席を倒してトランクスルーし
小型ワゴン並のラゲージスペースをフル活用、新居との間を何往復もしました。
大物以外はすべて運び切れたのを覚えています。
そこで父は奇跡的に知人のもとで役員として雇われましたが、4年で免職になりました。クビです。
口先ばかりの卑怯者で、本当に迷惑かけてたんだなと思います。
ここで、アルシオーネともう一台の「エアロエクスプレス」、両方の維持が手詰まりとなりました。
これが「初代黒ゲート号」誕生の、そもそものきっかけでした。
今にして思えば、エアロエクスプレス号は、基があのアベニールだけに機械的に頑健で
ここでアルシオーネ引退の決断をしていた場合、また違った道があったのかもしれないと思いますが
なにぶん7年も前のことで、その分アルシオーネも今よりは相当若かったわけですw
(その後別のとこへ友人紹介で雇われましたが、職務怠慢で半年でクビになりました。誰からも見放され、今はニートです。)
三者の財力を束ねてようやく生活できる状態。
次第に、アルシオーネを
満足に運用する余力は失われてゆきました。
家に力が乏しいぶん
結局、私が車二台分の面倒を、ほぼ見なければならないわけですから、当然です。
斯様に、父の度重なる不適切な舵取りに翻弄され
そこに自分の度量の狭さが重なって四苦八苦しつつも
それでも何とか家計は母の尽力で低調かつギリギリながらそれなりに安定を取り戻し
私もまた、膨大に膨れ上がった借金を過払い金で相殺しつつ返済へと転じ
さらに数年が経ちました。
いつしかアルシオーネの主な役割は
およそ車のコンセプトをかけ離れた、近所への買い物用途メインとなり
その主な乗り手は父に移り
静かに、細々と余生を送るようになっていました。
…
そして、今回の車検期限が迫ります。
毎度ながら、最悪に備え、代替え車輌の候補だけは調べるわけですが
そこで登場した、とんでもない物件が
私の目を醒まします。
BPレガシィB4 NA 本体1000円
卒倒しそうになりましたww
これ、車検陸送込み総額がアルシオーネの最悪想定車検予想額で収まってまうぞww
…最悪想定額、か……。
ふと、アルシオーネを見てみると
父がずっと運転していて、バンパーのキズが目立ちます。購入時の再塗装跡も浮いてきています。
オリジナルのままの塗装が残る右半分のクリアハゲが、もう限界に達しています。
トランクリッドは自分で塗ればなんとかなりそうですが、広範囲のシルバーは、個人でどうこうなるものではありません。
オイルにじみが悪化しています。
アクセルに対するスロットルの反応が、ややおかしいです。
AT(というかトランスファクラッチ)か、スロットルボディ交換か。
これら全部を治すとなると、いくらぐらい掛かるのか。
そして
掛けた金額分の機械的信頼性が残っているか。
奇しくも、最初のパートナーであったCR-Xと、同じ岐路に立たされました。
200万あったら、全塗装込みのフルレストアも辞さないといったところですが
その金額があったら、いまの住居(借家)を脱すること…
中古物件を構えてそこに居を据えることが、視野に入ります。
(田舎ならでは。この金額で可能です。)
どっちみち、3人のうち誰かが絶たれれば、ここに住み続けることはできません。
いよいよ手を打たなければ危ないのです。
そして、もうひとりのドライバーである、父の急激な衰え。
手堅い車に乗り換えるなら、そして父がそれに順応できるとしたら
車検の満了する二年後を待つことが出来ないと予想しました。
おそらく、乗れて、あと4~6年が精一杯でしょう。
その間に、枯れた操作系の、旧来の車を用意して馴染めるとすれば
チャンスは…今回しかありません。
ここを逃せば、今後どうあってもアルシオーネを維持しなければならない。
それをやって稼働し続けられる確証があるならそれでいいが、私の財力の及ばない故障が
いつ起きないとも限らないところまで来ています。
ボディもいよいよ全塗ベースで手入れしなければ、じわじわ腐ってしまいます。
それを避けるには、フルレストアしかないでしょう。
そして、それを実践できる資金は、もはや自分と家族が窮地に陥ることを、未然に防ぐための準備に当てなければならない。
─決断の日が、来たのです。
約20年の長いながい夢に、自ら終止符を打ち
新たな一歩を踏み出す、決断の日が。
長い、ながい借金生活は、ついに先月で終わりました。
ようやく、ここ1年あたりから
プラスに転じることができます。
その暮らしを
超々自動車社会で生きる…という基盤の部分で支えてくれることになるのが
デミオスポルト『蒼莱号』
第3希望車種ではあったが、5台の候補車種の時点で
車種に妥協はないつもりです。
候補内でのデミオのアドバンテージとして
燃料ランニングコストがKeiと対等か、
場合によっては結果的に費用対距離で上回る場合すらあり得るほどで
後々、こちらがメインになってゆく可能性も充分ありえます。
そんな車だから、納得行くまで仕上げ、じっくり面倒を見て行きたい。
向こう10年は現役で居てもらわなければならないのだから。
…いまだに、駐車場にある「いつもの見慣れた光景」が
今月末を待たずして、がらりと変わるということに、実感が沸きません。
玄関の扉を開けたら変わらずそこに「非日常の具現」が鎮座しているという「日常」
そして「日常に寄り添うための堅実な名車」がそこにあるという「非日常」
でも、もう
ここにいつまでも留まり続けることは出来ない。
時間は流れているのです。
その光景は、やがて新たな「日常」となる。
こいつが現役の間は、まさに自分にとっても
激動期と重なることになるのだろう。
イグニィスあたりを中古で手頃に買える頃には
私の身辺はどうなっているのだろう?
まだまだ先は見えない。
けど、今はただ、こいつと走り出します。
長い、ながい夢の欠片に別れを告げて

本体価格7万円から始まる、
新しい、カーライフを。
https://www.youtube.com/watch?v=gy4VfbnEaBI